不可視の黒船のあとで

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このブログを書き始めた6年前にはもう「日本の衰退」は日本の外でも普通の若い人間の常識になっていた。
たとえばイギリスでは、最後に日本復活の兆しと受け止められたのは小泉首相が政権に就いたときで、パブで、普段は政治よりも「ベッカムの女房のケツ」やフットボールの試合の結果のほうに遙かに興味があり、まして外国のことなど俺の知ったことかよな地獄の門番のような顔をしたにーちゃんたちですら、「今度の日本の首相は人間みたいな顔をしてるじゃねーか」と彼ら独特のものの判り方で、日本人が「新しい方向」「世界のほかの人間にも判りやすい方向」に向かって歩き出した、と感じたもののよーだった。

小泉純一郎が芝居がかった身振りで述べることは、外国人、特に西洋人にとっては判りやすいことが多かった。
ここでひとつひとつ小泉純一郎が自分でもほんとうには自分がやっていることを理解していたかどうか判っていなかったところがありそうな施策の数々を書き並べてゆこうとは思わないが恐らく西洋の国々(たとえばニュージーランド)を迫っていた破滅から救い出した施策のコピーにも見える、郵政の民営化、政府組織のシェープアップ、曖昧な位置を占めて吸血鬼のように血をついつづける公団・社団法人の破壊などは、どれひとつをとっても外国人たちにとっては「肯綮に中る」考えで、そのせいで外国政府も支援を惜しまなかった。

西洋人が東アジアの国と付き合わなければならなくなったときの最大の問題は、「わかりにくさ」であると思う。提案に対して誰からも反対があがらず、関係する全員が頷きながら会議を繰り返すうちに、いつのまにか溶けてしまうようになくなってゆく西洋人にとってはどうしても理解できない経過や、東アジア諸国に共通した、しかし独特なボスの決まり方、右と言いながら平然とやや左に向かって直進を続けてしまう厚かましさと不正直、問題は常にそういうことにあるが、小泉純一郎には不思議なくらいそういうわかりにくさがなかった。
口に唱えることは同じでも、まったくのアジア型リーダーだった橋本龍太郎とはまったく違ってみえたものだった。

「わかりにくいこと」は国民のほうから起こった。
郵便配達人に依存する田舎の老齢者が身捨てられて、寂しく死ぬような社会になってもいいのか。「強い者だけが謳歌する社会をのぞむ人間は日本にはいない」から始まって、果ては「売国奴」「アメリカの犬」とまで言われていたのを、ずいぶん遠い昔のことのように思い出す。

なんだか、びっくりしてしまった、というのがアメリカのたとえば日本にも関心のある中東歴史学専攻の大学院生という情報位置にあるひとの反応だったろう。
アメリカの土地に立って「日本はつねにアメリカとともにある」と明瞭に述べて鳴り止まないスタンディング・オベーションを浴びたのは、特にアメリカの犬になりさがったのがうけたわけではなくて、通常のアメリカ人としては、片務軍事同盟という納得しにくい同盟の相手に、友人であるどころか、家のなかに潜む強姦者、カネをたかってばかりいる強請り、どうしようもないならず者の集団のようにしか言われた事がなかったのに、初めて「友人」と名指されて、涙がでるほど嬉しかったからだと思われれる(^^)
アメリカという国は相手が敬意に値する国だと思えば犬として扱うよりも友人としてつきあうことを遙かに好む国でもあるのです。

日本に行けば、成田空港から高速道路に乗るところで、もういきなり驚かされる、なんだかひとがぞろぞろいる料金所を憶えていれば、道路高速公団はそもそも存在自体ヘンなのではないか、とみながおもうが、高速道路が病気のようにオカネを浪費していることひとつでさえ「国民」の側で、でも日本は土地が高いからやむを得ぬといい、あまつさえ、高速公団をクビになったひとが路頭に迷う責任は誰がとるのか、というひとまであらわれる日本という国の「わかりにくさ」に、あーあ、やっぱり日本は日本だ、あたりまえだが、われわれアメリカ人の考えで理解できる国ではないよーだ、と考えた。

日本でもアメリカでもない場所で、いわば傍に立って眺めていた(その頃大学を出たばかりだった)ぼくからはどう見えていたかというと、きっと日本人たちは「犬が犬を食う」競争社会が到来したことに耐えられないのだ、というふうに見えていた。
ぼくの観察では日本人は西洋人の通念と異なって意外なほど競争を好まず、集団作業もびっくりするほど下手で、西洋人の目に「日本人は集団行動を好む」と見えるのは、あれは「防御的な集団」で、何かがあって自分達が危機にさらされつつあると感じると、集団で防御の姿勢にはいる。
では集団で行動することに長じているかというと、全然苦手で、集団作業の典型であるクルマの制作ひとつとっても、せっかく集団デザインがうまくいっても、年長の集団のボスが、現場とはまったく異なるふるくさい上に空気がよどんだ空の上からおりてきて、ひと筆でデザインをダメにする、というような信じがたいことがあちこちで頻々と起きる国である。

