平成日本への道_その6

nyc255

秋葉原がコンピュータの町であった頃は義理叔父は足繁く秋葉原にでかけていたよーである。当時、義理叔父はIBM互換機に用事があったが、多少でもIBM互換機パーツが置いてある店は神戸と代々木に一軒ずつ店があったほかは、秋葉原にしか店がなかった、という。
「秋葉原の店」とゆっても、まだDOS/Vが出るまえで、義理叔父はT3100の日本語版J3100を使っていた頃だと思われる。
初めの普及版IBM互換機、8086にCGAというチョー低スペックではあるが一応日本語OSがついた「東芝ダイナブックSS」が出るのが1989年なので、その前年、というような年のことだと思います。

その頃は、日本でIBM互換機が必要な人というのは特殊な人だったはずで、まず計測機器が必要なエンジニア、これは当時日本で普及していたNECの9801のタイマが文字通り桁違いに甘かったからで、松下電器がつくっていた輸出用のXTを40万円(!)で売っていた店があったそうである。
それから英語で契約書をつくる必要があった人たちで、当時日本でゆいいつ英語ワードプロセッサ(はやくてかっこよかったNisus Writerとかだろーか?)が使えたAppleのMacintoshは強制プロポーショナル(これが暫くビジネス現場でMacintoshが受けいれられない理由だった)だったために、デイジーホイールプリンタやPCにつなげられる電動タイプライターで印刷する必要があるひとたちにとってはIBM互換機が必須だった。
「AX」というような元日本マイクロソフトのひとたち(このひとたちはDOS/V が出た当初は、この利害関係のためにAXを推してDOS/V 互換機の普及を止めようとする。それに失敗して今度はMCAを日本国内で標準化するために書いた記事をわしは古雑誌で読んだことがあるが、内容は言わないことにするが抱腹絶倒です)が全面的にバックアップしていたAXは使い物にならなかったので、だいたいはJ3100を使ったよーでしたが、安いもので40万円、高いGTになると100万円を越えたのでおいそれとは手がでなかった。

もちろん2バイトコードは通らなかったわけで、この頃、ひとつのコンピュータで日本語と英語の両方を扱おうと思うと、

1)アップルジャパンから漢字Talkいりのマッキントッシュを買う
2)英語版のマッキントッシュをどこかから手に入れて特殊な日本語ソフトを買う
3)J3100
4)PC9801のワードスター、ツインスターを購入する
5)AX
6)韓国製のIBM互換機用の2バイトコードワードプロセッサ

と、ざっと、6種類くらいの方法があったと思われる。

義理叔父の家で見たことがあるが「漢字Talk」というのはひどいOSで、というよりもメモリに常駐するには当時のメモリ空間は小さすぎて、すぐに「爆弾」(なつかぴー)がでる。当時のメモリは二メガで10万円というような値段であったはずで、殺人的な価格になったと思われる。
なぜかというと、よく見てみると日本語が24x24ドットという当時の標準以上の精細度で印刷しようと考えるとレーザープリンタしかなかったはずで、このレーザープリンタは英語世界でも100万円はしたはずな上に、漢字フォントを流し込むとすると、増設メモリも必要で、数えていてもいったいいくらカネを使えばちゃんと日本語が「使える」だろうと思うと300万円というような金額が思い浮かぶ、吉原のソープランド通いでもそんなに蕩尽できんわ、の経済になりそーだからです。

2)は、感心した。
A&Aという会社が出していた「スウィートジャム」というソフトウエアで、これは閃いているというか、おちょくっているというかな思いつきを商品化したもので、2バイトコードの文字が1バイトx2で出来ていて、それはどういうことかというと直覚的に判りやすく述べればバックスペースキーで文字を消そうとすると文字が「半分づつ」消えてゆく(^^)
でも英語版の1バイトコード用に出来たソフトウエアでも、この方式なら日本語が使えるわけで、意表をついて、おもしろい考えだったと思います。

義理叔父の「私設コンピュータ博物館」でこれを見て、わしは正見、カンドーしました。初めのバックスペースで「つくり」が消え、次で「篇」が消える。
欠点は変換の精度が悪いことで、ちょっと100文字ぐらい書いてみたが、これで長い文章書くと発狂するよねー、という感じの変換精度でした。

3)が、だから最もよかった。
義理叔父の友達のSさんは、J3300
http://www.cbronline.com/news/toshiba_brings_out_the_j3300_desktop
というJ3100のデスクトップ版をもっていて、386DXの25
MHzのこの「バカッぱやい」コンピュータは、いまでもプレミアムがついているという伝説のあるキーボードとあいまって義理叔父たちの垂涎の的だったようです。

4)は、一見、「それでいいやんね」に見えるが、実際に9801用のソフトウエアを購入した義理叔父によるとワードスター(たしか5.0)が68000円、ツインスターに至っては、「35000円のVJE-PENちゅう日本語ワープロにワードスターの2.0(!)くっつけて11万円だぜ、やってられるかよ」と義理叔父がゆっていたが、わしは返す言葉がないので、ただ内心「アーメン」と呟くだけであった。

