「欧米」という幻

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日本が本来もっている文化的な肉体と取り入れてきた外からの文化の不整合は、ほとんど無意識のようにして、普通のひとは職業を通じて知っているものである。
編集の仕事をしている女のひとが、ガメ、連雀町で蕎麦おごってやるよ、というのでついていって話をしたことがある。
表紙のデザインについて話していたときに「表紙をほんとに洗練されたデザインにするのって良い考えじゃないのね」というので、不思議に思って理由を訊いたら「日本語がはいると、それだけでデザインが壊れるから」という。
「デザインの人間にとっては常識だと思う」

日本語が絵柄にはいると完璧なデザインは望めないので「強いデザイン」を考える、という話を聴きながら、そういうことを「織り込み済み」の条件として仕事をするのはたいへんだべな、と考えたのをおぼえている。

日本人は着物のほうが似合う、というと侮辱されたように感じるひとがいるのは知っている。
言っているほうのオタンコナスガイジンたちのほうも機微を察知して、このごろは、あまり言わなくなったのではないかと思う。
若い人には洋服が似合う日本のひともいて、特に細い薄いシルエットが好きな十代の女の子たちには、日本の女びとは返ってうらやまれたりする。

前にも書いたがサンフランシスコの住宅地の道を歩いていたら、目の前を着物を着た女のひとが歩いていて、その歩く姿の美しさにびっくりしてしまったことがあった。
東アフリカの民族衣装には背の高い女のひとが着ると、その場に居合わせたひとがどうしても抗いがたい力でみてしまう体(てい)のデザインのものがあって、黄色を基調としたロングドレスに身を包んだそのエチオピア生まれの女のひとを、モニもわしも、パーティにいたひとはみな、感動するような気持ちで見つめていたことがあったが、表面の形象の美しさを越えて、時間の向こうのずっと遠くからまっすぐにこちらに向かってやってくるような美しさで、着物にもやはり同じ力がある。

ポール・ジャクレーの浮世絵のおもしろさは、浮世絵という日本の伝統木版/絵画と欧州人の感受性と熱帯の習俗という遠く離れた3つのものをひとつの作品のなかにあわせたところにある。

http://www.artelino.com/articles/paul_jacoulet.asp
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/ポール・ジャクレー%E3%80%80(paul-jacoulet/

いまの日本文化のおもしろさは、たとえばポール・ジャクレーの浮世絵のおもしろさに似ている。
若い頃のDavid Bowieのステージ衣装をデザインしたりした山本寛斎
http://www.carteblanche-x.com/blog/2011/06/04/the-musician-and-the-designer/
のように意識して歌舞伎などの伝統文化をとりいれたひともいるが、
Yohji Yamamotoのように、欧州と日本という遠く離れたふたつの文化が昇華された、しかし歴然とした形で顕れていることもある。
http://meetthedesigner.co.uk/2012/12/meet-the-relentless-yohji-yamamoto/

言葉の世界でも西脇順三郎などは、日本語の側に「かるみ」を与えることで、日本語と欧州語という何光年もと呼びたくなるくらい離れているふたつの言語の懸隔をうまく利用して根源的な「存在の寂しさ」を表現することに成功している。

マンガやアニメは言うまでもなく日本の奈良時代以来の長い絵巻物や他の物語性のある絵の伝統が戦後に日本に洪水のように流入したハリウッド映画と、ウォルト・ディズニー、より重要なのはいまの日本のテレビ番組表からは考えられない数のアメリカのテレビ番組が出会って形成されたものだが、そこに登場する目が異様におおきな登場人物というような「どこにも存在しない人間」は結局は具体的な形象を伴わざるをえないアニメのなかで遠くのものを結び合わせる、普遍性への自然な工夫なのだと思う。

芸術の世界ではうまくいったが、社会のほうではそれほど成功したとは言えなかった。
森鴎外などを読んでゆくとわかることは、欧州の社会システムや軍事、学問を「吸収」するために欧州へ派遣された日本の選良たちには一種の自分が「選ばれた者である」ということから来たらしい「軽薄さ」がつきまとっていることで、欧州人で森鴎外のある種類の体験談の半分以上が作り話、あるいは「言わない部分が途方もなくおおきい」影を切り取った話の数々であることに気づかないひとはいないだろう。
自分の見てきたことを正直に述べたのは夏目金之助漱石ただひとりで、あとはみなウソツキであると言ってもよいくらいであると思う。

