国を出るひとびと(1)ベトナム

waikato

ベトナムからのボートピープルは北ベトナムによって武力統一されたベトナム政府の「中国人排斥運動」だったのはいまではよく知られている。
ベトナムは、インドシナ半島ではむかしから第一位の大国で、しかも圧倒的な人口密度と進取の気性から絶えず外側への膨張圧力をもっていた。

ボートピープルが起きた頃(1970年代後半から1980年代)のインドシナ半島を眺めてみよう。

中国政府に支援されたポル・ポト政権が密林のテーブルの上に地図を広げて計画した妄想に近い観念の産物だった、簡単に言えばカンボジアは米の国だから都市の「遊民」(というのは知識人・教師などを含む)をみな田んぼのある田舎へ移動させて米作に従事させればよい、という「大下放政策」の失敗と、当時600万人弱といわれた人口のうち、欧州の通説で150万人、ベトナムの主張によれば300万人が殺された「キリング・フィールド」
http://en.wikipedia.org/wiki/Killing_Fields
の露見とで崩壊の危機に追い込まれたカンボジアをベトナムはヘン・サムリンを傀儡として半植民地化する。
日本では少し違う話になっているのは承知しているが、かまわず話をすすめると、
インドシナ半島ではフランスがドイツにぼろ負けに負けてアジアまで手がまわらなくなった隙に日本が火事場泥棒そのままの慌ただしさでインドシナに進出するが、頼みのドイツが負けてしまうと、当然の帰結によって日本もまた連合国に敗退してしまう。
フランスがいなくなると、この地域で圧倒的に膨張要因をもっているのはベトナムで、豊かな南ベトナムを武力併合した貧しいが武断国家の北ベトナムは、すでに植民地化していたラオスとあわせてカンボジアにも侵攻して自国の勢力圏内に置いた、という大きな図式になる。

このベトナム勢力に追いまくられてポルポトを擁したクメール・ルージュはタイランドとの国境ぎりぎりまで追い詰められるが、この地域第2位の大国であるタイランドは、いつものやりかたで、衝突を極力避けて、周りの国に「みっともない」「誇りはないのか」とまで言われながら、なんと国境の町町を国費で内陸に数十キロ移転させてまで関わるまいとする。これでタイランドは結果的には最悪の事態を逃れてしまうのだから、結局欧州人の植民地化の嵐のなかでも太平洋戦争中も独立を保ってしまったやりかたといい、おもしろい国であると歴史を読んでいていつも思う。

タクシン政権や赤シャツ運動は、隠しに隠しても、タイ人なら誰でも知っているとおり、中国がタイランドを影響化に置こうとする運動の一環だが、自分の国の側から一方的にインドシナ植民地化をしようとしていると言われるのは心外だ、とパーティやなんかでも鼻を膨らませ口を尖らせて述べ立てるのは、どれもこれもインチキ、というわけではなくて、中国人たちからすれば、敵対的なベトナム人がベトナム+カンボジア+ラオスという広大な版図を持ってしまったので、メコン川流域の安全保障のためにやむをえずタイランドに覇権を打ち立てようとしている、ということになるだろう。

ベトナム人は、アジアのなかでも、最も「目から鼻にぬける」才気の持ち主であるという。オーストラリアのシドニーの郊外には「ベトナム人の町」があって、ぼくはよくでかける。町全体がベトナム語で、サトウキビやなんかが並んだベトナム風のジューススタンドがたくさんある下町は素晴らしい活気で、しょんぼりしているときでも出かけると元気が出てくるような町です。
中華風に料理されたカニにバゲットが必ずついてきたり、いくたびに「ベトナム風はかっこいいな」と思う。
あるいはニューヨークでもベトナム人たちはきびきびしていて、反応が早く、商売も柔軟で上手い。

あまりに才気にあふれているので、自分達独自の文化をつくるというような鈍くさいことをしないまま中国のものを手っ取り早く自家薬籠中のものにして、どんどん「ベトナム製」のラベルを貼っていった、というのがぼくの所謂「ベトナム文化」への説明で、ベトナム人の前で述べるとその場で撃ち殺されるかもしれないので奨めないが、ベトナム文化においては、日本で言えば「文楽」にあたるような部分まで、単に中国のもののコピーで、何から何まで中国のものを拝借してしまっている。
「自分で考えてつくったものじゃないといやだもん」大明神のインド人はおろか、日本人も、実際にはたいそうオリジナリティにこだわる国民で、大庭亀夫が「日本マイクロ文明」と言うのは誇張でもなんでもないのはベトナム文化に触れればすぐ判ります。

