荒野をわたる人のために(準備篇)

bb25

生老病死という。
人間は生まれて年をとって病気になって死ぬだけのことなので、ほかの余計なことは考えるな、という意味です。
いまどき信じているひとはいないと思うが天国も地獄もあるわけがない。
エイリアンも空飛ぶ円盤もない。
死後の世界もない。
人間はこの荒漠とした世界に生まれて、ひとりでひょろひょろと生きて、どこかでぱったりと死んでしまう。
そーゆーことだけが現実で人間の一生というもののデザインを考えると、それだけが基本設計なのだから、あとは飾りというか、余計なことだ、と思うのがよいよーだ。

自分でやったことが他人に認められるのは、人間は意識を構成している言語そのものの社会的な性格から誰でも嬉しいに決まっているが、しかしそれも「自分は他人の評価というものは気にしないことにしよう」と決めてしまえば簡単にできる決心で、懸命に研究した物理法則を引き出しのなかに放り込んでいたアイザック・ニュートンが、いくぶんか、そういう風変わりなひとであったことは前にも書いた。

詩人は、読者がひとりもいなくても詩を書きつづけるだろう、と過去の多くの文学者が述べている。そう書いてある近くにはたいてい「しかし小説家は読者がいなくては小説を書いてゆくわけにはいかないに違いない」という記述が見つかるのが普通である。

運慶は材料になる木を見ると「あそこには仁王の右腕がある」「そこには左の踏み出した足がみえる」と木そのもののなかにこれから彫りだして組み上げる彫刻の部品がまざまざと見えたというが、詩人がなんだか半分宙に浮いているような魂で、あやうく言語の平衡をとりながら、ほんとうはなにもない部屋の空間に見いだそうとしているのは、それに極めて近い「言語そのものがもっている定型」で、それは音韻でもなくて、言語と言語が近付いて結合するとダイアモンドのようにもう忽(ゆるが)せにすることができない一義の結合ができて、詩人が「定型」と述べるときには、それを指している。

詩を教えるひとのなかには「詩は、そのひとそれぞれの感じ方だから」というひとがいるそうだが、それは、とんでもないおおうそで、もし詩に読み手によってさまざまな解釈や、絶対的に等しい情緒が喚起されないのなら、詩を書く必要はない。
読む必要は更にないわけで、仮に実際に読み手によって「感じ方が違う」詩があるとすれば、要するにそれは書かれる価値のなかった「駄作」なのである。

小説は歴史的にも「記録」から身を起こしたという。
最も初期のダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe)
http://en.wikipedia.org/wiki/Robinson_Crusoe
が記録の体裁をとっていたり、
あるいは、デフォーの100年後の作家であるエドガー・アラン・ポーにあっても、
(いま考えるとちょっと信じがたくはあるが)、あの「短編小説」の多くはドキュメンタリー・ルポを装って売られたものだった。
記憶が曖昧で、あとで調べてこの部分を書き直すことになるかも知れず、間違っているかもしれないが、有名な「The Unparallleled Adventures of One Hans Pfaal」の気球による月旅行は
http://www.worldwideschool.org/library/books/lit/horror/TheWorksofEdgarAllenPoeVolume1/chap3.html
は、もともと「特派員レポート」として書かれたものだったと思う。

小説は平たく言えば「真実がもつ『真理の定型』を構造のあるウソによってデッサンする」作業だと思うが、しかしめざすべき定型が共有感情なので読者という受け手がいないと作業として完了しない点で詩とは異なる。

だから「誰にも読まれることを期待しないで書かれた小説」はありえないが、たとえば「後世の誰かが読む事を期待して壁に書かれた短い物語」や、サーバーの片隅に同じ期待をもって置かれた小説、というようなものならありえなくはない。

ぼくなら文学であれば詩を書く。
人間の世界を理解する必要がないので、めんどくさくないし、他人が読んでくれる必要もなく、自分で読んで魂の定型にうまく到達しているかどうか判るので手間がかからない。
そのうえ、詩というものは、その性格上、書く方よりも読む方にかえって非常な訓練が必要なので、そういう言語的な訓練が出来ていない人間は初めから詩を読めないのでノータリンなくせに批評めいたことを言う人間にあわなくてすむ点でも詩のほうが小説よりもすぐれている(^^)

絵という手も無論ある。
ブログ記事を書いたずっとあとで、実際にはクロマニヨン人ではなくてネアンデルタール人の遺跡であることがわかって大騒ぎになって有名になった、
カンタブリアのCueva de El Castillo
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/
というようなところに行くと、絵画というものが「言葉のない世界の廻廊」で人間の意識と直截つながっているぶんだけ言語芸術よりも魂にずっと近いところにあることが実感として感得される。
ぼくの無口な友達の「千鳥」は、ブログ記事を読んで遙々でかけて、行ってみてぶったまげてしまったようだったが、英語ならdiscと呼ぶしかなさそうな酸化鉄で描いた円の列や、こちらがわに手のひらを向けた手のひらの稠密な写生は、絵というものが本来、人間のやむにやまれない「存在の主張」、自分はここにいるのだ、という証明できるはずのないことの提示であることが納得される。

