日本の古典_その5鮎川信夫

見知らぬ美しい少年が
わたしの母の手をひいて
明るい海岸のボートへ連れ去っていった

というのは鮎川信夫が1948年に書いた「秋のオード」の初めの三行である。
堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に出てくる「良き調和の翳」とは鮎川信夫のことだが、当時、早稲田大学の学生だった鮎川への友人達の表現は定まっていて「初めからおとな」「出だしから完成されている」というようなものだった。
書くものの情緒が時代に寄り添いすぎていたために言葉を微調整しながら読むのが難しいが天才詩人であった牧野虚太郎ややはり突出してすぐれた詩を書いた森川義信が安心して詩を書けたのは(牧野と森川は戦死してしまうが)この戦後に「荒地」という重要な現代詩の同人に育ってゆくグループの中心に鮎川信夫という批評精神が立っていたからだと思われる。

初期の鮎川信夫の詩を読むと鮎川信夫自身、田村隆一ほど巧みではないかもしれないが(詩の世界では「巧妙である」ということは重要なことである)すぐれた詩人であって、しかも後年の印象とは異なって、もともとは抒情詩人としての資質にすぐれた人だった。

17、8歳の頃の詩だと思うが、「寒帯」という詩には
「あおく、つめたく….

青い魚が跳ねると
沼の静けさが、かへってきた」

という詩句がある。
沈黙のひろがりのなかで一瞬するどく輝きながら跳躍して反転するものを見る、というのは鮎川信夫の基本的な感覚のひとつで、鮎川の目のなかでは世界に生起する事象というものが、すべからくそのようなものとして見えていたに違いない。

田村隆一は詩で重要なこととして「patheticであること」を挙げているが、文章のなかにおいてみると、実はこれは英語の用法としてヘンで、田村隆一が意図したことを意味しないが、(多分、田村隆一が生きている間は、この巨大な詩才をもった詩人に遠慮してまわりの英語人たちは田村の数多い英語の謬りを指摘しなかったのではないだろうか)しかし意味をくみとれば、やや高みに浮いた観念の息苦しい悲壮さ、というようなつもりだったのだろうと思われる。
田村隆一は、その感情をあらわすために高い、よく出来た金管楽器のような透き通る音をもったが、鮎川信夫は、もっと低い、しかし稠密な音色をもっていた。

抒情詩人の抒情を破壊して、鮎川信夫が一種の「破壊された情緒」を身につけて詩の中へ帰ってきたのは鮎川が徴兵されて、スマトラ島の戦線に送られ、傷病兵として帰還したあとのことだった。

詩人とは不思議な種族である。
詩人は、どんなに良い詩を書いても詩を書くことによっては暮らせないことを知っている。
戦後の日本では「プロフェッショナルの詩人」ということになれば、谷川俊太郎と吉増剛造と田村隆一の3人のみが挙げられるが、谷川俊太郎はコピーライターと作詞家、詩人、という遠目には似てみえなくもない三つの職業をうまくひとつの職業のようにみせることによって自分が生活するに足るだけの収入をつくっていった。
田村隆一は「詩人」として雑誌グラビアに自分のヌード写真を売った初めてのひとである(^^)
このひとは「詩人」という職業名の光輝を、どのように世間に売っていけば収入に変わるかよく知っていた。
一種、古代ギリシャの哲学者のような渡世ができたひとだった。
吉増剛造のみが真に、直截に「詩人」として生きようとしたが、そのことにどういう意味があったのか、ここでは述べない。
いずれ吉増剛造の詩について述べるときに、書いてゆくことができると思います。

詩人にとっては詩に没頭すればするだけ、生活はできなくなってゆくわけで、それでも、良い詩を書くために午後の約束も放擲して詩人が机に向かうのは、うまく言葉が言葉をつれてきて、自律的に運動をはじめ、自分の思考というようなものは停止して、魂が中空に浮かんで危ういバランスを保ちながら浮いているような、あの感覚がなくなれば退屈で死んでしまうしかない、と感じるからである。

