おとなという名前の圧制者たちについて

kki

子供にはきびしくすべきなのだろうか?

妹がむかし(9歳の頃だったと思う)つくった童話に善良でありすぎる両親が、おだててばかりいるので、純良であった王子様がだんだん増長してええかげんなひとになってしまい、それまでは才能ゆたかな妹に敬意をもっていたのに、それもなくなって、最後にはみかねた神様が巨大コウノトリを派遣して大空の向こうにつれてもどってしまった結果、妹が王子様の分も部屋をつかえるようになって、気分によって寝室を変えて眠れるようになったのでめでたしめでたし、というのがあったが、(そして、)
わしのほうは、過去には、ある朝目がさめたら、でっかいちんちんが生えていてショックのあまり植物人間になって昏々と眠ることになったお姫さまについての美しい物語を書いて妹をこわがらせて泣かせたりしていたので、特にあてつけなのではないかと考えたりはしなかったが、中国政府のひとりっこ政策などに絡めて、「甘やかされた世代が怪物ガキになって態度わるく暴れる」というような話を雑誌などで読むと、なんとなくピンとこないなあー、と思わなくもない。

カリフォルニアの友達の家に遊びにいって、彼が新しく購入した家の近所の話をしているときに、「子供を虐待している日本人の夫婦」という話がでたことがある。
手をあげるところこそ見たことがないが、4,5歳とおぼしき男の子をものすごい口調で叱りつけている、あれはきっと他人の目が届かない家のなかでは子供に対して暴力をふるっているに違いない、という。

日本にいたときに、「サディスティックな怒り方のおかーさん」というのは、わしも何度か見たことがある。
いちど、義理叔父が一緒のときに、大きな声で子供を叱責するお母さんに再び遭遇したので、
「あんな非人間的な怒り方では子供がかわいそうだと思う」と述べてみると、
叔父は、ちらと母子に一瞥をあたえただけで、涼しい顔で
「いや、日本じゃ、あんなもんだよ」という。
鎌倉ばーちゃんも、あんな感じだったの?とびっくりして聞くと、
「そんなことは、あるわけない」と矛盾したことをいいます。

バスクの町では、(夕飯を食べ終わるのがそもそもそのくらいの時間だからということはあるが)夜中の12時を過ぎてもチビガキどもが、ワインでへろりながら笑いさんざめいているおとなたちのテーブルのあいだを、こればかりは万国共通であると思われる、ヒコーキになったつもりのガキや、キャプテンアメリカのつもりのガキが、ぎゅーん、ばきゅーんとけたたましいエンジン音(多分)と共にテーブルのあいだを走り回っている。
おとなのほうは、一向に構わず、咎めもしなければ、笑いかけもせず、あたかも別の体系を生きている異なる時空間二層が重なって存在しているかのごとく、シカトしてオトナ同士の話に熱中している。
日本で目撃した情景と異なるのは子供のほうもまたオトナをシカトしていることで、
「わしらは違う生き物じゃけん」というオトナと子供の双方からの内心の声が聞こえてきそうである。

自分はどうだったかと言えば、チョーちびの頃はテーブルの上のチキンパイにいきなり顔をつっこんで眠ったりしていて猫以下の躾であったと思われるが、長じて7歳くらいの頃は、極めて礼儀正しいガキに成長していたのだとゆわれている(笑うなばかもの)

微かな感覚の記憶を手でずるずると引き寄せて思い出してみると、何か礼儀に外れたことをやって父親なり母親に指摘される(怒る、ということはなかった)ということは、たいへんにカッコワルイことと意識されていて、家族の食卓は寛ぎの場であると言うが、どうもわしは緊張してガッチンガッチンであったような気がする。
リラックスした気持ちで「寛ぎの場」になったのは、高校を卒業してからではなかっただろうか。

日本でも似たようなものではないかと思えて、トーダイおじさんが義理叔父をからかって、この人は昔から二重人格者で、と言う。
高校生の頃、お互いの家の話をしていて、うちのクソババアとかは自分だって高校生の頃は銀座のジャーマンベーカリーとかに通う不良だったくせに云々と悪態をついていたかと思ったら、それでは泊まっていけばということになって、家に電話する段になると、
「あっ、おかあさまですか」という挨拶で、その声音まで違うあまりの落差に、他の若き日のトーダイおじさんたちは、こけまくって、笑い死にしそうだったという(^^)

こうやって思い出してみても、声を荒げて怒られた記憶というのは、母親にかぎらず、学校まで拡張して考えても、いちどもない。
とぼけているのではなくて、自分で再検討しながら、やや、ぶっくらこいてしまいます。
ほお、と思う。