したがって、絵もまた誰にも見せずに描いてゆけるものである。

音楽については、言語や絵画と並列に簡単に述べてしまいたくない理由があるので、ここでは書かないが、芸術という日本語では大層な響きをもってしまった言葉を使って呼びたければそう呼んでもいいと思うが、絵や詩のようなもので一生の「余計なこと」の部分を満たしてしまうのは、生老病死の荒涼をわたってゆくためには、やはり良い事であると言わねばならない。

いろいろ全部やってみればわかるが、いちばん恒常的に毎日忙しいほど夢中になって「余計」部分を埋めてくれるのは学問で、人間には「知りたい」というビョーキがあるので、これを利用する良い方法である。
言うまでもないが「知っている」のは、どのような意味でも学問ではない。
あたりまえでしょーが、と怒る人がいるに決まっているが、しかし本を読んでいても、このひとはひょっとして「学者」であるのに「知っている」ことと学問的追究とを混同しているのではないかと不安になることがあるので念のために述べておく。

学問は何をみいだそうとしているかというと、詩の「言語の形」、絵の「魂の形」にかわって「宇宙の形」を見いだそうとしている。
ここでも手がかりになるのは「定型」の感覚で、数学を例に挙げれば、なんだかごたごたしてうるさい感じの議論はやはりダサイのでウソなのではないか、と思うのは、この「定型」の感覚が働くことによっている。
周りにあるものがすべて闇のなかに包まれているときには、この「定型」が見えて来にくいのは、詩や絵とおなじことで、アインシュタインが最後まで量子論に懐疑的だったのは、アインシュタインが自分の完全感覚として持っていた「定型」に量子という考えが適合しなかったからであると思う。
おさまりが悪い、というか、お行儀がわるいというか、神様はもうちょっと嵌めればカチッと音がする定型をこの宇宙に形として与えたはずだ、と統一場を求めたひとは考えていたのだと思います。

学問か芸術かの「観念の高み」の何れかが手に入れば、人間は「生老病死」以外には徹頭徹尾なにも存在しない人間の一生を、たいして失望もせず孤独にも陥らずに渉ってゆくことができる。
そのためには、どうしても「訓練」が必要で、学問で数学がいらないということは想像することができないし、芸術ならば「絶対的な定型」の感覚が精神のなかに育っていなければならない。

江戸時代の戯作などに典型が散見されるが、どんなに物語が巧妙につくられていても言語の感覚がないものはダメで、ちょうど陶芸や書で「手が悪い」というのに似て、訓練のない手でつくられたものは、どれほど巧妙に語られていても子供が手をたたいて喜ぶ紙芝居にしかすぎない。

理由は、多分、人間の一生における真実の形というものは日常語よりも少しだけ高いところにあるからです。言語の感覚が悪い作家は、その「ほんの少し」の高さがまたけずに柵にひっかかってジタバタすることになる。

いまでも一部の西洋人ガキは目つきの悪いハゲににらまれながらラテン語を暗誦したり、自分がアル中の癖に酔っ払いに説教する癖があったオカマのおじちゃんみたいな声を出す詩人の書いた詩を一編残らずおぼえてしまったり、そのむかしの日の丸の鉢巻きを頭にしめて、冬のクソ寒い朝に頭から冷たい水をかぶって「バカになりますー、バカになりますー」と絶叫したあげくバカになりきって、そのあとの人生を、ほんとうにバカになって、痴呆的な「大会社社員」として暮らす日本の団塊世代エリートと、どこが違うねん、な訓練をして、やっと詩が「読める」ようになってゆく。

なぜそういうくだらない訓練をするかというと、たとえば微分の原理が判らない人間に世界を説明しようと思っても、まるでムダだからで、ぼく素数のほうが好きだなあー、と思っても、泣きながらベンキョーしないと仕方がない。

そういう悲惨な行程がなければ世界の形を夢中になってたどる愉悦にひたれないのは、人間の能力がもともと世界を理解するためには13%くらい足りないか、あるいはチョーバカで手に緑色の糞をべったりくっつけながら半ベソで羊のお尻をおいかけて歩いていたあいだに言語の体系があらかた完成してしまったので、人間の意識の実体で思考そのものである言語が、そもそもちゃんと世界のことを考えられない粗悪品であるかのどちらかであるだろうと、一般に信じられている。

だから、なんだか、生徒をアジる(<−全共闘学生用語)しか能のない出来のわるい学校の先生のような気が自分でもしてきたが、その初期のベンキョーだけは避けるわけにはいかないのです。

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