鮎川信夫は後世の評価である「鋭利な文明批評家」であるよりも、遙かに、本質的に詩人だった。
しかも、日本の近代史のなかでは稀な、絶望しきった魂をもつ詩人だった。
晩年、鮎川信夫のファンたちを悲嘆の底に蹴り落とした「戸塚ヨットスクール称賛事件」は、要するに、鮎川がついぞ人間の世界に希望をみいだしたことがなかった、ということの当然の帰結にしかすぎない。
鮎川信夫の魂のなかにあっては暴力と非暴力どころか、死と生すら境界をはぎとられて、ひとつの結界に同居するふたつの相似のものにしかすぎなかった。
口にはだせなかったものの、当時のひとのなかでは、鮎川の長屋の家へたびたびやってきては何時間も陰気な顔をして黙って正座して座っていて、じっと鮎川が原稿を書くのを眺めていては、また黙って帰っていったという、「遅れてきた兵士」であった、吉本隆明だけがその機微をしっていたでしょう。

「この病院船の磁針がきみらを導いてくれる」と船長は言う、
だが何処へ? ヨオロッパでもアジアでもない
幻影のなかの島嶼……..

という「病院船」の一節は文明批評というより鮎川信夫というデッドパン(deadpan)ジョークの一片だが、この詩が書かれた戦後直ぐの日本人よりも、いまの日本人のほうが広汎に詩句の意味を理解できるはずである。

あるいは、

姉さん!
餓え渇き卑しい顔をして
生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ
死にそこないのわたしは
明日の夕陽を背にしてどうしたらよいのだろう

_「姉さんごめんよ」

という詩句はまるで(いつもこのブログ記事にでてくる)我が友ラザロの内心の声のようである(^^;)

それは一九四二年の秋であった
「御機嫌よう!
僕らはもう会うこともないだろう
生きているにしても 倒れているにしても
僕らの行手は暗いのだ」
そして銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら、
ひとりずつ夜の街から消えていった

という出だしの「アメリカ」は、「銃を担ったおたがいの姿を嘲」る、いかにも知的な日本人の男同士の情緒が当時からのものであったことを伝えながら、極めて欧州的な語彙でアメリカを語った詩である。

随所に仲の良い友人である田村隆一への皮肉をちりばめながら鮎川は知性と言語への感受性がアマルガムをなした後年の鮎川信夫の詩の(言葉は悪いが)「冴え」を見せてゆく。

「Mよ いまは一心に風に堪え 抵抗をみつめて
歩いてゆこう 荒涼とした世界の果へ……
だが僕は最初の路地で心弱くもふりかえる
「僕はここにいる 君がいないところから
君がいるところへ行きつくために
ここにいる僕はここにいない」と……」

あるいは

「一九四七年の一情景を描き出そう
僕は毎晩のように酒場のテーブルを挟んで
賢い三人の友に会うのである
手をあげると 人形のように歩き出し
手を下すと 人形のように動かなくなる
彼等が剥製の人間であるかどうか
それを垂直に判断するには
Mよ 僕たちに君の高さが必要なのだろうか?」

「過去にも未来にもさよならして
亡霊たちに別れを告げよう
あるいはまた亡霊たちを飲みほして
この呪わしい夜を祝福しよう
だから僕がとくに眼ざめるとき
きみがとくに眠るとき
死はいっそう強い酒にすぎぬだろう」

「僕はひとり残される
聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!
いまは自我をみつめ微かなわらいを憶いだす
影は一つの世界に 肉体に変わってゆく
小さな灯りを消してはならない
絵画は燃えるような赤でなければならぬ音楽はたえまなく狂気を弾奏しなければならぬ」

「すべの人々の面前で語りたかった
反コロンブスはアメリカを発見せず
非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
われわれのアメリカはまだ発見されていないと」

鮎川信夫自身が、この「アメリカ」という詩についての「覚書」のなかで、
「我々が時や場所や思想に関して、本当に自分の血となり肉となるような仕事を目指すならば、自己の精神に加えられた現実的強制に言葉の秩序立った包括的な世界の再組織を志向しなければならぬ」と書いている。