余計な事を書いておくと英語人がみて感じるのはこのころワードパーフェクトに押しまくられてマーケットを失いまくっていたワードスター社は、こんなところ(とゆっては失礼ですね。日本のことです)で市場をみいだそうと苦闘していたのかあー、ということで、2.0まではワードカウントすらなかった慢心商売をしていた会社の末路を見たようで感慨深いものがあった。

5)は義理叔父やSさんによると「ダメダメダメダメのダメえええええー」な規格だったそうでEGAをJEGAボードという訳の判らない拡張ボードで拡張したところがすでに技術的にはNECが遙かむかしに切り開いた道のドヘタなものまねで、これをすすめようとおもった日本マイクロソフトはばかたれというか、技術音痴というか、信じられないというか、なんとゆえばいいのか、わしにはわかりません。
おまけに物好きな義理叔父が買ったシャープ製のAXは50万円もしたそーである。

公平を期すために述べると、わしが見たAXコンピュータのなかではQuarter Lというデスクトップは悪くなかった。コンピュータの文法にかなっていて、ちょっといいな、と思ったのを書いておきます。

6)は、どうやらミナミ電機のあとをついで秋葉原のボスにおさまった亜土電子(TZONE)社長でチップ商人たちの大親分「カナヤマさん」が半島人であったことから生まれたもののようで、1バイトのソフトウエア上で2バイトコード文字の表現を可能にするパッチソフトウエアのようなもので、考えてみると、メモリ空間のなかでconfig.sys上のドライバの体裁をとっていたDOS/Vの原型と言えなくもない。
義理叔父の常にあてにならない証言によると、TZONEでだけ売っていたようでした。

いまの日本のITハードウエア産業は見るかげもない、というか無惨に敗北した産業の荒涼そのものだが、義理叔父の力を借りて、いろいろとみてゆくと、1990年初頭までは、わしが見て、おもしれー、と思うハードウエアがたくさんある。
たとえば富士通の16πというコンピュータがあって、この1985年に発売されたコンピュータは8086Lを載せて、2000ラインの液晶画面がついて重量はたった3キログラムしかない。わしがこのコンピュータで特に気に入ったのはマイクロカセットを記憶媒体に選んでいることで、突拍子もない、と思うひとがいるかもしれないが、1985年という時点の技術水準を考えると、これは3キログラムのコンピュータに内蔵させる記憶装置としては良い考えであると思う。
日本ではそういうフェーズはついざ起きなかったが1985年にはアメリカのビジネスマンでも自分でプログラミングして自分の「サイドキック」風のプログラムを使って仕事をするひとがたくさんいたはずである。
このコンピュータを仔細に調べると、しかも言語が取り外しの出来るロムになっていて、ベーシックとコボルがあったようだ。
コボルがある、というところで、ついに現実には生じなかったマーケットではあっても、どんなマーケットの出現を夢見て技術者がこのコンピュータをつくったか判る。

1989年にはエプソンが9801互換の、DOS2.2をロムに内蔵させた、2.2キログラムしかない「偉大な」と形容したくなるようなPC286NOTE executive を出しているし、
1991年には富士通が単3二本で動く、たった530グラムのオアシスポケット
http://ja.wikipedia.org/wiki/オアシスポケット
をだしている。

Sさんというひとは面白い人で、DOS/V互換機の黎明期にチョー重要な役割をはたした人だが、名前をだしたらガメくん、絶交なんだからね、というので、名前も本人を示唆することも書けないが、日本がパラダイムシフトとしての(繰り返し述べると表現としてダサすぎるので何とかならないかと思うが)「IT革命」を起こせずに失敗したのは、QWERTYキーボードになじみがなかった、という、単純な理由もあるんだよ、という。
いまは、みんな忘れているだけでね。

ぼくは店頭に立って、どんなひとがコンピュータを買っていくのだろうと思ってリサーチしたこともあるから知ってるんだけど、40過ぎくらいのひとになると「ABC順のキーボードはないのか」というひとも結構な数で存在した。
それと実は同根だと思うが、「小説は肉筆で書かなければリズムの点でダメだ」というひとは多数派だったんだ。
日本で最も早くキーボードで小説を書いたのは安部公房だが、そこから猫も杓子もデジタル機器で原稿を書く、いまに至る道程には、たとえば井上ひさしという人はサン・システムズのコンピュータで死ぬまで小説を書いていたのだけけれどね、このひとは死ぬまで、サン・システムズのコンピュータを売っていた富士通の部隊が「井上ひさし辞書」を徹夜作業を重ねて、つくっていたのを知らなかっただろう。

