海と怪物

gulf89

コモ湖の夏は、いつも突然襲ってくる。
雲ひとつなかった青空の向こうから直立した巨大な白雲が姿をあらわしたかと思うと、次の一瞬、真っ暗な空に変わって辺り一面は息もできない筱雨に変わる。
視界はゼロだし、背中や顔に衝突する雨滴は石つぶてのようである。
ボートの底にあたる激しい雨粒の音を聴きながら、大急ぎで岸に向かう。
「ボ、ボートが沈んでまう」とパニクって、猛烈な勢いで櫂を動かしているわしの姿の前には舳先に座って、頬杖をついて、なんだか嬉しそうにわしの恐慌ぶりを眺めているモニがいる。
「大丈夫、モニ、もうすぐ岸に着くから」と叫んでいるのに、のおんびりと
「わたし、ガメ、大好き」と、チョー見当外れの呟きをもらしたようである。
わしは頭のほうはともかく筋力と肉体の物理的なATP産生量だけは定評があるので、モーターボートのようなスピードで岸に着く。
桟橋に仰向けになってぜーぜーしていると、モニが、面白かったな、という。
なんだか、いつも、こーゆー感じだよねー、と思っているところで目がさめた。

オークランドのHauraki Gulfには、いくつか島があって、ヨットやパワーボートの停泊に適した入江がいくつもある。
帆船時代にオークランドの安酒場でしこたま飲んだ船員たちが、げーげーやりながら二日酔いの頭をさますのに使ったので「酔っ払い湾」の名前があるIslington Bayがいちばん有名だと思うが、他にもHome Bay、Mullet Bay、たくさんあります。
Home Bayなどはケーブルがややこしく複数敷設してあるので釣りには向かない(釣り針でケーブルを引っかけると20万ドル(1500万円)の罰金でごんす)が、あんまりここで名前を書かないほうが良いに決まっている、わしがよく行く入江などでは、朝と夕方にはいろいろな魚がたくさん釣れる。
日本ではちっともとゆっていいくらい魚を食べなかったのに、このときのために有次(ありつぐ)の包丁を日本からもってきて、銀座で何遍もこのブログ記事で自慢するために書いている「外国人向け寿司スクール」にも通ったわしは、刃先も軽やかに「指切っちゃったあー、痛えええー。出血多量で死ぬー」と叫びながら、シマアジ、タイ、アジ、アオリイカという面々の鰓の後ろから内臓をえぐりだし、人間で言えば耳にあたる測線をぞりぞりと矧ぎ、頭とシッポをチョンと切って刺身をつくる。
家の庭からもってきた紫蘇と生姜と醤油で食べる。
モニは一口食べて「おいしい」と言いながら主には自分でつくったキッシュを食べておる。食べてみると、モニのキッシュのほうがどうしてもおいしいので、魚はどうでもよくなって、ふたりで星が満天を飾りだした夜空を眺めながらシャンパンを飲みます。
こうやって晴天の夜にまわりに町どころか人工のものがなにもない入江の沖合で、波の音を聴きながら夜の空をみあげていると、なんとなくバカバカしいほどたくさん星があって、あれがひとつづつ銀河や恒星ならば、人間の知性には価値なんてほんとうにあるのか、という気になる。
おおきな自然に遭遇した人間がもつ、ふつーの反応だと思います。

あるいは、何度かは家に体温計というものがないので判らない(子供が風邪をひいたりするたびにお母さんがやさしい手で体温計を口に含ませてくれるのは日本だけの習慣ではないかと思う)が、高熱が出てベッドでうなっていると、モニがやってきて、デコに手をあてて、「熱い!」とゆって喜んでおる(^^)
もう死ぬー、と喘ぎあえぎ述べると、オーバーだ、とゆって、はっはっは、と笑う。
うー、薄情ものおー、このまま死んだら、あのひとにもっとやさしくしてあげれば良かった、と後悔するぞおー、と虫の息で言うと、「ガメは、ほんとうに子供みたいだ」と呆れた様子で立ち去る。

