大望のない人のためのニュージーランドガイド

nyc329

ニュージーランドは小さな国である。
ばかばかしいほど小さな国で、経済規模はたしか三重県と同じくらいであったと思う。
人口は400万人ちょっと。
国土の大きさは日本語ではよく日本の7割くらい、と説明される。
欧州にもっと小さな国がいっぱいあるではないか、という人がいるが、大陸欧州で「小さな国」をやるのと南氷洋に近い絶海の孤島で小さな国をやるのでは意味が違う。
アメリカ人たちなどと話していて「ニュージーランドって、どこにあるの?」と訊かれると、やむをえないので「オーストラリアの隣」と答えるが、「隣」といっても2300キロだかなんだか離れているのである。
セスナは400キロくらいしか飛ばないので、あれで出かけるとタスマン海の出だしのところであえなく墜落する。
船のほうはタンク容量が1万リットルなので経済速度の時速10ノット(18キロ)で行けば燃料上はラクショーで行けるが、早くて140時間かかる。6日かかる計算です。

前にも書いたことがあるよーな気がするが、スタートレックの第4シリーズの第一回エピソードはニュージーランドから始まる。
ニュージーランド全体が世界連邦刑務所で、主人公がそこに服役している。
他の文明からあまりに離れているので国全体が刑務所になっている(^^;)

ひとにぎりの理想主義者に率いられて「労働者階級の人間でも一生懸命働ければ人間らしい暮らしが許されるべきだ」と考えた植民者たちが連合王国から続々とやってきたのは19世紀後半のことだった。
ニュージーランド第二の都市のクライストチャーチの町の名前の由来を考えれば、当時の雰囲気の想像がつく。
いま、ぼくの目の前には1915年のクライストチャーチ、コロンボストリートの写真があるが、道にはクルマが(ややおおげさに言えば)溢れていて、路面電車が走っており、ひとびとの身なりは豊かな人間たちのそれで、煉瓦とライムストーンのおおぶりな建物が軒をつらねている。
なんのことはない、地震で壊れる直前のクライストチャーチとほとんど変わらない町並みです。

前に、わざわざぼくのところまで(ぼくがニュージーランドに家を持って住んでいるので生まれついてのニュージーランド人だと思っていたのでしょう)「おまえは植民地生まれの白豚のくせに生意気だ」と言いに来た日本人小説家がいたが(^^;)、ニュージーランドは「植民地」という日本語のニュアンスとは少し違う国だった。
「南半球に引っ越した連合王国のかけら」のような国だったと思います。
子供のときニュージーランドの学校友達と話していて面白かったのは、歴史の話をしながらさかのぼってゆくと、いつのまにか「自分達の歴史」としてイギリスの歴史の話になってしまうことで、妹もぼくも違和感をもったが、そのごく自然で真剣な様子をみると、からかう気にはなれなかった。
ニュージーランドは頼まれもしないのに、二回の世界大戦にたくさんの若いひとびとが志願出兵して、いつもそういうことになると他人の善意を冷然と利用する連合王国人に、最悪の戦線にまわされて、びっくりするような数の戦死者を出していったが、そういう、いわば「国家を挙げた純情」はニュージーランドという国にいまでも特徴的なことだと思います。

ニュージーランドに暮らす、ということは、ヨットに乗らないひとには判りにくい譬えかもしれないが40フィートのヨットに乗って大洋に乗り出しているのと同じことで、将来への保証というのはいっさい存在しない。
国そのものが小さすぎるので、今年うまくいっていても、来年は国ごと破産しているかもしれない。
現にクライストチャーチが地震で破壊されただけで、ずるずるずると、「壊滅的」といいたくなるほどの経済上のダメージを受けているのに(去年のひとりあたりGDPは先進国の一部リーグと二部リーグの境目で先進国側に指4本くらいで必死にしがみついている日本よりもさらに下だった)、ウエリントンは地震間近という評判が専らで、ゆいいつの大都市オークランドに至っては火山の真上に立っている、というマヌケぶりなので、いつ「国から町がなくなる」状態になるか知れたものではない。

