葉隠の葉が枯れるとき

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凝固した光のような美しさに眩んだ目をおちつかせてみれば日本刀は暴力である。 
フロンティアのアメリカ人たちが腰に差していた拳銃と歴史的思想的にほぼ同じ意味をもっている。
新渡戸稲造の発明した「武士道」やさまざまな観念的装飾によって日本人自身忘れてしまったようにみえるが、落ち着いて考えてみれば自明というのもばかばかしいほど自明なことで、明治時代に政府からの強圧的な命令で廃止されるまでは、「一人前の男」ならば公道で携帯されるべき究極の暴力として日本刀は存在した。
1588年に豊臣秀吉が刀狩を行うまでは農民も日本刀をもっていた。
もっというと刀狩のあとでも村落には槍や弓矢は武器として大量に貯蔵されているのが普通だったはずである。

アメリカ人で銃砲規制に反対する人間の理屈は、聞いていると、明治時代に帯刀を禁止された武士の理屈と瓜二つで、面白いなあ、と思う。
人間の魂の独立のために必要である。
戦う手段がなくてどうやって個人の尊厳が保たれるというのか。

ニュージーランドは銃砲許可を得るのが簡単な国で、クルマの免許をとるより簡単である。
3種類の免許があってライフルが最も一般的で狩猟免許にあたる。
突撃銃(圏銃弾を使った機関銃)やオートマティックライフルも所持するのにたいした障碍はない。
アメリカと異なるのは「持って歩けない」ことで銃はすべて専用の鍵がかかるロッカーにいれておかねばならないことになっている。
警察が1年に1回程度やってきてちゃんとロッカーにはいっているかどうか見に来ます。
近所の機関銃までもっている銃を偏愛するおっちゃんに、なんでそんなに銃が好きなのか、と訊いたら、しばらく、ちょっと寂しいような表情で考えてから、
「人を殺したいんだとおもう」と述べたのは、前にもこのブログ記事で書いた。
しかしロッカーのなかに暴力として閉じ込められているので、なかなか社会文化的な意識の表層にまで銃がのぼってくるわけにはいかないようでした。

英語世界では「どの武器がすぐれているか?」というようなテレビ番組は、やたら暴力的な英語人の性格を反映して年がら年中やっている。
日本刀は、番組のなかで取り上げられる武器のなかのスーパースターで番組に登場するたびに称賛をひとりじめにする。

観ていて、凄まじいとしか形容できない暴力の発現であると思う。
これほど素晴らしい破壊の精髄をつくりうる文明の、暴力への宗教的偏愛というものは、ほとんどその湾曲した刃面をみただけでわかる体(てい)のものである。

漢の劉邦が国家原理に儒教を採用したのは手にした権力に秩序をもたらすためだった。
漢帝国の国家的行動原理に採用されることによって儒教は東アジア一帯に決定的な力をふるうことになるが、朝鮮半島人が中国人自体よりも原理主義的に儒教を信奉して内心ひそかに中国人などよりも自分達こそが儒教の民であると考えるに至るほどの先鋭的な優等生であったのに較べて日本人は劣等生もいいところでせいぜい儒学にとどまって儒教までは行きつかなかった。

いろいろな理由があるだろうが、蒸し暑い島に住む海洋民族であった当時の日本人にとっては「肌をみせない」儒教的タブーは暑くてやってられるか、というような習俗と、儒教では極めて重要なさまざまな局面での「適正な形」の「そりがあわなかった」という理由も案外とおおきかったように思える。

十二世紀になると日本人は多分平安時代の辺境で発明された日本刀に儒教の役割を担わせようとした。
観念よりも暴力によって自分達の世界を統制しようと試みたわけで、たいていは系統的に整備された観念への畏怖によって挫折する試みに、武士達は当時の貴族達の腐敗を利用して暴力による統制という新しい試みに成功する。
江戸時代になってからまとわりつきはじめて、明治時代に至って知識人によって喧伝されるに至る「侍の美意識」などは日本刀に象徴される暴力支配の本質からすれば刀の鍔の装飾ほどの意味もないことであると思う。
日本人が東アジアではただひとり、徹底的な暴力の信奉者として歴史の舞台に登場する民族であることのほうが遙かに重要なことであると思える。