そのまま気絶して、起きてみて、なぜか熱が関節に来ていて足かっくんになってのけぞったり、こけそうになったりしながら歩いているのを、いつのまにか寝室に来ていたモニが笑ってみてます。
カ、カッコワルイと照れ隠しに言うと、モニは容赦なく、おじーさんみたいだ、という。

ガメ、必ずおじーさんになるまで一緒にいようね。
ちゃんと歩けなくなっていても、その頃にはきっと操縦性のよい車椅子があると思う。わたしは押さなくてもすむだろう。

その頃にはモニもおばーさんではないか、と述べかけて、ふと、ひょっとしたら、このひとはおばーさんになど永遠にならないのではないだろーか、
わしだけがおじーさんになって、モニはいつまでも若い美しいままで、いまと同じように寝室に半身を起こして、わしの老衰ぶりを笑っているのではなかろーか、と考える。

モニというひとは、そういう感じがする不思議な人です。

戸塚宏という名前は昔、鮎川信夫について調べていたときに出会ったことがある。
社会に適応できなくなった子供を預かって自分の「戸塚ヨットスクール」で、殴る蹴るを繰り返して何人も更生させたので有名な人です。
そのヨットスクールで情緒障害の子供が何人も「正常」になったと当時のマスメディアが激賞して、戸塚ヨットスクールは一躍人気施設になった。

ところが暫くして、というのは70年代の終わりから80年代初頭にかけて、何人もの「生徒」が行方不明になり、あるいは死亡していたことが判って、それまでベタボメ一方だったマスメディアは一転、「それでも効果があるのだから是認されるべきだ」というグループと「殺人学校ではないか」というグループに分かれる。

鮎川信夫は次第に「殺人学校非難」に世論が傾いていった頃、戸塚宏の「勇気」を称賛する。この「事件」は当時の最も良心的であったはずの読書人層におおきな衝撃を与えます。トーダイおじさんのひとりは、そのときの「まるで父親に裏切られたような、やりきれない気持ち」をウイスキーの酔いにまかせて、わしに語ってきかせてくれたことがある。
このひとは、それ以後「社会評論」のようなものをいっさい読まなくなってしまう。

いま日本語wikiを見ると、死者のうちのひとりについて、無数の打撲、内出血の痕跡、歯2本の損壊、と、のんびり、簡単に描いてある。
小さいヨットに使うラダースティックで殴ったもののようで、日本の家庭に普通にありそうなもので言えば野球のバットよりも衝撃力が少し強いくらいになると思います。
生徒が反抗的な姿勢を示すと訓練に出る前にまず徹底的にスティックで殴りつけてから、海につれだして、「特訓」をおこなったもののよーである。
海に出る前に半死半生になるまで殴っていたのは、小さいヨットでは反抗的なクルーを乗せる余地はないからでしょう。

この「ヨットスクール」はいまでも強い支持を得ていて、石原慎太郎や伊東四朗、岡田武史というようなわしでも聞いたことのある名前が「支援者」に名前を連ねている。

暴力によって情緒障害が治癒するのは、実は、西洋ではかなりむかしから知られている。
「悪魔憑き」になったひとびとの体から悪魔を追い出すために棍棒や石で徹底的に打擲する習慣がある地方では、それによって「悪魔憑きがとれる」例があったからで、無論、大半は死んでしまったが、それは「悪魔が憑いていたから」だということになってすませていた。

あんまり説明する気も起こらないが、なぜ暴力によって人間を正常にするという発想が社会から失われたかというと、「暴力自体の破壊性」が魂に及ぶのが誰の目にも明かになったからだった。
「それは本質的に異なる」という人がいるだろうが、いまでも中東やインドの一部の地方では「生意気な女を集団で強姦して慎ましい女に変える」という考えが残っている。
集団で殴り強姦して、世界に希望を失い、死ぬ力さえ残らなくなった女を、親族のいちばんみそっかすの男と結婚させて、「めでたしめでたし」になる、という風習は、いまでもそういう地方には根強く残っている。

