Le Penseur

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ロビーのコーヒーテーブルに投げ出すようにイーディッシュ語の新聞が置かれている、あなたが住んでいるアパートの館内の匂いを思い出す。
ヴァニラのような、それでいて、もっと透明度が高いような不思議なにおいだった。
ニューヨーク人が「ブラウンストーン」と呼ぶ、名前そのままの色の煉瓦をつみあげてつくった、どんな映画にどれほど脈絡がないタイミングで映し出されても一瞬でその場所がマンハッタンの一角だと判る建物の4階にあなたは住んでいて、ぼくは金曜日の深夜のバカ騒ぎや女の子たちの髪の毛をおろすやさしい仕草、すごんではみせるくせにいざとなるとてんで意気地のない不良たち、というようなものにすっかり飽きてしまうと、フリークライミングの次の手がかりの岩の突端を探すようにして、あなたの部屋を訪問したものだった。

どの壁にも天井まで届く本棚がつくりつけてあるのに、それでも収めきれない本が籐の籠やカウチの隅やコーヒーデーブルにまで積み上げられている部屋の隅の、小さな机の前に座って、あなたは水晶球をのぞきこむようにして、この世界をのぞきこんで暮らしていたのだと思う。

いま考えてみるとぼくは余程運がよくて、あれほど忙しい人だったあなたが、ぼくが電話をしたときだけは、いつもヒマを持て余していて、思い出してみても5回のうち4回は「手があいている」ときだったと思う。
散らかっているときには、肘でそこいらじゅうの政治論文をおしのけてマグをのせる場所をつくると部屋でベルギーの味がおもたいビールを飲みながら、あなたはX線カメラの無慈悲さで、最近出会ったひとの誰彼の知性の形を的確に描き出して冷たくこきおろす。
日本語なので平気で書いてしまうと、ぼくはあなたの皮肉に満ちて精確な描写に大笑いしながら、人間の数倍の知能をもった神の眷属が謬ってこの世界に生まれついたら、誰も自分を理解できず、理解したいと願う他人もあらわれない日常に苛立って、こういう口調を身につけるのではないか、と思ったことがよくあった。
もう、あの頃には、すでに、あなたはこの世界の淵の深みから天の高みまですっかり読み通して、倦きてしまっていたのかもしれません。

絶望も知性の光によって明然とした姿になれば明るい感じがするように見えてしまう、と言えばいいのか、「技術的なブレークスルーは物質世界においてだけではなくて、予測しなかった方法で、この世界をまるごと救済すると思う」というぼくの稚い意見に対して、すべてのドアは結局はどこにも通じていないのだ、ということを念入りに証明してみせながら、反駁して、希望というものは叡知がないものにしか宿らないもののよーだな、ガメ、と言って笑ったりした。
自分が徹底的に反論されて粉微塵に(あなたによれば)「甘い」希望を打ち砕かれているのに、そういうときですら、あなたの意見には「冷たさ」というものが微塵も感じられなくて、ぼくはその時に真の知性には「匿しようのない暖かさ」という明瞭な刻印があるのだと学んだ。

お腹がすくと、7thアベニューのベス・イスラエルの近くのバーベキューレストランに歩いていって、外のテーブルで、アメリカ式に紫色のクームラとスペアリブをほっぺにまで盛大にソースをくっつけて食べた。
シラズを飲み過ぎて、そのままバー・クローリングになってしまうこともあった。