「アメリカ」という詩を書いて鮎川は復員兵としての自分の主観を通して世界をみる視点から脱して復員兵としての自分を外から眺める言語的な仕組みを獲得した。
鮎川信夫の戦後の出発は、要するにその視点から「荒野」を見渡すことによって出発したのだと思う。

「アメリカ覚書」の最後に、鮎川信夫は「私は断片を集積する」と書いた。
それは詩人の思想的宣言のように聞こえる。

1950年、鮎川信夫は有名な「橋上の人」を書く。

「橋上の人よ
どうしてあなたは帰ってきたのか
出発の時よりも貧しくなって、
風に吹かれ、浪にうたれる漂白の旅から、
どうしてあなたは戻ってきたのか。
橋上の人よ
まるで通りがかりの人のように
あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。
新しい追憶の血が、
あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。
橋上の人よ」

「誰も見ていない。
溺死人の行列が手足を藻でしばられて、
ぼんやり眼を水面にむけてとおるのをーー
あなたは見た。
悪臭と汚辱のなかから
無数の小さな泡沫が噴きだしているのを…..
「おまえはからっぽの個だ
おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ
おまえは一プラス一に
マイナス二を加えた存在だ
一プラス一が生とすると
マイナス二は死でなければならぬ
おまえの多孔質の体には
生がいっぱい詰まっている
おまえのからっぽの頭には
死が一ぱい詰まっている」

「蒼ざめた橋上の人よ、
あなたの青銅の額には、濡れた藻の髪が垂れ、
霧ははげしく運河の下から氾濫してくる。
夕陽の残照のように、
あなたの褪せた追憶の頬に、かすかに血のいろが浮ぶ。
日没の街をゆく人影が、
ぼんやり近付いてきて、黙ってすれ違い、
同じ霧の階段に足をかけ
同じ迷宮の白い渦のなかに消えてゆく。」

「孤独な橋上の人よ、
どうしていままで忘れていたのか、
あなた自身が見すてられた天上の星であることを……
此処と彼処、それもちいさな距離にすぎぬことを……
あなたは愛をもたなかった、
あなたは真理をもたなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。」

初めて、この「橋上の人」を読んだとき、日本語の練習の一環として、詩句を暗誦していきながら、この詩が、日本の近代を語り尽くしているように思えて驚いたのを憶えている。
日本には、こんな人がいたのか、と驚いたものだった。
それから暫く鮎川信夫の詩を夢中になって読んで、もちろん西脇順三郎や田村隆一、あるいは岩田宏に較べると暗誦しにくい詩だったが、それでも全集に収録されていた詩はほとんど憶えてしまった。
鮎川信夫という一個の知性に強い敬意を感じたが、そういうことも、日本語練習の途中では(その頃はまだいろいろな「聴き取りにくい声」を聴き取れていなかったので)珍しいことだった。

鮎川信夫は、他のすぐれた詩人と異なって言葉を信用しなかった。
田村隆一や西脇順三郎や岡田隆彦、あるいは吉増剛造のような詩人たちとの、おおきな違いであると思う。
言葉だけではなく、鮎川信夫は戦前の価値も、日本の伝統も、戦後の「民主主義」も、人間の恋愛の感情すら、ほんとうには信用しなかった。
アメリカの物質主義の軽薄を熟知していながら、巨大なアメリカ車で乗りつけて友人たちを呆然とさせた。
彼が信じた友情は死者との友情だけであった。
吉本隆明が大江健三郎に「もっと深く絶望せよ」という公開書簡を送ったとき、鮎川信夫はなにも言わなかったが、きっと、鼻で嗤っていただろうと思う。
鮎川がみていた世界は、絶望を口にする他の文学者たちの見ていた世界よりも遙かに漆黒の闇に満ちた世界であって、その闇は神をすら塗りつぶしてしまうほどのものだったことは、詩を読めば明瞭に了解される。

日本語がたどりついた批評精神のひとつのピークであると思います。

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