外国語がある午後

nyc3621

「なにごとか書く」という行為は時間がかかる行為で、ぼくは日にだいたい3つブログ(みたいなもの)を書くが、ひとつあたり1時間弱かかる。
英語のブログも日本語も、ほかの言語もあまり時間は変わらない。
ツイッタをやりながら書いていることもあるし、スカイプで友達とだべりながら書いていることもある。カウチに寝転がって胸の上にMBAirをのせて書いていることもあれば、意外にやありけむ、机に向かって書いていることもあります。
机に向かっているとき使っているコンピュータはiMacで、姿勢としては寝転がっているほうが楽だが、iMacは27インチの画面で、横に30インチのスクリーンがもう一個ついているので何かものを参照しながら書くのには、こっちのほうが楽である。
英語で書いているときは、ブログに限らず、庭のブーゲンビリヤの花棚の下の、去年倒産してしまった家具スタジオでつくってもらったチークのテーブル(チーク材は野ざらしに強いので庭のテーブルや椅子はチーク材を使う事がおおい)や、ガゼボのベンチに腰掛けて書いていることもある。
あんまり頻繁にはやらないが、海辺のコーヒー屋にでかけて、砂浜でのびのびとして遊んでいるひとびとを眺めながら、こそこそこそと書いていたりもする。

むかしから集中力の持続時間が40分内外なので、それ以上かかることは、いちゃいちゃもんもんとゲーム以外はやれないことになっている。

以前は、純粋に「言語の練習」のためだった。
言語は一応の体裁をみにつける程度に学習するのは、大変と言えば大変だが、他の「おけーこごと」に較べれば簡単であるとも言えて、まずその言語を話している社会に行って1ヶ月くらいいてみればよい。
「相性のいい社会」と「相性がわるい社会」があって、アジアでいうと、自分では沖縄文化と相性がよくて、内陸中国文化とは相性が悪いような気がする。
しかし別につきつめる必要はまったくなくて、こーゆーのはいいよねー、程度でよいと思う。
初めの1ヶ月はフレーズブックを見ながら、まるおぼえしたセンテンスで、
キャーウォ グマッカル ハェ?
だの、
ヂェイストヴィーチェリナ エータ ターク タシカニカニタシ
と述べて、なんとか生き延びる。
家に帰ってから、あそこはいい町だったなあー、と思うと、
先生に来てもらって初歩を教わる。
DVDのTVドラマシリーズを見て、泣きながら、自分を捨てて他の女のもとへ去って行く男の名前を、(道路にくずれおちたりして)呼ぶ女びとのマネをしてよろこぶ。
「つぐおさんっ!いかないで、つぐおおおおさああああんんっ!」
なんちて喜びます。
うまく出来るようになるとモニさんに来てもらって披露する。

「音」が頭のなかに出来上がったら、あとは本を読んだり辞書を読んだり、
ぐだぐだと言葉とつきあっていれば、むいている言葉なら身についていくもののよーです。

日本語はそのほかに、子供のときに日本に住んでいたりして特別の縁もあるので、そもそもがあんまり苦労したりする余地もなかった。
途中で筑摩書房の近代文学全集と岩波古典文学体系とやはり岩波の夏目漱石全集に三島由紀夫の全集、内田百閒を全部読んで下品に気合いをいれたが、その程度で、第一日本語の本はヘンなことがいっぱい書いてあっておもしろいので「ベンキョー」したという意識はなかった。

だから、ぼくが「言語の習得」に関して言うことなどチョーあてにならないが、これから日本のひとが生きていくためには、百人にひとり程度英語が「ちゃんと話せる」ひとがいることがのぞましい。
「ちゃんと話せる」というのは、英語でものを考えない人は無論ダメである。
英語で考えて反応するのが最低の線とみなされる。
どんな言葉でもそうだが、母語で考えて頭のなかで翻訳しても言葉になってゆかない。義理叔父が日本語で書いたものや、もっと典型的なのは自分で書いた日本語を英語になおしたこともあるが、なんだか日本のひとが書いた英語みたいでヘンになってしまう。
その逆は、いかなる理(ことわり)にやありけん、もっとひどくて、英語から日本語に直した文章は自分で途中まで読んで爆笑して捨ててしまうことになった。
もういちど日本語で初めから書き直さねばならなかった。

