平成日本への道_その7

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戦前の東京大学法学部では「学友」というようなものは出来なかったという。
勉強が忙しすぎたからで、特にいまの国家公務員試験Iにあたる「高文」組は、大学が高文予備校であって、「友達」どころではなかった。
大正の終わりに生まれて昭和を通して日本という国をダイレクトに平成に運び入れたひとびとの口に上る「学校の友達」が旧制高校の同級生ばかりなのは、要するにそういう理由に拠るものであるらしい。

どの人の口にのぼる大学生活も「灰色の大学生活」で、読んでいると、どの人も3年間をただ狂ったように勉強して過ごしている。

当時、官僚を目指す東大生達に最も人気があったのは内務省で、この省は国家そのものというか、いまでいえば総務省、警察庁、国土交通省、運輸省、厚労省に地方自治を統合した、という形象だけの説明だけでは表現が十分でない省であって、たとえば、いまは選挙によって選ばれることになっている県知事は当時は内務省本省からの電話1本で任命されることになっていた。

いま最も人気があるのは財務省だと思うが、テクノクラートというものの機能を軽視する当時の社会の状況では「カネ勘定省」とゆわれて「役人のなかの商人(あきんど)」という陰口があった。
外務省に至っては「通訳屋」とまで言われなければならなかった。

もうひとつ簡単に説明しておかなければならないことがあって、当時の日本は階級社会です。前にも書いたことがあるが、明治時代の算数教科書を神保町で買ってきたことがあったが、その本の最後には主著者として「理学博士某」の名前が書かれているのは良いが、その頭に「平民」という言葉が付いていたので、なにがなし、その「理学博士 平民 某」の苦闘の生涯を思ったりした。

そういう社会のなかで多少の階級差ならば圧倒しうる手段として天皇の直截の権威に色彩された「官僚になる」という栄達の方法があって、たとえば官僚用の食堂にしても、「高等官用」と判任官用に分かれている。判任官用の食堂のなかでも高文試験に合格した(これから出世が見込まれる)組と、ただの叩き上げの判任官用にまた区切られている。
もちろんトイレも別で、まるで連合王国のごとき下品さです(^^)

つまり、伝統的な階級社会とは別個に試験の成績をもとにした天皇を頂点としたパラレルな階級社会を官僚という当時の絶対権力組織のなかで形成していたわけで、高文を合格しても二三年はこれをやらされる判任官の上には奏任官があり、その上に勅任官が存在して、このふたつをあわせて高等官と呼ぶ。首相、大臣、枢密院議長などは、親任官といって天皇が直々に任命するいわば雲上人で、本省で見習いを終えたばかりに過ぎない20代前半の内務省の役人が地方の課長に出向すると県庁からは東京から付き添いで県庁まで同行するお迎えの年輩の職員がわざわざ虎ノ門に派遣されて、列車が途中停車する駅駅には、その地方の警察署長達がプラットフォームに整列して敬礼をすることになっていた。

その官僚階級社会の、そのまた頂点にいた元内務省官僚が他省出身人が戦後次次首相になっていったのに中曽根康弘に至って初めて首相をうみだすまで首相の座につくことを許されなかったのは、日本によって仕掛けられた対日戦争に大勝して、占領軍として君臨したアメリカのGHQ、取り分け民政局のCourtney WhitneyやCharles Kadesが「内務省」を戦前日本の元凶とみて、日本の中枢から徹底的に排除しようとしたからだった。
戦後、一種のぼんやりと隈取りの禁忌と化した内務省人は、しかし、日本の官僚制の要として機能しつづけた。

内務省人の特徴は官僚個々人が精密な「国家の機能」であることを期待されていたことで、驚いてしまうのは、当時のあらゆる国家機関のなかで内務省内が最も自由な空気、上司と言えども怖れず論難し、異見を述べることが奨励され、いわばKYであることが尊ばれた点であると思う。
いうまでもなく「民を訓導する」(^^)という調子ではあったが、国家としての日本というものは自分達が全責任をもって、滅私、身を粉にして働いていかなければ、どうにもならないのだという、いまの若い官僚にも多分に受け継がれている「自分が国家を背負っているのだ」という自負は十分にあったもののよーです。

