Daily Archives: December 8, 2012

メディア鏡

Fさんと義理叔父が授業を終えてちゃんと留め金をとめていないランドセルをばたばたさせながら校門を走りぬけて帰ろうとすると黒めがねにレインコートの男が、きみたちちょっとここのウサギの小屋の前でしゃがんでウサギを見る恰好をしてくれない?あっ、ランドセルは脇においてね、という。 えっ?いいですけど、と言って言われた通りにすると次の日の朝の地方版におおきく 「懸命な努力が実って回復したウサギに大喜びで見入る飼育係の生徒達」という見出しで写真が出たそーである。 「Yさん(義理叔父ファーストネーム)は、どうして飼育係でもないのにほんとうでないことを言って写真を撮ったの。ちゃんと説明してごらんなさい」、と鎌倉ばーちゃんに詰問されて閉口した、という(^^) その頃はまだ新聞にはほんとうのことが書いてあると妄想していたので、その点でも大ショックだった。 あるいは6年間通った学校の学園紛争で新聞一面に顔写真もなにも出てしまい、「民主主義の敵」「甘ったれた中学生高校生たち」「勉強の本分を忘れたおぼっちゃま学校のひまつぶしデモ」とテレビで言われたことがあった。 その頃、戦前からぶったるんでいるので有名で、学校全体が最も誇りにしていることが「戦時中の教練でもゲートルをまかなかったゆいいつの学校である」だったというチョー軟弱な義理叔父の学園は、このままではダメになるという「トーダイにいれてなんぼなのに何やってんだ」主義の父兄が導きいれた精神主義を呼号する「理事長代行」に対する不信と反撥から学園そのものをロックアウトするという「おぼっちゃまの叛乱」のなかにあった。 積み重ねた机の上から、どのセクトにも所属しないことを示す黒いヘルメットをかぶって、コーヒーをすすりながらジュラルミン盾を並べて威圧する機動隊を眺めている、どう見ても小学生にしかみえない生徒の写真は、いまは先祖は安禄山だったんでしょーかと聞きたくなるような巨大な太鼓腹の(件のトーダイおじさんたちのひとり)Mさんだそーだが、あどけなくて、寄る辺のない孤立した魂や、ふるえている指先の感じが伝わってくるようで、油断すると眺めているうちに涙がでてきてしまいそうである。 結局、孤立無援に陥って社会の悪罵を浴びながら「おぼっちゃまたち」は自分達で会計士を雇って理事長代行の帳簿を奪取して調査し、この「いいか、きみたちは、額に汗して努力することを知らないからダメだ」と朝礼演説を試みて、「うるせー」「ちんこ噛んで死ねー」「開成行け、開成」と箸にも棒にもかからないガキ共の罵声を浴びていたりした「精神主義者理事長代行」が5億円も学校のカネをちょろまかして横領していたことを暴いたのだった。 「次の日の新聞は、手のひらを返したよう、というか戦争に負けてあわてて中国語の勉強を始める田母神閣下というか、そーゆーていたらくであってだね」と苦笑いしながら義理叔父が教えてくれた。 「なんか、民主主義のお手本にされちゃったんだよねー。立派な中学生高校生諸君になっちゃって」 ぼくが日本で最も驚いたことのひとつはマスメディアの腐敗のひどさだった。 クレジットカードすらつくれない貧しい個人に対する金融サービスであるマイクロクレジットを考案してノーベル平和賞を受賞したバングラデシュ人のムハマド・ユヌスが日本にやってきたとき、ぼくは日本にいた。 本国ではcontroversialだが、世界では一般に受け容れられるようになった、この貧困に苦しむ人間達のための巧妙な金融システムをつくりあげた偉大なひとの講演と質疑応答を聴きに、ぼくはフランス人やエチオピア人たち、あるいは当のバングラデシュ人たちと一緒にでかけていった。 こみあげてくる敬意のために声が上ずっているようなアメリカ人の記者や、ソーシャルビジネスという概念そのものがうちに孕んでいる本質的な矛盾に対しての疑念についてイギリス人の記者がかなり執拗に質問したあと、日本人の記者が立ったが、このひとは、少し酔っているようにも見えた。 質問は「アメリカのイラク戦争をどうおもいますか?」 という頓珍漢もいいところの質問で、当惑と怒りの感情で明然と顔をそむける外国人記者たちや、顔を真っ赤にして記者をにらみつけながらかぶりをふっている見るからに上流階級出身のイギリス人のおばちゃん、…満場がどよめくぐらい酷い質問だった。 一瞬で、やや高い、良い種類の緊張があった会場の空気がこわれて腐っていった。 この日本を代表する新聞社の記者のひとは、さすがに会場の空気を察したのでしょう、 「やべー、ちょっとやばかったな、へっへっへ」というようなひとりごとを言いながらぼくの後ろを通っていったが、そのときの腰を屈めて、いやちょっと洒落っ気をだしすぎちゃったよ、ガイジンさんたちはシャレがわからないからまいった、まいった、と同僚らしい人に述べた、その言葉付きの卑しさをいまでも身震いするような気持ちで思い出す。 