「時間を取り戻す」_中間篇

なにもすることがないヒマな時間というのは睡眠の時間に似ていると思う。
5周期にわけて考えられる睡眠中になにが起こっているかは、固より、まだ誰にもわからないが、脳内では睡眠が記憶の整理に使われていることや、あるいは免疫システムのなかでは、たとえばTNF
http://en.wikipedia.org/wiki/Tumor_necrosis_factor-alpha
のようなものは特に顕著に睡眠中の産生量が増えることが知られているが、こんなところでエラソーな顔をして、そんなことを述べることには意味がないので省く。

睡眠が「おやすみの状態」であるというのは人間の体について知識をもたなかった頃のいわば野蛮未開な状態の人間が目が覚めているときの自分の体の活動についての印象をもとに誤った類推をおこなったのにすぎなくて、人間は眠っているときといえど結構忙しいのだ、ということを理解すればことたりる。

「ヒマな時間」に人間の脳はなにをしているかというと、狩りで動物を追い詰めるような即物的な頭の働きから離れて、自分の頭のなかに充満している語彙の集合と、言わば「交渉」しているのだと思われる。
交渉、がわかりにくければ閲覧しているのだといいなおしてもよい。
脳髄がほとんど脈絡なしにとりだしてくる言語化された記憶を一個づつ手に取ってみて、ああ、そう言えば日本ではクリスマスケーキがフルーツケーキではなくて、スポンジケーキだった、ブロンプトンは荷台にどうして錆びやすいスティールを使うのだろう、イギリスの工業というのはドイツに較べて材質ということについて鈍感であるよーな気がする。

でもモスキートは傑作だった。
なにしろ、あの木で出来た飛行機は家具製造会社がつくってたんだからな。
あのドイツ人たちが戦闘機でも追いつけなくて悔しがった双発機は実は「空飛ぶ家具」だった。

魚によって違う色のルアーを好むのはなぜだろう?
同じ鯛でも赤いルアーが好きな鯛と青いルアーが好きな鯛がいる。
スロージギングとオーストラリア人たちは宣伝しているが、あの「スロージギング」は実は日本の装飾的なルアーというだけのことである。それを模倣して、ゆっくり船が揺れる動きだけで魚が食いつくのを発見したからといって、自分達が発明したかのように「スロージギング」と言い立てるのはどうかと思う。

コンコルド広場は前には「革命広場」と呼ばれていたが、グラシアにも革命広場がある。フランス人にとっては革命は自分達が歴史に刻んだ輝かしい1ページだが、カタロニア人にとっては自転する非望だった。
革命どころか、1970年代までフランコとカトリック教会に首根っこを押さえつけられて革命どころか通りに広がってデモをすることすら許されなかった。
カトリック教会はカタロニア人たちが町で自分達の踊りを踊ったり、自分達のカタロニア語を話さないように監視した。
その時代でもカタロニア人はみな「革命広場」に出かけて、小さな声でいつかカトリック教会やフランコの政府に復讐することを誓い合っていた。

語彙は論理圧力がなければ脈絡を音で決めていると思う。

個人がもっている語彙の表層というのは「忙しさ」が圧力になって働いていて、ちょうど、液体の容器に高い圧力をかけていくと液体の分子が液体から飛び出して気体化してゆかないように、液体のなかにとどまって論理のベクトルにしたがってお行儀良く並んでいる。

「忙しさ」というのはつまり時間が不足している状態で、時間が不足すると言葉のがわでは焦点の近い手元の問題を解決するために論理性のベクトルが強化されて語彙がもっている歴史性や夾雑物や長い間に蓄積された社会的な情緒のようなものは抑圧されてゆくことになる。
おもいきり乱暴なことをいうと、時間のない状態の頭のなかでは言葉は極端に観念的な論理の記号のような役割のみをはたすようになって、細部、というか、現実がべったりとついているほうの「意味に濡れた部分」は切り捨てられる。

その結果がどうなるかは、簡単にわかることで「絵に描いた餅」と「現実の餅」が同じものであると錯覚されるようになるだろう。
「絵に描いた女びと」と「現実の女びと」と言った方が腑に落ちるひともいるかもしれない(^^)

二次元の女びとが性的な意味においてすら日本で人気があるのは、(きみは笑うだろうが)要するに日本のひとには「現実とゆっくり付き合う時間がない」からにしかすぎないのではないか。

学習塾が子供にもたらした影響は、日本の人が考えるよりも大きかったと思う。
日本の社会をまるごと破壊するに至ったのは特に都立高校が崩壊して以後の中学への進学競争に伴って起こった「学習塾に小学生の子供を通わせる習慣」だったのではないかと、ぼくは真剣に疑っている。
学習塾のことについて前に記事にしたときには、「学校の先生はダメだったが塾の先生は好きで、そのひとのおかげでいまの私があるんです」という意見がおおかったが、
ぼくが学習塾が問題なのだ、というときには、調べたときには実名である進学教室内が教師たちの生徒との未成年性交の温床化している問題を打ち明けるひとが何人もいてぼくを驚かせたが、そうではなくて、「子供からヒマな時間を奪うことの恐ろしさ」について述べたつもりだった。

