社会の自由はどこからくるのか?

nyc183

橋下徹というひとは書いてあることを総合すると「弁護士資格をもつテレビタレント」であるらしい。大阪では地元の長きに渉る問題である暴力団問題に初めて手をつけた勇気が買われて、ゆるがない人気があるようだ。
それ以上のことは何も知らないのに橋下徹という名前をもちだしたのは、このひとが国政選挙に「維新の党」とかなんとかいうチョーださい名前の政党を率いて自分は地方の首長を努めながらなんとか国政を牛耳りたいと願う選挙運動の途中で、「いくらでも議論は受けて立つ。ぼくは喧嘩は強いんだ」と言ったというので、それはおもしろい、と考えた。

カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーが「ぼくは喧嘩は強いんだ」と述べたとすれば、テレビの前のひとびとはバドワイザーを口から鼻から下品にもふきこぼして大笑いするだろう。
隆々たる筋肉とは別に「喧嘩」と「議論」はふたつのまったく別のことだと、ばっかなラップにーちゃんたちでも知っているからで、喧嘩ならこっちのほうがはやい、と腰の拳銃のクリップに手をやってふざけたりするだろう。

議論は終点をにらみながらするものである。
典型的なもので言えば、ナチが大陸を制圧して、スウェーデンも圧倒的な親ナチ、オランダもナチ支持、イギリスでもナチは大人気、戦力はナチの3分の1以下、アメリカ人もナチの広告塔リンドバーグの演説行脚のせいでナチ支持の声が広まっているときに、どうすれば生き延びていかれるか、というようなときに「議論」は行われる。
途中で口喧嘩になるのは勝手だが、時間の面からみて、そんなことは着々とブリテン諸島侵攻準備をすすめるナチに手をだすだけのことなので、本題に戻らなければどうにもならない、なんとか現実的な解決策をみいだすしかない。

古代ギリシャ人は喧嘩と議論の区別がつかなかった。
ただ相手を言い負かすことが議論の腕だと信じたせいで、どれもこれも国ごと滅びてしまった。
生産性のない議論を軽蔑して、「ギリシャ語を学ぶのはよいがギリシャ人の政治における議論の態度を学んではならぬ」と子供達に言い聞かせたローマ人たちに、社会としての叡知が較べるまでもなく欠けていて、抗すべくもなかったからです。

その頃以来、中身の人間がすっかりいれかわったいまになっても、ギリシャ人と言えば「結論がだせない国民」の代表のような印象になってしまっている。

日本の人の「議論」もまた、同じようなもので「罵倒芸」という「芸」まであるそーだ。トーダイおじさんのひとりのMさんが「日本人てのはね、ガメちゃん、プロレスと戦争の区別がつかない国民なんだよ」と言っていたことがあったが、言われてみれば上田馬之助がダブル・リストロックを決めるのも、MRVの雨を浴びながらその半数をパトリオットで破壊してみせる防衛戦略を議論するのも口調が同じであるよーな気がしなくもない。
罵倒「芸」という言葉にあらわれた、日本人に一種独特の自分だけは距離をおいたケーハクさは、要するに現実への感覚の無さなのだ、ということがよく判る例でもある。

日本が戦後、民主主義の完成と発展に失敗したのは、要するに民主主義がアメリカによってもたらされた「洋モノ」であったからであるらしい。
憲法もお仕着せであるから変えなくては仕方がない、という。
機能してるんだったら、誰がつくったんでもかまやしないんでねーの?と思うが、誇り高い日本人としてはそういうわけにはいかないらしい。
いまの安倍晋三内閣の勢いでいくと憲法も改正され国防軍が誕生し、戦後民主主義の物理的な遺事は、何から何まで徹頭徹尾戦後民主主義的な教養で一身をつくって、若いときには、民間出身の美智子妃と一組になって、朝刊に琉球2紙を含めてくれと要求して一歩も譲らず、昭和天皇や宮内庁と険悪な関係になるほどだった今上だけになりそーな皮肉な形勢である。
軽井沢会のテニスコートでの出会いばかりが有名だが、このふたりは、その出会いにおいてよりも、その後の付き合いにおいて、天皇家内の「ふたりだけの自由主義秘密結社」とでもいうべき存在で、たとえばお互いの理解を深めるためのデートは六本木のピザレストラン「ニコラス」ですごしたりした。
当時の「ニコラス」は簡単に言えば外国人たちのデートの場で有り、フランク・シナトラのようなアメリカの芸能人たちが東京にやってくれば必ず訪れる、ざっかけない空気の料理屋であり、一方ではタイと東京を往復する元米空軍パイロットの麻薬の運び屋や半島人が結集する大アジア主義の暴力団町井久之が率いる東声会(東洋の声を聴け、という意味です)や稲川会が出入りする「悪徳の巣」でもあった。
宮内庁が特に天皇家を守る気のない左遷役人の行き着く果てになったいまでは、週刊誌の餌食になるに違いなくて、考えられないことだが、当時は宮内庁はまず満席になるまで宮内庁の役人と警護の人間数を送り込みつづけて居座らせ、ニコラスの客席を自分達の人数で満席にしてから、おもむろに今上カップルをレストランに送り届けた。
今上がデートにあらわれるときには、ピザを初めてみて目を白黒させている刑事が、箸はないのか?と店員に訊いたりしていて、いつもの華やかなアメリカ人たちの服と異なる、ねずみ色の背広が店内を埋めて、異様なことこの上なかったそーである(^^;)

