遠い国の選挙のあとで

nyc3690

連合王国と日本の民主主義には似ているところはほとんどない。
議院内閣制なのが似ているだけで、あとは共通したところはあんまりないように思える。
疑り深いひとのために述べると、どちらがいいというようなことではなくて、おおきな声ではゆえないが、わしはもともと連合王国のシステムをそう立派なものだとも思っていません。
だから優劣の比較の問題とは別に互いにおおきく異なっている。

一方でニュージーランドは日本とかなり似ている。
郵便行政の民営化騒ぎのときでも先行したニュージーランドと日本は反対派を含めてとても似通った様相を示した。
当時、日本のひとが郵政省民営化の話が小泉純一郎の名前と共にでてきたところで日本のお役人が(防衛のために)素早くニュージーランドで起こったことを調査したもののよーでした。
わしも面白がって前にニュージーランドがどうやって郵政を民営化したか書いたが、
「ニュージーランドのような小国は日本のような大国と違うから」という反応がふたつ返ってきただけで、ふたつなのはブログが零細なのであたりまえだが、理由が日本の人らしいと考えてわしは大笑いしたものだった。

なにがなし考えた事をメモにしておきたくなったので、日本の国政選挙の結果が出たところで日本の選挙とニュージーランドの選挙を比較して考えたことをちょっとだけここに書き付けておく。
ふだんは政治向きのことはブログ記事に書かないので、むかしから読んでくれるひとたちはぶっくらこいちまうだろーが、わしも犬さんの半分くらいは政治にも興味をもっているのです。

ニュージーランドでは「ポール」がおおきな意味をもっている。
ポール、とゆっても紙に書いてする投票ではなくて、電話によるリサーチです。
TV1(国営放送局だが日本と違って広告料で稼いでなりたっていて受信料はありません)や新聞社が主体になってやる。
年がら年中やっていて、ニュージーランドファーストの主張は人種差別だとおもうか、とか、経済の6ヶ月先はどうなってると思うか、に始まって支持政党調べ、支持政治家調べ、いろいろやります。
選挙が近付くと、相互に独立した一旗組の集合にもみえる日本の立候補者とやや異なって、もうちっと会社風というか役職や序列がかなりばっちし決まっている政党間の人気投票がはじまる。
最近はインターネットの普及でインターネットでみるのが普通になったが、わしガキの頃はまだテレビのテキストボタンで、テキスト画面に変えて、あっ、労働党が2%のびてるやん、とか、なーんでアクトが5%なんだよー、とかガキどもも刻々と変わる数字を見て姦しいことであった。

こうやって書いているのを読むとわかると思うが、ニュージーランドでは投票所で最後の候補者名の横と政党の横のチェックボックスに印をつけるのは最終確認作業のようなもので、たいていの場合「戦略的投票者」(実際には支持していない政党や候補者を選挙結果のバランスを考えて投票するひとたち)の読みが外れたときに起こるチョー番狂わせがなくはないものの、と書いていて思いだしたが、実際、去年の国政選挙では本来アクトにいくはずだった票が最後の一日で「誰も当選するはずがない」ニュージーランドファーストに流れて、泡沫候補が9人(総議席数121)も当選してしまうというマンガぽいことが起こったりもしたが、選挙の結果はふつうは前もってわかっている。

つまり、違う方角からいうと、本来投票する人が票を投じたい対象がどの程度支持されているのかを熟知したうえで、「戦略的投票」のストラタジーを決めて「議会全体のバランスがこのくらいになるところにもっていく」というのがニュージーランド人が投票するときに頭にいれていることだと思われる。

実は、これは連合王国や政治がチョー荒っぽいので有名なオーストラリアですら同じだが、「選挙の結果としてどういう議会にしたいか」を考えて投票しているので、ニュージーランドと日本は似ているといっても、そこはおおきく違うよーです。
極めて優秀な首相候補の議員がいて、人気がある、判断も明晰、施策ももうしぶんがない、ルックスもばっちしとして、ではこのひとが圧倒的に票を集めて勝つかというと全然そんなことはなくて、辛勝だったり、ライバル政治家が意外な数の票を集めたり、MMP制度
http://en.wikipedia.org/wiki/Mixed-member_proportional_representation
に移行してからは特に多いが、第三政党がキャスティングボードを握って、少数の議席しかもたない第三政党が事実上政策決定をになってしまうこともある。
倶利伽羅紋紋でピアスの針山のようなにーちゃんが「政治家として甘やかすのはよくない」と理由を述べたりする。

