Monthly Archives: March 2013

むかし、日本人は戦争に行った

日本が戦争に負けたのは1945年のことだった。 戦争を始めた理由は以前にも書いたが本質的には「欧州で勝ちまくっているナチのおこぼれが欲しかった」からである。 当時の日本では「バスに乗り遅れるな」という標語が流行ったが、このバスはナチがフランスを占領したせいであちこちにできた元フランス植民地の空白や同じように無力化されたオランダ植民地を「ただでわけ取り放題」にするための「バス」だった。 その、日本の人のお怒りを承知のうえでいえば、卑しい口元の「新時代」へ自分達を運んでくれるバスに日本人はどうしても乗り遅れたくなかった。 それまではどうしても広大な植民地を自分達の手でにぎって話さない「けちんぼな先行者」である連合王国やアメリカ、欧州諸国を妬ましげな上目遣いで睨み付けながら、「そんなにたくさん持っているのだから少しくらいおれにもタダでよこせ人種差別主義者め」というお決まりの悪罵を内心で毒づくしかなかったのに同じ世界秩序の紊乱者としてあらわれたナチが意外にも電撃的な戦勝を手にしてあっというまに大陸欧州を手にしてしまったので、のんびりしていてはおこぼれがもらえないと考えて浮き足立って、とにかくなんでもいいから戦争を始めてしまいたい、と考えた。 ナチが他ならぬ日本人を猿と軽蔑していることは、たとえば「我が闘争」から削除して翻訳して、「なかったこと」にしてしまった。 人種問題などとるにたりないと思わせるほどの利益が目の前にぶらさがっていたからです。 ちょうどいまの北朝鮮と同じことで当時広く伝えられていた中国での集団強姦や虐殺に反撥した世界は日本への制裁を強めていて、1990年代にソビエトロシアの軍隊が実際にそうなってしまったように補給物資、就中燃料の欠乏から軍隊の経営が難しくなっていた、という理由もある。 陸軍は日本が挑発して起こしたノモンハンでの戦闘でジューコフの機甲師団に鋼鉄に生身で体当たりするような無様な戦闘を繰り広げて、現代戦においては自分たちの軍隊がまったく用をなさないのを知っていたにも関わらず、佐官級将校達を中心に戦闘の実際そのものを書き換えてしまい、「ロスケ相手なら勝てる」と、いまから考えてみれば信じがたい無責任な虚栄を張っていたが、なにしろ現実を知っているので、オランダがナチに敗れてインドネシアの原油が「取り放題」の対象になり、フランスもナチにくだってインドシナがからっぽになると、もう無我夢中で置き去りにされたものを掠めにいった。 当時のアメリカ人にとっては日本人は「ただの人間を神と崇める未開な民族」にしかすぎなかった。 日本人が自前の飛行機を設計して、しかもその飛行機群は主戦場が太平洋であることを意識した設計で長大な航続距離をもたせるという合理的な思想に基づいていたり、地紋航法を乗り越えて戦闘機操縦士ですら風の偏向を機上で計算しながら洋上を飛べる航空技術を身につけている(PPLをとってやってみれば判るが、これは人間業では無理な感じがするほど難しい作業です)ことなどを知っていたのは極くひとにぎりで、ほとんどの場合、「日本人は人間を神と崇拝できるほど未開である」という観念にとらわれて、中国大陸からの武官達の報告も無視されてきていた。 日本が実際に真珠湾を攻撃した頃には「日本に近代戦遂行能力がある」というような発言は、タブー、というか、変わり者とみなされて将来の栄進の妨げになるので誰も韲えて言おうとはしない話題になっていた。 フランスのように既に打ち負かされていたわけではなかったが連合王国は当時、風前の灯火もいいところで、表現に巧みなウインストン・チャーチルの口にかかれば「The Few」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Few ということになって、なんとなく英雄的でかっこいいが、なにしろ計画性に長けて全員一丸となって合理的な生産計画をつくることにかけては当時もいまも世界一のドイツ人を相手に、計画性がゼロで、同僚同士の足のひっぱりあいに熱中する伝統をもつ高級将校に率いられ、訓練に至ってはタイガーモスで離着陸が出来てハリケーンでまっすぐ飛べればもうベテランとみなして、あとは自分で上手になってね、な、これも第一次世界大戦以来伝統の無茶苦茶なパイロット養成計画で、スペイン内戦で腕を磨いたドイツ軍の戦闘機パイロット達には「なんでイギリス人は標的機を自分たちの戦闘機の訓練でなくておれたちの訓練に差し向けて寄越すんだ」と訝られるくらいダメな空軍の全力を挙げてナチの侵攻を阻止しようとしているところだった。 自分の国を守る戦力がまったく足りないのに植民地防衛にまわす軍隊などあるわけはなくて、実際にも太平洋地域の主戦力はブリュースターバッファロー http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo という樽に翼をつけてみたら飛びましたとでもいいたげな、とんでもないアメリカ製戦闘機で、しかも数が足りないので用途は日本軍の上空を飛んでびびらせることに専念して、あんまり使うな、という命令を受けたりしてしていた。 苦し紛れにプリンスオブウエールズを派遣してシンガポール人たちに対して「イギリスはちゃんとアジア権益を守る意志はあります」というこどもだましのポーズをつくってみせたが、このプロモーション企画も、ただチャーチルの頭の古さを証明するだけで終わってしまった。 もっと悪い事にはオーストラリアもニュージーランドも、戦士として素質がありそうな若い衆はみな連合王国防衛のために出払っていて、南太平洋は軍事的な真空地帯になっていた。 そこに、「バスに乗り遅れるな」の日本人達が、どっと侵攻してきたのだった。 家を開けて遠い国へ出かけて旅の空にすごしていたら、戻るにも戻れない距離の彼方で、自分の妻や家族が日本侵攻の危機に曝されていると知ったニュージーランド人やオーストラリア人の「日本人の卑怯」に対する憎悪はすさまじかった。 