人間の知性の大半は、ほぼ、「なにもしない」ための言い訳に使われる。
ものを究明するための組織だった方法論をもたない場合は特にそうで、これはこうで、きっと本質的にはこういうことなのだな、と観想するひとというのはたいていの場合無為のひとである。
無為のひと、というよりも簡単に「なまけもの」と言った方が良いのかもしれません。
不活発な知性にはだいたいに分けて2つの型があって、ひとつは、念入りに検討しても誰にもケチがつけられないように思われるかわりに、乾涸らびて、そこからは何もうまれない「正しいこと」を後生大事にためこんで、これはありがたいアリストテレス様のお言葉、これはアインシュタイン様が自信をもって述べておられた仮説、と、どの本の何ページの何行目にそれが書いてあるかまで涙ぐましく書きとめて、そこから少しでも外れた意見をみようものなら大騒ぎで異端の出現を騒ぎ立てるタイプの知性であり、もう片方は、遠くにあがる核爆発のキノコ雲を窓の向こうに眺めて、ああ、あれはトールボーイ似の初期型だな、そうすると中国の攻撃ではないはずだ、とひとりごちて、そのまま読みかけの本に目を戻してしまう型である。
どちらのタイプの知性も、子供を抱えた母親が通りに飛び出して、「たいへんだ、逃げないと私の子供が死んでしまう!」と叫ぶ声に窓を開けて、いままでに放射性物質で死んだと確証のある例はないから危険な事態とは限らないこと、そんなに大声で慌てふためいては子供にストレスがくわわって返って子供の健康に悪いこと、自分がいままで図書館で積み重ねてきた知識によればそんなに危ないとは思われないこと、を親切にも列挙して、お願いだから、無知をまるだしにして大声で泣き叫ぶようなみっともないことはやめて部屋に戻って静かにしてもらえませんか、と冷静に述べて、やや顔をしかめながら机に戻るだろう。

ちょうど食べ物を過剰に摂取すると人間の体はなにはさておき脂肪としてためこんでしまうのに似ている。
肥満で悩むひとにとっては皮肉なことに、筋肉運動の負荷がない状況下で人間の体物質をエネルギーに変えるときには、今度は脂肪は手つかずで残しておいて、まず「余剰な」筋肉からエネルギーにまわすほど人間の体の構造は「どれだけ脂肪をためこめるか」を優先度の一番目において設計されている。

「無為」は体脂肪に似ている。
意識しないで「知的」生活をおくれば、鬱病を起こして無為の状態を保存しようとすることがあるほど、人間の精神は「無為」を保存することに熱心である。
ものごとの本質を見極めようとする本人にとっては真剣な努力が、実際には、本人の意識からは見えない所で、潜在意識が画策した、何も行動を起こしたくなかったことへの言い訳にすぎないということは、よく知られているとおり、いくらでも例がある。

「考える」ということが一種の病であることを知っていたアテネ人たちは、議論以外の認識の深まり方を軽蔑した。
ローマ人に至っては、そのアテネ人を含むギリシャ語世界全体を「人間を怠惰にみちびく言葉」の体系であるとして、ギリシャ人の巧緻な修辞を娼婦が身に纏う宝飾品のように愛でて大切にするべきことを自分達の息子に要求した。
強固で鋭利な光をたたえた剣や実用の形にデザインされたヘルメットのようなものとは峻別されるべきことを教えたのでした。

友達から来た手紙のなかにあった「フクシマに直面した日本人たちのようにパニックのあまり防衛機制が怪物化して、自分の本能的な感覚すら知覚できなくなったら、われわれの社会は結局最終的な破滅に向かうしかなくなってしまう」という、(経済に関連して述べられた)一文を眺めながら、人間の知性とはなにか、どのような評価の仕方があるだろうか、ということを考える。
多分、食物獲得や外敵に打ち勝つツールとしてよりも76000年前のトバ火山の破局的な噴火(Toba supereruption)を生き延びる過程で形成され始めただろう「現実から乖離した言葉を伝って物事の真の姿」を見ようとする人間の強烈に特徴的な奇妙な意識のありかたは、少なくとも現代の現実問題を処理するには体脂肪のように働くか、あるいはもっと悲惨な場合は、密林にほんの少し開けた草地に出した小さなテーブルで、長い間文字通りの「机上の空論」に耽ったあと権力を握ったポルポト派に典型的に見られるように、現実から剥離した観念の化け物になって人間性を破壊することになる。

北村透谷という人の「哀詞序」には、よく全体を読んでみると、悲傷を述べているのではなくてただ現実の感覚を述べている「われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり」という驚くべき語句がふくまれている。

よく出来た人工の花と自然の花の区別を一瞥してではつけられない意識のありかたは、時に、笑い話ですまない深刻な現実と自分をつなぎとめる感覚の欠落を示していることがあるのかも知れません。

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