もうひとつの暴力社会である西洋の歴史を眺めればわかるが暴力を原理とする社会には勝者と敗者のみが存在して、本来、その中間にはなにも存在しない。
弱者への「おもいやり」は勝者が自己満足のために行う傲慢な儀礼であることも多い。敗者への苛酷な眼差しがなによりの特徴であって、失敗者は失敗した者のがわに理由がるはずだというロジックが発生する。
武芸の本質はからだの動きのモーメントを退避力と打撃力に特化させて無駄なく移動させることにあるので暴力社会では「効率」が極端に奨励される。
そうやって暴力的な支配をつくりあげてしまえば、あとは「戦いの美」なり「極意」なあり、なんでもいい、ひとうけのする神聖ぽい聖性をでっちあげてしまえば、それで社会の行動規範になりうる。

容易に想像がつくことだが、絶対暴力が本質である西洋型近代国家と日本人がそれ以前から営々と築き上げてきた暴力崇拝社会はごく簡単に合体してひとつのものになった。
どちらの社会でも神殿に座っているのは、ふだん不可視ではあっても一朝ことあれば、あっというまにむきだしの姿をあらわす暴力だからです。
日本が他の東アジア諸国に先んじて近代化を達成したのは儒教的なめんどくさい繁文縟礼よりも暴力の明快さを好んだ民族性によると思われる。

日本の社会の特徴は、常に被害を被る側の一方的な犠牲によって社会そのものが成立していることで、性別ならば世界中に知れ渡っている、途方もないほど地位が低く、家事、育児、補助収入、すべてを押しつけられて家庭のなかでの過労死という悲惨で滑稽な事態まで引き起こしている女たち、企業ならば、性格も温厚な幹部達が、トーダイとキョーダイが将校、早稲田慶応旧帝大が下士官、残りはヘータイと、びっくりするようなことを穏やかに笑いながら述べるサラリーマン、世代でいえば、未来をとりあげられたまま、しっかり働け、ゆとりはさんざん楽しんだんだから、もう夢はみるなよ、と報酬のかわりの投げやりな激励だけが支給される30代以下の若い世代、と踏みつけにする側と踏みつけにされる側がくっきりとふたつに分かれて、内臓が破裂するまで社会が上にのっかって徹底的に抑圧する。
そういったすべての無惨な現実に「日本的な文化」「和」「精神性」というような他の社会ならば失笑されるような粉飾をオオマジメに述べて、改善する必要はないと太鼓判を押すのが日本の社会がもつ最重要の機能である。
それでもインターネットや海外の生活を通じて、治療されないでむきだしのままにされた刀創に似たむごたらしさが隠蔽できなくなると「日本だけではない」「他の社会も同じだ」という呪文をとなえればたいていの「ヘータイ」は沈黙させられることになっていて、そのための材料になる「出典」を用意する訓詁学者は、笑い話のようだが、ボランティアで山のように存在する。

まず現実を認識することから始めなければならない、とわれわれは子供のときに教わることによって自分の一生をスタートするが、なんのことはない現実をまっすぐに受け止めるという技量は人間が生きていくために必要な技量のなかでも習得が最も難しいものであるせいで、自分にもうけいれられる「観念で整形されたサブセットとしての現実」を傍らにおいて、それを現実であることにする。

しかしサブセットは単なるサブセットで現実そのものではないので、やがて自分がみている現実と自分ののしかかる現実の差異のなかで個人どころか社会ごと押しつぶされてゆく。
どの社会も経験する、そういう矛盾の圧力によって社会が破砕される瞬間にいまの日本人は生きているのかもしれません。

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