憲法第9条の終わりに

nyc49

1945年の日本の敗戦はそれまでの世界史のどこにもないくらい徹底的なものだった。
8年間をアメリカですごした松岡洋右は「アメリカで長く暮らした私にしかアメリカ人の国民性はわからない。アメリカ人とは一発なぐってから話し合いをして友達になるものだ」と不思議な意見を述べて、そのとおりの外交を行ったが、一発なぐられたほうのアメリカは、殴られたのをよろこんでお友達になるどころか、原爆を落とす予定の都市以外のほとんどの都市を通常爆弾とナパーム爆弾で焦土化して、その上に二発の原爆をおとして、本土上陸作戦の前哨となった沖縄では火炎放射器で洞窟にたてこもる日本軍を甕にはいった泡盛ごと焼き払ってしまった。

日本語世界からは、ちゃんとみえないが、太平洋戦争はアメリカと他の連合国にとっては「正面の敵と戦っているときに後ろから殴りつけてきた卑怯者との戦い」だった。
「正面の敵」はいうまでもなくヒトラーが率いるナチで、チェコスロバキアという工業国を併合したあと、あっというまに富裕な先進国フランスまで手中にしてしまって、実際、工業生産高の合計からいってもアメリカとイギリスの連合くらいではとてもおいつかないほどの軍備を身につけそうでもあった。

「バスに乗り遅れるな」という。
当時の日本で流行った標語で、ドイツがフランスをたたきつぶしイギリスとアメリカに勝ちまくって弱っている隙に、欧州勢がアジアにもっている財産をいそいでぶんどらないと損だ、という意味です。

他の当時の欧州指導者の大半と同じく、ヒトラーはアジアの権益に興味をもっていなかった。
「どうでもいい」というのがホンネだったでしょう。
期待があったとしても日本がロシア人の最新機甲師団のうち数個師団でも極東にひきとめておいてくれれば助かる、という程度の期待だったと思うが、日本陸軍中最強であったはずの関東軍がノモンハンで1939年にソ連の機甲師団に救いようのないほどのボロ負け(日本語の歴史では健闘して引き分けたことになっている)をした結果、スターリンはジューコフ麾下の精鋭機甲師団群を極東においておく必要性を認めなかった。
全部、「祖国戦争」、すなわち対ドイツ戦争に軍事リソースを振り向けてしまいます。
それでもヒトラーはアフリカ戦線のイタリア軍に対する半分ほどもがっかりしたり、怒ったりした形跡はなくて、初めから日本軍には何も期待していなかったのがみてとれる。「アジア人」(この場合はロシア人も含んでいる)全体に対する、とりつく島もないようなヒトラーの軽蔑を考えれば、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれません。

イギリスで、じーちゃんたちの話を聞いていて、へえ、と思うのは、日本から派遣されてくる陸海軍の将校は「女の世話」を要求するひとが多いので有名で、例の「当国では、女びとの愛情は恋愛によって得ることになっておりますので、なにとぞご了解ください」と返答したという、よく知られた、ほんまかいなという逸話を初めとして、日本軍将校たちの「女を世話してくれ」の要求に悩まされたという話は、英語の回顧談のあちこちに散見される。
ナチ・ドイツは、あたりまえのように、日本から派遣されてくる軍人たちに娼婦を「なんとか令嬢」「なんとか夫人」ということにしてあてがっていたようで、売春婦を提供することを拒否したイギリス側の態度をほぼ例外なく「人種差別」と受け取った日本人将校達のあいだでは「ドイツはいい」というのが陸海軍を問わず評判になってゆく。

そうやってドイツが獲得していった日本軍人間のドイツ贔屓の「世評」にくわえて、フランスが負けたせいで目の前にぶらさがった「盗んでも怒る人のない果実」であったインドシナ、ドイツ軍に決定的におしまくられて周りの植民地から完全に孤立している連合王国のもつ広大なインド=マレーシア、あるいは国そのものが消滅したようなオランダがもっていたインドネシアを目の前にして、火事場泥棒というか、あわてて力の空白だった地域を抑えにかかったのが日本の「太平洋戦争」だった。