先刻の日本人母子を念頭におきながら述べると、ひとつには、文化の違いということもあって、声を荒げる(raise one’s voice)というのは英語世界では、たいへんに失礼で恫喝的なことである。
きわめて粗野な人間しかやらないことで、暴力的な態度とみなされる。
慎重に測りながら考えてみると、日本の普通の母親が子供を叱りつける口調は、英語世界の感覚に照らすと声を荒げた暴力的恫喝的な態度で、傍でみている人間の普通の感想は、子供がやりかえせないのをいいことに親が支配的な態度を恣にしている、だろう。
見ていて気分が悪くなる、と考えるだろうと思う。

昨日、日本のお友達たちと、最近は完全に「お友達たちのチャットルーム」化しているツイッタで話していて考えたが、子供に厳しい躾が必要であるとは、わしにはどうしても思えない。
日本の人というのは、経験に鑑みてそういう人が多いので、「だからきみみたいなダメなひとになってしまったのさ」と嘲る声が聞こえてきそうだが、別に自分ではダメなひとと思わないので、そーゆー声はどうでもよい。
仮に声を荒げて学校をぶっち(わしは実際よく学校をずるけて遊びに行ってしまったものだった)したのを咎めたてるような親だったら、荒涼の人生を生きて、わしはいまごろ歌舞伎町のケンシロウと呼ばれるようになっているのではあるまいか。

逆に、誰でも知っている、このやってられないほど酷い世界の現実を生き延びてゆくには、人間にはどうしても「ある絶対的にあたたかいもの」の記憶が必要であると思う。
自分を無条件に受けいれてくれて、腕の中に抱き取って、広い、すうっとするほど気持ちが澄んでゆくような感じのする胸に包み込んでくれるいつもそこに射しているあたたかな光に似た、自分の情緒の淵源のようなものがなければ、人間にとってまったく容赦が無いと感じられるこの世界を生きてゆけるわけはない。

未成年との性交が「合意」であっても現代の通常の社会では自動的に誘拐とみなされ最も悪質な強姦とみなされて問答無用なのは、未成年の女の子供の一生から、その女の子にとっての「自分」をまるごと奪ってしまうからである。
援助交際に応じる男はすべからく2万円なら2万円を餌に相手の人格を根底から破壊する権利を買っている。
ただひと晩の性欲の捌け口に女の高校生を商品として時間買いしている、という場合もあるだろうが、以前にも述べたインタビューでは「カネを払ってるんだから、もっと、一生懸命にやれ」と言葉にして要求して、性行動であるよりは実際に相手の人格を破壊する楽しみにひたる「客」のほうが多かったように思える。

どんな人間にとっても世界は荒野に似た場所で、そこを横切って、たったひとりで、見たことのない「向こう側」に向かう旅の途中には降りしきる悪意があり、足は嫉妬のぬかるみにとられ、休息を求めて話しかける他人はときに隙をついて襲いかかってくる。
犬が犬を食う、神の悪い息で澱んだ空気のなかで、人間がそれでも気を取り直して、また歩いてゆけるのは、かつて子供の頃世界が無条件に自分を受けいれて、自分の価値を認め、少なくともわたしたちにとってはあなたは特別だ、あなたは太陽だ、なんて素晴らしい人間だろう、と毎日間断なく言われ続けた記憶に拠るだろう。

それを奪われてしまえば、自分自身がなくなるのと同じことで、教条のような「生きる力」など自分の魂のどこにも求めようがない。

わしはどうしても、親に殴られ、あるいは教師に殴られて、あれは愛の鞭というものなのだ、おとうさんが自分を殴るのはぼくにしっかりして欲しいからなんだ、先生がみなの前でぼくの頬をはるのは、ぼくや級友のことを思ってのことなんだ、と自分に言い聞かせながら、それでも自分の手はいつのまにか、もう自分の目には見えなくなったほんとうの気持ちに腕をつかまれるようにして、お湯をはったバスタブのなかで自分の手首を切って死んでゆく高校生たちの姿を思いうかべてしまう。
世界を呪うことすらせず、暴力や罵声という形で自分を愛してくれた親や教師に感謝しようと努力しながら、みなの「愛情」にこたえて立派な人間になれない自分の無能力を呪って死んでゆく彼らのまぶたの裏には、たった一瞬でもいいから、おおきな腕のなかに抱きとられて、「まるで太陽のようだ」と笑いかける父親や母親の笑顔が思い浮かぶだろうか。

自分がここに、この地上にいるということは、無条件に良いことなのだ、というあの感覚を思い出して、幸福と安堵の気持ちがからだじゅうの細胞のすみずみまで行き届く時間がどんな人間にも必要であると思う。
その時間をもつことを妨げるほどの価値を主張できる社会など人間の世界にはありはしない。
教育がただの「組織だった傲慢」に変わってしまえば、そこから生まれてくるものは、ただ「訓練」によって裁断されて挽肉のような姿に変わり果てた「かつては人間であったなにか」でしかない。
自分でありながら自分であると感じることのできない、一個の失われた魂で地上をうめつくすために国家がつくった一種のロボトミー農場に化してしまう。