この頭の働きはよいが物事の理解が深いところまで届かなかったという意味で軽薄な青年たちは、日本に歴史上珍しいほどの惨禍をもたらした。
「富国強兵」というような名前の下に輸入されたただひたすら機能化をめざして人間を抑圧する「欧州」は、欧州人の目からみると、どこにも存在しない欧州で、西洋が「輸入」した日本の文化でいえば、ニューヨークのマフィアがニンジャの暗殺手法を研究したような奇妙なものだった。

最も典型的なものでいえば「時間の感覚」があるだろう。
19世紀は英国の歴史のなかでも特殊な時代で、「時間厳守」ということが流行のようになっていた奇妙な時代だが、日本にはその「時間厳守」の流行が更に誇張された形で導入された。
プロイセンはなにしろ北ドイツ連邦をつくりはしたものの来年は周辺国にひねりつぶされるかもしれないという緊張のなかにあったので、「すべては国家のため」という準軍事体制をとらざるをえない特殊社会だったが、日本はこれを恒久的な欧州の一類型なのだと受け取って輸入してしまった。

日本のひととオペラや古典音楽の話をすると、すぐ「ワーグナー」「モーツアルト」と言われて苦笑を我慢する。
ちょうど「ビートルズは素晴らしいですね」という人にたくさん出会ったり、「アバってごぞんじですか?」と言われるのと感じは似ている。
ワーグナーもビートルズも、それは「良い」に決まっているが、あんまりそういう名前を褒めるのは、言葉が悪いが田舎染みているというか、なんとなくヘンで、理屈ではなく、「そういうことはしない」という範疇にはいっている。

あるいは戦争に完敗するとアメリカ人たちが占領した日本に乗り込んできて、アメリカ人たちの靴のつま先をなめるようにしてひれ伏している日本人達を、鞭で追い使う主人そのままの態度で日本をどんどん変更していったが、このときにやってきた「アメリカ民主主義」は、当のアメリカ本国にある「民主主義」とはまったく異なる、いわば「存在しないアメリカ民主主義」だったのはよく知られている。
観念的原理主義的な、経済的にはケインズ主義、社会的には当時萌芽のままアメリカでは大弾圧にあった「アメリカ型社会主義」とでも言うべき観念を信奉した若いひとびとが居場所を失って日本にやってきた例も多かった。

明治と1945年の二度にわたって、肉体のない観念だけの「西洋」が日本にやってきて、それまでの日本の文明的な肉体にあたる部分をぶちこわした結果はどうであったかというと、日本人は現実からまったく剥離した奇妙な世界、ひらたく言えば「絵に描いた餅」の世界を生きだしたように見える。
へ理屈、というのか、頭だけで考えて、机の上に観念を並べて、はっはっは、これでうまくいってしまった、とひとりごちる態度は、戦争中にニューギニア島のチェーンソーでも切れない熱帯の凶悪な蔓(家の庭にはブーゲンビリアがある一角があるが、美しく華やかで、しかも「清楚」という言葉を思い出させる花を咲かせるが、このあいだ庭師がはねかえった蔓に打たれてひどい怪我をした。だが、もちろんブーゲンビリアは熱帯の蔓植物としてはまったく獰猛ではないほうである)がからみあった200キロのジャングルに、現地にはいちどもいかないまま定規でまっすぐに直線をひいて、1週間で行ける、と命令した日本陸軍参謀たちに似ている。

日本人全般に対して人間性というものとはかけ離れた、悪い冗談のような要求を日本の支配層が歴史を通じて繰り返すのは、「現実」というものから感覚が剥離してしまっているからで、なぜ剥離してしまうかと言えば「自分ではなにもしない」上に、現実を見に行くことすらしないからである。

そうして、彼らの怠惰と軽薄を権威付け正当化してきたのは常に「現実には存在しない西洋」だった。
これほど長く、これほど深刻に幻影に悩まされ、自分達の生活を破壊されてきた民族は世界史のなかに日本人のほかにはないが、その悪んだ手品のタネが西洋であることを発見して、ひとりのぶわっかたれな「西洋人」が、やりきれない気持ちになったことを、ここに誌しておこうと思います。

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One Response to 「欧米」という幻

  1. 素晴らしいご意見を読ませていただきました。ありがとうございました。
    しかし日本は千年同じ事を繰り返してきた歴史もあります。
    従って、今起ろうとしている、長く緩やかな思想の変化は、
    何を生み出そうとしているのか解りませんが、
    日本の思想を土壌に、本物の欧米の文化を咀嚼して、
    何か東洋的な解釈といくつかの答えにたどり着くかもしれません。
    大庭さんも私も、その時を見る事は出来ないだろうと思います。

    私は、日本の文化は、伊勢神宮に象徴されるように、
    生まれ変わり続けるものだと思っています。
    作り変える度ににちょこっとグレードアップするからと言って、へでもありません。

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