近況報告に名を借りて

NS1

むかしはフリップフロップをはいていたが、めんどくさいので、この頃はたいてい裸足ででかける。
ときどき剃ってさっぱりするが、モニにいいかげんにヒゲを剃りなさい、ちくちくして痛い、と言われるまでは顎も口のまわりも頬も細い毛のヒゲがもじゃもじゃで、ボートで海に出て帰ってきたりすると、太陽で色がまだらに褪せている(^^)

ゴジラが踊り狂っている赤い影や「神様!セクシーすぎるおいらを許してね」ちゅうようなデタラメなプリントのTシャツを着ているのは、シルクスクリーンでTシャツの柄を刷るのが好きなせいである。
日本語ではショーツという言葉の意味がヘンタイなせいで、読んでいる人はずっとわしがニッカーズ(アメリカ風に述べればパンティ)を穿いて町を歩きまわっていると思っていたそうだが、そうではなくて、ショーツはどういう適切な日本語があるのかわからないが半ズボンなのか短いパンツなのか、ともかくショーツで、でっかいサングラスをかけて、耳からたいていの場合、白いアイポンのイヤフォンのケーブルがぶらさがっている。

結構うるせー音量だが、どんな音楽が鳴っているかというとSalif Keita,
AmansalvaとかNelly Furtado,Areski、Thione Seck, Sinik, Rihannaちゅうような雑多な音楽であるよーだ。
大陸欧州のクラブミュージックが多いのであるかもしれません。

Remueraの道を降りて、タマキドライブへ行くことがある。
海岸のカフェのどこかに寄って、無茶苦茶に冷えたソーヴィニョン・ブランを飲む。

小さい人が現れてからは、しかし、家の庭で遊んでいることが多くなった。
建物から離れた庭の下のほうにあるガゼボでシャンパンを飲みながら、モニさんにラブレターを書いたり、いいとしこいて詩を書いたり、モニ以外には誰にも見せない絵を描いたりする。
今朝は水彩でボヘミアンドレスを着て弓矢をもった天使がSavio Firmino風のカウチに半身を起こして横になっている絵を描いてモニに褒められた(^^)

あるいは芝生の上にだしたラウンジャーに寝っころがって、どんどん形を変えながら流れてゆく積雲や、双眼鏡のなかに映る月の表面をみている。

実感としてニュージーランドの物価はこの20年で3倍くらいになったが、ニュージーランドは、どう述べるのが最も適切だろうか、生活のスタイルそのものがオカネがかからないように出来ているので、東京のように「なんだかよく判らないのにオカネが減ってゆく」ということはない。
なにをするにも、というよりも、なにをやっていてもたいしてオカネはかかりません。

オダキンのtumblrを見ていたら、自分の「金銭講座(その3)」の記事が出ていて、
「rAdio-AktiV(brettspieler)」という人が、
「でもこれ、社会性や公共性に考慮して公正にやらないと、ただの「非対称性の濫用」に陥ってしまうんだけど、「ビジネスとはそういうもの」という「現実主義」で押し通すことの何と多いことか。」
とコメントをつけている(^^)
オモロイやつ、と思ったが、よく考えてみるとちょうどさっき書き終わった「金銭講座(その4)」は露骨にアベノミクス下の日本経済でふつーの人が自分の現金財産を防衛するために焦点をしぼった株式売買講座で、零細凍死家たちがどういう「定石」にのっとって「何をやらないか」を考えるかについて書いたもので、社会性や公共性に考慮して公正にやらないと、著しい「非対称性の濫用」になってしまう記事なので、げげっ、とおもった。
うーむ。じゃ、1から3までの金銭講座も削除すっか、と思って記事を見たら、今度は「日本人はあなたのようにお金儲けばかり考えている人間は少数派なので、こんな記事はみたくもない」ちゅうようなコメントがふたつ来ている(^^;)

うーむx2。

考えてみると、これは神様が「あんまりカネモーケの話なんて下品な話をするとビンボ神を使わしておまえの富を召し上げてくれるわ」とゆっているのだと思われるので、もうブログで金銭の話をするのはやめることにした。
わしは日本がらみの投資に手をだしたことはないが、ゲームの勝ち方を考えつくと、現実に適用するとどういう結果になるか見たくてしようがない。
定石のあとにちょっと書いたように、おもしろいことに気が付いたので、これはやってみたいが、自分ではあんましやる気がしないので義理叔父にゆってみると、
「あっ、ぼく非対称だいすき。ちゃんと公共性に考慮して公正にやるから、ガメ、それおれにやらせろ。すごく儲かったらアイス買ってあげるからね」というので、記事を注釈と一緒に送ったら、よろこんでおった。

