自由という名前の檻と群体社会

eroski

まだこのブログを書き始めたばかりで「もんじゅ」がぶっとぶに違いないと述べて、日本固有の、傷つきやすい魂をもったひとびとから、「日本の技術の高さを知らないのか」「西洋人だけが原子力を独占しようとするのは白人のおもいあがりである」というお便りをもらったのは、あれはたしか2006年のことだった。
もんじゅは一定以上の期間運転すれば必ずぶっとぶというオモロイ設計の原子力発電所なので、いまはお休みでも、稼働の努力を続ける限りは、そのうち期待にこたえるとおもうが、そうこうしているうちに福島第一事故が起きて、こっちは「津波」という(自分にとっては)予測外のことが引き金であったので、ぶっくらこいてしまった。
もっともプロはプロなので、破局の寸前までいきながら何とか踏みとどまった福島第二と較べればわかる、福島第一の立地選定の杜撰さ、全体の施設も低すぎる位置にあるところに何億円だかの節約のためにつくってしまうといういーかげんさについては、初めから「いったい何を考えてるんだ」という声はたくさんあったもののよーです。

右傾化のほうは、日本語サイトにでかけてしばらく眺めていると、誰も実感としてはどのくらいひどくなっているか感じていないようだが、2ちゃんねる的な知恵で、「言ってはいけないことだが」と、つけくわえておいて中国を訪問して中国政府の狙い通りの発言をおこなった元首相を「国賊」というかつて日本社会全体を美しい愛国心でまる焼けにしてみせた昔のなつかしい言葉を使って呼ぶ大臣まで出てくるほどひどくなっていれば、船がどこに向かっているか判りにくい船内にいても、右側に見えなければいけないはずのオリオン座が左に見えていることにくらいは気が付きそうなものであると思う。
ここのところ英語世界やドイツ語世界が、もうためらいもなにもなく日本の政権を「極右」と呼んでいるのは、いまならまだ自分たちと一緒にやれるところまで戻ってこられるから戻ってこい、と呼びかけているので、こういうときにいつかここにやってきた小説家が悪態をついたような「自分達がいかにまともな国かみせびらかす」(^^;)ために呼びかけをしているわけではない。
中国政府を西洋人世界が激しく攻撃するのも、それが世界中の人間にとって危険な政府であると信じているからで、あの小説家が誤解したように「アジア人が劣っている」と感じているからとは違う。
世界中の人間の博愛・平等というようなノーテンキなことを述べているのでもなくて、中国のひとはどこの社会にも定着していて、いまの世界では中国人あるいは中国系人の友人や同僚をもたずに生活するのは、都市の多少でも知的な労働者にとっては不可能なことで、これだけ身近に中国人たちを知っていれば、石を投げようにも距離が近すぎて投げられない。
実際、両腕をのばして抱擁するほうがずっと楽な距離でわれわれは共に暮らしている。

日本人と日本政府は一体感の繭のなかにつつまれていて、状況がきびしくなればなるほど日本人は、その繭のなかで体制と国民が溶けあって、まるで群体
http://ja.wikipedia.org/wiki/群体
の細胞のように個々でありながら全体の部分としてのみ機能する、というのは、いまでは西洋世界でも常識に属するほど誰でも知っている。

へえー、そーなのか、という反応を示す人間のほうが数は多いに決まっているが、それは日本になど何の興味も無いという人間が圧倒的な多数だからで、めんどくさいが、すぐにいじけてしまうらしい、心根のやさしい日本のひとの心的反応を考慮してつけくわえれば、たとえばドイツであっても、ドイツって何やってる国だっけ? あー、そういえばBMWてドイツのクルマだったな、という程度の関心しかない人間などニュージーランドには山ほどいる。
ユダヤ人嫌いなんだよね、あのひとたち、とマジメなドイツ人が聞いたら心臓麻痺を起こして死にそうな反応のひとなど、m&mのチョコレートくらいありふれている。

