エンコーと長靴

nyc393

エルトン・ジョンは時々はっとするようなことを言う。
マイケル・ジャクソンがベルリンのホテルの4階の窓から子供を抱えてあらわれてdangle(日本語がおもいあたらない)して見せたときに、レポーターが、「ああいうことをする邪悪な人間というものをどう思うか」と聞いたら、憮然として、「徹底的な善人でなければエンターテイナーとして、たくさんのひとを喜ばせることなんて出来ないと、どうしてきみは判らないんだ」と答えたりしていた。
E!チャンネルの、一瞬だけ映ったしょもない瞬間にしかすぎなかったが、ぼくは観ていてびっくりしてしまった。
言われてみれば当たり前な、それほど簡単なことに、ぼく自身、気が付いていなかったからです。

人間はまず第一に善意でなければならぬ、と教わる。
言葉をおぼえるかおぼえないかくらいのところで、もう、誰に接するにも善意でなければならない、ひとには礼儀正しくしなさい、他人を悲しませてはいけない、自分が相手をよろこばせるために何が出来るか一生懸命考えなさい、と言われる。
やってみると判るが、そうやって知らない人にも、きゃあきゃあと笑わせるべきオモロイ冗談を考え、モニを抱腹絶倒させ、なにを考えているかほぼ不明な小さいひとはめんどくさいのでくすぐったりほっぺたぶちゅーをして、きゃっきゃっと喜ばせたりしていると、意地悪なことを考えたり、居丈高になっているヒマなど全然なくて、日本語のインターネットでみかける、「おれのほうがおまえより頭いいもんね」のひとびとは、どうやってああいうひねくれた楽しみにひたるヒマを創り出しているのだろうと不思議な気持ちになる。
もしかすると、初めから全然「生活」なんてしていないのではなかろーか。

さっきのマイケル・ジャクソンで言えば、前に記事を書いたことがある。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/「純粋さ」について/

ぼくは、マイケル・ジャクソンがブルック・シールズと初めてデートしたときの、

“And, man, we exchanged numbers and … I was up all night singing, spinning around in my room, just so happy, you know. It was great.”

という、マイケルジャクソンの子供のような喜びかたが好きで、ときどき才能のあるひとびとが思い出させてくれるように、人間はストレートに善良なのでなければならないのだということについて考えた。

人間の意識は厄介で、その実体が脳のなかに蓄積した言語の自己運動である以上、「洗練」ということを好む知性の本質が発達していれば発達しているほど、本来の目的から離れた言語自身の自己の欲求をみたす運動にはいってゆく。
特に日本語のように主に商業主義によって消費物として扱われてきたせいで、あっちをかじられ、こっちが磨滅し、という散々に弄ばれて原型をとどめなくなったのっぺらぼうな言葉の世界では、
「人間はやさしさである」と言われただけで、頭のなかの「言葉たち」が「ぷはっ!」と失礼な音を立てて笑いくずれているのを感じる。
言葉というものはむかしから良く知られているようにぞんざいに扱われると、斟酌のない無惨な報復をするもので、自分達をぞんざいに扱った社会から、ひとつ、またひとつと語彙をナイフで抉り取ってゆく。

その結果どういうことが起きるかというと、そうした社会では現実と乖離した言葉しかもてず、「まことに申し訳ありません」と深々と頭を下げる会社の役員達をテレビが映し出しても、それを本当に生起したことを悔いている言葉だと受け止める人は、日本語を使うひとのなかには存在しないのではないかと思われる。
80年代に社会的ヒーローとして扱われたコピーライターたちは、もっともらしい、プラスティックな表現を猖獗させることで日本社会全体を衰弱させてしまった。
このあいだ、いまは60代になった有名なコピーライターが、「こころに長靴はいてさ、軍手もはめちゃってさ、ずんずんと現実に踏み込んでいくようなやり方に、いまのぼくは、自然な興味を抱いています。」と述べていたが、見事なくらい商業主義の悪い息がかかった修辞で、「心に長靴をはいて」というような、聞いていて惨めな気持ちになる薄っぺらい表現で、このひとが冨み、名声をうるかわりに、どれだけの人間の心が現実から切り離されてきたのだろう、と考えた。
突拍子もないことを言うと、こういう「プラスティック」な表現には、発語されたあとの相手への効果と計算だけがあって、根本にあるべき善意が欠落している。
善意がないのなら言葉の表現も工夫しない、というか、初めから黙っていそうなものだが、彼らには「オカネがはいる」という動機が存在した。
リクルートという会社ごとコピーライティングをしているような企業があるが、このひとたちが徹夜に近い労働を繰り返しながら、必死に考えて、「フリーター」というような現実を回避するための言葉を生み出したのも動機は、つまるところ、金銭だった。
商業主義的な機縁によって生まれた「フリーター」「ニート」という現実回避語は、やがて社会の習い性になって、「援助交際」というような歴史に残りそうなくらい酷い言葉もつくるようになった。
「少女売春」という古めかしい言葉には、肉体を売ることによって、そのときには意識されなくても、やがて心の奥底に埋め込まれた癌細胞が増殖しだすように、心をくいつくして、自我そのものを破壊するに至る、若い女びとの売春の本質的な傷ましさがちゃんと隠し絵のように埋め込まれているが、「エンコー」には、自尊心を歪めたような奇妙な肉体の姿勢をとらされて、それを現実とみなさず、ただしばらく我慢すればカネになる、という「経験をなかったことにする」のっぺらぼーな苦痛しか存在しない。
しかし、いくら「なかったこと」にしても、口にされなかった言語のほうは潜在意識化でちゃんと自分たち言語に加えられた陵辱をおぼえていて、悪夢からはじまって精神を病ませてくいつくすに至る、周到な復讐を売春の瞬間から始まって死ぬ瞬間まで、「エンコー」の気楽さで「おやじと寝てやった」ことのおおきすぎる代償を払いつづけてゆく。