その酷い質疑がきっかけで、日本のマスメディアについていろいろ調べてみたが、この特別に選良意識が強い人間で出来ている職業集団が、日本の最も深刻な病巣であることに気が付くまで、あまり時間がかからなかった。そのときに調べたことは、そのうち気が向いたときにまとめて誌そうと思うので、ここでは書かないが、問題の根源は日本ではマスメディアのなかで「ジャーナリスト」と称するようになることは、上級公務員、伝統的大企業、学問研究者、という「試験の成績が良い人間」が行くことになっている架空なエスタブリッシュメントの一部にくいこむ、ということで、そうすると彼または彼女のうちなるジャーナリズムは自然のなりゆきとして死んでしまうが、それは当然のこととされていて、いわばジャーナリストになるためにはジャーナリズムを捨てることが条件である、という倒錯した世界が出来てしまっていることである。 実際、ぼくが紹介してもらった新聞社のひとびとは「優等生」という形容がもっとも相応しいひとたちだった。 たとえば「番記者」という制度がある。 首相なら首相にくっついて社名と自分の名前をおぼえてもらうことが初めの仕事である。 一緒に麻雀の卓を囲んで、一流レストランで毎度毎度夕ご飯を奢ってもらって、さらに親しくなればゴルフを一緒にまわったりもする。 他社がまだしらない「総理の意向」をそっと洩らしてもらえるようになれば、自分の立身も保証されたのと同じである。 一方では日本の外国人特派員達が発行している新聞である、ナンバーワン新聞 http://www.fccj.or.jp/publications/no1shimbun やなんかを読めば、あちこちに不平と不信があからさまに語られている問題で、最近では福島第一原子力発電所の事故とその後の到底現実とはおもえないくらい国民を家畜として扱ったかのような処理をきっかけに日本国内でもやっと知られるようになってきた「記者クラブ」の問題がある。 いったい日本の人は日本のジャーナリズムが成し遂げた戦後最大の調査報道である立花隆の「田中角栄研究」の発表の舞台が新聞ではなくて雑誌であったことの意味をどのくらい深刻に受け止めているのだろう? 義理叔父が、子供のときから新聞の見出しというのは同じなのが当たり前と信じていて、アメリカに行ったら新聞の見出しがひとつづつ全部違うので、「アメリカの新聞は信用できなくてうさんくさいなあー」と思ったというので大笑いしてしまったことがあったが、記者クラブというものこそが一個の報道機関で読売、朝日、というような「会社」は単なる営業方針の違いによって命名されているにすぎない、ということを義理叔父は知らなかったものであるらしい。 産経新聞は「保守系」新聞ということになっているが、実際は保守でも何でもない、過去に経営危機に陥ったときに「左でも右でもなんでもいいから朝日新聞とことごとく反対のことを書け」という社長の大号令がくだって、結果的に紙面が「右翼っぽく」なってしまっただけのことである。 ナンバーワン新聞に義理叔父と言えば、義理叔父が特派員協会のバーで酒を飲んでいると横から聞き覚えのある声がする。 誰だっけ、と思って声のほうを見ると、朝のバラエティショーから夜までたくさんのショーを勤めている国民的な人気の司会者が、いや、絶対にダメですよ、と言っているバーテンに向かって、いや、頼むよ、ぼくの顔に免じて、断られると困るんだよ、と言い捨てたまますたすたとバーを出て行ってしまった。 へえええー、あのひともここの会員なのかあー、ああいうひとたちは、いったいどういう手づるで特派員協会の会員になるんだろう、とおもってびっくりしていると、夜になって8人くらいの大集団がはいってきた。 みな新聞者のひとで会員ではないひとたちだった。 しばらくして酒がまわると、その大声で話をしていた8人が座っていた一角で、衿をつかんでのなぐりあいが始まった。 ガラスが割れてとびちって、怪我をするひとがでそうなのでウエイターやバーテンがとんでいって「人間の壁」をつくって他の会員たちをなんとか守った。 あとで義理叔父が聞きつけてみると、その8人はテレビキャスターの「世話になっている新聞記者さんたち」で乱闘の原因は、「おれのほうが『上席』なのに、自分より目下のくせしやがって上席に座った」という理由だった。 ぼくは話を聞いていて、すげーな、と考えた。 … Continue reading

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