子供の意識はおとなの意識に較べて遙かに稠密なので、子供の一日はオトナの一日に較べて感覚的に言って5倍から長いと思われる。
そのただでさえ長い時間のなかで、たとえば、夏の雨に降り込められた退屈な午後、自分の頭のなかに宿っているあれこれの言語化された経験と交渉する時間をもつことが子供が育つためには絶対に必要である。
子供がやがてそれにすがって生きてゆくことになる「自分が自分であることの感覚」をつかむには、いてもたってもいられないほど退屈な時間のなかで、自分という得体のしれないものと向かいあってすごすことが不可欠であるのは、ほぼ直感的に明らかであると思うが、おもしろいことに、日本の親たちはそう思わなかったもののようである。

時間を奪われた子供は、自分が自分であるという感覚をつかめないまま社会へ出て行って、そこで自分を発見しようとする。
それは心がおとなになってしまっている以上、まったくムダな努力だが、とにかく自分が自分になってもらわねば生きている心地がしないので、終いには相手の男や女にそれを求め、酷い場合には仕事に自分を発見しようとするひとまである。
悲惨、であると思います。

あるいは日本の企業は社員が奪われても気が付かないものなら、なんでも収奪しようとする明瞭な悪意をもっているが、時間はその典型で、F通という会社などは自分で出勤時間を選べる「フレックスタイム制」を導入したら、社員が会社への忠誠を競って出勤時間がどんどん早くなって終いには朝の7時半くらいにくるようになってしまい、おまけに帰りはむかしのまま終電近い時間なので、労働時間が盛大に長くなって会社は濡れ手で粟の喜びにひたったという。

このブログ記事で何度も何度も書いたように日本の政府は、あちこちでだぶつかせておいた「余剰な予算枠」が目減りしていくに従って、税法の運用を厳しくし、それに伴って、約めていえば、いま国民ひとりひとりの個人預金というポケットのオカネに手をつっこんで握りしめているところだが、この握りしめた国民個々の資産を収奪しにかかるだろう、とおもっている。
これも前に書いたことの繰り返しになってしまうから仕組みそのものは書かないが、国民の懐のオカネを国家の手で費消するにはまずインフレーションでなければいけないのはあたりまえで、それを「景気回復のための経済目標」と言い直すところに日本の政府官僚の相変わらずの頭の良さを感じる。

個人の持つオカネをどんどん使い込む一方で、日本の社会の伝統、いままでも世界中にそれで日本が有名であった「国民からの時間の収奪」を再び強化するだろうと、思う。
日本は中央官庁でさえ「月30時間までの超過労働時間の申告は可、それ以上は不可」という口頭の通達をだして、それですんでしまう国なので、民間企業などは言うまでもない。
強固な被雇用者保護の社会的伝統が緩むにつれて、すでに「社内での生き残り」という方向へ考えの転換を余儀なくされている会社員たちに日本のような社会で「人権」などというと皮肉な一瞥をくれられて終わりであると思う。

前に「時間を取り戻す」_経済篇
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/「時間を取り戻す」_経済篇/
というヘンテコな記事を書いたが、
こういう時間の収奪が何を生んでいるかは、もっか、へろへろと書いたまま、ほうっぽらかしにしてある
「時間を取り戻す」_社会篇
で、少しは他人が読んでもわかりやすいように付け足して述べたいと考える。

日本がつくりあげた、この、社会が個々の人間から時間を収奪する精緻なシステムを考えることを、ぼくは重要なことだと思っている。
子供の時から時間を国家が吸い上げてゆくというシステムは、いまは日本にだけ特徴的なシステムでも、中国や韓国が、日本の模倣をして同じことを始めているからです。

個人の側からは時間を収奪されてしまえば恋愛などはやりようがなくなり、多分、日本で言う「合コン」「婚活」のようなものに置き換えられ、余剰な時間は、細切れであるゆえに、インターネットのブラウジングや、短時間で読める本、あるいは少しだけ遊んでいつでもやめられるゲームで埋められるようになると予測できるが、実際に調べてゆくと、どうなのかはまだわかりません。

案外と意外な生き延び方を発明して、のんびり息をついている人がおおいのかも知れず、どうなるか、いまから楽しみにしているところです。

(画像は洋上から見たオークランド湾口の灯台。むかしは、この小さな孤独な建物に人が住んでいた。そういう暮らしもいいな、とときどき思いまする)

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