日本の戦後の歴史を眺めていて、特色的であると思うのは、こうした内務省官僚を筆頭とする若い「キチガイマジメ」な秀才たちが戦地に徴兵されて帰還して目撃する「ガムをかみながら、派手なかっこうで恥も外聞もなく」アメリカ兵に媚びて性と交換に生き延びていこうとする若い日本人の女びとや、卑屈を通り越した非人間的なへつらいでなんとかアメリカ人たちの歓心を買おうとする日本の男達の姿に、痛覚を刺激されるようにして衝撃をうけ、必ずしもアメリカ兵だけからではなく、目を疑いたくなるような(彼らからすると)卑屈で恥知らずな日本人自身の姿から、名状しがたい屈辱に打ちのめされてしまうことで、日本の戦後史における支配層のその後の特殊な戦いぶりは、やはり、ここに原点があるように思えます。

いまこうやって、「平成までの道のりを日本語で書くことによって学習したい」と言いながら政治とかもキョーミないけど、全然抜きじゃやっぱヘンだよねー、というチョーテキトーな理由で日本の支配層の政治の歴史を書き出しながら、ぼおんやり歴代の首相の顔を眺めていると、混乱を収めて戦争に負けた日本を吉田茂たちがなんとか「国」の形に纏め直したあと、孫の鳩山由紀夫にそっくりというか「友愛」を唱えて絵に描いた餅を食べようとしていろいろ大変なことになった「おぼっちゃま」鳩山一郎、戦前政治家のなかでただひとり「日本に満州なんか要るものか。貿易立国だけが日本の生きる道である」と述べて当時の日本人「有識者」の殆どからアホ扱いされた石橋湛山と来て、ここからがカタパルトというべきか、いよいよ国家社会主義経済の総本山、戦時内閣の大臣であった岸信介が登場して日本の骨格が形成され、岸信介の盟友にして実弟の佐藤栄作を挟んで官僚出身であるのに野人であった池田勇人と紙の上の経歴だけを見れば無学歴の野人であるのに、そのスタイルは完全に官僚出身者で官僚の領袖であった不思議な人物田中角栄が登場するくらいまでが日本の昭和という時代の政治的な「核」である。

代代の首相や現実の政治を支配した官僚たちについての本を読み耽っていて、面白いとおもったことはいくつもあったが、鈴木善幸という人の面白さは突出している。
この宏池会の元締めとして首相になった不可思議な岩手人は、さすがに口に出してまでは言わないにしても「なにもしない」ことを目標に内閣を維持するという古今にも東西にも稀な、というよりも空前絶後な方針をもった人で、田中派の「乃公出でずんば」議員達が唖然としたり切歯扼腕したりしていろいろに述べるのを横目に、問題が山積しても問題の山が高くなるなりにして涼しい顔をして権力の座にすわっていた。
すべては「先延ばし」というゆいいつの方針によって対策されて、官僚やその頃もうすでに意識されたいた55年体制の崩壊をまのあたりにして改革を焦慮する政治家たちを「無視」して、悠々と政権に座り続けた。
いまインターネットをちょっと見ると退陣はアメリカからの不信が原因であるように書いてあるように見えるが、実際には(自民党の利害と直結している)韓国との外交問題が原因であったでしょう。
「日本」というものそのものを体現して象徴化したような人であったように見えます。

日本の近代の歴史を理解しようとしていて、最も困るのは「歴史に顔がない」ことで、たとえば日本の戦後史はほとんどそのまま官僚の歴史であるのに、一部の小説家が掘り起こした佐橋滋
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐橋滋
のような毛色の変わった官僚以外は、傲慢で無能、日本を誤った方針に導き入れた者も、自分の一生をまるごと霞ヶ関に投げ出して必死で奮闘した挙げ句に過労死した者も、その墓標には名前が書き入れられていない。

