はっぴー

ak12

日本語になおすと「幸福の科学」で四谷大塚進学教室のシステムをコピペしてつくった新興宗教みたいだが「Happiness Reseach」は人気のある分野で、ハーバード大学の講座のなかで最も人気があるのも、この「幸福の科学」である。
アメリカで最も人気があるのは件のドーパミン理論で、最もドーパミンが放出されやすい状況を最も幸福になりやすい状況と定義してさまざまなリサーチを行う。
遺伝的因子が5割、オカネモチであったり社会的地位が高かったりの社会的成功の要因が1割で、残りの4割の要素である友人関係や家族、過ごす時間の質、というようなことを考え直してディプレッションを回避したり、幸福感を増大させようという思想に立った科学である。

英語世界では「世界で最も個人が不幸な国」と言えば、ほぼ自動的に日本をさす。
そんなバカな!
いいかげんなことを言うと承知しないぞ!
という声が聞こえてきそうだが、ほんとうなものは仕方がない。
日本が世界で最も不幸な国であるというのはただの常識であると思う。
日本の人の面前でそんなことを言うひとはいるわけがないので、こういう話は日本のひとの耳が届かないところで英語人同士でしかなされないことを考えると、アメリカに20年住んでいるという日本の人でも、日本語のメディアばかり見ていれば、周囲のアメリカ人が「日本ほど個人を不幸にする社会はない」と思っていることにまったく気が付かずに、アニメを通して憧れの国だと思われていると錯覚して、毎日とくとくとしてアニメや日本料理の話をして、周囲に気の毒がられている、という状況も夢ではない。

高名な心理学者Ed Dienerが登場するRoco Belicのドキュメンタリ映画 「Happy」
http://www.imdb.com/title/tt1613092/
もまた英語世界の「常識」を踏襲して日本を「最も個人が不幸な国」として取材している。
誕生日に「大事な仕事の話があるから」というので会社の同僚と「飲み」につきあわされる39歳の会社員は、家族よりも仕事が優先される日本の日常を、屈託のない笑顔で向けられたマイクとカメラに向かって話す。
「明日は妻と会うからダイジョーブですよ」と明るく笑う。

トヨタ自動車の品質管理部門に勤めていた夫を過労死で失った妻は、玄関にあらわれた男性が一緒に過ごした時間が少ないせいで父親だとわからない娘のビデオや、死ぬ直前に上司に助けてほしい、と述べながら書いた申し送り状をインタビュアーに見せる。

観ていて最も悲惨な感じがするのは、あるいは日本の人には感覚的に判りにくいかも知れないが過労死で夫を失った妻達だけでつくった、お互いを励ましあうためのコーラスグループで、「良い夢を見てね ママはパパの笑顔を胸に抱いて生きる ママは負けないよ」という合唱曲を声をあわせて歌う姿は、西洋人にはここに至ってまで発揮される集団主義を思わせて、二重の意味でやりきれない気持ちにさせられる。

日本とは全く相反する価値観をもった社会として、ブータンが挙がっている。
ブータンの情報省大臣であるDasho Kinley Dorjiが画面に登場して、最近ブータンが世界に向かってヴォーカルに主張しているGNH (Gross National Happiness)というブータンの国家的思想について雄弁に力説する。
GNHは、見たとおり、GDPと対立的な、国民がどれだけ幸福であるかが国家の実力だと述べる国家指標のことです。
なんとなく自社の製品の優秀さを力説するトヨタのセールストップを思わせる口調でにやにやさせられてしまう。

あるいはデンマークのCo-Housing Community
http://en.wikipedia.org/wiki/Cohousing
がもたらす大家族的幸福について述べる。
Co-Housingというのは、ひとつのセクション、あるいはひとつの建物に数世帯が住んでお互いに助け合って暮らすという人間を北欧的な孤独から救済するためのシステムで、デンマークではかなり受けいれられている。

学校のイジメ撲滅の伝道師、学校におけるイジメ廃絶への独特な取り組みで有名な Michael Pritchard
http://www.michaelpritchard.com/
が紹介され、日本社会内部からの日本社会への異議としての沖縄社会、ルイジアナのコミュニティ、compassionに満ちていたはずの原初の人間社会への暗示としてナンビアのブッシュマンたちの生活が語られる。

映画には神経科学者のRead Montagueも登場して、人間が幸福感をうるためにお互いを助け合い協力しあうことがいかに大切か、協同的行為がいかに脳髄にとってコカインを注ぎ込むような幸福感を生み出すものであるかを力説する。

映画が映し出していくものはことごとくいまの世界で「幸福」あるいは「幸福感」というものを考えるときのスタンダードともいうべき事象や知識であると思う。

(ところが)

困ったことに、私はこうした「幸福」への思想に同意できないのである。
映画のなかで、他の事例と同列のものとして扱われているが、よく考えてみると明らかに異質な例がひとつだけでてくる。
Andy Wimmerというもとは金融エリートであったらしい欧州人で、選良としての人生をうすぺたいものに感じてマザーテレサがコルカタに開いた死にゆくひとびとのための施設でボランティアになった。
映画のなかでは「物質的成功の虚しさに気づいた人」として扱われるが、観ていて気づくのは、映画制作者の意図とは異なって、この人が「絶望をみつめる」ことに残りの一生を費やそうと決めていることである。

幸福なほうが良いに決まっているが、(私は)人間は幸福である必要はないと思っている。
あるいは、言い方を変えると、幸福が人生の目的になりうるとは思っていない。
幸福は人間の一生にとっては二義的なものであって、途中で出現する「状態」であるにすぎない。
映画自身が幸福の定義として採用しているようにまさにドーパミンの放出が「幸福」の実体だろう。だからこそ幸福は一生の目的ではありえないのだと思う。

だが映画のなかで幸福に至る方法のひとつとして語られる「絶望を正面からみつめる」ことのほうは、人間の一生の目的になりうる。
Roco BelicがAndy Wimmerの事例をとおして語ろうとしたことは本地垂迹が逆なのではないか。

ずっとむかし、もう6,7年も前に日が暮れた解剖学教室で屍体をみつめながら、もう死んでしまったものたちのやさしさについて考えた。
すでに希望をもたず、希望をもたないことを語る言葉をもたず、希望をもたないことを語る言葉を知覚する方法をも断たれた、単なる物体としての人間は、「魂」というようなものに較べていかに尊厳にみちていたことか!
自分を隠蔽してばかりいる魂に較べて、たんなる物体としての人間の肉体がいかにおおくのことを正直に率直に語りかけてくるものかをしって、世界というものについてもういちど考え直すべきだ、と繰り返し自分に言い聞かせていた。

「幸福」は人間の肉体が魂と折り合いをつけるための一種の緩衝装置にすぎない。
魂は絶えず人間の絶望と向き合って、その衝伯に堪えている。
人間のどんな歴史をひもといてみても、それが人間にとって不幸であったことはない。
それどころか、歴史を通じて、人間は絶望を発見したときにこそ幸福、というよりは幸福の向こう側にあるさらに高いところから指してくる光を発見してきたのだと思う。
それをわれわれが記憶していないのは、その「光」に名前がないことによっている。
その圧倒的な光こそが、個々の人間が一生を賭して探さねばならないものなのであると思います。

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