ダグラス・マッカーサーのような太平洋地域の司令官は補充もなにもまともに行われないアジアにいて、「欧州戦線がすべて」で、太平洋戦線を露骨に「三流戦線」扱いするアメリカ政府に、自分を三流に扱う心根を感じて怒り心頭であったし、軍人事務屋の頂点としてシンガポールの極東軍総指揮官に任命されたアーサー・パーシバルに至ってはまともな戦力はないも同然で、兵士の訓練度はゼロに近く、兵器の質にしても、たとえば戦闘機で言えば、ブリュースター・バッファローという、複葉戦闘機と戦っても負けそうなとんでもない代物が主力だった。

ウインストン・チャーチルがいったん日本が参戦した場合、シンガポールの陥落を予期していたことは、ほぼ間違いない。
口にするわけにはいかないので黙っていただけです。
プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを派遣して負けたときの国民への言い訳にする一方で、対ドイツの国防に必要なものはいっさいシンガポールへは送らず、極東方面への兵力補充は輸送船団が北海で死闘を繰り返しながら行っていたロシアへの増援よりも優先度順位が低かった。

日本語の世界で語られる太平洋戦争が「日本民族の英雄的な叙事詩」であるのは当然だが、日本語以外の、たとえば英語で語られる太平洋戦争は、常にドイツとの戦況にからめて解説される。
わし自身も日本がそのときどきにどのくらいやれたかは「ドイツと連合国の戦況次第」だったのだと思っています。
そんなことをあんまり詳しく書いても仕方がないので、書かないが、1930年代と40年代の日本軍についての印象は、日露戦争を戦った日本軍と較べると「びっくりするほど弱い軍隊」で、具体的には戦力としての「衝撃力」が小さいので、特に陸戦においては相手を屈服させる力がまったくなかった。
衝撃力、というのがわかりにくければ、もっと衝撃力の範囲をせばめて「火力」と言い直してもいいかもしれません。

1900年代初頭、日本の軍隊が強いことは、常に事前の見積もりがあまいアメリカはともかく、欧州の軍人はみな知っていた。
言うまでもなく日露戦争の詳細なレポートが行き渡っていたからで、国力は貧弱なのに軍隊だけは強力で、国ごと巨大な暴力の国と意識されていた。

ところが1937年に始まった日中戦争では(日本では点と線は確保したが面としての中国は広大で…というもっともらしいだけで、戦争をする前から中国にも地図があったのを知らなかったような説明がされているが)欧州から見て「弱い」と思われていた中国軍よりも更に弱いのが明らかになって、各国の武官達に「へえ」と思わせた。

余計なことを書いておくと、日本にいるあいだじゅう、わしは過去の雑誌、週刊朝日、少年サンデー、平凡パンチ、主婦の友、ミセス….を蒐集するのが趣味で集めてまわったが、ついでに自費出版の本もかなりの数を蒐集した。
だいたいにおいて、読むのが苦痛になるような「自分史」が多かったが、なかには、たとえば戦後国民党軍にくわわって対中国共産党の戦いを戦ったひとの台湾への撤退記やインドネシアで独立運動に加わったひとの手記のような記録もあった。
そういう自費出版のうち、意外だったのは、なかにはロシア戦に始まって、中国、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカと相手を変えつづけながら通信兵として戦った、というような数奇の運命のひともいて、そのひとの書いたものを読むと「なんといっても中国兵が勇敢で最強だった」と書いてあることだった。
「自分の死を省みない」という点では中国国民党兵は日本兵にまさった、と書いてあって、その頃は日本兵についてまるで異なる印象をもっていたわしは、ぶっくらこいてしまったものだった。

だから実際に中国兵が通常信ぜられているよりずっと強かった可能性もなくはないが、しかし、欧州勢が驚いたのは日本軍の「衝撃力のなさ」だったと思います。
戦局を決定するだけの火力がないせいで、いつまでもいつまでもだらだらと戦争をしているだけである、と欧州勢は観察した。
これは、とてもではないが近代戦を戦える軍隊ではないな、とおもったでしょう。
当時の本を読むと、「第一次世界大戦に参加しなかったからだろう」という推測がもっとも多くて、わし自身も、第一次世界大戦にごく小規模な戦闘をのぞいて参加しなかったことが日本の軍隊を決定的に「時代遅れ」のものにしたのだと、いまは思っている。