おおくの人間が気が付かないまま苦しむのは、自分の脳髄のなかで信号として発火する言語は自分に属しているわけではなくて、自分が生まれ落ちた社会や日本語なら日本語の長い歴史に属していることで、言語を自分の意思で使いこなせる人間など、この世界には存在しない、ということを見ないからである。
言語は、普通、可塑的な社会に依存した部分と、言語自体の運動性と、歴史的に堆積した意味、他の語彙と連結をゆるすための論理性とを含有している。
そのうち自分でなんとか制御できるのは論理性の部分だけで、歴史性のある、というのはつまり歴史的に語彙に堆積した情緒や感情、もっと言ってしまえば、過去に生きて死んだ人間たちのため息や悔しさ、あるいは沈黙ですらを包含した部分は、遠くと遠くにあるリード線を無理に近づけて、接触させて一瞬のスパークを起こすと、何千人というひとの目がくらむほどの「美」があらわれるが、そういう契機は言語の専門家であっても、1年にそうそうもてるものではないのが普通であると思う。

マイケル・ジャクソンだってオカネがめあてだったではないか、という人がいそうだと、いま、ふと考えたが、それは言葉の契機も善意もなにも、視力が途方もなく悪いひとのものおもいで、この世界にはどうしてそういう種類の人がたくさんいることになっているのかよく判らないが、せめても自分達だけの論議の地獄をつくって、そこでお互いをののしりあったり頷きあったりして暮らし欲しいと願っている。
なんだか冷たい言い方になってしまうが、むかしは理由があったのでからかったり相手をしたりしていたが、いまは、そういう魍魎じみた蒙昧につきあうヒマはない。
もっと簡単に言うとマイケル・ジャクソンのムーン・ウォークをみて、なお、カネめあてさ、と言えるひとと話なんかしたいと思わない。
言葉を失えば社会は滅びる、とこのブログ記事には何度も繰り返しでてくるが、おもいがけない方角、科学者たちの方角から、言葉を失った社会がどんなふうに滅びるのかを、福島第一事故以後、きみやぼくは目撃することになった。
やがて世界中の人間が「春雨じゃ濡れてまいろう」という言葉を、人間が述べた最も非人間的な言葉として記憶していくことになるだろう。
この月形半平太という架空の幕末の志士の科白として有名になった言葉は、日本の社会の変質を反映して、口にした本人すらそれに気づかない日本社会の底深い冷血を示す言葉として帰ってきた。
言葉の叡知、独立した生命、そうして言葉が社会に対するときの、復讐の、底知れない執念ぶかさを目撃したような気になります。

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2 Responses to エンコーと長靴

  1. Ray says:

    dangle は「ぶらんぶらん」ではなかろーか。オノマトペを幼稚なものとしたことから日本語が力を失っていったんちゃうやろか。

  2. ぜにいば says:

    はじめまして。このブログの新参者です。もう嘗め回すようにあちこち読んでいるなか、何度ここでコメントをと思ったかわかりませんが、やっと落ち着きましたのでひとこと。
    ガメさんの文章は文字通り私のこころの琴線を鳴らしてくれました。自分のこころに楽器があるということが、フィジカルにわかったのでした。また続けます。どうもありがとうございます。
    あ、来週コモに行きます。残念ながら一泊だけですが、ここでたくさんガイドを受け、なんというご縁かと嬉しくなりました。

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