子供には自分がもっているだけの、ありったけの愛情をぶちまけてやるのが最もよい。少なくとも10歳くらいまでは、それがゆいいつの「教育」方法であると思う。
子供がおお声でわけのわからないことを叫んで巨大騒音発声器と化することは、おとながそれを大声で叱責していいという理由にはならない。
まして子供の入店を拒む飲食店など、かつて有色人種の入店を禁止した西洋人社会のレストランとどこに相違があるというのだろう。
子供とおとなは異なる人種だが、同じ人間である。
子供におとなと同じルールが適用できない社会は、要するに、人間性を踏みにじることに馴れてしまった社会なのだと思います。

(画像はスペイン=ガリシアの海辺で遊ぶガリシアンガキ。岩から岩へ飛び移って猿(ましら)のごとき兄妹でがした)

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5 Responses to おとなという名前の圧制者たちについて

  1. Mina says:

    誰もが赤ちゃんであった時、胸に抱かれて微笑まれ、
    愛情をぶちまけられて、その顔を見るだけで涙がでてくるような存在であったはずなのに。

    子供のしつけや教育、育てるのは大変な苦労、という大きな声にかき消されて、ただ無条件に子が愛おしく、いるだけで素晴らしい存在だという想いが何の後ろだても保証もないところから湧き上がってくることは、まるで幻想のように今の日本では扱われてる。
    子供にさえ賢く見られたい、ばかにされたくない、という親や指導者の批評家じみたさもしい考えが、日本を苦しめてる気がする。

    子への愛情にさえ理由や出典、見返りを求めてる。
    貧しい。

    親の子への愛情なんて、この世に唯一出血大大サービスしてもまだ溢れてきてしまうものなのにね。どうしてもったいぶるんだろう。最近目にするニュースは堪らないよ。

    私は母が出血大大サービスだったから、この世が生きやすいんだ。感謝してる。

  2. meke says:

    この「子どもを叱りとばす日本人の母親」とは私のことです。
    2歳の息子が涙目になって口をヘの字に曲げるまで罵倒してしまう。
    その後で抱き締めて「ごめんよ」と弁解するのがいつものパターンになっています。

    ガメさんが別の記事で(どれか分からなくなっちゃいました)
    厳し過ぎる日本人の親について述べられているのを読んで、
    2歳の男の子が泣き出すほどの暴言とは一体どれほどのものか、
    どれほどの恐怖なのか、
    考えてみてなんか泣けてきました。

    生活に余裕がないとか、これは躾なんだとか、
    言い訳はいくらでもできる。
    でも、だからといって、そんな悲しみや恐怖を人に
    まして大切な大切な自分の子どもに与えていいわけないです。

    国内じゃ、公共の場で騒ぐ子どもに対して風当たりが強く、
    わたしはそういう「世間の目」を気にし過ぎていたのかもしれません。
    出不精なんで、国外のことはあんまり分からないので、
    こういう記事のような見方もあったのか〜と思う次第です。
    ありがとうございました。

  3. hermestrism says:

    これは極めて良記事だと思う。

  4. hermestrism says:

    大人になって価値や何かを創造する時、必ず自分自身の目線を絶対としたPerspectiveに帰らなければならない。そして帰るときの故郷が、幼い頃の幸福な記憶、記憶それ自体と合わせ、時の流れと共に純度が高まった幸福の記憶そのものではないだろうかと思う。そして子供にはどうしようもない10歳前後までの親から与えられるものと言うのは、親の無意識の願望の投影ではないだろうか。

  5. くく says:

    私がぐずっている子供をあやしているのを見てた身内から、
    ダメなものはダメ、大人が言うことを聞けないと学校に行って困る、
    と諭されました。
    ブログを読みながら、そのことをふと思い出しました。

    私も自分がやりたいことより周りの目を気にするように
    教えられてきたんだと思います。そのせいかもしれません。
    自分から何かをしようと思っても、自信がなく、
    何かに止められる感覚が付きまといます。
    勇気を振り絞らないとコメントもかけない。
    やっと大人側になり、誰もダメと言う人がいないはずなのに。

    今は子供を、私が親に言われてたことは極力使わないように育てたいと試行錯誤中です。
    私にはないものを内に成長させているのを目の当たりにする毎日です。
    愛情を注ぐことは、何物にも代えがたいエネルギーになって子供に
    蓄えられるんですね。
    ガメさんの文章を読みながら、こんな道があるんだ、と知ることができて嬉しかったです。
    ありがとうございました。

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