ふつーの日本のひとが英語を身につける必要があるのかどうか、ぼくにはわからない。
本人の楽しみのためなら、無論、身につけるほうがいいに決まっているが、josicoはん(ぼくの古い友達です)のように、まわりが全部アメリカ人で仕事場もロスアンジェルスで、これから周りに日本語を理解させるためには百年はかかろうか、という環境では英語を自分で話した方が早いであろうし、すべりひゆ(このひともぼくの古い友達です。本人も少し古いかも知れないが、ここでは主に友達としての関係のほうを指して「古い」と言っている)に至っては旦那も近所もこのあいだは髪の毛を緑色に押っ立てていた息子さんも全部イタリア語なので、とうとう頭がイタリア人になってしまって、妙にマジメになってしまったのも仕方がないような気がする。

義理叔父の友達のTさんは日本の大学をでて3年の実務経験のあとHBS(ハーバード大学のビジネススクール)に行くことになって、いいとしこいて学生に戻ることになってしまったうえに、やたら大量のアメリカ語を読み書き話さねばならないことになって、困ってしまった。
よく考えてみると日本語でも親の家にいるときには、めし、ふろ、でかける、くらいしか話さないのに、ボストンなのにケンブリッジというわけのわからない町にでかけて、呼吸の回数と同じくらい外国語である英語を話さなければならないのである。

Tさんは、若い人を雇うと間違って美人が来てしまうと気が散る、および、アメリカ人の男はこええよという理由でアメリカ人のおばちゃんを雇って、朝から晩まで一緒にテレビを観ることにした。
やせひょろりんの日本人の若い男びとと、でっかいアメリカおばちゃんが、カウチに並んで腰掛けて、ポテチを食べながら(おばちゃんに、手が汚れないようにポテチを箸で食べることを教えたらダイサンキュになって、ぶっちゅーとほっぺにキスをしてもらったそーである)昼メロや刑事ものを一日中観ているところを想像すると微笑ましいが、そうしながら、あっ、いまのはなんて言ったの? このひと、どうして笑ってるの?と質問攻めにして、1ヶ月が経つ頃には見違えるほど英語に近付いていたそーである。

例を5つくらい挙げてみようと思ったが悪いくせで、もう飽きてきてしまった。
ぼくの観察によると外国語を身につけるのは数ヶ月という期間が最も適切で、それより短くては足りないし、それより長くかかると、なんだかわけのわからない理屈をこねまわすようになって、「英語青年」(日本では英語がガクモンになってしまった原因であるとつとに非難されている学燈社(?)から発行されていた雑誌の名前です。古本屋やなんかで見つけて読むと、噂よりずっと面白い雑誌なので、目に付いたら買ってみると良いと思う)化してしまうので当該外国語が身になる可能性が零になってしまう。

