ヨクマナビ ヨクアソベ

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ヨクマナビ ヨクアソベ、は第四期国定修身教科書に出てくる言葉で、
ヨクマナビ ヨクアソベ、ジコクヲマモレ、オヤノオン、チュウギ、ヨイコドモと続く。

日本にいるときには、「仕事も遊びも真剣におもいきりやる」というひとに多くあって、なにがなし、うんざりする気持ちにさせられたものだった。
学ぶよりも遊ぶほうが人間にとっては大事なのは自明だが、もう少しよく考えてみると、「遊ぶ」ことから分離した「学び」などは言わば退屈な労働であって、そんなものを一生懸命やっても何の足しにもならないどころか有害である。

だから国が強制して使わせたこの教科書はたった一行に奇蹟的なほどの蒙昧がつめこまれているので、どうしても懸命になにかやりなさいと述べたいならば、
ヨクアソビ、ヨクヤスメ
とするのが、まだしも正しい表現であると思う。
もっと正鵠を期すると人間はがんばってしまったりすると碌なことはないので、
テキトーニアソビ、ノコリハ ゼンブヤスメ
くらいが正しいのだと思われる(^^)
子供などは自分に適性があることを目の前にぶらさげられると、ほっといてもアフターバーナーに火がついて、それこそ眠る間も惜しんで没頭するので、オトナの口から、
ヨクアソビ、だの、ましてやヨクマナベ
などと、大きなお世話もよいところである。
そういうことを言うからオトナは常に子供に軽侮される。
救い難いバカだ、と思われているのです。

そういう軍事教練みたいな「学ぶ」ことへのアプローチはもってのほかで、せいぜい我慢強いだけの独創もなにもない「社会の丈夫な部品」が学校教育を通じて「錬成」されるだけだが、それにしても「おもいきり仕事をしておもいきり遊ぶ」と述べるひとの、あの粗野な感じ、名状しがたい卑しい感じは、どこからくるのだろうか?

自分のことを考えると、両親に「もっと勉強しなさい」と言われたことはいちどもない。
わしに限らず、級友のどの顔を思い浮かべても、「もっと勉強しろ」と言われたことはないだろうとほぼ100%の確信をもって信じられる。
もっと遊びなさい、のほうは言うまでもないというべきか、ただでさえ遊びほうけているやつに、そんなことを述べたら、火に油、反日に燃える中国に靖国参拝であって、どのくらい無茶苦茶なことになるか判らないような判り切っているようなものなので、そんな怖ろしいことを言われた事はもちろんありません。

とつおいつ、もどったり、いったり、アフガンを食べたり、コーヒーを飲んだりしながら考えてみると、それは内心の声として聞こえてくるべき言葉であって、外側から、まして社会の側から述べられてよいことではないのに、「ぼくは仕事もがんがんやるかわりに、遊ぶのも一生懸命やります」というひとの言葉は、「社会からの要請」を個人が述べているに過ぎないので、どうも猛烈に何事かに「励む」ひとというのは言わば社会の要請を一点に集める虫眼鏡のような機能をもってしまっているらしい。
自分自身の魂がささやきかける声が、社会の要請の声にかき消されてまったく聞こえなくなっているひと、と言えばいいだろうか。
努力家、というものが、どういうタイプの努力であっても、なんとなく品が悪い感じがするのも、どうもそういうことと関係がありそうだと思う。

よく働き、よく遊ぶひとが家族と休息して芝生の上でごろごろしたり、チビ犬と日がな一日遊んだりするイメージがもてないのは、その延長で、「よく休む」という社会が決して要請しない一方で人間にとっては最重要の意味をもつ時間の価値を認識できないからだろう。
がんばりすぎる人は、肉体に負荷をかけすぎることによって大病をし、精神に負荷をかけすぎることによって自殺するが、がんばるということそのものが自分の「内なる正直でしかいられない自分」にとっては悪徳でしかないことに気が付かないので、回復するとまた「がんばって」しまったりする。
まわりにも「がんばる」ことを期待しているのが黙っていてすら判るので、職場や家庭においても迷惑きわまりない存在である。
百害どころではなくて、呼吸する厄災であるといっても過言ではないと思う。
はた迷惑、という言葉を思い出す。

「内なる正直な自分」が、自分を保持している肉体と精神がものごとに集中してもよいと思っているかどうかは、よく知られているように、「時間があっというまに経ってしまうかどうか」によってすぐに判る。
だから自分の間尺にかなった時間を過ごすひとにとっては人生は一瞬である。

何度もこのブログ記事で述べた「聴き取りにくい声」のうち、最も聴き取りにくい声は、自分の魂が発する声であると思う。
われわれは社会的動物である上に、社会性を強めて肥大させる文明をもってしまったせいで、現代に至って、自分の「内心の声」などは、どんなに必死に耳を傾けても聞こえなくなってしまっている。
畸形なほど発達した社会性は、もはや人間が個人でいることを許さなくなっているように見えることがある。

穐𠮷敏子は「自分にやさしくしなければならない」「だから私はバンドを解散することに決めました」とステージの上で述べて、皆を感動させたが、その通りで、どこかの時点では問答無用で自分にやさしくしなければ、日常的に酷使に耐えて、なんとか非人間的な現代社会に魂を適応させようと根を詰めている「ほんとうの自分」は、ほとんどの場合、精神も肉体も見放して立ち去る寸前にある。
ただ、自分が共に歩いてきた肉体と(意識された)精神への愛おしさだけで一緒にいてくれている。

ヨクマナビ ヨクアソベなどは世界中共通に軽薄な思想しかもたない軍人の考えることである。
人間が人間に立ち返るために必要なことは、根を詰めて下を向いていた顔をあげて、労働の美徳などという新教徒が発明した今出来の愚かな徳目を捨てて、ゆっくり休むことでしかない。
そのとき初めて、「内なる自分」と世界は和解して、昨日までの戦場も、よく見てみれば、やさしく人間を包み込む田園であることに気が付くのだと思います。

(画像は大陸欧州の高速道路を走っていると頻々と見かける「風力発電タービンの羽根」。見かけるたびに人間はテクノロジーの過渡期には奇妙な技術的アイデアに頼ろうとするものだなー、と感慨にひたりまする)

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