あるいは日本で「男は殴られないと一人前にならない」という人には複数会ったことがある。
「ガメちゃん、奥さん、あまやかしちゃダメだよ。日本では、嫁さんてのはまず殴って教育するものだったくらいなんだから」という人もいて驚いたりした。

ツイッタでもちょっと書いたが戸塚宏にしろ鮎川信夫にしろ、このひとたちは「殴られる側」としてしか、もともと暴力と付き合ったことがないのではないか、と考えた。
あるいは、「制度のなかの暴力」しか知らないのではないか、と言い直してもよい。
鮎川信夫という人は一生の基準点が「復員兵」であったことに特徴があって、「空中の帝国」の一員としてスマトラ島に出征し、ご多分にもれず、古参兵や下士官兵に、戦闘などは、よそのことで、ただ無意味に殴られ続けて、マラリアを発症して内地に帰ってきたひとである。

戸塚宏は名古屋大学工学部というエリートとまではいえないが、入学の難しさでいえば「中の上」(トーダイおじさん判定)の大学にはいって、そこの体育会に所属していたヨット部でヨットをおぼえた人だそーだ。
学校も菊里高校で、いま義理叔父に訊いてみると「名古屋では多分、東海、旭ヶ丘についで3番目なんちゃうかしら」という学校だそーなので、どうもそうすさまじいナマの暴力と遭遇したことがある人には思えない。

暴力には面白い特徴があって「制裁」にしろ「教育の一環」にしろ殴るほうは「制度の一部」「目的を達成するための手段」としての暴力と自分に言い訳して暴力をふるうが、殴られる方は、必死に「先生は自分のことを考えて殴ってくれたのだから」「自分の精神を矯正するための愛情の鞭なのだから」と自分に言い聞かせようとしても、それは自分に加えられた物理的な衝撃力を受けいれてしまおうとする心の虚しいあがきで、潜在意識のほんとうの心は起きたことをちゃんと知っていて、意識の上で自分がただダメージを加えられただけで良いことなどはひとつもなかったのだと認めない当の意識の持ち主に復讐をするという性質をもつ。
むかしの強姦被害者などにも「自分が被害にあったのは自分にもいけないところがあったのだから仕方がない」と思い込もうとする悲惨な例がいくらもあり、援助交際などは、もっと典型的で、「おやじとやってカネをまきあげてやった」と自分に言い聞かせても、「自分」はとっくに肉体を売った肉体の持ち主に怒って主体を見捨てていて、どこにもほんとうの自分がいなくなってしまっている、というか、自分が去ったあとの抜け殻と暮らしているようなプラスティックな自我しか残らないことになっている。
それでも「制度の一環」としての暴力被害にあったひとは多く暴力肯定論者になってゆく。
そこでは暴力そのものが観念化しなければ記憶に耐えていけず、観念化しようとすれば、その努力の中で、暴力に生産的な意味を認めざるをえなくなるからでしょう。

暴力を蒙ったひとが情緒障害から治ったようにみえるのは、新たに暴力という物理的な破壊力を受けいれなければならなくなった心が謂わば自死を防ぐため専用の「偽りの自我」をうみだすからであると思うが、もともと暴力に「人を救う」力などないことは、暴力というものを知っている人間にとっては自明である。

わしはいまでもボクシングの練習をする。
40歳くらいになって破産したらモニの実家の作男をするかジョージ・フォアマンのように中年ボクサーとしてプロになって華々しいデビューを飾るか、と考えることがあるからだが、これ以上バカになっては敵わないので、頭は殴るなよ、と練習の相手に来るひとに言う事にしてある。
もともとは、小癪にも子供の頃から空手の黒帯の妹に対抗してボクシングを始めたことに淵源をもつ。
ロスアンジェルスの失礼な聖書学者などは、「そんなにデブなのか?」と失礼な感想を述べたが、そういう問題ではなくて、筋骨がありあまっているせいで途中からは、ずっとヘビー級であった。