日本の敗戦処理委員会ではニュージーランドとオーストラリアは常に強硬に日本への厳しい復讐を迫るので読んでいて驚くが、要するに、「空き巣を狙われた夫たちの怒り」とでもいうのに似ている。 残された女達、ということでいえば、東南アジアやポリネシア、マイクロネシア各地で赤十字の看護婦や伝道の仕事に携わっていた女のひとたちは、日本人が進出してきたほとんどあらゆるところで強姦被害に遭って、BBCのドキュメンタリなどではいまもよくインタビューが放送される。 ガキわしも、香港の病院に赤十字のボランティアとしてつとめていたヨークシャー人のおばちゃんが、「そうして日本兵たちがわたしたちの病院にやってきました。彼等は私達をゆびさして『二階にあがれ』と命令した。それから…わたしたちはひとり残らずレイプされた」と述べて、テラスの外の夕陽に輝く庭を眺めながら「That wasn’t very nice」とつぶやく姿に大泣きしたりしたものだった。 「人間を神と崇めるバカタレの国」という侮蔑を奉じて軍備をまったく怠っていたアメリカ合衆国と自分の家が火事で丸焼けの最中の連合王国が一応まもっていることになっていた太平洋は、圧倒的に優勢な軍備(ちょっと意外な感じがするかもしれないが開戦当初の日本陸軍は機関銃、榴弾砲、対戦車砲、戦車、航空機、あらゆる点で連合軍よりも質も数も遙かにうわまわっていた。海軍については言うのもばかばかしいくらいの戦力差があった)の日本人たちにあっというまに踏みにじられた。 (余計な事を書くと日本語で太平洋戦争について書かれた本を読むと「日本軍の補給思想の欠落」ということが書かれているが、それは半分しか本当でないように見える。 日本軍はかなり精密に補給を計算して実行できる軍隊だった。 ちょっと考えてみればわかるが、そうでなくては4000キロ先の戦線まで補給物資をとどける、というようなことが出来るわけはない。 朝鮮半島侵略戦の補給指揮官だった石田三成の例をあげるまでもなく日本人は伝統的には補給の才能に恵まれた民族であると思う。 日本軍に欠けていたのは補給思想よりも「補給線防衛」のハウトゥーで、これは多分第一次世界大戦に一部局地戦をのぞいて参加しなかったからだろう。 北海や北大西洋を舞台にして「補給を断てば勝てる」という、やらしい思想をもったドイツ軍と対峙したことがなかったからだと思われる) 日本軍の殺到ぶりは、なにしろ碌な軍隊が存在しない無抵抗戦域なのだから当たり前だが、ものすごいスピードで珊瑚海にあらわれた日本の、上陸用の兵士たちを伴った、「海を覆うような」大艦隊のニュースに、オーストラリア人やニュージーランド人が、いかにパニクったかは、たとえばオークランドの沿岸を船でひとまわりすればすぐに判る。 至る所に急造の砲座やトーチカがつくられているからで、あれらはみな、じーちゃんやばーちゃんが、「日本軍がくる!」の報にえっちらおっちらこさえたものである。 珊瑚海海戦について「日本が勝った」「アメリカが勝った」「引き分けだった」と相撲の判定みたいなことを書いている本が世の中にはたくさんあるが、戦争は無論勝ち負けだけではない。 珊瑚海海戦で最も重要なことは「攻勢の日本軍がそこで止まった」ことで、自前の軍勢の精鋭が欧州やアフリカに出払ったオーストラリアやニュージーランドの国民感情とブリスベンの重要性をみなおしたアメリカ人達が、ほんでわ、というので南太平洋を軸とした戦略を再構築していったことにある。 … Continue reading

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「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」について

伝説的ヨット乗り、フランス人のBernard Moitessierは世界で初めての単独無寄港世界一周ヨットレースであったSunday Times Golden Globe Raceに参加する。 なにしろGPSどころか近代的なバタンすらない頃で、ヨットで無寄港で世界一周をするなどは無謀な冒険とみなされた時代である1968年のこのレースで、他の参加者がすべて脱落したあとRobin Knox-JohnstonとBernard Moitessierの二艇のketchだけは終盤まで生き残って、すべての難所を乗り越えて、いまや目前の最終目的地の連合王国を目指す。 Bernard Moitessierのヨット「Joshua」が喜望峰をまわって大西洋に姿をあらわしたときのフランス人たちの熱狂はすさまじいもので、イギリス艇とデッドヒートを繰り広げながら大西洋を北上して、もうじき欧州の海にあらわれる「フランスの英雄」のために、フランス海軍は歓迎と伴走のための大艦隊を組織して出航する準備にかかり、政府はレジオンドヌール勲章を約束する大騒ぎになった。 少なくとも10万人の大観衆が到着港には見込まれていた。 妻のフランソワーズはずっとあとになって「でもわたしには何かが起きるとわかっていました。わたしはBernardというひとを誰よりもよく知っていましたから」と述べている。 この、自分の妻によって「詩人、哲学者」と描写された偉大な航海者のBernard Moitessierは、ゴールを目前にして突然ヨットを反転させる。 彼自身の言葉によれば「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」によって、彼は、なんと二周目の世界周航に向かってしまう。 破天荒どころではなくて、いまでいえば火星から帰還して地球軌道にもどってきた単独宇宙旅行の飛行士が勝手にもういちど火星をめざして飛び去ってしまうようなもので、自殺的とも狂気の行動ともみえる行動だった。 Bernard Moitessierの「狂気の反転」のニュースが伝えられるとフランス国民は怒り、悲しみ、失望に沈んで、途方もなく混乱した気持ちにおちいっていった。 Moitessierの娘は三日間泣き続けて、「おかあさん、わたしたちはこれからどうやって生きていけばいいの?」