日本に残ると決めた人のための金銭講座(その1)

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最近一年は収入を増やすことに時間を使うことが多かったが、いざオカネが増えてしまうとなんとなく時間を無駄にしたようでおもしろくない。
アイデアを作成して、こうやってこうしてこうするんだび、という仕組み…カタカナが好きならばビジネスモデル…を考えて、そのために毎月報酬を払っているひとびとにお願いして、そこはそうやっちゃダメなのね、とか、この辺にいるひとでダメな人がいるんでねーの、とか好き勝手ないちゃもんをつけてるうちに、みんながよってたかって仕事にしてくれます。
冷菜凍死とゆっても、もともとがコンサーバティブな凍死が中心なので、なかなか大幅に儲かってくれないのでいろいろジタバタしなければならないが、物理的にジタバタするような勤勉な人間ではないので、モニさんと遊んだりしながらスカな頭がジタバタする。
見晴らしの良い場所を散歩したりボートで、ぼおおーと(<−ダジャレ)しているうちに突然よいことを思いついたりするので、忙しいときほど、わしが怠けていると誤解するもののようである。

過去の記事にだいたいコンサーバティブな凍死の考え方は、ばらけてだが書いてあるので、具体的なことは繰り返さないが、世の中の政府という政府にカネがなくなってきたので、たとえば昔は大幅に認められたプロパティの減価償却が認められなくなった。
これはふつうの規模の不動産投資家にとっては、たいへん大きなことで、たとえば30年くらいたった(日本語でいう)マンションを一棟買うと、3年は所得税が発生しなかったのが、いまは初年度からいきなり黒字になってしまう。
だから不動産投資であっても、最近は工夫なしにまっすぐ建物を買って住居用に賃貸してもほとんど投資としての意味をなさないことになっている。
実質的に政府や自治体へのローンのような形にするなりなんなり考えないとダメで、そうすると政治家というひとびとと会わなければいけなくなったりして鬱陶しいことこのうえない。

もうひとつは、やたらとオカネが流入してくるオーストラリア・ニュージーランドやシンガポールのような市場では不動産評価が過大になっていて、その割に賃金が上昇しないので、家賃の上昇が不動産価格の上昇に伴っていかない。
ニュージーランドでは10億円の投資に対してグロスで1億円/年のリターンが保守的な投資の基準になっていたが、最近は四千万円くらいのものだろう。
その上に所得税が騰がったので、3割くらいは政府にとられてしまって結局手に残るのは3%くらいのものになってしまう。

ここではいちばん判りやすいと思われる住居用の不動産投資についてだけ述べたが、他の投資も世界中、同じようなもので、だいたい中国本土から逃避してくるチャイナマネーが急激に流入して資産の過剰評価が起こり、こんなんでマジにコンサーバティブに凍死するくらいなら、チューゴクのひとに売っちゃえば、ということになるひとが多いよーです。

やりかたが判ってしまえばオカネを稼ぐというのは、人間がやることのなかでは割と簡単なほうに属する。
なにごとかにおいて優秀なひとがオカネで苦労するのは、だいたいにおいて自分の仕事場のブラインドを閉めた中間搾取人がいるからで、大手出版社に勤める編集者が自分は年収2000万円を確保しながら漫画家を年収400万円でこきつかったりするのがわかりやすい例であると思われる(^^)

金銭という下品な科目では、わしは、「オカネのことを考えないですむ」のを目指すのが最もよいと思う。
カッチョイイクルマを雑誌や道で見かければ、クルマ屋へのしていって、「あれをくれ」といい、好きなシャンパンを木箱で欲しいだけ買い、出かけたいところへ出かけたい方法(クルマ、ヒコーキ、フネ)で出かけられれば、人間の生活はばかばかしさに満ちているとはいっても、それほどのストレスはない。
「オカネのことを考えないですむ」のは、同時に「時間のことを考えなくてすむ」ことでもあって、眠いときはいつまででも眠って、眼をさませばいちゃいちゃもんもんしたりして、おいしいものを食べて、またてきとーに眠りたい時間に眠られるのは楽ちんで、そういう生活をするためには、いまの世界では年収が3000万円もあれば足りる。
仮にまったくなああああんにもしないで年収3000万円が欲しいとすると一年のリターンがネットで3%であるとして10億円の投資があればよいことになる。

一方で、若い人間が最低生活に必要な金額が年300万円として一億円あればかなり保守的な投資でも(というのはすなわち投資そのものの管理・維持にそれほど手間をとられなくても)生活そのものは出来るようになって、いわゆる「ラットレース」から出て行ける。

オークランドは見栄っ張りが多い街でレンジローバーやポルシェがたくさん走っているが、たとえばファッショナブルということになっているポンソンビーに家を買ってポルシェの911を買って、週末はテニスをやって、というふうにイメージから生活に入ると、借金が生じて、無理にモーゲージを組んでカネを借りてなんとか栄華を達成しても祇園精舎の試合終了を告げるゴングが意外なくらいはやく鳴るだけであると思われる。
見栄をはるひとは物質的繁栄の最初の脱落者であるとしるべし。