日本の歴史は一面では「どうやって中国文明の進出をくいとめるか」という、いわば、国民が横に一列にならんで両手をせいいっぱい広げて薄い壁一枚で中国の影響を必死に防波してきた民族の歴史だと思う。
7世紀くらいからアイデンティティを意識しだした日本人は中国とのあいだの、どんな些細な差異も大事にして、なんとかして「中国の一部」になることを拒もうとしてきた。

ところがベトナム人のほうは、持ち前の強烈な自信と尊大で「ベトナムは天然自然にベトナムである」と公理のように思って来たので、マネされたがわの中国からみると、こんなに移住しやすい国はなかった。

だって、本人たちが「まったく異なる」といってるだけで、ほんとうは同じものですから。

ソビエトロシアの支援を受けていた北ベトナム由来のハノイ統一政府にとっては中国人は「邪魔な国民」だった。
ここで、ちょっと(日本の人には馴染みがない話題なのを)気が付いたので説明を加えておくと、ベトナムでは「中国人」と言っても日本人が半島人のことを考えるほども単純ではない。
まず中国から何世紀にも渉って流入してベト人と混血している中国人と、その係累がいる。それから中国系ベトナム人がいて、中国人がいる、というふうに、しかもその区別が線を引ける明瞭さではなくてグラディエーションがかかって存在している。
だから英語本で「華僑を追放した」と述べている本があるけれども、それは間違ってはいなくてもほんとうではなくて、単純に言うと、「自分で中国系人だと認めている人」を追放したので、しかも、ここからがベトナム文化に詳しくないと判りにくいと思うが、
中国人たちが「頼むから国外に出させてくれ」と哀願せざるをえないような形にして、というのは社会として中国人を不可視の形でいびりぬきイジメぬいて、国外追放の形にした。

いままでに築いた財産をまるごと捨ててまで自発的に国外に出る人間などいるわけがない、と「ボートピープル」のときに、最終的には82万人という数の中国系を中心とするベトナム人(隣接二国からの流入数を含む)を難民として受けいれたアメリカでもさんざん議論になったが、それはベトナム文化を知らないからで、ベトナムというものを知っていれば、あたりまえのことなのである。
カンボジアでは、どのくらいが収容所のなかでの病死数か判らないので確定人数は判らないが、百万人に近い人間を処刑してしまう。
ベトナム人は、南ベトナム侵攻後、ほとんど処刑・虐殺というようなことをしていない。
ところが仔細に眺めてみると、南ベトナム政府時代の著名人で国内に残っているひとびとは、本人の志願の形をとって入校する、あちこちの「再教育学校」で「病死」したり「事故死」したりして、あるいはめんどくさいとおもったのか「行方不明」というひどいのもある。
そして、ほとんど誰も帰って来なかった。

ベトナムに住んでいる中国人たちは、それをよく知っているので、営々と築いた財産を捨てて、小さな船で、命がけで海にでていった。
ここでも余計なことを述べると、ボートピープルと言うと夜中にこっそり官憲の目をのがれて、暗い海にそっと船を出す、というイメージがあるが、そういう例もないとはいえないとしても、たいていの場合は、沖合まで監視を兼ねてベトナム海軍の哨戒艇がつきそっていたのがオーストラリア政府・アメリカ合衆国政府によって確認されている。
調べていて、ぶっくらこいてしまうのは、その上に、もちろんいまでも公式には否定している(それはそうだろう、自国を脱出する難民から「出国を許可する」ためのカネを取る政府など前代未聞である)が、ベトナム政府は数千ドルの「出国料」を徴収していた。
しかも船のチャーターの手配もしていた。

航海に出たあとのこれら中国系ベトナム人の悲惨な旅は、たくさん語りつがれている。リッチモンドでもどこでもよい、ベトナム人がたくさんいる町に行けば、そして、彼らに信用されれば、時が経ったいまでは、きっと話してもらえると思う。
町でいちばんの美しさと言われた16歳の女の子がタイランドの沖合で、エンジンが故障して漂流した船のなかで、80数回、一回いちどきに十数人という海賊たちの集団強姦被害にあって、精神的にも肉体的にも植物人間になってしまった例や、手足を切り取られて海に放り込まれた兄を助けられなかったといって泣きじゃくる女びと、その凄まじさは、なぜ70年代80年代に活字にならなかったかが容易に納得できるていのものである。
報道の前では無慈悲であることをもって鳴らすジャーナリストたちでさえ活字にすべきでない、マイクを向けるべきでない、と感じる現実というものがある、ジャーナリストとしてはもちろん俺は失格だったわけだがね、と電気ビルのてっぺんのクラブで述べたイギリス人特派員おっちゃんのKを思い出す。

つけくわておくと、ボートピープルには「自分は中国系である」という偽造証明書をつくって国外に追放されることを望んだベトナム人たちもふくまれていた。
このひとたちには、経済というものをまったく理解できないハノイ政府の施策をみて、「ベトナムには未来はない」と思い定めたひとが多かったようでした。