しかし、この「rAdio-AktiV」というひとがいうのはほんとうで日本では公共性と公正が大事で皆がひとしく儲からねばならない。
わしにもクレクレの国である。
危うく日本語を書いているのに日本の人の道に外れるところであった(^^;)

日本語でなにかを書くということは、それが論文であれ、小説であれ、祈りの言葉であれ、要するにただのムダであると思う。
何度かこのブログでもツイッタでも書いたように日本語は崩壊の過程にあって、何年か前には「普遍語としての地位を失って地方語に転落する可能性がある」といろいろな人が論じていた時期をすぎて(ちょっと現実に起きる事だとは信じがたいことだったが)ほんとうに地方語に転落して、いまの地位は、だいたいトルコ語くらいの地位であると思う。

普遍語と言って通常思い浮かべるのはかつてのラテン語や現代の英語だとおもうが、ここでは厳格な意味で使っているわけではなくて、「外国語を習得しなくても、母語だけで世界でいま起きているエッセンシャルな出来事を同時的に考えることができ、世界に対して影響を与えることも世界から影響を受けることも可能である言語」というほどの意味でいいと思う。
トーダイおじさんたちに聞いても、たとえば当時は(世界中で)最も一般的な初心者向けの生化学の入門書であったコーンスタンプが英語版で第7版であった頃に日本語は第2版であったそうで、英語で生化学の教科書を読む力のない学生は4倍くらいの価格の日本語版を買わされた上に、わざと改訂されたところを狙って出題する教官の意地悪な出題に苦しまねばならなかった(^^)

しかし、そのくらいの差ならば日本語を普遍語に数えることの支障とは言えない。
よしもとばななが日本語で考え、日本語で感じたことを、日本語で書き綴った「TUGUMI」は、イタリア語に訳されて、イタリア人たちの圧倒的な共感を得て、ベストセラーになったし、いくつかの文学賞もとったはずである。
ドラゴンボール、ドラゴンボールZは共感どころか、当時のガキどもの「かっこよさ」の世界共通の基盤をなすほどだった。

ツイッタにときどき木葉功一という人が遊びにくるが、この人を見ていてうらやましいなあー、と思うのは、この人がマンガ家であることで、おいおい説明できると思うが、日本語自体は地方語化しているがマンガとアニメの世界は、まだその全体として普遍的な表現を維持していると感じられる。

詩と異なって文章は基盤になっている社会の「常識」に大きく左右される。
いつか古本屋で100円で買った日本語の小説を読んでいたら、子供の頃から仲が良かった主人公の友達が、友達が常々自慢していた「世界一安全な」ドイツ車で起こした事故で死んでしまって、皮肉なことだバカな奴だった、と言いながら「笑って」もうひとりの友達に話すシーンが出てきたが、この種類の「悲しい冗談」という習慣をもたない英語の世界では、この物語の場面はなりたちえない。
なんという冷酷な男だろう、という反応が得られるだけで、作者がめざしたと思われる、淋しい、人生の無常という感覚はそこにはない。
細部においては更にそうで、主人公が来客を迎えて「おい、お茶も出さないのでは、こいつに後でなんと言われるかわからないから、お茶くらい出してやってくれよ」と冗談を述べても、英語世界の読者は、「自分で淹れないのか。なんという非道い夫だろう」と思う。そういうことがいちいち気になって、物語どころではなくなってしまう。

「日本語でなにかを書くことがムダだと言いながら日本語のブログ記事を書き続けるあなたがわたしは許せない」という人が、過去通算10人くらい来たが、わしは生まれてからこのかたムダなことしか熱中したことがないので、このひとたちの指摘はいかにも的外れである。
曲をつくるのが好きで、一日に1個はつくっていた。
高校生のときは、たまたまパーティに来ていたギョーカイ人からプロになったほうがいいと言われたこともあった。(ほんとよ)
ところが、自分で作った曲を他人に聴いてもらったのは、そのときが最後で、そのあとにつくった膨大(はちょっとオーバーだが)な量のチューンは、せいぜい大好きな女びとに聞かせるくらいで、あとは誰にも聞かせていない。

他人に見てもらえる自信がない、という人がいるが、わしはチビガキの頃から可愛げのない自信の塊であって自分に出来ない事はないと思っていた。
鼻持ちならない、と言えば、まったくその通りで、人生を生き延びるのはたいへんなことなのだ、と言う人がいると、マジメな顔をして頷いているが、ほんとうはふきだすのをこらえるのに苦労しているのである。
オーバーな奴、と思う。
人間が裕福に食べていくくらいのことは、普通の人間は二割ほども力をだせば、一生豊かに暮らせるくらいのオカネは稼ぐものであると考えるし、現に、そういう人間はごろごろしている。
テキサスのJなどは16歳のときには当時は第1世代(第0.5世代)だったプロバイダで10億円を越えるオカネを稼いでいた。
巨大なプールで有名なJのバカバカしい大きさの邸宅は、Jが18歳のときに購入したものだった。
そういう他人の事例を考えても生活に必要なオカネを稼ぐことにそれほどの困難があるとは思えないような気がする。