かててくわえて、(いまはお友達のあいだで、よく知られているとおり、「温和で成熟したオトナ」だが)むかしからチョー短気なので、あまりにも理不尽な状況に遭遇したときには夜中の広場に屯するハゲたちなどを対象として暴力をふるったことがまるでないとはいえなくも{なく(x2)}はない。

そーゆー、妹のようにものごとを誇張して人を中傷する人間が(真実ではないが)「ボーリョクオトコ」と呼ぶような人間からすると、刃向かってこない人間を殴るというのは実は狂気の行動で、狂気、というのがおおげさにきこえるならば観念的な暴力なのであると思われる。
簡単に言うと、抵抗しない人間を殴り続けるというのは正常な人間には無理なのです。

戸塚宏が何事かを勝ち誇ってガッツポーズをつくっている写真があるが、見ると、本人は筋骨隆々としているつもりなのかもしれないが、か細い、ひどい言い方をすれば「チャチ」な肉体で、ヘンな言い方だが、こんな体格で人間を死に至らせるほどの「暴力」をふるうのは余程執拗に殴り続けなければならなくて、たいへんであると思わせる肉体である。
想像力と観念の世界では使命に燃えてラダースティックで抵抗もせず泣き叫ぶ「生徒」を殴り続けたこのひとは、その現場にいあわせたひとには、観念の力で身動きできないように縛り付けた被害者を貧弱な筋肉で夢中でなぐりつづける小さな狂人に見えたに違いない。

睡眠から覚醒へ浮上してゆく混乱した意識のなかで
頭が横滑りに滑るようにして、
ふいに、脈絡なく、人間は野蛮だなああー、と思いながら目をさます。
戸塚宏を考えるきっかけになった、執拗で無意味な体罰の挙げ句、自殺してしまった高校生のことを思い出してしまったからです。
暴力には破壊以外の意味はない、というのは文明人であるという矜恃を構成する第一の条件である。
もう何万年も人間をやっているのに、それが判らない人間がいて、その考えに支持すべき点があるのではないか、と躊躇する人びとがいる。
いったい自分たちはこの7万年、何をやってきたのだろう、と考えない人はいないだろう。
暴力を手段として肯定するのは一種の絶対的な卑しさにすぎないが、暴力をめぐって起こる事象は暴力をふるう側においてもふるわれる側においても、ただ魂の破壊だけである。
しかもその破壊は絶対的不可逆的なもので、いったんそれが起きてしまえば被害を受けた人間にほんとうの再生などはありえないのだということが、卑しい観念の、偽の太陽のせいで、めがくらんで、見えなくなってしまう人がいまでもいる。

釣りをする人は誰でも知っているが、この静かに見える海の表面の下には、無尽蔵な暴力がある。
魚が魚を食べ、その襲撃者をさらに大きな襲撃者がまるのみにする。
釣り上げた魚の半身が、ごっそり何者かによって食われている、というようなことはよくある。
その無限の暴力の連鎖と均衡に拠って人間の世界以外の自然は成り立っている。

人間の栄光は、暴力を否定したときから始まった。
暴力の無限の連鎖をたちきって、強い者達があげる凱歌を沈黙に蹴落とすことによって人間の文明はうまれてきた。
それはいわば「無力の王」が玉座に座る空虚な栄光にすぎなかったが、それでも人間は健気にそれを信じようとして暮らしてきた。
そこにしか人間であることの意味を見いだせなかったからです。