ベトナムを皮切りに、ちょうどいいから日本語で「国をでてゆくひとびと」のいろいろなケースをみていこうと考えたのは、当然、福島第一事故や徴兵制度復活の機運に伴って、「そうなったら国を捨てる」というひとがあちこちに散見されたからです。

普段は当然不可視である「国」というものが姿をあらわして、日本のひとなら日本の人の前に姿をあらわすときには、個人が出来る事はもうなにもない。
そうなってから「国を脱出する」なんちゅうことは、出来るわけがない。
荒っぽい方法なら、ツイッタでは有名らしいメイロマさんという人の証言によれば福島事故のあと日本から欧州に向かう航空券は買えなくなっていたそうだが、航空券の発売を「見合わせて」しまえばよい。
日本の官僚は国民の大半より賢いという定評なので、もっと工夫すれば、たとえばインフレを起こして、円安にしてしまえば、輸出も伸びるのかもしれないが、もうそれだけでかなり海外には住みにくくなる。
あるいはいまでも関税法によって現金のもちだしは貴金属類と合わせてUS$10000に制限されているはずだが、1960年代まではこれが400ドルだった。
あるいは日本のCirrusマーク
http://en.wikipedia.org/wiki/Cirrus_(interbank_network)
が信用できないのは有名で、いまはどうか判らないが、ぼくが初めて日本にひとりでやってきた頃は「日本のCirrus ATMはたいてい引き下ろしが出来ないので郵便局に行け。郵便局のATMは引き下ろしが出来る」とガイドブックには書いてあった。
かーちゃんやかーちゃんシスターも、子供の頃、「日本の銀行のATMではUKのバンクカードは使えないから」と言って空港(なぜか空港だけは大丈夫だった)のATMで必ず円を下ろしていたのを思い出す。
こういうことは「法律を変える」というおおげさなことは必要がないことで、「指導」だけで、たとえば日本で発行されたクレジットカードを海外ではいっさい使えない、ということにすることは出来る。
クレジットカードが使えなければ、日本のひとが海外で生きてゆく方法は殆どなくなってしまうだろう。

自分が生まれて愛着をもっている国を捨てる、ということはたいへんなことで、5年も離れていた祖国に戻って、滑走路に着陸する短い低空飛行のあいだに、空から見える祖国の緑や町並みをみて、涙をぬぐわないでいられるのは根っからハクジョーなので知られる連合王国人だけだとゆわれている(^^)
実際、ぼくは、二十年ぶりなんです、という日本の女のひとが着陸コースに入った低空からの成田の暗い色の緑をみつめながら、みるみるうちに大粒の涙を目に浮かべて、必要ないのに、ごめんなさい、ごめんなさい、と隣席のぼくに謝りながら、唇をかみしてめて、声を殺して泣いていたのをおぼえている。
祖国と人間の絆というのは、もしかすると親子の絆などより余程深いのではないだろうか。

だが祖国を捨てざるをえなくなることはある。
ある、というだけではなくて、いまこの瞬間にも祖国を捨てて逃げなければならなくなった人は何万人といるのだと思われる。
西アフリカの砂漠を越えて、あるいはベルギー・コンゴの密林を抜けて、たくさんのひとびとが命からがら国を捨ててゆく、あるいは絶対に恋人と別れないと心に決めた半島人の若いひとは、徴兵を避けて、ニュージーランド行きの飛行機を23番ゲートの前のベンチに腰掛けて待っている。
ぼくの先生、タイ名門人の奥さんをもつ孤茶さん(@kochasaeng)は赤シャツ動乱のバンコクから郡山へ、今度は福島原発事故に遭って再びいったんバンコクに撤退して、今度は北海道へ、小説か手記か書いて稼げばいいのに、と思う移動行を繰り返さねばならなかった。

いま日本語インターネットページ
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/ボートピープル
をみると、インドシナ三国からの難民受けいれ数として、

アメリカ 823000人(人口の0.26%)
カナダ  137000人(人口の0.4%)
オーストラリア 137000人 (人口の0.64%)

日本については11319人(人口の0.0088%)、という数字が挙がっているが、正直に言って、どういう経緯で「あの日本」が結局は1万人も難民を受けいれたのだろう、とちょっと驚いてしまった。
当時、日本は難民の受け入れを、やや不思議な感じがするほどの頑強さで拒み、国際社会の轟然たる非難を浴びることになる。
その国家としての冷酷さは、英語圏でも毎度のように夜7時のニューズの材料になっていたと言う。
ニューヨークやシドニーのインドシナ人たちと話していると、冗談めかして、笑いながら「もし日本人が国をでなければいけないようなことになったら、こんどはこっちが、日本人の目の前で、おもいきりドアをしめてやるのさ」というが、いざ自分達が困難に陥ったときににべもなく門前払いをされた悔しさを、いまでも元インドシナ難民たちは忘れていないもののよーでした。