頼まれもしないのに、ひとりで勢い込んで日本を背負ってたってしまった挙げ句、よろめいてすっころんでしまったり、重荷を肩に直立したまま日本という風土の泥沼に垂直にずぶずぶと沈んでしまった官僚達のなかで後藤田正晴という人は名前が判っている。
この生まれた「大正時代」から一字をとって名付けられた、観念のみの経路をたどって現実にちゃんと辿り着くという(ドイツ人には得意な人が多い)曲芸が出来た、精妙な装置のようなテクノクラートは、平成8年にあたる1996年に議員を辞めて引退している。
死んだのは2005年、平成で数えると17年です。
戦前の内務省に入省して戦後は主に警察畑を歩いた。
以前に「平成日本への道_その5」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/10/30/平成日本への道_その5/

で述べた「連合赤軍あさま山荘事件」で警察の総指揮を執ったのはこのひとです。
連合赤軍に限らず、それまでは「全共闘などどうでもいい。あいつらは甘やかされて暴れているだけの坊や達だ。くれぐれも学生に怪我させるなよ。真に怖いのは背景で微笑している日本共産党である」という意味のことを述べていたのが、追い詰められて尖鋭化した「残党新左翼」が爆弾闘争に入ってからは「彼らは全共闘学生とは別の種族だ」として陣頭に立って文字通り生命を賭けて国家の盾として戦った。
土田国安
http://ja.wikipedia.org/wiki/土田國保
の奥さんを爆殺したグループを始め、当時の爆弾闘争グループは後藤田正晴と家人の生命をこそ狙って何度も爆弾である荷物をさまざまに偽装して送りつけるが、「(信管は紐と連動していることが多かったので)小包の紐をもつな」「慎重にそっと風呂場に持っていって風呂桶のなかにそっと置け。警察の爆弾処理班を呼んで内部を金属検査して初めて開封せよ」と家人に命令したりして、何度も生命を狙われる危機を切り抜ける。
(ついで、というと言葉が悪すぎるが、ついでに述べると土田国安の家でも後藤田が与えた、この指示は守られていたが、たったひとつ奥さんがよく知っている友達が差出人になっている小包を喜びの余りうっかり紐を持って立ち上がった途端に爆発したものだそーでした)

国会に初登院したときに、ばかばかしいというか、ちんどん屋並というか、華美浮薄というべきか、旧海軍の将校服で登院して当の旧海軍将校たちの眉をひそめさせた中曽根康弘は首相の座について内務省の先輩後藤田正晴を参謀として側において重用するが、この中曽根康弘が当時のアメリカ大統領Ronald Reagan
http://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_Reagan
に向かって「日本は不沈空母となってアメリカとの同盟をまっとうする」と日本の若い衆の生命を元手にケーハクな約束を言い出したのを皮切りに、防衛費の1%枠撤廃、憲法9条改正、経済人と組んだ徴兵制の提案(と言っても世論の様子見の花火うちあげのようなもので、特に防衛庁事務方の反応を見て、あっというまに引っ込めてしまったようだが)と「大日本帝国の栄光」の影を求めだした中曽根康弘に対して、テクノクラートの自負、というものでしょう、
「自衛隊は自分で作ったんだから、おれは知ってるんだ。海外に派遣するようには出来てない」と述べ、「憲法9条を変えるなんて空論だ。この憲法で日本がもっているのがなぜ判らない」と次第に苛立ちを隠さなくなってゆく。
「内務官僚出身」とは言っても、内務省の門から入っただけで、そのまま何らの内務省の教育と薫陶をうけずに終わってしまい、二等兵から叩き上げる陸軍ではなく、初めから優遇される海軍の短期現役制度に応募し、海軍経理学校を出て、弾のとんでこない海軍主計中尉に任官して内務省閥を利用するだけだった、それでいて政治家になってからは戦争をやりたがっているかのような勇ましい発言に終始する、要領がよすぎるこの政治家に対する「それでも内務官僚か」という、舌打ちするような気持ちがはっきり見えるようなコメントもいくつかあります。