少し古いが「フレンズ」
http://www.imdb.com/title/tt0108778/
のような長期にわたって続いたTVシリーズを好きになって感情が移入されるようになってしまえばしめたもので、同じ人は(あたりまえだが)同じアクセントでシリーズをずっと観て、きゃあきゃあ笑っているうちに英語が頭のなかに住みつくようになる。
念のために言うと日本語字幕がついているのは無論ダメで、どうしても目で確認したければ英語の字幕なら、それほど有害ではないのかもしれない。
ぼく自身は小津安二郎や黒澤明の映画、他にゴジラやガメラのシリーズ、60年代東宝SFの「マタンゴ」や「サンダ対ガイラ」、植木等の無責任男、森繁久弥やフランキー堺の駅前シリーズや社長シリーズに耽溺したが、ぼくが買って送ってもらったのは日本版で字幕などは初めからなかったので、初めはいくら子供のときに住んでいたといってもチンプンカンプンで、なにゆってんだか全然わからねー、だったのが、東山千栄子や志村喬、佐分利信の熱狂的ファンになるころから、こつぜんと「一字一字が聞こえる」(我ながら、かっこいい。ボールがとまってみえたというなんちゃらいう日本の野球選手みたいである)(でも、止まってるボールて、強く打つの難しいとおもうけど)(ゴルフを見よ)ように明瞭に聞こえるようになった。
ま、記憶のなかでドラマティックになってるだけだとは思うが。

もしかすると視覚的に読む文字はチビガキが自転車に乗るときの補助輪のごときものであって、なるべく早く、さっさとなくしてしまったほうが良いものなのかもしれません。
要は、視覚的だと言われる、同音異義語がこれでもかこれでもかこれでもかとある日本語ですら、言語は「音」で、書くのはシンボルのうち論理性を明然化するための記号にしかすぎない。
日本のひとは「読めるけど話せないんです」と言うひとがいるが、それこそ、なぜそのひとが外国語を身につけられないかを告白しているに等しくて、ほんとうは、読めれば話せるに決まっているし、音がちゃんと頭に定着していないのに、ちゃんと読んだり書いたり出来るわけがない。

面白い事に、英語人が日本語を勉強しようとするときに手にする教科書の類は、
なぜか日本人が英語を勉強しようとするときに手にする教科書に方法が準拠していて、こんなんで日本語が出来るようになるなら、カモメも鯛語やイルカ語が話せるようになるであろう、と思われるような酷い教科書である。
外国人に日本語を教えるべく努力しているひとは、ひとがらのよい、マジメな人が多いので、先生の熱心で補っているようなものだが、「外国語としての日本語」の体系を作っている人達には、もう少し考え直してみる余地があるよーです。

言語はなにをおいても語彙なのであるとか、まるおぼえするならセンテンスの体をなしていなければならないとか、他にもいろいろな「定石」にあたることがあるが、そういうことは興味をもって口移しに「ドゥーユースピークイングリッシュ?」と述べているうちに自動的にわかることだから、言語は「音」である、音の組み立て、音の組み合わせの記憶、音の強弱の印象の把握であると述べることで要旨であるということにする。
スペイン語を話すようになれば、スペイン世界特有のキリストや悪魔が直截耳元にささやきかけてくるような世界が理解できるようになる。
ロシア語を聴けるようになれば、まるでカミナリに打たれた魂、とでも言うような日本語が感覚しうる千倍はトーンの強い「悲しみ」の感情を知ることになる。
なによりもひとりの人間にとって大きなことは、言語が自分という意識の実体で、感情も時間も言語が内包しているのだと実感することは自分という存在そのものを発見することで、ふたつ以上の言語の体系が頭のなかに出来てはじめて自己というものを客体化できるところであると思う。

よりよい職業をうるため、というような動機では(悪いとはいえなくても)言語を習得する理由として淋しすぎるが、それでも、どのような動機でも言語の女神の手にいったんふれてしまえば、神様のほうで、きみの手を力強く握りかえして、異言語がみせる色彩の異なった万有造化の世界を通り抜ける頃には、きみは、まったく別の人間になっているはずである。

だから、やってみるといーのね。

Good luck!