タイランドはラオスとカンボジアから大量の難民が流入して、収容所で数えられただけで30万人を越える飢餓線上の隣国人たちを抱え込むことになった。
タイランドはインドシナ3国が共産化した1975年以来、長い間、この一説には100万人を越えたとも言われる難民の流入に苦しむことになる。
一方で、物理的に難民を養えなくなったタイランドとマレーシアは、数万人という収容所難民をカンボジアなどに「強制送還」する。
強制送還された難民たちが、ほぼ全員殺されてしまったのは言うまでもないことである。

ずっと調べていくと、「国」は怖いなあー、と思う。
国などは、なるべく透明でいてもらって、たとえばニュージーランドの大臣のように、議員クレジットカードで買った20ドル(1400円)のワイン二本の説明がつかなくなって、いっせいに差し出されたマイクの前に「もう、しません」をして泣いてしまう、というようなチョー冴えない政府であるほうがいいよーである。
まったく、「愛国」なんて言葉はろくでもない、と考えたことでした。

(画像はワイカトの農場。この農場は面積あたりの牛が多すぎて飼い方が不健康であると思われる)

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One Response to 国を出るひとびと(1)ベトナム

  1. kochasaeng says:

    そうか。シェムリアップでクメールルージュの少年兵に銃口を向けられて失禁して、もう二十数年経つんだな。アランヤプラテートからシェムリアップまで、地雷で足を飛ばされて松葉杖をついている人がいっぱいいて、片方を結んだズボンの先が風に砂埃と揺れるのを見て、「やっぱり行くのやめようかな」って思ったんだった。
    普段は蓋をして荒縄でぐるぐる縛ってる記憶だからね。シェムリアップってのはクメール語で「タイ(シャム)が負けた所」って意味で、そんなどうでもいいことは、すらすら思い出せるんだけど。

    そのころ、タイ南部のソンクラーって街にも行った。にわか海賊の街として有名だった。「にわか海賊」ってのは、ふだん漁師やジゴロやばくち打ちという歴とした本業があるのに、越南からのボートピープルを見つけると海賊に早変わりする荒くれ者で。
    あのへんは今でもマレー系ムスリムの人たちが週に2回くらいの頻度で爆弾テロを繰り返してる所で、17世紀頃から独立させろと戦っている。山田長政が命を落とすきっかけになったのも、この南部での戦いだ。「怪傑ハリマオ」のモデル、「マレーのハリマオ」こと谷豊が諜報員の神本と逢うのも、このあたり。思えば1980年代後半は、にわか海賊が海上で暴れていたせいか、陸上は今よりも平和だった。その頃は、もうピークを過ぎていたせいもあるかもしれない。それでも中央や北のタイ人に言わせると「南の人は何するかわからなくて、おっかない」って言われてた。

    越南から逃げてくる中国人たちは、ほんとうに金(ゴールド)を握りしめて、中華鍋と中華包丁を背負って家族と愛人の手を引いてやって来るんだって言ってた。中華鍋なんてどこでも売ってるような鉄鍋だけど、あれは油を引いては焼いて、また油を引いては焼いてを繰り返して、なんとか使い物になるまで3ヶ月かかるから、やっぱり鍋は背負ってくる。住んでいた土地を捨て、どこへ逃げても腹は減る。
    にわか海賊は、そんな人たちを襲う。「ちょっと待て。わしらは同じO2a系の遺伝子を持つ仲間ではないか」と言ってもダメ。言葉がつうじない。あの、綿でできたような柔らかい遠慮に包まれてるタイ人でさえ、よその国の知らない弱い人が相手だと残虐になってしまう。相手をニンゲンと思わない。タイ人を含むインドシナのカダイ系に共通(してると、おれは思う)の残忍さは、切れない刃物で、ざらり、と刺すような怖さだ。
    タイのにわか海賊が、どんなに残虐で非道だったかって話は多少残ってる。でも、海賊よりもてきぱきと大勢のボートピープルを殺したのは、タイの海軍だったってのは、ほとんど知られてない。そんな文献ないからね。タイ人は知ってる人も多いはずだけど、あんまり言わない。当時、にわか海賊に酒をおごって、スヌーカーでわざと負けたり(そうしないと袋叩きにされそうで)して、聞くともなしに聞いた話。あんまり思い出したくない。
    ちょうど雨期だった。濡れた砂で靴が湿って、うんざりしながら雨上がりの虹の向こうに見たタイ海軍の船。その方向からの乾いた銃声を聞いて、おれはホテルに戻って荷造りをした。それからソンクラーの街には、きっぱりと行ってない。

コメントをここに書いてね書いてね

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