もうひとつ、この時期(1930-40年代)の日本軍に特徴的なことは軍紀の弛緩で、南京に入城した松井石根がたるみきった軍紀に不安を感じて「諸君は皇軍の名を汚してはならぬ」と将校・兵士を集めて演説したら聴いていた兵士達がいっせいに笑い出したという。
それも兵士のみならず若い将校たちに至るまで嘲りの笑いを隠さなかったので、傍でみていたひとびとはびっくりしたようです。

「星の数よりメンコの数」という言葉は一面では当時の軍隊の有様をよく表していて、上官というものはそれほど敬意を払われなかった。
特に新任の将校などはまったく言う事を聞いてもらえず、突撃と言えば、おまえが行け、と後ろから声がし、戦況不利となると、具合がわるいので後方の病院に下がらせてくれ、という下士官がでたりした。
もっと後の南方戦線では、ジャングルが多い事をいいことに「道に迷って会合できなかった」という理由をつくって、戦闘が終わるまでジャングルの安全なところに隠れている小隊がいくつもあらわれる。インパール作戦になると中隊ごと戦闘を「さぼる」部隊まで出てきてしまう。

よく考えてみると日本の軍隊が欧州人の目を見張らせるほど強かったのは立見尚文のような正規の軍人教育を受けなかった将校たちが幅を利かせていたころまでで、欧州のコピーでつくった士官学校と海軍兵学校の出身者で指揮官を固めるようになったあとは、役人根性むきだし、というか、あとの霞ヶ関の上級試験と同じで士官学校の入校時の成績が退役するまでものを言う軍隊というガッチンガッチンの官僚組織のなかで縄張り争いや繁文縟礼の言い合いに勝った「要領のよい」ものだけが生き残ってゆく「近代化された軍隊」になってからは、他国に聞こえるほど役人根性がしみついた軍隊になって、
日本のひとがいま考えるよりはずっと弱い軍隊だったように見えます。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/

国家的理想の観点から憲法第9条を改正するかどうかに懸命に集中して考えるのは大事なことだが、いざ第9条が改正されたときに、どういう軍隊になるかを十分考えないで「国防軍」が出来てしまうと、「国防軍」が暴走して侵略軍になりかねない、というのは、アジア人全体の憂慮であると思う。
中国が無茶苦茶ばかりしていて、アメリカも欧州もさしてマジメにアジアのことを考えているわけではないのが明かなので、アジアのあちこちで、中国様に対抗できるのは日本くらいのものかなあーと思っているひとがいくらもいるのを、わしはよく知っている。
わしに言うのは平気でも、日本人に面と向かっていうと、軍服を着たいばりくさったマヌケな日本人が統治者になって、兵隊たちがまた夜中に家に突然やってきて、奥さんや娘さんを強姦しに来そうな気がするからです。

1945年にずたずたにされた国民としてのプライドを守る為に、戦後の日本人は、たとえば「少年サンデー」の巻頭ページ、というようなものを使って、当時の子供を相手に、「日本軍はアジアのために立派に戦った。負けたのはやむをえぬ物量の差であった」と懸命に語って聴かせた。
巻頭図解でなくても、むかしの人気漫画をみると「大空のちかい」「ゼロ戦レッド」「紫電改のタカ」…無数、といいたくなるほどの「戦争マンガ」があって、さらには貸本マンガ(40年代-60年初頭)というところまで遡ると、こちらに至ってはもう殆どが「日本が悪かったわけではない」という「大東亜戦争」肯定のマンガの洪水で、水木しげるのようなひとまで何十という戦記マンガを描いている。

そういうマンガや、あちこちで「少年向け」に書かれた戦争中の物語は、ちょうど司馬遼太郎が発明した幕末や明治がほんものの歴史に姿を変えていまの日本を闊歩している
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/13/坂の上の雲_「明治時代」は存在したか?/
ように、日本人の「記憶」となり、英語人が聞いたら死ぬほどびっくりすると思うが「日本は白人の人種差別に抵抗して戦争を戦ったのだ」という主張を信奉している日本のひとは意外なくらいたくさんいる。

戦後、日本に生まれた子供たちが誇りを失わないで生きてゆかれるようにという元敗残兵たちの切実な祈りをもって書かれた物語やマンガが、クスリが効きすぎた、というか、歴史的事実のほうをぬぐいさってしまって、「ほんとうは日本が正しかったのだ」と説明されだしているいまの時代に、「国防軍」が出来てしまうのは、こわいかなあー、と、つい考えてしまうのです。

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