安倍内閣日本についての感想は、バッキシ折れてしまいそうな状態の財政の主梁にゴジラが片足で立って踊ってみせる、というくらいの負荷がかかって、財務がもうどーもならん、はっはっはになってしまいそうだが、財政破滅が起こるか、経済が復興するかの時間的競争だろう。
いまの日本には工業製品で言えば品質の洗練だけがあって突出した技術がないので、市場では、たとえばソニーがいまの完敗の状態からサムソンとアップルに立ち向かって逆転できるのか、というと心許ないが、一方では産業世界全般の体力は高度成長期などとは比べものにならないくらい強いので、なんとかなる可能性がなくはない。

余計なことをつけくわえると日本の家電が売れないのは、ひとつには海外の生産拠点における品質管理能力が低いからであると思われる。
やってみるとすぐに判るが、豪州製のトヨタと日本製のトヨタでは同じ車種でもドアが閉まる音からしてもう異なっている。
プジョーやフィアットも同じ問題を抱えているが、たとえば南半球では最も生産地による差が激しいという定評のある三菱自動車ほどひどくはない。
BMWやフォルクスワーゲンはたいへんに海外工場の管理が上手で、中国製のBMWと南アフリカ製のBMWはほぼ品質的な差がない。
さらに言えばシンガポールのカルフールには最も安い髭剃り器として長いあいだ「セイコー社製の電動シェーバー」があったが、これは笑い話がたくさんできるほどひどい製品だった。
シャープがラップトップコンピュータで演じた失敗も有名だが「デザイン製造過程にタッチしないで名前だけを渡して利益をあげる」タイプの製品も日本製品全体の品質への信頼を著しく下げたと感じられる。

領土問題については、もっと簡単で「戦争になるか」「一挙に片がつくか」で、他の行き先は考えられなくなった。
中国は昔からそういう国で対中強硬派の政治家が相手の国にあらわれると、その国に対してはお行儀がよくなる。
ここで説明するのはめんどくさいので説明しないが、親中国政権が相手だと途端に態度が悪くなって強硬な政権に対しては、なんだか妙に行儀良く座り直してしまうのは、中国共産党であるよりも、中国という国の、もっと深いところに根ざしている反応であると思う。
それが「弱腰」なのかというと、そうではないのは、いまの安倍政権のスタイルをみて、アメリカが俄に尖閣をめぐる「限定戦争」を現実のものとして考えだしたところをみればわかる。
オスプレ配備が象徴的な出来事だが、アメリカは長い間とってきた固定防衛線戦略を
線ではなく係争域をもうけた機動防衛戦略に変更してきた。
前端の象徴がオスプレ配備ならば後端の象徴はダーウィンの基地建設だと思う。
オーストラリア軍の仮想敵国がインドネシアなのにあわせて「対インドネシア戦略」ということになっているが、そんな口実を信じる人はいないだろう。

ところで落ち着いて考えれば判るが機動防衛戦略がカバーする尖閣諸島は固定防衛線戦略の内側にある尖閣諸島よりも中国側からみれば限定戦争を起こしやすい状況下にある。
中国は初めの計算とやや異なってアメリカが尖閣防衛に本気なのが明瞭になったので、尖閣諸島を巡る限定戦争を起こすことの得失を再計算しなおさねばならなくなったが、中国側からは、尖閣諸島はもともと外交側に起因する問題では無くて中南海のミーティングテーブルから生まれた、内政問題ですらない、いわば宮廷内問題なので、それでも限定戦争を起こす余地はある。

アルゼンチン側が制作した映画やドキュメンタリを観るとフォークランド諸島戦争がサッチャーの企図どおりの限定戦争に終始して拡大しなかったのは、アルゼンチン側に早々と厭戦気分が起きて「やる気がなくなった」からであるのが良く判るが、日本のひとの場合はどうだろうか。
案外、仕掛けた中国側が呆然とするような国を挙げての「戦争マシン化」が起こるのであるかもしれません。