と訊いたが、母親は「あれがお父さんなんだから、このまま生きていくしかないじゃないの」と答えたそうである(^^) Bernard Moitessierは再び難所だらけの「Roaring Forties」 http://en.wikipedia.org/wiki/Roaring_forties を通過し、まるで選んだように帆船にとって困難な海ばかりを通ってタヒチに着く。 ようやく、そこで航海を終える。 10ヶ月、70000キロメートルに及ぶ単独航海は、もちろん、新記録と呼ぶのもばかばかしいほどの大記録だったが、Bernard Moitessierは自分が夢中になって読んでいた本を読み終わってしまいたくなかった一心で、自分がいったいどれほど遠くまで来たかを、知らなかったのではないかと思われる。 Bernard Moitessierはレース前のインタビューで「このレースにカネや名声めあてに参加する人間はひどく後悔することになるだろう」と述べた。 ひとびとは、なるほど、と彼の簡明すぎる言葉を理解したつもりで頷いたが、ほんとうは何もわかっていなかった。 Bernard Moitessierは島影もなにもない「圧倒的な莫大の感覚」に満ちた大洋を愛していた。 そこで自分を発見し、自分自身への信頼を見いだし、鏡に映る自分の姿ではない自分というものの素の現実の姿を自分の目でみつめる方法を手に入れたひとだった。 長い航海の最後の一瞬で、彼は「ゴールに着いてしまえば、すべてが消えてただゴールへ到着したという達成だけが自分を説明することになる」ことに気が付いて、それに耐えられなくなっていったのだろう。 彼が、反転する、という破天荒な行動に出たのは、どうやっても「航海している自分」よりも「ゴールを目指して航海し勝利のなかでうすぺらな勝利者になってゆく自分」を下位におくことができなかったからであると思う。 言葉にならないものが、言葉によってかきけされることに耐えられなかった、と言い直してもよい。 子供の頃、Bernard Moitessierの物語を読んで、どれほど興奮したか、うまく説明できない。 世界周航レースの勝利者であるKnox-Johnston卿の物語を読んだときには明るい気持ちの単純な愉快さが感じられただけだったが、Bernard … Continue reading

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TPP

世界中で最もTPPが話題になっているのは日本だと思う。 もっかTPPいいだしっぺの国に住んでいるわしがそういうのだから間違いはないのではなかろーか。 ニュージーランドでも、グローバリズム反対の運動家のひとびとがTPPに反対している、という小さなニュースを二三度みたことがある。 しかし、ふつーのひとは、「TPPって、まだあれやってたのか」というくらいの反応で、最近になって「日本でTPPに反対する運動が盛り上がっている」というニュースが英語圏で立て続けに流れて、へえええー、日本の人ってTPPに反対なんだ、韓国と同じで農家が嫌がっているのだな、と思う、その程度だと思います。 だから、よもや自分がブログ記事でTPPについて書くことになるとは思わなかったが、ツイッタ上のお友達にジャンミンとさよりさんというTPPには虫酸が走るひとびとがいるのであって、約束したので140文字の制約がない文章で説明をこころみることになった。 チョーめんどくさいと思うが、約束は約束である。 まず背景から説明しないとわかるわけがない。 ニュージーランドは産品を輸出しないとやっていけない国なので、ワインだの乳製品だのを他の国に売らないと国がつぶれてしまう。 むかしはアルミニウムの精錬や日本や連合王国やアメリカの会社に来てもらってクルマを製造して稼ごうと考えたことがあったが、「国内産業を保護する」ということがいかに国民ひとりひとりのふところに打撃がおおきいかわかったので、やめることにした。 別に保護しなくても他国と競争して勝てる産業を野放しにしておく方針のほうが国民ひとりひとりの懐がゆたかになるのがわかったからです。 アルミニウムの精錬は大金を投資したが、全部ぶちすてることに決めた。 クルマは特殊なことをするのはやめて、日本やドイツ、フランスから輸入すればいいやん、ということになった。 農業は主に有機農業産品が伸びて収益も高いが、牧場で育てるものでいうと、かつてはニュージーランドのアイコンであった羊は激減することになった。 もともと羊農家の運命は60年代の終わりに「ジーンズ」が流行りだしたことによって決まったようなものだった。 ウルは人気がなくなってコットンが原料のものが世界中であっというまに広まっていった時点で産業としてはダメなのがわかっていた。 もうひとつ羊毛を刈ったりして羊は手間がかかる上に、草を食べるときに文字通り根こそぎ食べてしまうので、ひとつのパドックで飼う、というわけにはいかなくて、あちこち群れを動かさねばならないのでチョーめんどくさい。 1990年代においては土地が500エーカー(61万3千坪)あれば赤字でなくて損益が均衡すると言われていたが、いまは500エーカーなんかではぜんぜんダメで倍はないと無理と思う。 「羊毛」という需要がほぼ消滅したような市場で人件費がずっと安い中国ともろに競争しなければならないからで、まだオタゴを中心に羊を飼っている農家は、たとえばわしの友達でいうと、3000エーカーほどの土地の半分はデイリーカウで、残りのまだ荒れ地に近いほうのパドックで羊を飼っている。 羊毛は赤字でラム肉が黒字、両方あわせてちょっと黒字、利益のおおかたは牛さん、という感じであるよーだ。 ボルジャーの時代にニュージーランドは、簡単に言えば「めんどくさいことはやめる」という方策をとることにした。 いろいろ理由をつけて郵政を民営化してしまったり関税をどんどん撤廃したりして「自由貿易国家」を自称しつつあるが、ほんとうの理由は障壁を残しておくと役人の力が増大して役人の力が増大すると、バカなことばかりいいだして、ものすごい金額の税金がどっかへ行ってしまうからである。 いま70代のニュージーランド人たちは、クルマを、当時はニュージーランドの委任統治領だったフィジーで買う人が多かった。 