わしのむかしからの友達であるjosicoはんは、いまはロスアンジェルスでゲームデザインの仕事をしているが、知り合った頃はまだ日本の大手ゲームメーカーでゲームデザインの仕事をしていた。
多分あとに残った職場の友達のことを考えて言わないのだと思うが、あれほど(外国に行くとおいしいタコ焼きもお好み焼きもないという理由で)日本に残って仕事をしたかったのに、カリフォルニアとかってダシにする昆布も売ってねーんだぜ、ガメ、やってられねえ、と呟きながら不承不承カリフォルニアに去っていったのは、やはり、みんなの共同作業で提案したゲームが「こんなものゲームとは言えないだろう」の上長のひとことで葬り去られ、上長が若かったときに売れたタイプの旧態依然のゲームをつくらせて、挙げ句の果てに外国のゲーム会社からでた自分達が練り上げたアイデアそっくり瓜二つのゲームが世界中でバカ売れに売れて、もー、ダメだ、絶対ダメだ、やってらんねえ、と思ってアメリカに移動したものだと思われる。

集団行動の国民だと他国民に誤解されたもうひとつの理由は、あきらかにむかしの「軍隊国家」の名残で、集団行動が下手なのでかえって、旅行でも学校でも集団をまとめるとなると「軍隊」のやりかた以外おもいつかないもののよーである。
クライストチャーチの通りでみかける日本のグループツーリストは、それはそれは異様な姿で、だいたい50代から60代くらいのひとびとが、揃いも揃ってなんだか同じヘロヘロの帽子に、これもおそろいの、どういうわけかベストを来て、チェックのシャツで、しかもいよいよ訳がわからないことにみな小さなバックパックを背負っている(^^)
日本人観光客が通りに立ち現れると、その一角は、「なんだなんだなんだ、なにが起こったんだ」という、ちょっと騒然とした感じになって、大庭亀夫などはカメラで集団の写真を撮ってモニに怒られたりしている。

競争も受験というチェスの上達に極めて似た、定石をひとつづつ学んで、それを組み合わせることによって問題を解く、というよく出来たパズルのような勉強が競争を代替している。中国という伝統的に階級が「皇帝とその他」というふたつしか存在しなかった社会では試験がすべてで、その辺の乞食のせがれだろうか士太夫のせがれだろうがいっさい区別がなかった。科挙に合格すれば進士・挙人で、試験のみで社会的な立場が決まるという類例のない社会を中国人たちはつくったが、日本の競争なるものも、これと同じで、進学した大学がピラミッドのどこに位置するかによって擬似的な階級が与えられ、それによって一生が決まる部分がおおきいようだった。

80年代に数多の日本の会社が進出したオーストラリアでは、日本の会社の天国ぶりは有名で、なにしろ愛想良くしていれば、八時間の労働時間のうち実質的に仕事をするのは午後のランチブレークのあとの3時間ほどで、あとはお茶を飲んだり、なんとなく書類に目を通したりしていれば、というのはつまり仕事をしているふりをして怠けていれば、それでオーストラリアの会社より何割か高い給料がもらえる。

ぼくの家にやってきた家屋調査士はもともとはオーストラリアで三井系の会社に勤めていたひとだったが「日本人は『仕事をしているふりをする天才だ。あいつら、すげーぜ。さぼりの天才だぜ』」とよく日本人たちを懐かしんで笑っていた。
好意的な笑いであって、オフィスに長くいて、うるさい女房子供を避けて、しかも仕事が忙しくて大変だという会社と家庭双方へ向けた自己主張をも兼ねさせる日本人的職業人のありかたについて、あれはなかなかよい、人生の理想のひとつであると思う、あれなら俺の女房でもだませる、素晴らしい、とそのひとはよく述べていた。