(余計なことを書くと、創価学会の飲食店における警備方法もほぼ同じで、軽井沢は創価学会の一大金城湯池だが、池田大作会長が近所のコーヒー屋に朝ご飯を食べに行くとなると、40台くらいも自転車がぞろぞろあらわれて、まずコーヒー店を満席にする。
「だからさ、池田先生ってのは、すごくいいお客さんでさあー」とコーヒー屋のおっちゃんが愉快そうに述べていたという(義理叔父談))

もう歴史的役割をはたしたのだから、それでいいのさ、とぼくは思うが、日本はアジアにおける民主主義国、という役割を他国に渡しつつある。
かつての日本は、まがりなりにも民主主義を標榜する、アジアのなかではゆいつの国で、そこに「価値」があった。

CBDを通行するバスのなかで6人のギャングにボーイフレンドと一緒に乗っていた若い女びとが目の前で強姦され殺されるという事件に怒ったインド人たちは、街路を埋めつくして立ち上がり、死んだ「自分達のひとり」のために制圧に乗り出した警官隊と激しく争った。
政府や首相が必死になって陳謝し、事態の改善を約束してもまったくダメで、インド人たちは昼には怒りの拳をつきあげて投石し、夜には路上に皆で集まって、ろうそくを灯して、女びとの無惨な死を傷んだ。

この事件に対して西洋人のコミュニティがざわざわと音を立てているのは、「インドの性犯罪のひどさ」のせいではない。
もちろん、日本の評者のように「女びとのスカートが短すぎて挑発的だったかどうか」を論議するためでもありません。

前にも何度か書いたことがあるが、西洋ではインド社会の「性的粗暴」は有名で、白人女性は白昼の人通りの多い街路でも胸をつかまれたりするので気を付けるように、というようなことは気の利いたガイドブックならどれにでも書いてある。

日本では「インドは性犯罪への対処や女性への権利の尊重という点でまだまだ遅れている」というような論調が多いようにみえるが、西洋人の反応はやや異なって、フォーラムでみると、まず「インドの民主主義の成熟」というような言葉が目に付く。
中国では暴動が年中起こっているが、報道されるようなものは「官製」で政府の指示によるものであることは誰でも知っている。

ところが今度のインドの街路を埋めつくすひとびとは「自分達のなかのひとり」が無惨に強姦され殺されたことに怒りをもって立ち上がったひとびとの行動で、「待てないから立ち上がったのさ。政府にまかせていたら何年かかるか判りやしない」とインタビューに答えているひとがいたが、その通りで、社会に民主主義の原理が働いていれば当然起きることが起きただけであると思う。

あるいは香港でも梁振英の辞任を求めて13万人がデモを行った。
巨大な全体主義国家中国のすぐ隣にありながら、怖れもせず、「返還から15年経ったのに中国政府による締め付けは厳しくなる一方で約束が違う」と言って香港人たちは怒っている。

何れも民主主義が体にしみこんだひとたちの態度であって、「いてもたってもいられないから外に出てきた」ので、政府を打倒するために出てきた、というのとは異なる。

日本でも福島第一事故のあと金曜日の官邸前を中心にデモが生まれかけたが、ひとつには「仕切り屋」としての能力を発揮した「主催者」への反撥から、ひとつには「政府の打倒もめざさず、暴力もなく、ただ烏合の衆の集まりで叫んでいるだけ」という日本特有の「知識人」のクールな知性から生まれたお言葉にあらわれる「こんなデモはお子様のもの」といういつも道理の「玄人発言」に負けて、いつのまにか問題にならない規模に雨散霧消してしまった。