具体的な税率は忘れてしまったが、300%だかなんだかの税率で、クルマがないと生きていけるわけがない当時のニュージーランドで、なんでそんなバカなことをやっていたかというと、ネルソンやなんかで細々とやっていたホールデンやモリスを「保護育成」しようとしていたからだった。 だからフィジーで学校の先生をしたりすると、フォードを買って帰ってきた。 そこから先はこのブログでは何度も書いたことなので繰り返さないが、年金制度国民保険制度、失業保険というような社会保障にこだわるあまり、国の倒産寸前まで行って、ボルジャーの代になって、「あれは無政府になるまでやるな」と冗談が国民のあいだで行われるほど政府を小さくした。 役人の数と権限を減らして、なんでもかんでも民間でまかなうことにした。 外国資本に対する制限も大幅に撤廃したので、途中ではものすごいことがたくさん起こって、森林で有名だったある地域の木が、ほぼ一瞬で借り倒されてなくなってしまう。 ニュージーランド人はもともとは私有地といえども公共性を考える、ということが常識で、たとえば、南島のオタゴの農場はトランピングで歩いてゆくひとたちのために農場のゲートに鍵をかけたりはしないことになっている。 その代わり、トランピングで歩いて移動するひとたちは、パドックの動物が逃げてしまわないように必ず閂をおろしてゆく。 Shania Twain http://en.wikipedia.org/wiki/Shania_Twain が巨大な農場を買ったときに、そういうことが判らないで、ゲートに鍵をかけたことにニュージーランド人が憤激して大騒ぎになったのは、カナダ人であるShania Twainがそういうニュージーランドの習慣を無視したからだった。 ところがゲートに鍵をかけるどころか「自分の土地だから」という理由で景観の中心をなす木をえらい勢いで切り倒してしまったひとが出て、あわててテレビ局が調べてみると、マレーシア国籍の中国人たちが一帯の森を買い占めていた。 あるいは、こちらはもっとずっとあとのことになるが、やはり中国系企業群がいつのまにか主立った酪農農場を買い占めているのが発覚して大騒ぎになった。 それが商売なので新聞記者たちが調査してみると、この「中国系企業群」がどうやら実はひとりの中国人の女の人が名義上は持ち主で、しかもほんとうの持ち主は中国政府らしいことがわかって大騒ぎはいやましになる。 いったんは、デイリーボード(酪農組合っす)の主張がとおって農場の売買契約は無効になったが、中国側が控訴して、結局は手続き上瑕疵がないのだから契約は有効だということになって、ニュージーランド人たちの不満をよそに農場は実質的に中国のものになった。 スーパーマーケットに目をうつすと、ここはオーストラリア資本とニュージーランド資本の争いで、パックンセーブ http://www.paknsave.co.nz/ とニューワールド http://www.newworld.co.nz/ … Continue reading

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ガメ・オベールからの手紙_3

「教室では、わしはわれわれの無知を学んだが、通りでは、人間が神にすぐれた価値を学んだ。
人間の神に勝れた価値?
そんなもん、あるわけねーじゃん、ときみは言うかもしれん。
でも、あるのよ。
人間の愚かさ、人間が一刻一刻に全霊をそれに投企する、
人間の愚かしさのことをわしはゆっているのです。
愚かであることは神を驚かす。 今度は、それを話しにもどってくると思う (つづく)」 と書いた、前回の「ガメ・オベールからの手紙」からちょうど1年半経ってしまった(^^;) これだから時間という、誰の、あるいは何の意識であるのかすらはっきりしないものとの付き合いは油断ができない。 二十代前半においては、わしは北欧人の友達が多かった。 偶然であると言ってよいが、北欧人は気持ちのよい礼儀正しい人間が多い、という理由にもよる。 わしは礼儀正しい人間が好きであって、どちらかというと儀礼的な自己抑制がちゃんと出来るならば、内心が多少ぼろかったり、邪であっても構わずに付き合うほうである。 北欧人は合理的であって、あるとき一緒に昼食を食べていたら「ガメ、アフリカ人の友達を知らないかな?」という。 知ってますよ。なんだったら今度の週末のアフリカ人たちの集まりに連れていってもいいよ、というと薄い灰色の目を輝かせて、行きたい、という。 あとで別の北欧人の友達に訊いてみると、この大秀才でスーパー美人でもある男大学人の憧れの的であった北欧人は、全人種の男とイッパツやってみて、人種によってセックスが異なるかどうか探求しようとしていたものだそーである。 各人種につき1サンプルではいくらなんでもサンプル数が少なすぎるのではないか、と冗談を述べたら、ちゃんと3サンプルづつやってみたのだそーで、お話の合理性に感心してしまった。 こーゆーとき、北欧人に対するわしのヘンケン式メカニズムは発動して、北欧人だなあー、と思う。 スウェーデン人の友達が戦争前にいかに多くのスウェーデン人がヒトラーとナチの支持者だったかを述べるので、わしが、ふと、考えもなしに、「それなのになぜ、国王がナチにかぶれたくらいで国としてはナチに鞍替えしなくてすんだのだろう」というと、友達は「アドルフ・ヒトラーの髪が黒かったのと瞳が暗褐色だったのが気にいらなかったのだろう」という怖ろしい冗談を述べた。 そのときも83式ヘンケン・メカニズムがウィイイイーンと動いて、「北欧人だなああああー」と考えた。 それやこれやで北欧の人、というと「狂気の人」という印象があるが、もちろんベーオウルフを読み過ぎた結果の思い込みが招いた偏見にしかすぎない。 日本語のおおきな魅力のひとつは言語の内部に神が存在しないことだった。 西欧語は言語の「中心にある空白」あるいは「外側にある無言語地帯」のような言語が存在せず、届きもせず、指向することも出来ない場所に「神」という絶対があって、それが実は言語自体の定義にもなっている。 