ブルースを聴いてみるかい?(1)

akl13

詩が、たくさんの人に読まれるのが難しいのは、そこで表現されている言語の美、あるいは「高み」に届くためには読み手の側に訓練が必要だからである。
その観念が励起した場所にある「高み」のなかで表現の絶対性を獲得した言葉(詩句)を田村隆一は「定型」という言葉で呼んだ。
詩は、そのひとそれぞれの解釈があるから、というのは単に「私には詩が読めません」と告白していることに他ならない。
詩はまさに「ひとそれぞれの解釈」を許さないことが特徴だからです。

あざやかなるかな武蔵野、朝鮮、オルペウス

という吉増剛造の詩句を考えると、古い意味の音韻の定型は存在しないが、
あざやかなるかな、と故意にひらがなで書かれた言葉のなかに含有された「鮮」という漢字の形と朝鮮、表音から形象に言葉が転移したことによって逆に「朝鮮」からは朝の鮮やかさが呼び起こされて、武蔵野とオルペウスの呼応を支えている。
吉増剛造は、たとえばその詩のなかで「高麗川」という単語を同じような言葉の冒険のなかで使う事によって、日本人が半島人に対してもっている(日本人が意識することすらなしに言語を通じて表明している)歴史的な敬意を表現することに成功している。
書かれたもののなかではいちども述べられないが、背景には吉増剛造という人が日本人の美意識そのものが半島人の文化に由来していることを熟知している、ということがある。
そうして、詩句全体の定型を強固にしているのは、武蔵野、朝鮮、オルペウスというみっつの「遠く隔たったもの」を邂逅させた詩句の構造である。
詩人が発想したのではなくて言葉同士がよりあって詩人の手をとって詩句を書かせたのは助走や跳躍の試みがあますことなく描かれている詩の前後を見れば事情は明瞭にわかる。
余計なことを書くと吉増剛造の詩の特徴にひとつは詩人がどうにかして言葉と言葉をお互いに呼び合うようにさせようとする、まるで言霊を召喚しようとする巫女の儀式のような過程が詩のなかに詳細に描き込まれていることであると思う。

読み手の側ですぐれた詩のもつ絶対性に呼応できるだけの「観念の高み」をもつには、それぞれの言語における口承古典文学から始めて、その言語のもつ情緒の形や歴史性を理解することがもっとも近道だが、読書によっても、才能がある人間ならば表現の絶対性がもつさまざまな「定型」、もっと平たい言葉で言えば「あたりの感覚」をもつに至ることはできる。

現代世界では詩自体が死滅してしまっているが、まったく存在しないということではなくて、ちょうど恐竜の絶滅の原因について天井まで届く本棚のあるライブリで議論しているふたりの生物学者たちが、部屋の片隅の鳥かごのなかで自分達を不思議そうな顔でみつめてクビを傾げているインコ自体が恐竜の子孫であることに長い間気づかなかったように、かつての詩は「歌」に姿を変えて生きているのであると考えるのがもっとも適切であると思う。

歌詞のある音楽は、詩と解釈に相対性を許さないチューンとの相互補完でできている。「定型の高み」を言語が内包する歴史的な情緒の組み合わせによらず音楽というより普遍性が高い「定型」に聴き手への正確な伝達は任せて、解釈にゆらぎの余地がおおきな言葉を使っても、送り手が身をおく精神世界の全体が聴き手に届くという仕組みをもっている。

ジャズとブルースのおおきな違いはジャズが言語との補完をめざさずに音楽のみで「定型の高み」を精確な形のまま聴き手に届けようとするのに対してブルースは言葉と音楽が寄り添って、相手に自分の魂が置かれている場所そのものを投げてよこそうとする点にある。
音楽の側からみればジャズのほうが本道であるのはあたりまえだが、重要なことは、ブルースのようなやりかたでは、相手に向かって投げて、寸分の変わりもない形で受け取らせる「自分の魂の形」が「高み」でなくてもいいことで、ブルースや、ブルースに由来するブリティッシュ・ブルース、アフリカン・ブルース、というようなものはみな、ブルースがもつその機能に依存して広汎なひとびとの心に訴えていった。

2003年、ニューヨークの名物男 Jack Beers 
http://nymag.com/daily/intelligencer/2009/12/jack_beers_94-year-old_strongm.html
が建設に参加したRADIO CITYで行われたブルースの祭典「Lightning in a Bottle」
http://www.imdb.com/title/tt0396705/
は素晴らしいコンサートだった。
登場した歌手たちの顔ぶれだけを見ても、
David Honey Boy Edwards, Keb’Mo, Odetta, Ruth Brown, Buddy Guy, Larry Johnson, Clarence Gatemouth Brown, Solomon Burke, B.B.Kingというシブすぎてひきつけを起こしそうな顔ぶれで、まだデビューしたばかりの自信のかけらもないような、それでいて、歌い始めるとまったく別の人格になって無茶苦茶クールなMacy Grayの姿もある。
Hound Dogを歌っている。