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3 Responses to 外国語がある午後

  1. DoorsSaidHello says:

    がめさん、こんにちは。おげんきですか。わたしはげんきです。
    いまはえいごをすこしわかります。あまりはなせません。
    でもじぶんのことばとじぶんのこえではなせます。
    ちいさいこどもがじぶんのなかにいます。そのこはえいごでかんがえます。
    かんたんなかんがえです。でもそれはじぶんのかんがえです。

    わたしがはなせるのは、えいごでおもったことだけです。
    えいごのとき、わたしはかんたんなことをかんがえて、かんたんにいきています。
    でもたのしい。もうひとりこどもをそだてているみたいです。
    えいごのなかではわたしは3さいです。わたしはたのしいです。

  2. hrhkwgt says:

    日本語しか知らない人は母音が5以上あるということが信じられない。LとRの区別も英語のそれはわかりにくくて、2つのラ行だなんて本当に区別しているわけないじゃん、というのは日本人が一回は持つ考えだと思います。

    自分の場合は音声学をかじってみて最近ようやく英語が音として頭の中に流れるようになったけど、そうでなかったらよほどの音楽的センスに恵まれない限り、英語・フランス語・ロシア語といった日本語の倍とかそれ以上の音素を持つ言語を音素レベルで弁別することはできないように思います。人間は言語の音声を、音の側面と発声器官の運動の側面の両方から記憶しているのではと思え、また昔拾い読みしたところによると自分で発音できない音は認識できないとか。

    というわけで、英語の音声が日本語の音声の大部分を包括しているのに対して日本語の音声はほとんどの場合諸外国語の音声を包括してないので、英語人が日本語を学ぶのと日本語人が英語を学ぶのとでは、音声を模写できるかという点で難易度にかなり差異があると思います。

  3. じゅら says:

    どの記事だったかやっと発見したー。
    上のDoorsSaidHelloさんのコメントを見て、「えいごでかんがえるちいさなこどもをそだてる」という考えにすごくひかれたんです。ドラマでも映画でも、「分からない」ことがすごくストレスになる感じがして、字幕なしに踏み切れなかったけど、よく考えたら日本語のだって、ちょっとなじみのない言葉遣いだと頭に入ってくるまで時間がかかるし、実は意味が分からずに流してる言葉はいっぱいあるけど特に不都合ないんだし、背伸びしていた子どもの頃に戻ったつもりでやってみるか!と思いました。で、実際に試してみると思ったほど困らない。新鮮でした。もちろん何て言ってるかはほとんど分かんないけど、俳優さんの表情や口調に注意を払えるし、流れが理解不能でどうしても気になったら、後から字幕なりネットのあらすじなり見れば良いのだし。
    例え英語の字幕でも、それを見つつ聞いてるのと音だけ聞いてるのとでは、頭の働き方が違うみたいです。なんだか違うところを使っている感じがする。日本語字幕と大差ないかも。

    それで、たまたま見ていたドラマで突然脳に飛び込んできたセリフが、”Everyone deserves to be happy.”でした。
    胸をつかれました。
    日本語で言おうとしたら、言ったそばから煙になって、自分の中からひねた嘲笑が聞こえてきそうなのに、そのセリフは真っすぐ言えて真っすぐ入ってくる感じがしました。これが通る世界なんだ。それがショックで。
    英語のドラマや映画の中の人たちは、年齢性別の組み合わせを問わず、すごく普通に助け合って、初対面に近かろうが何だろうが、辛いことがあったらがしっとかそっとか肩を抱いたり胸に埋まったりしてる気がしました。なんだかすごく取り残されてる感じです。画面の中の作り事なんだけれど、英語世界でも場所によって違うだろうけど、でも「ああ…」と距離の開く感じがします。
    最近まじめなことを考えていると、ものすごく悲観的になったり投げやりになったり、息の詰まるような怒りにとらわれて堂々巡りにしかならない傾向です。これも英語で考える人が自律し始めたら、同じ材料でも違ったふうに見えて違うふうに切って、全然別の感情と方向に流れるようになるのかしら。

    なんか面白いのでだらだら続けてみるつもりです。英語の人のさえずる音に慣れてみるんだ。
    というわけで、きっかけになったガメさんの記事とDoorsSaidHelloさんのコメントに感謝を表しに来ました。ありがとう。
    LとRの区別は付きませんw

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