神を前提としなければ思考そのものが成り立たないので、人間として活動するということは、ほぼそのまま言語によって思考して活動することだが、したがって、神を信じなければ人間でいられない。 違う言い方をすれば人間である限り神がいることにせざるをえないので、仮に神なんていないと気楽に否定すると、たちまち現実に存在するはずの自分がかき消えてしまうことになる。 ところが日本語という意識の体系では、そんなことはないのであって、別に神がいなくても困らない言語で、言語による思考の対象になりえず表現もしえない「絶対」の神を言語のなかに持つかわりにお互いの人間が立っているだけである。 外国人は日本にいて日本のことがわかってくると日本人があまりにウソツキなのでうんざりする。 考えてもいないことを相手が喜びさえすれば平気で口にするし、相手がいうことをわかっていなくても、深く頷いて同意してみせたりする。 日本滞在中、わしには虫の居所が悪いことが多い東部アメリカ人の友達がいて、このひとにはよく日本のひとに「いま笑ったけど、なにが可笑しいか言ってみろよ」と突然尋ねるという、粗暴で残酷なくせがあったが、相手の日本人にとってはいくらなんでも気の毒でも、苛立ちは理解できなくもない、と考えたりした。 神がいない結果、どういう社会が現出したかというと、「真実」というようなものはどうでもいい社会になった。 みなが「これが真実だ」とはやしはじめると、驚くべし、それが真実でないとほぼ歴然と了解されていても日本語のなかでだけは「なんとなく真実」「多分真実」「真実」と真実性が支持する人間の数によって補強されてゆくことで、ウソだと信じていた当人たちも真実だと信じるようになって、しまいには「放射能は安全である」と決まって、崩壊した原子力発電所からたった30キロしかないところで子供たちが学校へ通うことになる。 ここでも当初は個人の理性にかけて「安全でない」とおもっていても、集団に説得される形で心から「放射能は安全である」と信じてしまうようなので、他には、こんな文明が目撃されたことはないと思う。日本というマイクロ文明の重要な特徴ではないだろうか。 なぜそうなるのかというと日本語にはもともと「絶対」が存在しないからで、真理さえも言語の構造が原因して相対的だからである。 日本人の生活においてはお互いの表情や目つきというような反応が手がかりで真理はそれによって決定される。 真理がもたれあって生活している。 一方で日本では「妊娠中絶は胚が若いときでも殺人だ」「強姦された結果であっても神の意志なのだから中絶という名の殺人は許されない」という、特に北アメリカ大陸に多い狂信者のたわごとが勢力をもつ、というようなことは考えにくい。 ついでなので述べると胚の中絶は観念と思想の立場からはどうあれ、医者からみると、4ヶ月をすぎてしまうと殺そうと思ってもなかなか母胎にしがみついて死んでくれないので実感として殺人で、別に宗教キチガイに言われなくても自動的に罪悪感が生じる。 だが胚が「おかーさん」の体にしがみつきはじめる前の段階では、考えている言語に神がいなければ、罪障の感覚は起こらないのではなかろーか。 日本語で出来た日本社会の、いまは、当然、前からあったもんね、とされているモラルには、明治時代以降に「神を前提とした言語体系」をもった国からはいってきて、むかしから日本語の家に住んでいるような顔をして座っているだけのものが多い。 日本語における日本社会についての議論が多くの場合混乱して不毛なままの罵りあいで終わることが多いのは、チョー下品としか言いようがない人がおおい議論している人間の品性や適性ということを別にしても、錯綜した複数の系からなる文化がよじれあっていて、どれがどこに由来するのか、もう判らなくなっているからであるように思われる。 このブログがゲームブログだった頃に、アニメに関連して近代以前の日本ではビンボな家では近親相姦は(それが妊娠という結果を招かない限り)特に驚くほどのことではなかったようにみえる、と書いたら、えらいことになったことがあった。ゲームブログにそういう記事を書くやつが間違っておる、とも言えるが、前近代的なことを人目にさらさないことが「洋化」をめざす明治政府の大事な役割であったのをすっかり忘れて、どこに活字のものがある、証拠をみせろ、これこれこういうわけでおまえが言う事は現実ではありえない、馬脚をあらわしたな、と日本語インターネットを徘徊するアホな人たちの集団が飽きずに常用する退屈な語彙を丁寧に踏襲して息巻く大集団があらわれておもろかった。 メンドクサイのでほっといておいたら、これもアホのひとつおぼえというか「逃げた」の大合唱がはじまったが、江戸時代の近親相姦やほとんど罪悪感を伴わない強姦は草書に細々と残された以外は活字にはされず(明治という暗い時代は、そんなことを活字に出来る時代ではなかった)抹消されてしまったが、ではなぜたとえば外国人たちは、それを知っていて言及しているかというと、近親相姦の事実そのものが近代になっても生き残っていたからである。そうして近代になっても続いていた「身寄りのない女が縁側に寝ていると一日に数回強姦されることがあった」というような話は、明治以降に西洋から伝わった「反政府思想」人たちが活写した下層社会の実態を描いた記事のようなものに残っていった。 もっとも、このブログがはてなにおかれていたころといまでは読んでいる人の質が全然ちがうようでもあって、ツイッタで(よせばいいのに)同じ(絶対倫理の欠落と関連して)近親相姦の伝統について述べたらツイッタでもf_theoria(@f_theoria)さんが紀田順一郎の本をすぐ教えてくれたし、他の閲覧可能な本についてメールで教えてくれる人が何人かあった。 ものすごいことをいうと、近親相姦が絶対タブーである社会と、酔っ払った父親が娘を相手に性交してしまう社会とどっちが「進んでいるか」というような議論には意味がない。 よくニューズでも伝えられるように西洋でも娘を性的奴隷として虐待する親はいる。 … Continue reading