ぼく自身も「競争」というものが、ほとんどまったく存在しない日本の社会の穏やかさが好きで、子供の頃にストップオーバーで日本に来た時からなじみのある銀座のレストランにいけば、ウエイトレスでさえ自分の職業に誇りをもっていて、何年も同じレストランに勤め、やがて正社員になり、マネージャーになったりするのを、楽しい気持ちで眺めていた。大好きな定食屋のおばちゃんも、いつ出向いてもカウンタのなかで目をまるくして「あら、ガメちゃん、いつ日本に来たの? 待ってね待ってね」と言って、娘さん達が苦笑している後ろをまわってカウンタから出てくるなり抱きついて、「ほーんとに、こんなにおおきくなっちゃって、もうすぐおばちゃんじゃ腕がまわらなくなっちゃうわね」とひとを欅の大木のように言うのをくすぐったい気持ちで聞いているのが好きだった。
みながそれぞれに出来る仕事をやって、稼いだオカネで落ち着いた社会を、おいしい食べ物やよく出来たマンガやアニメ、あるいは怪獣映画でもなんでもかまわないが、なんだか暖かい炬燵を連想させるような生活を楽しんでいられればそれが理想の人生である、というぼくの原初的日本人像は、ようするに、そういう日本についての断片的な経験から出来ているのだと思う。

さっきも述べた、犬が犬を食うという表現は英語圏の社会をことのほか良くあらわしていると感じる。
容赦のない、血で血を洗う、というところまではいかないがカナタワシで顔をこすりあう、というか、綺麗なねーちゃんが出世をめざせばボスはすぐタワシを見たいと自動的に思うというか、使えるものは学歴でもナイーブな心でも自分の身体に付いている性器でも何でも使って必死に社会の階梯をのぼってゆくというか、世界というものは、そういう変わり果てた姿になっていて、日本のひとはずっとそれに気付かずにやってきた。

その情け容赦のない世界は1990年代の半ばにはもう日本に到達していたのであって、それは日本のひとの好きな言葉を使えば黒船で、虚仮脅しを目的としたペリー大佐の黒船とこの黒船来航の違いは、浦賀の沖にでんと腰をおろして幕府をあわてさせたペリーの外輪船と違って、見まいとすれば見ないですむことで、実際にはいままでの考え方ではどうにもならないのはわかりきったこと(ぼくは日本人がそれすら本当に気が付かないほどバカだと思ったことはない)なのに、あたかも「犬が犬を食う」世界に日本もまた置かれたのだということを知らないかのように振る舞って暮らしてきた。

その結果、いま日本ではどういうことが起きているかというと「現実から目をそらそう」という国民的努力が行われているのだと思う。
カルロス・ゴーンというブラジル生まれのレバノン人(国籍はブラジルだが家庭内の文化をみるとレバノン人、というほうがしっくりするひとたちです)は、日本人に甘い夢のなかに浸って現実から目をそむけつづけることを許さなかったが、その結果、猛烈な不平や中傷の嵐のなかで日産という、組合に食い物にされて社会主義経済化と言いたくなるようなタイプの低生産性によって倒産寸前に追い込まれた会社を再生してしまった。

日本という国も、小泉純一郎の登場によって、そうなるかと見えなくもなかったが、身軽になるための改革は国民の総意として否定されて、結局は「絆」という安っぽい情緒の一片にしかすぎない言葉を政府が口にするところまで国家として退行してしまった。

身も蓋もない、だましあいでも足払いでもなんでもありの剥き出しの競争にみちた世界で、「競争社会が良いか悪いか」を議論して、ついに競争に強い体質の社会への変化を否定した日本は、敵が上陸して首都を包囲して盛んに重砲やカチューシャをぶっ放しているのに、「戦争は人道に照らして是か非か」を議論しているひとびとに似ている。
社会が正気ならば戦争は非であるという結論になるに決まっている。

日本はだから滅びるだろう、とぼくは思っている。
2050年まで保てばいいほうではないだろうか。
内因によって国が失われるという例は歴史には殆ど存在しないので、最終的にはロシアなのか中国なのか、東アジア圏の覇権をめざす国の侵攻によって滅びることになるのだろう。
「いまの時代に国土を侵略するリスクをおかす国があるものか」という意見が大半なのは、ぼくの友人の「じゅん爺」をはじめ、このブログ記事にやってくるひとたちもむかしから等しく述べるところで、日本人でマジメに他国が日本に侵攻してくると思っているひとがいないのは知っているが、ぼくは、それはロシアや中国の強烈な国権主義を理解していないせいの「甘い夢」であると思っている。

マヤ人の文明に特徴的なことは、現実と観念・思想が逆転していることで、マヤ人にとっては観念こそが現実だった。
マヤ人は国民的スポーツとして一種のフットボールに熱中したが、最終的な勝者は「死」という栄冠を与えられた。
その栄光の「死」をめざして、マヤ人のプレーヤーたちは必死に練習を繰り返したわけで、文明というものの眩暈を誘う一面をよくあらわしていると思う。

現実に目をそむけて滅びるほうがよい、という社会的決断というものも、それはそれで文明の、ひとつの決心としてみれば、そういうこともあるだろう、と思うのです。

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