オカネという例はやや貧弱だが、オカネを作ることに較べれば熱中できる「役にたたないこと」のほうが遙かに価値もあれば困難でもある。

どこの国でも日本語を学習するひとは、大学教育であっても職業訓練的な色彩が強くて、少なくともオーストラリアやニュージーランドでははっきりと「収入が高い職業につけるから」という理由で勉強をはじめる人間が多かった。
特にジャパノロジストが多いドナルド・キーンの世代のひとが職業目当てではないのは、対日情報活動のために、語学の才能がある学生を半ば強制的に日本語コースに進ませたからである。
その他の事例ではほぼ動機は「より高い収入とよりよいポジション」だった。
(最近はアニメがきっかけの学生もいると思うが、調べたことがないからよく判らない)

わし自身の日本語は、ではどういうものかというと、「日本語で考えてみたかった」というだけの動機だった。
選択の理由は簡単で、もっとも近しい友人がたまたま従兄弟であって、このひとの父親が日本人だからである。
日本に子供のとき住んでいたことがあって、やたらチヤホヤされたので味をしめた、ということもある。
もうひとつ、これはずっと後のことになるが西脇順三郎瀧口修造くらいから始まって岡田隆彦に至る日本の戦後現代詩の魅力にとりつかれた、ということを挙げてもよい。

自分の頭のなかでは日本語が自分が習得した他のすべての言語と異なるのは、他の言語がすべて会話から始まって、というよりもフレーズから始まって、だんだんフレーズが集合して会話になって、つじつまのあわないところは文法で修繕して、というように「音」ばかりで出来上がって、書いたり、まして読んだりは最後であったのに、日本語はそうでもないところで、
聞くこと、話すこと、書くことの順に楽で、読むのがいちばん億劫なのは他の言語と変わらないが、ときどき頭のなかにちゃんと日本語の「音」ができあがっていない気がすることがある。

多分、わしがこのところずっと感じている日本語習得における失敗は、この音よりも書かれたものが先行したやりかたにあったと思う。
そろそろ日本語が上手になるのも限界かなあーとおもうと、淋しい感じがする。

以前に較べると、だんだん日本語や日本の社会から距離を感じるようになってきたのは、やはり福島第一発電所事故のせいであると思う。
オダキンにはたったひと言で気取られてしまったが、去年ラスベガスに行く直前
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/08/06/初心者のためのラスベガスガイド/
は、自分では珍しいほど気持ちが重かった。
そのときは気が付かなかったが、モニが言うように、「もう日本に二度と旅行にいけなくなった」ということが重く心にのしかかったのだと判るようになってきた。
笑うべき放射脳で、中川恵一先生が聞いたらきっと腹を抱えて転げ回るだろう。
むかしからずっとこのブログ記事を読んでくれている人は知っているが、わしはもともとたいして日本が好きだったわけではない。
逆に大遠征の最後、遠征5回目にあたる2010年の5ヶ月の長期遠征ではいくら隠そうとしても日本にいるのが嫌で嫌で仕方がないのがみなに判ってしまったようで、日本の友達たちを悲しませることになってしまった。

結局日本という不思議な国が好きだったのではないだろうか?
あれほど嫌なところを見ても、現実に出会う日本のひとには、政府の公務員、という立場のひとですらも確かに「社会の部分」ではない「自分という全体」であるひとがいて、そうであるのに、自分が磨滅してゆくのを感じながら、それでも必死で短い睡眠や過労死しないほうが不思議な労働環境に耐えて、しかも国民全体の白眼視にすら耐えながら、ただ自負心にだけすがって働き通すひとたちがいた。
ところで、収入はばかばかしいほど低く、上司は組織人としてうまく立ち回りたいだけの人間が揃っていて、しかも肝腎の「国民」にすら罵倒されながら (具体的には、午前4時に疲労困憊して帰宅のために乗り込んだタクシーで「あんたたち役人は若いのにタクシーに乗れていい身分だよねー。女にももてるんだろ?うまいことやって、うらやましいよ」と言われたりするのだそーでした(^^;) )、目の下に文字通り隈をつくって働くようなひとびとがいる風景は、アジアも西洋も問わず日本だけのものであると思う。

そこには、東アジアの、そのまたいちばん隅っこで、震えるような思いで、必死に自分のアイデンティティを守ろうとしてきた集団に生まれついた気持ちがやさしい若者の、自分の「仲間」に対する強い愛情があるのでなくてはならない。
そうでなくては、説明ができない。

