2 wrongs

NYC_EV11

かき氷にウイスキーをかけて食べるとうまい、というのはたしか義理叔父とトーダイおじさんのひとりに教わったのであると思う。
鎌倉ばーちゃんの家でころころしていたら、ガメー、ガメーと呼ぶ声がするのでいってみたら縁側で長瀞の天然氷とかいうのをしゃりしゃりと削ってかき氷にしたやつにオールドパーをぶっかけて、いいとしこいたおやじがふたりで悦にいっている。
きみも食べてみよ、というので食べたら無茶苦茶うまかった。

軽井沢のひとと話していると、50年くらい前までは軽井沢駅の真ん前に氷室があったという。そこで出来た氷を東京に売っていたそーである。
ゴルフクラブの72やなんかを通ってくる「100メートル道路」は、戦争後すぐはアメリカ軍と家族が東京から避暑にやってくる飛行機のための滑走路になっていて、このアメリカ人たちにも軽井沢の天然氷は喜ばれた。
もっというと1938年にはヒットラーユーゲントの大団体が軽井沢で日独友好の大会を開いたのだそーで、軽井沢の土屋写真館という写真屋さんに行くと、そのときにとった写真を売っている。
いまは軽井沢銀座というチョー田舎臭い名前がついている軽井沢のメインストリートにはハーケンクロイツと日章旗が並んでいて、随伴のナチ将校たちが木陰で寛いでいる写真もある。

野尻湖にいったときに、出かける前の東京で、その昔じーちゃんが別荘をもっていたというスウェーデン系アメリカ人に野尻湖の話を訊いたら、そもそも野尻湖の外国人村はこのときのナチ歓迎の雰囲気に嫌気がさしたひとびとが集団移住したのが始まりだそーだった。
ところで、なんで軽井沢のナチ大会の話なんかをしているかというとそこに集ったドイツ人もかき氷を好んで食べた、というからです。

かき氷は西洋ではビンボくさい食べ物で、あんまり好きな子供はいないと思う。
アイスブロックは好きな子供がいても、かき氷が好き、という子供は少なくともぼくは見たことがない。
むかし、義理叔父と一緒に葉山を散歩していて、義理叔父と従兄弟がおいしそうにかき氷を食べているのを、おえっ、「カルピス」っていうのか、気持ちわりー、と思いながら
それでもお行儀良くテーブルの反対側に座って、ひとりだけコーラを飲んでいたのを思い出す。
後年、「カルピスソーダ」を好物とした無敵十全外人大庭亀夫にして、その頃はまだ「カルピス」というヘンな名前(語感から、なんとなく馬のおしっこのようなものを考えてしまう)と、「空飛ぶ怪物カル」からしぼりとった精液でもあるかのような、ぶ、き、み、な形状とにおそれをなして手が出せなかったもののよーである。
「ポカリスウェット」もそうだが、もうちょっと名前を考えてくれれば初めから抵抗なく飲めたのにー、と思う。
期待の4WDに「Pajero」(マスかき野郎という意味です)と名前をつけてスペイン人・南米人たちを即死させた日本の会社人の命名センスなので、仕方がないと言えば仕方がないが、フランク・マンコビッチに改名を迫って腐らせるくらい名前に関心があるのなら、自分たちが苦心して開発した商品を輸出するときくらい、相手方の国ではどういう意味になるか、くらいは聞いてから命名したほうがよかったんじゃないかなー、とは思う。

義理叔父が熱狂的に好きな宇治ミルク金時も含めて、かき氷をほんとうには好きになれなかったが、いまぼくのいるニュージーランドという国は夏で、夏になると、なぜか「かき氷」のことを思い出す。