暴力は人間の卑しさに巣くう闇であって、その闇は運悪く暴力を観念として使用するものたちによって文明と野蛮を往来する地下道として使われる。
彼が「正義の拳」をふるうと、文明はそのぶんだけ脆弱になるだろう。
彼が暴力にも効用があると述べると文明は腐臭を帯び始める。
そして暴力を「利用」したつもりの人間や社会には、暴力を是認するものだけがもつ、なんともいえない、卑しさの影がまとわりついて離れないのだと思います。

明け方近くに目を覚まして、モニがベッドの傍らにいないので船室を出てみると、モニは甲板で、自分で淹れたコーヒーを飲みながら太陽が昇る水平線を眺めているところだった。

並んで腰掛けると、わしにもコーヒーを注いでくれます。
わしが、きれいだなー、とマヌケな感想を述べると、モニはこちらを見て微笑んでいる。
人間のやさしさは人間だけがもっているが、そうして、人間が休息できるただひとつの場所だが、それにすら会えず、狂気の人と沖合に出て、殴り殺されたひとびとのことを考えないわけにはいかなかった。
教師に殴られることを愛情の表現なのだと自分に言い聞かせながら自動的に動く手で自らを殺すしかなかった高校生のことを考えないでいるのはやはり無理だった。

わしの表情を眺めているモニには、わしが何を考えているかはお見通しに決まっているが、透明な気持ちで朝を迎える、というわけにはいかなかったのです。

(画像はHauraki Gulf早朝の「天国への階段」。海ではそれほど珍しいものではねっす)

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2 Responses to 海と怪物

  1. クイチ says:

    お久しぶりです。

    暴力(精神的なものも含め)は、された人を檻に閉じ込めるものだと思っています。
    例え加害者より被害者の方が体が大きくても腕力が強くても、それとは関係なく、精神的な檻へ強制的に閉じ込める。
    暴力をふるう方は看守に他ならず、看守から鞭と共に囚人に囁かれる愛などという言葉は、想像するだけでおぞましい(被害者を囚人と例えましたが、『悪いことをした』前提で暴力を振るわれますし)。

    とても、たまらない気持ちになります。

  2. 森野夏 says:

    ガメさま
    Sir gameover
    Monsieur Auber  
    Your Highness

    ついったでのお話聞きました。
    ガメさんの(あっ、もうめんどくさくなって呼び方がぞんざい)声が聞けなくなると寂しいです。
    ガメさんの文章は、格調の高いほうも低いほうも、耳に痛いことも優しい言葉も、要約を許さない素晴らしさです。悪ぶったポーズをとってみせても、天使との邂逅は天使の心を持つ人にしか起こり得ないのだと、どんなに鈍感な者にも察することが出来ます。ガメさんのついったやブログを読めなくなればどれほど辛く(からく、ではないのですよね?)淋しい日々になるか、想像するだけで心が荒みそうです。
    ガメさんの言葉はガメさんのものだから、どのように処理なさっても本当は文句を言う筋合いもありません。むしろ、それがガメさんの心の負担にならない唯一の形ならば、たとえまったくアクセス出来なくなったとしても甘んじて受け入れましょう。でも、リアルでお会いすることのない者こそ、更新されないならばせめても、残されたガメさんの言葉と静かに対話するために、何度でも読み返したいと思うのです。そうして自分の真実の姿を見ることになるかも知れないし、躊躇っていた一歩を踏み出すことにつながるかも知れないし、人間らしい気持ちを取り戻すかも知れない。一番の願いはむろん、これからもガメさんのお話を聞いていたい、ということですが、それが叶わないならば…
    身勝手なお願いですから、たとえ叶わなくても、ガメさんのことは忘れません。(あ、もうお別れと決まったみたいな言い方して縁起でもない)博覧強記や稀なる文章家としてよりも、広くあたたかな心ばえの人であったことをきっと懐かしく思い出すことでしょう。(だから、縁起でもないってば)
    最後になりましたが、ガメさんやガメさんの大切な人たちのご健康とお幸せを心からお祈りします。

    かしこ

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