ニュージーランドでは投票率は80%内外だと思われる。
よくおぼえていないが、と書いてからそれではいくらなんでもええかげんなので
voter turnoutを調べて見るとすぐ数字が出てきて
http://www.idea.int/vt/countryview.cfm?CountryCode=NZ
このあいだの国政選挙では69.8%だと書いてある(^^;)が、
日本のひとほど投票率を気にしないので、わしもいま見て、「へえええー」と思った程度です。わしも投票に行ったが、特に行かない理由がなかったから行っただけで、「選挙民の義務」とおもったわけでは全然ない。
いまちょっといろいろ考えてみたが、ひょっとすると「投票は国民が勝ち取った神聖な権利なのだから投票には必ず行きましょう」というようなチョーマジメな考えは、もしかすると日本のひとだけのものかもしれません。

ツイッタに書いたが、当然ありうる「国民の投票権利は必ず行使されるべきだ」という考えがある場合には、強制選挙、というものがあちこちの国にあるので、そうしてしまったほうが話が簡単でよい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Compulsory_voting
ベルギー人の友達は、これが嫌で嫌で選挙のたびにぶーたれていて、いまみるとそんな罰則はどこにも書いてないが「最悪の場合は刑務所行きなんだぜ」とゆって、自分の国を呪いながら投票していたものだった。
特に珍しい制度ではなくて、別表をみれば判る通り太平洋地域でもシンガポール、オーストラリア、フィジーというような国は強制選挙です。

よく考えてみれば選挙に行かないやつが増えれば増えるほど自分の投じる1票の「重み」は増すわけで、世の中のほかのすべての同様のことと同じで、投票に行かないひとの数が増えるのを喜びこそすれ怒るのは筋違いで、論理的でない感じがする。
将来において投票が電子化された場合には棄権した人間の票を、投票締め切り時間直後に「もっと投票したいやつ」に割り振って半分の有権者が投票しなければひとり2票ずついれられるようにしたらどうかと考える(^^)

もうひとつニュージーランドとずいぶん違うよねー、と思ったのは「争点が多いこと」で、遠くからニューズを読んでいるだけでは、どの政党がどの争点についてどういう立場をとっているのか論争の争点がおおすぎて、さっぱりわからなかった。
外国人なんだから判らなくていーのです。
そーですか。
という会話も成り立たなくはないだろーが知りたいものは知りたいので、いろいろ眺めてみるが、やっぱりよくわからないままだった。

ニュージーランドだと争点は多くても2つか3つかで、ニュージーランド人は総じて頭の仕組みが単純なせいもあって、そのときどきの選挙で「アジア人の移民がおおすぎるかどうか」
「税金をあげるかどうか」「オークランド振興税を創設するかどうか」で極めてシンプルである。
選挙の「テーマ」というものが決まっていて、それについてラジオの討論番組から候補者のラジオ放送、普段は「カメラ三脚として安定しないガールフレンドをもつことの是非」(つまりガールフレンドの頭の上にカメラをおいて撮影しているという意味です)っちゅうようなチョーバカなアンケートをとって特集にしている番組でも、「アジア人の移民を受け容れるのは損か得か」で延々と議論している。

家庭の食卓で子供の年齢などほとんど考慮しないで家族全員で政治の話題で議論するのも、ほぼイギリス時代からの伝統で、息子も娘も父親も母親も夢中になって政治の話題に熱中する。
見ていると、ばーちゃんやじーっちゃんの世代でも同じなので、もしかすると帝政ローマぐらいのころから、ずっとそーだったのではないか、と疑ってみるに値する。

いざ選挙になって結果がでると、わりとあっさりしたもので、なあーんだ労働党惨敗じゃねーの、とため息をつくくらいで、暫く政治のことは考えないもののよーである。
ひとつには冒頭述べたように年がら年中ポールをやって、家庭や学校や職場でものべつまくなしに政治の話ばかりしているので、政党がAからBに移行しても、政治方針ががらっと変わる、ということは滅多にない。
選挙の争点になっていた移民政策なら移民政策が変わるだけで、感覚的な数字でいうと、それも10%も変わらなくて、5、6%の変化があるだけだと思います。
日本の戦後史を調べていて思ったが、これは日本の選挙のあと、かつて自民党内のある派閥から別の派閥に権力が遷るときの状態に酷似していて、わしが、日本では派閥こそが政党だったのではないかと考えるきっかけになった。