わしは見た目ではわからないのを利用して、なああああーんとなくパケハ(マオリの言葉で白人という意味です。ニュージーランドでは普通に使う)ニュージーランド人のような顔をして、特に意識してではないつもりだが、普段の英語もニュージーランドにいるときはかすかにオタゴ訛りである。
なんだかひとが悪いようだが、しかし、わしの英語は相手をリラックスさせるには都合が悪いアクセントで、「なんじゃそれは?」と言われそうだが、いわく言い難い複数の理由により、ロンドンでも多くの場合かなりヤスリで削ったアクセントで話しているもののよーである。

だから、ほんもののニュージーランド人でなくてパチモンのニュージーランド人なので、少しニュージーランドをほめてもいいような気がする。

ぼくがフェンダルトン(クライストチャーチにある町の名前です)やパーネル、リミュエラ(両方ともオークランドの町の名でごんす)というようなところに家を買って、ときどきドタイクツな気がしなくもないニュージーランドに住んでいるのは、子供のときから、ニュージーランドという国の「単純さ」「純心さ」が好きであるのだと思う事がある。
これも前にも書いたが、David Lange
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lange
(前にデビッドランギと書いたら、ニュージーランドに長いあいだ住んでいるらしき日本人の女びとが、あれは「ロンギ」が正しいので「ランギ」は表記として間違っている、という偉い剣幕のコメントをもらったので、女びとの剣幕に敬意を表して英語表記にしておきます)
がある日モールを散歩していたら、ストランドラを押して歩いてきた若い母親にいきなり平手打ちをくらったことがある。
「あんたが福祉を削減したから、わたしはこんなに苦労している」というのです。
近くで見ていたひとたちが、あわてて止めにはいって、このおっさんが首相をやったせいで福祉が悪くなって苦労しているのはお互いさまだが議論する前に平手打ちはよくないよ、とみなで宥めたそーである(^^;)

あるいは、ニュージーランド人たちのパーティに行くと、みなでいっせいに歓声をあげて、「ガメ、ばんざい!」というようなことがある。
そういうときのニュージーランド人は、なんというか、部族的で、小さなコミュニティのひとびとがもつ、まるで他人の血が自分の体にも奔流するような連帯感があって、現代の国家のひとびとのようではない。
もっとずっとむかしの、古代ローマ時代の部族の宴のようです。

現代のシステムを圧倒する血肉のもつ暖かさがある。
賢い人間もアホいやつも、政治家も政敵も、ストリップ劇場のオーナーも謹厳な校長もみな「仲間にしかすぎない」という暖かな、人間性への諦めがある。
上級裁判所の裁判官が職務中に毎日アダルトサイトを観てムフフをしていたのを若いジャーナリストが発見して、これは勝ったべ、と思ったのでしょう、署名入りの力強い弾劾記事を書いたことがある。

ところが読者の反応は、「アダルトサイトはみんな内緒で観ているに決まってるのだから、60代のじーちゃん裁判官だって観るでしょう。でも税金で給料払ってる時間に観るのはまずいから、次からはそのぶんはやめてもらわないと」、「人間なんだからエッチなサイトみたいときもあると思う、税金つかってやったぶんは返してもらわないとダメだけど」というような反応ばかりで正義感に燃える若いジャーナリストを落胆させるものだった。

ぼくはこれを(他に適当な日本語を思いつかないので危険な語彙の選択だとはおもうが)ニュージーランド人の「仲間意識」だと思う。
裁判官といい首相といっても「わしらのひとりにしかすぎない」という感覚が良く出ていると思いました。

小さな国で小さなひとを育てながら、モニとふたりで、今日はいい日だった、今日はいまいちの日であった、と述べあいながら暮らしていると、ま、人間の生活なんてこんなものかなあー、と思うことがある。
こーゆーことではいけないのではないか、と思わなくもないが、なあああんとなく、いっぱい幸せなので、まあいいか、と思ってしまうのです。

(反歌:人類の真実のためならエンヤコラ)

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