「You told me you was high class
But I could see through that
Yes, you told me you was high class
But I could see through that
And daddy I know
You ain’t no real cool cat」

 ブルースの歌詞は聴いていると唖然とするほど単純な感情を歌ったもので、大好きなHoney Boy Edwardsの「Gambin’ man」の歌詞は、

I’m a gambling man’
gamblin’… all night long
well, I’m a gambling man’
gamble… all night long

I’m gonna gamble this time, baby
bring my good gal home

gamblin’ down in new orleans
gamblin’ down on rampart street
well, I gamble in new orleans
gamble down on rampart street
I fell in love with a little ol’ girl
and her name was peggy dee

I’m a gamblin’ man
gamble from door to door
I’m a gamblin’ man
gamble from door to door

yes, I’m gonna keep on gamblin’
my little girl don’t love me no more

I’m a gambling man’
gamble from town to town
I’m a gambling man’
gamble from town to town

yes, ain’t gonna stop my ways, baby
’til I bring my bull calf home

gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
you know I can’t never get lucky
to win my train fare home

で、ただそれだけ(^^)

皮肉な人間はブルースを「バカっぽい男の気持ちを歌った詩」と言ったが、それは実はその通りで、しかし、ブルースが歌ってきた、ガールフレンドにふられて、
「おまえ、いまにみてろ、おれがビッグになったときには、おまえはおれを捨てたことを後悔するだろう。そのときになって、おれを惜しんでも、ベイビイ、もう遅いのさ」というようなブルースではお決まりのチョーバカタレな「捨てられた男の叫び」は、それがちゃんと哀切に聞こえることによって、ブルースの偉大さのひとつである。

ニューヨークにいた初めのころ、わしは夜のハーレムを歩いてよくApollo Theatre
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/04/10/1976/
に行った。
音響効果がどうにもならないくらいだめなその劇場は、建物全体がブルースで出来ているような劇場で、わしが好きだった二階への急な階段をあがる途中で、もう心はどんどんブルースになってゆく、というヘンな劇場だった(^^)

毎週素人が歌う夜があって、ど音痴なブルースを聴きながら、なぜ「低い」情緒を現代の人間が交換しなければならないか、理由を考えてみたりした。
考えているうちに人間のほんとうの価値は「愚かさ」にあるのだと気が付いたのもアポロシアターでのことだった

「Lightning in a Bottle」のDVDにはいくつかのインタビューがふくまれていて、B.B.Kingが「メリーランドのボルティモアのコンサートで、おれがでていくと、若い奴らがブーイングするのさ。あれはこたえたな。みんなロックが聴きたかった。おれが拒絶されたんじゃなくてブルースが拒絶されたんだよ。すごいショックだった」
と述べている。

80年代を通じてブルースは「くさい」音楽だった。
おっさんくさい音楽で、若い人間は聴かなくなっていた。
それは同時に古い世代のアフリカンアメリカンのもつ「黒人的感情世界」に対する白人やアフリカンアメリカン自身の若い世代の拒否の表明でもあった。

……日本語でブルースのことを書いておこうとおもうが、(いつものことだが)少し長くなりすぎた。
次にこの題でもどってくるときにはKar Karや他の第一世代から始めて、「アフリカ大陸のブルース」について話したいと思う。
金銭講座や、なんだっけ? 戸籍の話や日本の女性差別のときと同じで、ヘンなひとびとがいっぱい登場した場合には、第二回目はないっす。
日本語でなにか書くと「ぼくが読んだエライ人が書いた本にはアポロシアターはブルースではなくてジャズの殿堂だ、と書いてある。ブルースの殿堂だというならそうあんたが考える根拠になる出典を示してみろ」という人が必ず現れること玄妙なほどである(^^;)

ついでだから書いておくと、日本語世界で「常識」が消滅してしまったのは、日本語世界の往還になぜか跋扈している、そういう「わしかしこい族」が鬱陶しくて、めんどくさくなって常識がある人間のほうが沈黙してしまったからである。
あげくのはては、普通に話している時には温和で他人を笑わせてハッピーな気持ちにさせるのが上手な「トーダイおじさん」たちまで「一般の日本人」という項目を頭につくって「ああいうひとたちは、タダのバカだから」と吐き捨てるように述べるという悲惨な事態になっている。
日本のひと、そういう事態を改善するのに、もうちょっとそーゆー問題から正面から向き合えばいいのになあー、と思います。

This entry was posted in ゲージツ. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s