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「微かな叫び声」についてのメモ

1 たいてい秋から冬に向かう寒い夜ふけ、窓をあけたまま机に向かっていると、遠くから微かな叫び声が聞こえてくることがある。 手を止めて、ノートブックの上にペンを置いて、テラスに出て耳をすます。 きみの両親の家は、なだらかな丘の上にたっていて、遠くまで見渡せる田園の一角にあるが、その声がどこから聞こえてくるか定かだったことはない。 なんだか地平線の向こうから聞こえてくるようでもあるので、しばらく闇のなかをみつめたあと、きみは自分の部屋にもどって、ペンを手にとって、また本を広げる。 だいたい午前1時か2時頃、あの声はなんだったろう、と訝しみながら抽象的なもの思いのなかに戻ってゆく夜が、なんどもあった。 船のキャビンのなかで目をさまして、モニさんを起こさないように、そっと舳先にある寝室からでて、甲板への短い階段をあがって、まっくらな海面を眺めながらウイスキー入りのコーヒーを飲んでいると、聞こえるか聞こえないかのような声で、歌のような、すすり泣いているような、あるいは遠くで呼び合っているような声が聞こえてくる。 星のない夜、町からも島からも遠く離れて、広い海のうえで、ただ自分の船の停泊灯だけがわずかに辺りを照らしている。 きみは甲板の上に椅子をだして、声がするほうを眺めている。 もう少し精確にいえば、声がするほうの闇を眺めている。 風が立てる音をまちがいはしないだろう。 だとすれば、あの声はどこから聞こえてくるのだろう? 凪の海のまんなかほど静かな場所はこの世界にはない。 どんな小さな軋音のひとつひとつのなにがどんなふうに音を立てているのか知悉している、船自体がたてる小さな音の他には、ただ静けさだけがある。 自分の体内がたてる音と船のたてる音以外にはなにも聞こえない静寂の遙か遠くから聞こえてくる声に耳をすまして、きみはなんとか聞こえてくる言葉を書き留めようとする。 ラテン語のようにもイタリア語のようにも聞こえるが、ほんとうは人間の言葉なのかどうかもわからない。 ただ、「嘆いている」ということがぼんやりとわかるだけである。 なにごとかを悔いて、悲しんでいるひとの声であるように聞こえる。 しかもそれは歴然と男の声である。 2 人間は他人に対してほとんど関心をもっていない。 だからきみがなにをやっていても、他人の目を気にするくらいばかげた心配はない。 ときどき友人たちがやってきて、きみの新しい髪型はヘンだ、変わった言葉づかいをするようになったんだね、ということがあるが、それは手近に目に入ったきみを材料に気張らしをしているだけである。 特にきみに関心をもっているわけではない。 今日は雲が低いね、と述べたり、風が少し湿気っているようだ、と述べるのと同じで、特に意味がある行為ですらない。 それなのにきみが「自分がやっていることはそんなにおかしいのだろうか?」「自分は他人からみると異様なことをしているのではないか?」と往々にして思い悩むのは、落ち着いて考えれば、きみの母親がきみが目をさましているあいだじゅう、絶えずきみに関心をもって、きみが楽しそうであれば一緒に喜び、むづかれば周章して、大慌てでだき抱えてあやしてくれたからだろう。 おどろくべし、きみは18歳をすぎてなお、世界を母親の投影として眺めている。 若い人間が社会に第一歩を踏む出すとき、そこから先の一生にとって最も有用な知識は、「世界は基本的に自分に対して関心などもっていないのだ」ということであると思う。 ぼくは女びとと結婚して子供までいるのに、「愛情は絶対でない」と言ったさびしい男を知っている。 ペンザンスという町の、断崖に近いパブで、1パイントのブラウンエールを飲んだあとだったが、しかし明瞭にその男は「あげつらうほどの愛情など男と女には存在しない」とぼくに向かって述べたのだった。 ぼくは鳶色のおおきな目を見開くようにして自分の夫を懸命に見つめる癖のあるその男の奥さんを思い出して、胸のどこかで痛点になにかが触れたような小さな、でも鋭い痛みを感じたような気がして、なにかに向かって傷口がひらいてしまったような気持ちになったものだった。 恋愛論というような観念からはいって、ヒマな人間特有の思考上の堂々巡りをして遊ぶのならばそれでもよいが、現実世界では、この男はまず「世界が自分に対して関心などもっていない」という第一原則を忘れているのだと思う。 なんとかして自分の内側をみつめただけでつくった、というのは自分の心から世間の反映を注意深く取り除いた作品を売ることだけで生きたいと願う芸術家が最もよく知っていることだが、世界はきみの突出してはいるけれどもささやかな人格や才能になどこれっぽっちも興味をもっていない。 いまは職業的な彫刻家になっているが、六年間ニューヨークで苦闘しなければならなかったぼくの友達は、自分が持ち込んだ作品を前に、まだ自分が背を向けないうちに画廊主が自分の名刺をゴミ箱に放り込むのを何度も目撃しなければならなかった。 「きみの作品はすぐれてはいるが、ただそれだけだ」 「もっとおおきな名前と一緒にもどってきてくれたまえ」 自分の魂を目に見える形や耳に聞こえる音楽に変える才能に恵まれた人間にとっては「世界が自分になど関心をもっていない」のは、ほとんど自明のことであると思う。 ただ才能のない大多数の人間だけが、自分に対して世界が、良きにつけ悪しきにつけ関心をもっているのだと妄想する姿は、奇妙だがありふれた光景であると思う。 きみが美しい若い女なら裸になってみせるということはできる。 欲望をむきだしにした哀れな顔の男たちが、くいいるようにきみの裸体を眺めるだろう。 … Continue reading

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BENTO

