ひととひとが

NYC341

人間の一生はおもしろいもので、1年2年と経っていくうちに、悪党は悪党同士、狡い人間は狡い人間同士、善良な人間は善良な人間同士、というふうにごく自然に固まってゆく。ビジネスの世界では特に顕著で、悪い経営者は悪い経営者同士で騙しあいをする。悪党はだいたい悪党に裏切られて破滅することが殆どであるのは眺めていて面白いほどである。

ふつうの人間は薄汚い魂の人間と口を利くのがめんどくさいので、なにか言われても相手にしない。
日本語の社会でいえば日本は特殊な社会なので「薄汚い魂の人間」がときに何千人何万人という数になって圧倒的な多数になるのは実験済みだが、それでも事情は同じであるべきだと考える。

そのうちにブログ記事に書いてしまうかもしれないが、自分が嫌いな人間が4,5年経つうちにやたらと事故死や病死をしてしまう考えようによっては怖いひともいるし、これは普通のひとが想像するよりも数が多いが、オカネモチのなかにはヒマツブシに自分の悪口を言った人間の人生を、たいていは思いも寄らない何年も経ったタイミングで、ちょうど猫がネズミをなぶり殺しにするようにずたずたにして「遊ぶ」ひともいる。
しかし、ふつうの人間はそういうヒマなことはしないことになっている。
関わりを避けていくだけなので、付き合いの範囲内に現れるのがまともな人間だけになってゆく。
いまの自分のまわりを見渡すと30歳というような年齢になると、まったく行儀のよい良識人ばかりになってゆくもののよーである。

そうやって現実の生活ではむかしからよく知られた当たり前のことであるし、インターネットの世界でもよく眼をちかづければ薄汚い人間は薄汚い人間だけで語り合い、まともな人間はいつのまにかまともな人間だけの集団をつくってお互いを近い人間として認識しているものであると思う。

切羽詰まったひとは、だいたい親しい友達をだましてオカネをはぎとろうとする。
しばらく会っていない「高校のときの親友」というようなのが標的になりやすいのは万国共通であると思う。
落ち着いて考えてみれば簡単な理屈で、来月生きてゆくにも困る、という状態のひとは、普段付き合いのある周りの人間にはみな現状がばれていて、あのひとにオカネ貸してももどってこないよねー、とみなに思われているので経済上の信用がない。
だから近しいひとで自分の現況に疎いひとをだますことになる。

あるいはビジネスの世界ではいよいよ乾坤一擲、誰かを欺して何十億円か手にして逃げようと考えるひとは、もっとも親しいオカネもち、あるいは自分をもっとも信用してくれた上司、というような人間をだますのは定石である。
これは知らない人間はそうそうオカネについて他人を信用しないという理由によっている。

そうして、神と人間についても、これとよく似た事情がある。

何の気なしに、むかしの友達と連絡しなくなってしまって、どうも怠けているのはよくない、と呟いたら父親に聞きとがめられて「それは違うだろう」と言われたことがある。
「友達というものは変わってゆくものだ」という。
「自分が成長するにつれて、友達は退屈な人間にみえてくるもので、また、そうでなければならない」
やな奴、と思ったが、是でもなく非でもなく、しばらく会わない友達のことを考えると、父親の、いかにもこれまでの一生を社会の選良として過ごしてきたひとらしい言葉を思い出す。

30歳にもなると、避けがたく、他人への関心がなくなる。
なにが起きても腹がたたなくなるかわりに、自分の気持ちのなかに「くだらない人間」に対する底冷えのするような軽蔑の気持ちの層ができてしまっているのを感じて狼狽する。
他人を軽蔑する気持ちの強い人間に囲まれて育ったので、あんまりこういう人間たちの同類にはなりたくない、どんなバカが相手でもちゃんと腹を立てなくてはいけないだろう、と思っていたのに、見事なくらい同類になってしまったのではないか、と疑念が生じる。

モニと小さな人とわしとが幸福ならばそれでよくて、他のことなどどうでもよいと思っているのではなかろうか?
もとより罪悪感をもって考えるような種類のことでないのは当たり前だが、それでも世界に対して冷淡であるというのはすごくカッコワルイことなのではないか?

たとえばハイチやコンゴの悲惨についてモニとわしは大きな関心をもっている。
チベットについても、ふつうの関心以上の気持ちがある。
他人に言うことではないから具体的なことは書かないが、寄付だけではなくてモニとわしとふたりでいろいろな活動にも参加する。
だが結局、人間性への過剰な期待などはとっくのむかしになくしているのではないだろうか。

恋をすると人間は何も手につかなくなる。
一日じゅう、ぼおーとしていて、赤信号で道を渡ろうとして死にかけたりする。
冬の冷たい雨にびっしょり濡れながら両手におおきな花束を抱えて歩いて道行く人にヒソヒソされたり、カウチに天地さかさまに腰掛けた挙げ句に頭を床にしたたかぶつけて涙ぐんでいたりする。

おもいだすと犬さんよりも頭がわるいのが歴然としているので赤面するが、いわば自己批評機能が完全に停止した状態であったその頃を思い出すと、人間が正しい叡知に到達するにはどうしても愚かでなければならないのだと悟る。

人間性の限界は合理的思考によって生まれる。
合理的な精神は確かなものだけを材料にすることによって不十分に小さい集合サイズの十分条件のなかだけで自転してしまうからである。

ある種類の頭のわるいひとは、自分を局外の批評家のようにみなして、「笑える」「微笑ましい」というような言い回しをしたがるが、なぜそういう無効な現実との関わり方を告白し、あまつさえ広く他人の目にさらしてすら恥ずかしくおもわないのかというと、極端に限られたロジックと知識で懸命につくりあげた犬小屋のような自分の侘びしい「合理性の部屋」を自分なりに念入りに点検して、堂々たる知性の城塞のように妄想してしまっているからだろう。

人間の偉大さは普遍的価値基準に照らせば自分で感じている価値の千分の一もないに違いないささやかな理性よりも、自分の口で自分のシッポをくわえて完結させた自家中毒的理性から腕をつかんでつれだしてくれる愚かさのなかにこそある、と何度も書いた。
そこにしか希望はない、とも書いたことがある。
誰でも経験するとおり霧に閉ざされた向こう岸を見ることなしに跳躍するのでなければ人間が人間でありつづけることは出来ないが、跳躍の瞬間、たしかに向こう岸が存在することを保証するものはなにかといえば、それはお互いでしかないのだ、と発見して驚いてしまっているのかも知れません。

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