終わりから歩きだすということ

IMG_0003

日蝕が始まるとちょうど雲がかかって、うまい具合のフィルターになって、気が付くと肉眼で日蝕の様子をみている。
手に持っていたピンホール観察用の紙をおろして、雲の向こう側で進行している「浸蝕される太陽」をぼんやり眺めている。
モニもいつのまにかサングラスをかけた顔をあげて直截日蝕を見ています。
ふたりでしばらく眺めていて、まだ終わりきらないうちに、どちらからともなく見るのをやめて、テーブルに腰掛けてペールのなかのシャンパンをとりあげて飲んだ。
なにがなし、お互いに目をみあわせて、こんなことに熱中することの滑稽さにふきだしてしまった。

庭から空の星をみるときは、酔っ払っているときはたいていは月で、ふたつある天体望遠鏡のどちらも使わなくて、キャノン製の「手ぶれ防止機能付き双眼鏡」で眺める(^^)
月や木星程度を眺めるには、これはかなり良い方法で、月の表面などは精彩につぶさに観察されて、有名な「豊穣の海」もコペルニクスクレーターもチコクレーターも明瞭に見えます。

自分がほとんどの場合、百年には満たない区々たる時間の一生を暮らしていて、一方ではその頭上で、一億年が単位では短すぎる天体が運行していることは、むかしから人間にとっては畏怖すべき神秘だった。
古代ギリシャ人たちのように天球を仮定して宇宙を矮小化して安心してしまおうとした想像力に乏しいひとびともいたが、マヤンのように、人間が知覚できる世界の途方もない小ささを熟知しているひとびともいた。

チチェンイツアの遺跡をたずねてゆくと、ちょうど沖縄のウタキに似て、場所を設営したひとたちが顕現化しようとした「空気」が、幸運にもまだそのまま残っていて、いま1000年を越えて再訪するひとにも、その空気の明瞭な「聖性」が感じられる。
天井の低い真っ暗な洞窟のなかを懐中電灯を頼りに歩いて行くと、真の暗闇のなかに一条だけレーザービームのような明晰さで細い太陽の光が射している。
その光の下にたって浴びる太陽光は、(きみは笑うかもしれないが)恒星の光であるというよりは人間の言葉の世界の外側から射してくる、人間のまだ知らない叡知の光であると感じられる。
まだ見ぬ知性そのもの、人間の語彙がとどかない高みから射してくる、ひと筋の神秘であるとはっきりと感覚される。

むかしから人間にとって理解ができないほど我慢がならないことだったのは、人間の言葉では永遠が理解できない、ということだった。
人間はずっとむかしから、永遠が理解できないのに、天空にきらめく星々のせいで、永遠の存在だけは直感的に知っていた。
自分の生命が無残なほど短いことや、自分の意識が滑稽なほど身近にしか届かないことを、いま振り返って驚くほど明瞭に理解していたのは、頭上に星が輝いているからだった。

人間の、極端に短いあいだしか続かない意識からすると、宇宙の時間の巨大な連続は一種の狂気であると思う。
だがほとんどの狂気がそうした相対的な関係をもつように、宇宙の側に仮に意識があれば、須臾のときをすら永遠の解明に浪費する人間の意識こそが狂気であることになるだろう。
生命に痛覚が生じ、痛覚が学習を生じ、明瞭な意識を生じて、須臾のうちに生きる現象が、現象であることをやめて自分を生み出した永遠の側に顔を向けている異様さは、もし、宇宙に神というものがあるなら、滑稽であるよりは理由が理解できない、薄気味の悪い光景であると思うに違いない。

人間の意識が宇宙を説明し終わるとき、神は死ぬ宿命にあるが、皮肉なことには人間の言葉はあらかた神を前提にできているので、神が死ぬことはそのまま人間の世界の終焉を意味する。
人間はそこからは神を失って、もとの須臾の間へ帰っていかねばならないのである。
マヤ人は2012年まで人間と宇宙との時間の連関を記録したが、そこから先は書かなかった。
案外、もうその先には神がいないのだ、ということを知っていたのかもしれません。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

One Response to 終わりから歩きだすということ

  1. 〇〇 says:

    Merry Christmas, ガメさん!

    カポーティの「クリスマスの思い出」を読みおえました。翻訳で読んだその昔、感動のあまり買い込んだ複数冊は、全て友だちへのプレゼントにしてしまって手もとには残さなかったので、内容をすっかり忘れていました。年の離れた風変わりないとこと小さな男の子の話だったということ以外は。そのぶん、英語の勉強にはもってこいだったかも。
    と言っても、私の英語力に進歩が見られる訳ではありません。一番心を揺さぶるはずのラストの描写がきちんとつかめません。せつなさしか分からん。昔感動したのはここのはずなのにー。

    こんなふうに、なんか、だいたいのところ、しかわかってないままです(わかったつもりになっているだけかも)が、「もっと読んでみよう」「次はこれ読みたい」という意欲は、今のところ枯れ果てたりはしなさそうです。自分が読みたい内容の作品を読むということを、高校生の時にしていたら良かったな。あの頃は学校の授業に追われて、自分の本当にしたい事をする、なんて考えつきもしなかった。

    (記事とまったく関係ないコメントはダメかなあ…)

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s