正直に述べて、わしは自分に選挙権が生じてからも特別にそれが重大な権利だと考えたことはない。
ときどき思うが、なんだか奇異にも感じられる日本のひとの投票する権利への信仰にも似た敬虔な気持ちには、かつて近代というものが目の前にあらわれて、これでおまえの統治者が選べるのだとしらされたときの、なんとも言えぬ感動が残っているのではないだろうか。それを「西洋の豚から与えられたに過ぎない」と述べた作家がいたが、憲法もそうだが豚に与えられようが神様が枕もとに現れて手づから渡されようが、わしはほんとうはどうでもいいと思っている。
目の前にある制度は使えばよいだけのことです。
1票という重み、などわしは思いついたことがないが、日本であまりに「1票の重み」「1票の重み」と言われているうちに、なるほど民主主義は選挙でおおもとが出来ているのだなとあらためて考えたりした(^^;)

わしが日本にいたとき、日本人はある重大な決心をした。
目撃したのでわしはこれを自信をもって述べることができる。
日本人は自民党の支配では日本がその頃の停滞した状況から脱するのは無理であるとみてとって、もともと為政者たる能力がないと判っている民主党に政治権力を与えることにした。
わしは少なくとも3人の教養のある日本人が言葉にして「民主党は統治能力をもっていないが、いまはやむをえない。国は民主党のせいで苦境に陥るだろうが、それでも長い目でみれば、われわれは自民党以外のパワーセンターをつくらなければならない」という意味のことをわしに述べたのをおぼえている。

日本人は人類のどんな歴史にもない、と言いたくなるような勇敢さで自分達が統治能力を信頼していない政党に権力を与えたのだった。

結果は見事なほど無様な失敗だった。
いざ権力を渡された民主党は手中にした権力に舞い上がってしまい、小沢一郎を中心とした政局の変化にばかり敏感になっていった。
日本の政治を信託した国民の必死の気持ちは、ながいあいだ「永田町の飯」を食べてきた政治の玄人たちにとっては政局上の自分達の立場を改善する絶好のチャンスにしか過ぎなかった。

素人に近い民主党の政治家たちを補ってなんとか国家を経営していくはずだと日本人たちが信用した役人たちは、自分達の肩にかかった責任に応じるどころか役人との付き合いに慣れない民主党政治家たちをいいように利用して自分達の権力の拡張に利用した。
これほど勇気をもって政治の変革に臨んで、これほど無惨に裏切られた国民を探すのは人間の長い歴史のなかでも難しいのではないだろうか。

かつてはオカネの水源を共にシェアしているというだけのまとまりで「自民党」という単一の党名を称して、実際には「派閥」に政党としての役割を与えていた「自民党」と今度の選挙で安定多数を獲得した自民党は「第二自民党」と呼びたくなるほど内容が異なるようにみえる。今度の自民党は実際に政党的というか結社的というか、憲法の改正や中国にたいする「毅然たる対応」「原発の再稼働」というようなことにおいても党として一致して行動してゆくだろう。
しかし、そういう過去の自民党といまの自民党の相違やこれからの政局の展望、日本の政治的未来の予測というような役割は、わしにはあんまり興味もないし、あるいは、考えるべきことでもないのかもしれない。
自分達のフォーラム用に文章を一個書こうと思うが、それ以外には何もする気もない。

ただわしが目撃した「日本人の戦い」と呼びたくなる民主党を政権につかせた日本人たちの乾坤一擲の勇気と、その失敗、その結果「自民党」と名乗る見知らぬ新しい政党が日本政治の舞台の中心に登場したことをのちのち自分が思い出すために記録して、何年かしたらどんなふうに読めるか、楽しみに考えてみたいと思いました。

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One Response to 遠い国の選挙のあとで

  1. アッシュ says:

    投票する側が変わらんといかん。と思うのです。
    もうそろそろ。

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