マンハッタンのチョーボロー・アパートメントにいるときにはチェルシーの南の端っこにあるアパートを出て、ユニオンスクエアのぐじゃぐじゃな雑踏を抜けてイーストビレッジに向かう、という散歩コースが好きだった。 途中に「一風堂」というラーメン屋があっていつもながああああーい行列がある。 「今日はあんまり長い行列ないね」という日でも、よく見ると入り口のバーのところで無数の人間がとぐろを巻いている。 アメリカでは、ふとりまくって階段を上がるのにもぜーぜーゆって、心臓がぐわあああな状態になって足がへろへろ、というような状態になると、「死にたくなければ日本人が食べるものを食え」と医者に言われる。 だから寿司の流行は予見できるものだった。 わしガキの頃は、「どのくらいレンジにかければいいのか書いてないのは不親切だ」と文句をゆいながら電子レンジににぎり鮨をいれて、なんだかよくわけのわからないものになった鮨を食べて、「あんまりおいしい食べ物ではないようだ」と感想を述べる人や、怪力がすごいと思うが、ジャスミンライス(タイ料理屋さんとかで出てくるパラパラの奴)を超パワーで無理矢理固めて握ってある鮨とか、いろいろな初期プロトタイプの「西洋型鮨」があったが、最近は、日本の鮨から派生した、でも、わしなどはおいしいと思う「西洋鮨」として定着した。 ラーメンの流行は予想外だった。 義理叔父は酔っ払うとラーメンが食べたくなるヘンなやつなので、たとえば一緒に日比谷でどばどばと酒を飲んで酔っ払うと「ラーメンが食べたい」と言い始める。 わしは「ガリガリくん」のほうがいいので、アイスブロックにしようと主張するが、人間の世の中では人生の先が短いやつに親切にしてやるのがルールになっているので、タクシーに乗って「香妃園のとりそば」とかを食べにいったものだった。 噂によると本来はおっちゃんはもっと下品なラーメンが好きで、うんと酔っ払うと神保町の「揚子江」などにいそいそとでかけるもののようだったが、そこまではつきあえん。 わしはデリカシーに対するデリカシー(<−ダジャレの定義からはみだした天才的なダジャレ)を欠いた人間なので「日本料理について140文字以内で述べよ」とゆわれると、「全部、同じショーユ味じゃんね」と、ひどいことを言う。いつも日本の人に悲しそうな乃至は嫌な顔をされます。 正直な意見を聞くのが嫌なら質問すんなよ、と思うが、日本の社会ではこういうときはウソをつきまくるのが社会の礼儀だということになっている。 日本の人にあったときに、「外国の方は放射能が心配だと思われるでしょうね」と言われても、油断して、「死んじゃいますから」とか答えると、ニンピニンの人種差別主義者の反日ガイジンだということになってしまうので、「いやああー、ダイジョブなんじゃないですか? 第一、ほら、ホーシャノーたって、見た限りではどこにもないし、誰も死んでないんだから、大騒ぎしちゃダメですよねー」と答えるのが社会の礼儀にかなっている。 日本語というのはウソをつくという非人間的な行為によらなければ社会性と人間性が保てない不思議な言語なのです。 ラーメンも醤油っぽい味で、おまけにバラバラに轢断されて骨の随までぐつぐつ煮られた豚の臭いだと思うが鼻がくさって落ちそうな嫌な臭いがする。 典雅な食べ物がたくさんある国なのに、なんでこんなもんが「国民食」やねん、と思う。 もっと細かいところまでイチャモンをつけると、中国やベトナム、カンボジアというような中華圏(というとベトナム人やカンボジア人はすごく怒るが)では、ビンボ食は全部丼のなかにぶちこんで焼き豚も野菜も麺もいっしょくたに出すが、もっと気合いをいれておいしい麺を食べるときは、「具」にあたる部分と透明なスープに浸かった麺を別々にだす。 安いラーメンなら特に文句はないが、白胡椒をかけると風味がわるくなるからかけるな、レンゲで飲むとスープの旨さが判らないから丼から直截のめ、果てはおそれおおくも金華ハムでとったダシだから残すような客は死ね、みたいな感じのもったいがいっぱいもったいもったいしている店で「一緒くた丼」を出されると、げんなりする。 店のいうとおり「味わって」食べていれば、麺とスープにのっかって危うい均衡にある具は、どんどん味を失っていくに決まっているからです。 鶏の竜田揚げみたいな揚げ物が別皿に切り分けて並んでいて、その上にレモングラスのソースがかけてあるベトナム料理のほうが、ゆっくり、落ち着いて食べられる心地がする。 そーゆーわけで、どーしてマンハッタンのまんなかで、赤毛のにーちゃんが、あごひごの先をラーメンスープで濡らして光らせ、前歯に鮮やかな緑色のほうれん草のかけらをくっつけて、大声で、「ここのスープの味噌はゼンコージ味噌だな。マルコメとは風格が違う」とゆーよーな蘊蓄を傾けることになったのか、いまの英語圏におけるラーメンブームは、わしの理解の能力を遙かに越えておる。 しかしラーメンと時を同じくして流行している「弁当」は別です。 かーちゃんとかーちゃんシスターは歌舞伎が好きでわしもときどきとばっちりで歌舞伎座に連行されることがあった。 「そんなことはありえない」という日本の人に会ったことがあるが、ガキわしは不明な理由で能楽は大好きで、観世も喜多も大喜びででかけたが、歌舞伎は退屈で嫌だった。 Kissのおっちゃんたちが縮小サイズになったみたいな俳優たちがドタバタ走り回って、なんだかよくわからねー上に、劇そのものがチョー長いので閉口した(歌舞伎ファンのひと、ごみん) ただゆいいつの救いは幕間の「幕の内弁当」であって、時間がなくて忙しい上に食べられないものもたいてい混ざっていたが、いま思い返してみると、あの年季と気合いがはいったプレゼンテーションが好きだったのだと思われる。 「いろいろなものをちょっとずつたくさん出す」というのは東アジア文化で、日本の焼き肉屋ではなぜかそういうことをやっていないが、普通は、コリアンBBQの店にいくと、小鉢にはいった食べ物がキムチ、カクテキ、切ったチジミ、山菜のおひたし、蒟蒻の切ったの、トリッパを醤油で煮たようなもの、ぞろぞろぞろといっぱい出てくる。 お代わりは無論タダです。 小鉢の数は通常少ないが、台湾料理屋でも、注文した「排骨飯」の脇に炒り卵や青梗菜の炒め、麻婆豆腐というような小鉢がくっついてくる。 