日本という船の船内にとどまって小さな(日本のマスメディアの殆ど悪意が感じられるほどの無能力によって)歪んだ風景しか映らない船窓から見える世界しか見えない状態で「自由」でいるためにはどうすればいいか、あるいは、もっとはっきり言ってしまえば「正気」でいるためにはどうすればいいだろうか、とときどき日本に残ると決めた日本人のつもりになって考えてみることがあるが、それは結局、「自分が囚われないための小さな檻をつくる」という奇妙な作業に帰着する。
前にも述べた通り、ソクラテスが処刑されたのは、簡単に言えば、ソクラテスひとりが正気で残りの民衆はすべて狂気にとらわれてしまったからだった。
種明かしをしてしまえば、このブログ記事には何回もでてくる件の「狂泉」の話は、ソクラテスが処刑されたような状況は東洋にはなかったのかと義理叔父に尋ねて、義理叔父が思いついた例が「狂泉」だったのだが、いずれにしろ、
自分自身の知性を檻に閉じ込めて、酸素の吸入管とコミュニケーションケーブルを英語世界の海上に連絡して、じっと息を潜めて回りで起きている事を見つめているしかなくなってゆくかもしれない。

インターネット以前は、そんなことはありえないことだったが、(出典をみせろ、そんなことが権威のある活字でどこに載っていると騒ぎ立てるのが好きな出典バカの群蝗のせいで)、せっかく海外に住んでいる日本人たちが述べることや(あるいは最近ではもう予測がつく展開にうんざりして口を閉ざしてしまう人も多くなったので)述べるのをあきらめてしまったことを日本にいても見聞きする方法はあって、たとえば英語国の町町ではクルマを運転する習慣に支えられて、いまでもたくさんのFM局が営業しているが、たいていは3人くらいの若い衆ないし30代くらいの人びとが冗談を言い合いながらすすめるのがスタイルのそうしたプログラムはほとんどすべてがインターネット上にストリーム配信している。
日本のひとり語りが多いラジオ番組とは異なって殆どが音楽だが、一日の夕方というような頃になると、トークショーがある。
そういうものを聞く習慣をつけるのはよいことであると思う。

同じ英語メディアでも、主要メディアのとりわけ「インターナショナル」と名前がどこかにつくようなものは、通りいっぺんというか、公式見解みたいなものばかりが多くて、面白くないのではないかと、わし自身は感じます。

翻訳された本や日本語サブタイトル付きの英語番組などは、最もやめたほうがよい。
そのくらいなら読むものも日本の平安後期くらいの本に限ってしまって(^^)、
そのあいだに英語でものを考えられるようになるようになんとか自分をもっていったほうがよいと思う。

自由の檻がなぜ英語でつくられなければならないかというと、英語は反英語人もこの言葉で反駁する。
ありとあらゆる考え方が渦巻いているのがいまの英語世界で、世界中の「知」と向き合い議論するためには英語が最も適切だからです。
いわば、ここでいう「英語」は「外国語としての英語」のことを言っている。
当然、本などには頼れずにインターネット上のフォーラムや、いま思いついたものであげればexpat siteのようなものが日本の人が必要としていて、しかももともな情報が得られない状態を解決するのに良いと思う。

嫌なことをいうとドイツが経済の徹底的な不調のあと、愁眉をひらく経済の勃興をみたのは、ナチの国家社会主義経済によってだった。
日本の戦後経済の急成長を主導したのも、ちょうどケインズ主義者の宮沢喜一が1986年に大蔵大臣に就任するころまで体制が続いた国家社会主義経済で、日本人にとっては「見覚えのある判りやすい世界」に日本の社会は一周して戻ってきたのだということができそうです。

だから、個人が一個で全体であろうとする魂にとっては、精神の原形質が流動して他人の精神と混じり合うことを強要される群体社会の到来は「悪いニューズ」であると思う。
いまのうちに檻の綻びを修繕して、時代の強い潮流に檻ごともっていかれてしまわないように慎重に固定して、これからの20年間に備えなければならないだろうと思っています。

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