民主主義が発達していかなかった社会では個人のなかでの自由の内圧が低いので、街路での運動は常に過剰に組織化される。あるいは傍観者の「知識人」「ジャーナリスト」、参加者ともに過激化を渇望する。
実際には単純に個人が個人という全体としての精神のまとまりをなしていないために、個人と銘打ってはいても社会の部分でしかなく、部分であるがゆえに「組織化」という「部分としての自分がはめ込まれる全体」を求めているにすぎない。
十分に民主主義的でない社会では、そうして、常にセクト化への衝動が社会運動のなかで起きつづける。

おおきく眺めるとアジア全体の「民主主義」や「自由社会」の総本山は日本からインドに極が移動した、ということが出来ると思う。
個人からみると、実は、インドはまだまだ日本の半分ほども自由が「保障」されているとはいえない社会で、女にうまれつけばなおさら、都会の男に生まれついても、繁文縟礼が猖獗する官僚制度や前近代的な警察のせいで、個人がおもわぬ事態に遭難する可能性がたくさんある社会です。

しかし、多分観念的なもの思いや「議論」にとらわれすぎることからくる混乱から自由の価値を自分で否定してしまったようなところのある日本の社会に較べて、インド人たちの自由の価値をつかみとろうとまっすぐにさしのばされた手は、より本質的な「民主主義」に向かってのばされている。人間が自由である、ということについての日本のひとに千倍する欲望がある。
考えてみれば当たり前のことで、個人がさして自由を望まない社会に、いつまでも自由がのんべんだらりと逗留しているわけはない。

「戦後民主主義はアメリカ人という勝者であった他人から与えられたものだから、ありがたくない」という意見にも一理はあって、いま日本の歴史をふりかえってみると、結局、自由というのはアメリカ軍のレーションパックにはいっていた見慣れない嗜好品のようなもので、食べてみると甘くておいしいが、どうもピンとはこないな、という程度のものだったのかもしれません。
さっきお友達のオダキン先生odakin_tumblrの手に導かれて日本のインターネット世界を眺めて歩いていたら、「まだ放射能ネタやってんのか、もう飽きたよ」いうようなことを書いている人がたくさんいて、年が変わったので福島の事故はすっぱり忘れて楽しくすごそう、という趣旨のようで、まことに慶賀すべきと思うが、いちども民主主義の価値が深刻に検討されたことがない証拠に正しい意味での議論というものが日本では起きることがない。
起きても口喧嘩で、「罵倒芸」にすぐれた個人や、以心伝心の集団サディズムがお家芸の国民性なのは、「まだやってんのか、バカなんじゃね」と言われながら、相変わらず愚直に両腕をふりまわして集団サディストの群れのなかにがむしゃらに殴り込んではボロボロになって戻ってくる内藤朝雄や、折れてしまいそうな魂の背骨をまっすぐに匡して、瓦礫の拡散をとどめようと懸命に腕をひろげて立ちはだかろうとする下地真樹もじもじ先生の身の上に起きていることを見れば、このうえもないわかりやすさでみてとることができる。

日本という社会では「必要以上の自由」を求める人間は常に孤立無援で、社会的信用を失うものだと決まっている。
そうして、どれほどの自由が必要かは、常に「オカミ」が決めることになっている。
それがなぜそうなのかは、いくつもの宿題が並行して机の上に載っている、このブログ記事のまわりで、きみとぼくが、一緒に考えてみるべきことなのだと思います。

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One Response to 社会の自由はどこからくるのか?

  1. AK says:

    日本では喧嘩と議論の区別が希薄なようだ、との観察は確かにそのとおりで、実はそれは民衆側も権力側も変わりありません。
    古来より日本の地では「自分自身の思うところと信じる所を述べる」ことは命懸けの行為であり、上訴は死罪、仇討ち上等、でございました。それから百年千年、この度の下地准教授の捜査令状逮捕にもかかわらずの処分保留(不起訴)釈放という結果は、IT時代による彼の知名度と支援の声にも助けられた吉事であったと思います。

    またインドと香港の民主主義について考えてみますと、そもそも「インド」という概念は大英帝国が創りあげたものですし「香港」に至っては大英帝国租借植民地が原点であるわけで、こうしてみると彼らこそが、民主主義という旧宗主国の文化DNAの正統なる継承者であるのかもしれません。
    日本は植民地とは(一応)なりませんでしたので、これからも英国流を参考にしながらも独自に苦闘していくことになると思います。

    さて私は常々、この日本の地においては、「言論の自由」(Free Speech)などといういささか形骸化した言辞あるいはスローガンではなく、「自分自身の思うところと信じる所を述べる」とするのが良いと考えております。
    罵倒することしか「芸」の無い者には、「自分自身の思うところと信じる所を述べる」ことなど到底出来ないことでしょう。

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