「東一番丁
ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん氷を噛む音


死んだおやじが入って来る

死んだ妹をつれて

氷水喰べに、
ぼくのわきへ」

「妹は匙ですくう
白い氷のかけら

ぼくも噛む
白い氷のかけら

ふたりには声がない

ふたりにはぼくが見えない」

「おやじはひげを拭く

妹は氷をこぼす

簾はキラキラ
風鈴の音

あたりいちめん氷を噛む音


死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を

小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと

ふたりには声がない、ふたりには声が

ふたりにはぼくが見えない、ぼくが見えない」

というのは高田渡が曲
https://www.youtube.com/watch?v=TdqtFNliuOM
を付けて有名になった菅原克己の「ブラザー軒」という詩だが、かき氷には、なにがなし、日本の夏を哀切に思い出させるところがあると思う。
セミの声や天にとどきかけている積乱雲、あれはテングサの臭いだそうだが、ぼくにはいつも「日本の海のにおい」として意識される、かすかに生臭いような不思議な海のにおい。
あるいは、イギリスの家ならとんでもない不作法で座敷牢にいれられそうな、縁側に従兄弟と並んで種をぶっ、ぶっ、と吹き飛ばしながら食べる三浦の西瓜。
ぼくが考える「日本の夏」には、いつもそこにかき氷があって、思い出すたびに、なつかしいなあ、と思う。
好きでもない食べ物がこれほど胸に迫るのは、なぜだろうと、よく考える。

ときどき、思い切ってかき氷を台所でつくってみようか、と思うこともあるが、すぐにムダなことだと気が付いて、放射能だのなんだのを思い出して、またむしゃくしゃした気持ちになるのです。

下地真樹さんの拘置は意外な展開で、警察は勾留の延長を決めてしまった。
クリスマスを下地さんは家族とすごせなかった。
しかもオダキン( @odakin)が調べてみると、マスメディアでニューズとして勾留を伝えたのは「日刊スポーツ」だけで、いつもはえらそーなことを述べている日本の知識人や作家もただ沈黙しているひとばかりだった。
良い悪い以前に、これほど恬淡と剥き出しの全体主義へ転がり落ちてゆく日本の姿を見ていると、なにが起きているかまるで理解できないような、狐につままれた、というただそのままの気持ちが起きてくる。

なんだそりゃ、ふざけんなバカという声はさっぱり挙がらないのに、ツイッタやなんかで検索してみると、「どうして下地さん逮捕に声があがらないのか」という「日本人の国民性」についての解説は何百と出てくる。

「当事者意識」というものはなくて、自由も人権も、なんだか他人事なんだなー、と思う。
せめて、「駅前で自治体の方針に反対だと拡声器で述べるだけで逮捕なんて、怖くてやってらんない」という声があがるかと思ったが、怖い、と思うひとは少なくて、下地さんは「偏っているのではないか」というひとが多いようでした。

昔、大逆事件のことを書いたら、「あれはアナキストが引き起こした事件で、きみの言うような自由の弾圧というようなものとは違う」と親切に教えてくれるひとがいたが、なに、もう10年もすれば下地真樹も、たとえ記録者がまだ残っていても、「大衆の支持を得られなかった、はねっかえりのアカ」ということにされるに決まっている。

これ以上書く気がしないが、日本のひとはどうかしている。
クリスマスだというのに、神を祝福するどころか、自分達の手で、自分達の最も基本的な権利を見殺しにしてしまった。
2012年という年は、この先、何十年かしてふり返ると、1945年から65年間をかけて日本人がみつづけてきた夢が、ロシア人にでもアメリカ人にでも中国人にでもなく、自分達自身の手によって、あっさりと葬られてしまう一連の出来事の始まりの年として思い出されるようになるのではなかろーか。
非戦、自由、民主主義という結局は虚構にすぎなかった古い価値というが、次にくる価値を議論しないまま「古い価値」を捨てて生き残れる社会などありはしない。
たかが「自分とは意見が違う一大学教員の勾留」は、実は日本全体を鎖につなぐ巨大な軛になって、のしかかっていくだろうと思われる。

どーすんだろう?
とクリスマスケーキを食べ過ぎた一外国人は、みなが夜空をみあげて新年の花火に歓声をあげながら乾杯しているなかを、ただその一団だけが花火とは反対側の暗闇に歩み行っていく日本人たちの後ろ姿を眺めながら、無力な倦愁にふける。

鮎川信夫が描いた「橋上の人」は、もたざるいっさいのものを求めて、もてるいっさいのものを失うが、日本はまたあの頃に似てきてしまったのだなあ、と思います。
ぐわあああああ。

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