もし頭のよい人間だけがお金持ちになりうるのだとすると、いるはずのない人間がどこのパーティに行ってもいっぱいいるので、自分が頭がよくないせいでオカネがないのではないかと思うひとは心配しなくてもよい。
テニスの選手にいろいろなフォームがあるように個々人によって得意なオカネの生み方があるだけのことで、いままでじっと他人を観察していても頭の善し悪しはオカネの生成とはあんまし関係がないよーです。
むしろ頭の働きがよいと、いろいろと必要な「準備」とかに気持ちがいってしまって、酷いひとになるとまだオカネがないうちから巨大な金庫の設計に没頭するようなことをするひとがいる(<−比喩)

ゆいいつ気をつけなければならないのは、どんなにオカネのことを考えるのが退屈だとケーベツしていても、一生のなるべく早い時期にオカネの問題と正面から向き合って考えてみるべきことで、よく優等生気取りのバカガキにオカネのことを考えるなんちゅうのは下品なことだという前近代的な人間がいるが、だいたいそーゆーやつは本人が下品な商家の息子や娘であることが多いわけで、ただ知性的でないオカネを崇拝する家に生まれた甘ったれのクソガキだというだけのことで、神様のほうでも意地でもそういう人間には財布をあけてやろうと思わないのは当然と思う。

同じ理由によって収入が低くても対応できるようにビンボ生活体質を身につける、そうして身につけた低燃費生活様式によって一生を乗り切る、というのは若い人間がむかしからもちやすい妄想だが、そういう縮小思想が現実世界では絶対にうまくいかないのは死屍累々たる数の失敗例が実証している。
オカネは正対しない人間には微笑まないのである。

めんどくさいので理由は説明しないが、現代の世界では、修士号をもってソニーに入社するより、さっさと一億円つくってしまうほうがよほど一生の保障になる。
義理叔父がよく若い衆に(相手が日本人であれば)「初めの一億円」と述べるようだが、わしもそれには真実があると思う。
「必要のない一億円」がオカネに悩まされない一生のスタートとしてもっとも適切な目標であると、わしは思っている。

違う方角からいうと、実は、1億円というまとまりのないオカネは、1千万円でも3千万円でもたいして変わらないわけで、どうせ一千万円しかない場合にはゆいいつのオカネ製造装置である自分自身に投資してしまっていっこう不合理ではない。
同様に他人の二倍働いて、という方針もダメで、小さなエンジンがVTECに1万回転しても、大きなエンジンの6000回転には質的にかなわない。
さっさと壊れて他人に倍するスピードでスクラップになるのがおちです。
現代世界は知性があって大学を卒業してマジメに暮らそうと思っている人間が食うや食わずで懸命に働いてやっとで生活できるようにデザインされているので、その社会デザイン内にとどまってしまうと、こき使われて死ぬだけなのは当たり前だということもできる。

どこかで「余分な収入」が生じないとダメだが、それはふつーに暮らしていれば必ずチャンスがあるもののよーである。ガメ・オベールのように「特許」というチョーふざけた契機であることもあるし、ロットーがあたりました、というラッキーなひともいる。
原油探索オイルリグで5年間で荒稼ぎしたのさ、というひともいれば、カナダの奥地で山賊に追われながらトレーラで疾走するのはスリルあったぜ、という友達もいる。
みながそれぞれの方法で「一億円」をつくって、それを出発にした。

物質世界においては人間は結局たまたまうまれあわせた時代のルールでゲームをやって勝つしか生きてゆく方法はない。
日本でも大会社に一般職ではいって勤め上げれば、それで物質的にも満ち足りた一生を送れるという時代はとうの昔に終わってしまった。
会社員が終身雇用で落ち着いて暮らせた時代、三菱の社員が丸の内から建てたばかりの鎌倉の家にビールを飲みながら帰っていた頃は「会社員」の経済的立場はいまよりずっと高くて、30代の社員でも数え方によれば現代の貨幣価値に直して3000万円くらいももらっていた。朝吹登水子の父親は会社員から三井系会社の「雇われ役員」を歴任するが、それによってもたらされた富は、いまでは理解できないほどのものであるのは朝吹家の伝記やあるいは鎌倉軽井沢東京パリにあった家の造作をみれば容易に想像がつく。
「会社員」や「雇われ役員」として成功したときのシェアが非雇用者としてのものではなくて資本家側の水準に順っていたからです。

もっと最近のことで言っても、いま60代の大手商社員は年収のせめて倍をインサイダー取引で稼げない人間は無能とみなされて笑いものになった(元三菱商社おっちゃん談)

いわば「会社員」は「資本家」クラブに入会させてもらうために働いたので、いまとは会社員としてすごすことの意味が異なっている。

わしの観察によればいまの日本の社会では「ひとり一会社」と思って暮らすのがもっともよいと思う。
あるいは言い直すと、自分一個が自分がすべて経営に責任をもつ会社なのだと思いなさないと一生の保障に重大な支障をきたすに決まってる、とゆってもよい。

しんどいことに思えても、好みのラーメン屋がないとか、おいしい羽二重餅がない国には行きたくないとか、金沢の落雁がないと生きていけないんです、あるいは雨がふるたびにセシウムを浴びないと気持ちが落ち着かないとか、ひとによっていろいろなはずの理由で外国には行かず日本に残る場合には、自分の経営を企画することが第一で、他に生き延びる方法はないように見えます。

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