え?そうだよ。
当時はね、有名なひとが買ってくれそうだとなると、サンOSの日本語変換ソフトなんて全然ダメだから、その人が書いたものを全部読んで、変換キーを1回押すと、そのひとの好みの語彙が先頭に現れるように辞書をゼロから作り直すなんて当たり前だったのさ。

と、すごい事を言う。
ガメは、知らないだろうけど、T芝やNECの「コンピュータ研究セクション」でも、いっかい送られてきたファイルを印刷するんだよ。
それで、その印刷した紙が他部署に運ばれて、それをまた「係」のタイピストがタイプしてコンピュータにいれなおす。

そんなふうだったんだ。
ブラインドタッチで、どんどんタイプしてゆくエンジニアは変わり者の「現場主義者下士官」みたいにみなされて、職場の「英語屋さん」同様、なんだか特殊技芸の人で、会社のなかの人前でそういうことを平気でやる人間は、やはり人間的にどこか狭量な所があるとみなされたと思う、

とおそるべきことを言う。
Sさんによれば、「コンピュータが得意」な人間などというのは、なんとなく胡散臭い人間で、そんなのを会社の幹部に昇進させるとエライことになる、というのが常識だったというのです(^^;)

日本がこのあと、というのは1990年代のまんなかを過ぎるあたり、悪口を言うひとがいっぱいいるのは知っていても、わしが考えるには当時(Apple OSも含めて)すべてのコンピュータOSよりも数段すぐれていたと思われる「Windows95」のリリースを境に、坂を転げ落ちるように、というか、ほとんど凋落の自由落下の速度で、ITにおけるハードウエア産業を失ってゆくのは、日本で売れたものを海外市場で売ってゆくという国内−>国外の、日本の大企業に特徴的な「予選決勝方式」と、日本国内の消費者の「コンピュータは胡散臭い」という、あくまで趣味としてしかパーソナルコンピュータを理解しようとしなかった風潮とのコンビネーションであるように見える。

「一流の人間はパーソナルコンピュータを相手にしない」「コンピュータを使える人間は職業人として、あるいは人間としては二流三流の人である」という日本では長い間常識であった信念は、日本人全体を「パラダイムシフトとしてのIT革命」から遠ざけていきます。

こうやって書いていると、「どうしてこのひとはたかがコンピュータの変遷に1回全部を費やしてしまうのだろう?」と思う人がいるに決まっているが、それはおいおい、大庭亀夫にやる気があるものならば、あとの回になるにつれて、あきらかになってゆく。

この「コンピュータとQWERTYになじめなかった」という事実が以外なおおきさと契機になって、日本の衰退を引き起こす、そのことを、また戻ってきたときに説明したいと思います。

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One Response to 平成日本への道_その6

  1. AgathaChrio says:

     日本語と英語を一台のコンピューターでという願望を持ち出したのはちょうど1989年ころでしたが、その少し前の頃はまず 目先の仕事を終わらせることばかり考えていて、安定した98の一太郎で仕事をしていました。
     ワープロにはなぜか親指シフトから入らされました。親指シフトキーボードの富士通の9450Σというトイレに行っている間にフリーズするひどいのを使わされて懲りたので、自分用には標準的なツールとしてPC-9801VX21上で一太郎Ver3に親指君(大きなキーボードだった)をつないで使っていました。 その後ローマ字になりました。QWERTYはたぶん98上のTyping Tutorというソフトで練習しました。
     文献の一覧を作成する際、日本字とローマ字が混在する場合に、頭を切り替えるのに親指シフトは向いていたように思いました。reference manager を使い始めたのは94年くらいでした。英語版で日本語は入力できませんでしたが(日本字入力がもう要らなくなった)。
     黎明期の方々のご苦労を知らないまま仕事が一段落して、コンピュータ自体への興味が増してきたところに出会ったのが東芝のJー3100SSでした。青白液晶でしたし日本語の表示は98に比べてとくにスクロールでは明らかに劣っていたし、日本語変換もたぶん辞書がROM上にあったためか学習したものが毎回消えてしまったのですが、キーボードが同時期の98noteより圧倒的に良かったのとIBM-PCのゲームができるということで使い始めました。最初にやったのが艦隊決戦物の”Harpoon”でソビエト国歌のカッコよさについついREDでプレーしておりました。そのあと、”Life & Death”という手術シミュレーションゲーム。青白液晶なので現実感が無くてよかったのかもしれません。盲腸の手術までは旨く行きましたが、腹部大動脈瘤へのダクロングラフトはとうとう成功しませんでした。すわ不整脈!すわ血圧低下!など麻酔科医の仕事も執刀医たる自分でやらないといけないゲームでした。
     DOS/Vが出たらさっそくPS55note (5523S)を買いました。これから互換機たくさん買いました。
     懐かしいのでいろいろ書いてしまいました。長文失礼いたしました。
     次回以降の展開が楽しみです。コンピューターの話はもしかして終わりかもしれませんが。

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