田中角栄のロッキード事件を読んでいて面白いのは決して公然とは口に出さずに「皆やっていることで、しかもそれを誰もが当たり前だと思っているのに何故田中角栄だけが告発されなければならないのか」という呟きがすべての事象の基調底音であり「聞き取りにくい声」になっていることで、たとえば後藤田正晴は清廉が絶対の条件であった内務官僚出身者が金権政治の王である田中角栄に付くことの矛盾を、55年体制のなかではやむをえない弊害、と考えていたようにみえる。
当の政治家たち自身が「カネがかかりすぎる選挙」の莫大な出費に溺死しかけていて、誰かなんとかしてくれという悲鳴をあげるのが聞こえるようななかで、「たった5億円」のために、学歴が無いことに気を奪われると本質がみえないが実際には官僚の親玉で、思考方法も、行動の習慣も官僚出身政治家そのものであって、官僚派閥の「吉田学校」の優等生でもあった田中角栄が逮捕されたことに、いわば「ホンネとタテマエ」のあいだに開いたおおきな深淵から地獄をのぞき見て、「これからいったいどうすればいいのだろう」と苦悩する日本の政治家たちの懊悩する姿がみえるようである。

田中角栄が自分が絶対の指針としていた生涯を費やして組み立てた常識からして考えられもしなかった逮捕に遭い、オールドパーで泥酔を繰り返す毎日から脳梗塞を引き起こし、やがて言語障害だけでなく両足も壊疽によって失う事態になって、すべての権力と影響力を失い、しかも最愛の娘真紀子には故郷の町町で「骨董品の役立たずになった父・角栄をつれてまいりました」という冷酷を極める見世物の道具にされる毎日を送っていた頃、「冷たいテクノクラート」後藤田正晴は、ほぼ毎日田中角栄に電話して、聞き取りにくい、呂律のまわらない声で話す田中角栄のただひとりの話し相手になっていたようでした。
受話器を握りしめて田中角栄の聞き取りにくい声を必死に聞き取ってやろうとしている後藤田正晴の姿が目に浮かぶようである。

悪い癖が出て、もう飽きてしまった(ごみん)
もともと政治も政治家個々の話も退屈な感じがして好きでない、ということがあるよーだ。
ほんとうはやりかけたのだから、もっとちゃんと書いてしまうべきだが、端折ることにする。

わずかに水面に顔をのぞかせている後藤田正晴のまわりには、何千何万という(信じない人が多いのは知っているが)クソマジメな、「おれがやらなくて誰がやる」という田舎クサイ、金輪際ひとうけのしない信念に燃えて、満足な報酬もないまま、ただ無茶苦茶に働いたたくさんの(多くは実際にも田舎出身の)秀才たちがいたわけで、遠くからやってきて、用事もないのに、ぼんやり眺めることにしたぼくにとっては、その事実は到底否定できないものであるように見える。

彼らの目に映った日本は、特に昭和を初めから終わりまで肩に負って平成へと運び込んだ自負をもつ後藤田正晴や(例の奥さんを殺された)土田国安、奥野誠亮といった世代のひとびとの目に映った日本は、どんなものだったろうか?と考えることで、ぼくの「日本の戦後日本史A面」(新聞の見出しに大きく載る方)についての考えは始まった。
やっているうちに気が付いたのは、これらのひとびとは自分たちの社会からはまったく評価されず、憎まれ、闇の住人同様に扱われていたらしいことで、そこには「同じ社会の住民である者同士の暖かい気持ち」というようなものは微塵もない。
奇妙なことを言うようだが、ぼくの初めの疑問は「人間は、これほどの孤立と問答無用の憎悪に耐えて自負心だけを支えに仕事をしていけるものだろうか?」ということだった。わしならやだよねー、と考えた、ということです。
日本のエリート官僚たちは、わしならやだよねー、の一生を、自負心と大衆への軽蔑と自分の能力への矜恃だけを頼りに乗り切っていたようにみえる。