当時は厚生省、という。厚労省の20代の若い係長が過労からくる鬱病で自殺したとき、「えーかげん政治家のチャンピオン」橋本龍太郎が突然未亡人になった女びとに電話してきて、「私は面識はありませんでしたが、お名前は伺っていました。あなたの夫は立派な人だった。日本にどうしても必要だった人が死んでしまった。それをお伝えしたくて電話しました」と言ったまま受話器の向こうで声を押し殺して泣く声がしたというが、わしから見れば、名利もなにもなく、ただ「お国のため」というダサすぎてものも言えない信念にしがみついて、ただ自分と同族の「日本人」の幸福を願って、ダサい田舎者らしく、馬車馬のよに働いて、自殺するしかないところまで追い込まれた若い公務員が得たものは、見ず知らずの政治家の死後の電話だけだった。

日本という爪先立ちの背伸びをして、胸を反らしかえって、突っ張れるだけ突っ張って来た国は、そういうひとびとによって保ってきたのではなかっただろうか。
そうして、そういう光景は、日本から遠い所からやってきた一外国人には、不思議を通り越して、沈黙だけが解説しうる光景であると思う。

その、静かで鮮やかな悲惨について、まだ考えることがあるのでなければならない。

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4 Responses to 近況報告に名を借りて

  1. odakin says:

    60億分の1のプレイヤーに(というか人間というものに)「社会性や公共性に考慮して公正に」やることが可能、なんて思ってるようなそんな民主制も経済学もサイエンスも(世間様(笑)や他人の心の不可知性も)感得してない(3周遅れのマルキストと儒教道徳のアマルガムみたいなw)阿呆のいうことを(ガメさんみたいに幅広い経験を積んだ人が)なんで気にするのか、それが不思議でならない。。
    おそらくは成功した人が成功したジャンルについてもっと若い人に「こうやるんだよ」って教えてあげる事に対する強い強い含羞があるのだろうし、それはガメさんのよさでもあるなぁと思うけれども、また気が向いたらオカネの話もしてもらえると、読んでるこっちとしては嬉しいです。(午前中ネット厳禁、を破って書いてしまったw)

  2. nemurigashira says:

    眠り頭にござんす。多分これのひとつ前の記事に自分のこと(あれワイのことやんね?)がちょこっと書いてあったので、ちょう嬉しくて何かコメントを残そうと思って文言を考えておったら残念にもその記事がいつの間にか消えてしまってた。ツイッター遡って見てみたらなんか変な人らが来てたみたいですね。今度見つけたらおれが「アホ」といってやります。読みたくないなら読まなきゃええのんに。きっとヒマを持て余しとるんでしょう。 あ、そーいえば 「カメハメハメ」の修行進んでまっか?
    ちなみにわすが小学生の頃、学校の帰りに近くの神社でかめはめ波の練習してからどんぐり拾って帰るのが日課だったんよ。友達は波動拳(別ジャンル)の練習しとって、かめはめ波と波動拳どっちがすごいかで口論になったりしてたw

    (今回の記事とあまり関係の無いコメントで御免なさいね。日本語練習帳に自分のことが書かれてたのが嬉しかったと伝えたかったのでした。)

    それではまた。

  3. mint says:

    学問とは「役に立つものでなければならない」と考えている人に、役に立たないからこそ学問なのでしょうなどと言うと、怪訝な顔をされます。たまたま、医学や薬学のように、とっても世の中の役に立つ学問があるのでまた困ります。それで肩身が狭いと感じる基礎科学や数学の人などが、自分の研究は今は役に立たなくてもいずれ科学の発展に役立つかもしれないなどと言ったりするので、そんなお役に立つ可能性など永遠にない文学などはますます片隅で俯いているしかなくなります。役に立たなくてもいいでしょう。だってそれが学問だから。

    ガメさんは、日本語で書くことがムダだからこそ日本語で書いているのでしょう。日本語を学んでもあまり役に立たなくても、日本語学習者が減っても、それでも日本語を書き続けているのは、それはつまり「役に立つ」という価値観とは別のところで書いているからでしょう。日本語はいつか暗号みたいなものになってしまって、解読できる人たちだけがひそやかに読みかわすものになるのでしょうか。

    つまり(なんだか論理に飛躍があるような気がするけれど気にしない)、ガメさんにはこれからもムダであるからこそ、お金のことも、それ以外のことも、日本語でずーっと書き続けてほしいと思っています。

    • mint says:

      追伸 
      言うまでもありませんが、ガメさんのブログは私にとってはムダでもないし、役にも立つし、とても貴重で大切なものです。あまりにも自明なことだと思ったので書かなかったのですが、やはり書いておこうと思いました。

コメントをここに書いてね書いてね

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