しかし、彼らはほんとうに乗り切ったのだろうか?
と、いまもよく考えます。
頭の良い人間は世間の通り一遍の自分の地位への尊敬を真の敬意と受け取りはしない。むしろ、その奥で悪んでいる上目遣いの憎しみの籠もった目のほうを、はっきりと見てとるものだと思う。

いよいよくたびれてきたので簡単に述べてしまうと、そうやって「大衆」と乖離してしまった「優秀な選良」としての官僚群は、病んで、統合失調症に似た狂気に陥っていったのだと思います。
このブログ記事に出てくるトーダイおじさんたちは若いときのチョーくだらない話をよく聞かせて笑わせるのが好きだが、ある災害の被害の予想数から「ちょっと、おまえゼロひとつとって資料にしろ」とゆわれるなどは年中であったという。
安月給や、世間の目からこっそり隠れて、社員食堂に屋台をつくって銀座の一流バーのホステスや芸者衆を呼んで豪勢な食事にありつく、まるで秘密結社のようなパーティ、研修のある月には手取り10万円しかないマクドナルドのパートみたいな給料、そういう話の数々から見えてくるのは「孤独な秀才たち」の、この世界から剥がれ落ちて、観念だけでなんとか自分たちを社会の現実につなぎとめている奇妙な生活で、そこにあるのは数字化されるか、「理屈がなにも通用しない、声がおおきてうるさいだけのバカ」としての「民衆」だった。原発をつくるための公聴会にでかけては灰皿をデコにぶつけられて血を流し、一夜漬けで「バランスシート」の概念をのみこんで出かけた「古狸の集まりみたいな社長たち」の輪のなかで嘲笑われまいとして傲岸な顔をつくってみせる20代のトーダイおじさんたち。
クソ暑い夏に、冷房を買う金もなく、狭いアパートで子供に体をよじのぼられながら、懸命に書き上げた経済政策… そこにあるのは、明治以来の矛盾を一身にひっかぶって、それでもなんとか国を経営しようとする狂気に最も似た切実さであったように思います。

この傲岸な黒子たちが、人目につかないまま社会から去って行く日は近いと思う。
もう田舎臭い天下国家などは流行りもしないだろうから。
現に、政府のカネで海外へ留学しても帰ってこない人はずいぶん増えているようでもある。
なんだか他人事なのに、そんなことをゆってはいけないが、社会の疲労は、いろんなところから来るのだなあ、と疲れた気持ちで思ってしまうのでした。

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One Response to 平成日本への道_その7

  1. AgathaChrio says:

     大変興味深く拝読いたしました。もやもやとしたものをはっきりとした形で整理されて突きつけられると本当にドキッといたしますが、ほんとうに貴重なご考察をありがとうございました。歴史ある国はどこもそうなのかもしれませんが、死屍累々の上に生かさせてもらっていることをまた新たな面から再認識させていただきました。
     もしかしたら、あえてお書きにならなかったことかもしれませんが、言い残すという気持ちもあり、コメントさせてください。ごく少数の事例をしかも又聞きしただけではありますが、清廉な官僚になって結局「持ち出し」になってしまうにせよ、後藤田さんの当たりまでは素封家の子弟だったり、家が貧乏でも出のしっかりした人だったら金融関係などのお金持ちから奥さんをもらってタニマチになってもらうことが多かったのではないかと思います。そうでないとどこかでお金でつまづいてしまうのではないでしょうか。
     建築しておいて資産の維持管理という概念があまりない会計をする我が国だからか場所はよくても悲惨な公務員宿舎で必死に頑張られた方々と課長補佐のころからしっかり自宅をお持ちだった方々との間にもなにか大きなギャップがあるような気がしてなりません。戦後の断層はもう一つあるように思えるのです。
     あと、これはエピソードのようなもので実際どうだかわかりませんが、とうとう内務省出身の首相が出たという中曽根さん、同級の間ではあいつは静岡高校だから馬鹿でしかたがないという評判だったらしく、だからこそ自由におっちょこちょいな道を進めたのかなと思ったりしておりました。

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