子供のときにかーちゃんやとーちゃんと一緒に何度か出かけた台北のたとえば「青葉」では、そういう小鉢などなかったような気がするのでツイッタで知り合った(台北のマルタ人)勲さんにでも訊いてみないと判らないが、少なくとも英語国のエスニック料理街では、小鉢文化が息づいている。 (閑話休題) 食べ物が世界でいちばんおいしいのはサンチャゴ・デ・コンポステラがあるガリシアかコスタブラバに無茶苦茶うまいレストランが点在するカタロニアであると思うが、日本の料理はプレゼンテーションが圧倒的にすぐれている。 目の前のカウンターやテーブルに、ふわり、と置かれただけで目が輝いてしまうほど「見た目」にぱっとした冴えがあって、日本人のこういう美的センスはどこから来たのだろう?と真剣に考える。 記事の冒頭にあげた「ちらし寿司」もそうだが、飛竜頭(ひろうす)のような、おいしくはあってもプレゼンテーションのつくりようがないものでも、日本の人の手にかかると、「見た目のよい」食べ物になってしまう。 プレゼンテーションの伝統に支えられて、日本の人は「弁当」という見ただけで楽しくなるような食べ物をうみだした。 上の写真のは多分「吉兆」という料亭がつくってくれた弁当だと思うが、ミーティングの席に出てきた二段のこの弁当を開けて、なんだか食べるのがもったいないような、せっかくつくったものを壊すのが悪いことのような不思議な気がした。 ブログに書いたことはないが、わしは日本人の「永遠を求めない心」が好きである。 一時間も経たないうちに客の箸によって破壊されるに決まっている食べ物に趣向を凝らして美しい形を与えようと気持ちを集中させて箸を握る職人さんたちの背後にある須臾のなかに永遠を見ようとする偉大な美意識というものを感じないでいるのは難しいことであると思う。 ツイッタもみている人は気が付いているかもしれないが、この記事は「バジル」(@basilsauce)さんというひとがツイッターの上にあげた娘さんと息子さんのためにつくった下の「おべんとう」の写真 (©basilsauce) … Continue reading

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あんはっぴー

日本ならば「私小説」というものがある。 構想もなにもなくてただ自分の生活と内心を書き綴ったような本が好きで、日本にいたときは、田舎の町の小さな古本屋で自費出版の「自分史」の本をワゴンのなかに漁ったりしたものだった。 重層性や「企みに満ちた」物語という娯楽は欧州では20世紀文学の特徴でやや古い。 読めば物語らしく知的神経が刺激されてコーフンするように出来ていて、物語が氾濫している、「物語中毒社会」と言えそうな、いまの西欧語世界でも面白いが、なぜそれを苦労して(外国語である)日本語で読まなければならないかわからない。 日本のひとは城郭の縄張りをするように言語を張り巡らせて物語を設計するのが苦手なようでもある。 自分の心を井戸の暗闇を見下ろすようにして、じっと見つめることのほうに、ずっと才能があるように見えます。 たいていは自分にとってだけ特別な自分の一生をただだらだらと書いてあるにすぎない「自分史」を読んでいると、しかし、人間の一生はそのひとひとりにとってはかけがえがないものなのがわかって素晴らしい。 皮肉ではない。 戦争がおわったあと国民党軍に投降して、そのあとの4年間を国民党の通信兵として戦った、などというひとは日本にはごろごろいる。 一生の最も活動的な時期といってもよい18歳からの10年間を破壊と死、同胞たちの集団強姦、容赦のない暴力をともなった悪意というもののなかで過ごして、ほとんど人間の道徳の彼岸に到達して菩薩に似た境地に達してしまっているひとが書いた「自分史」を読んでいると、人間の神などは人間の魂にもともと内蔵されている言語の機能にしかすぎないのではないかと思ったりする。 カウチに寝転がって、他人の人生の記録を読んでいると、人間が希望に燃えて生活したり、絶望にとらわれたりするのは50歳くらいまでであるようにみえる。 だいたい50歳をすぎると、(観念の)鏡に映った自分ではなく、手をのばした先にみえる自分の手のひらを見るような、ありのままの自分がみえてきて、その「自分」と一緒に過ごすしかないのだ、ということが悟達されるもののよーである。 このブログ記事で何度かふれたRay Kroc http://en.wikipedia.org/wiki/Ray_Kroc のように(マクドナルドの成功という意味だけではなく)実質的に52歳から一生を始めたようなひともいるが、数は少なくて、50歳をすぎると、いわば「自分に馴染んでゆく」というタイプの人が多い。 絶望や希望という概念が機能しなくなって、ただ起きてから寝るまでの一日を見つめる生活になってゆくもののようで、健全というか、余計なものがとれてしまうようだ。 このブログには老いたひとびとについての記事が多い https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/11/夕暮れの交差点で/ ので、それに気づいた人が「お年寄りが好きなんですね」といって寄越すことがある。はなはだしきに至っては精いっぱいの、だが稚拙な悪意をこめて「ガメ・オベールは老人であるに違いない」とあちこちに書き込む人もいる(^^) 事実は逆で、わしは人間が老いるということが子供のときから怖くて仕方がなかった。 自分が、ではない。若い人間の頭の悪さで、「自分が老いる」ということはなんとなく起こらないような気がしていて、実を言うと頭でぼんやり理解しているだけで、いまのこの瞬間でも自分が老いるのだということはわかっていないようにみえる。 もっと小さい子供のときは、怖い、というよりも老いた肉体や相貌というものにかなり明瞭な嫌悪をもっていた。 もちろん礼儀正しくはしていたが、曾祖母などは、いちど春の芝生の上で開かれたパーティで、5歳のわしに向かって「ガメは年寄りが嫌なのね。なんて正直な子供でしょう。よいことを教えてあげるわ。わたしも、若いときは、自分のまわりの年寄りが薄気味悪くて大嫌いだった」と述べて、曾祖母の特徴であった闊達な感じのするやさしい声で笑った。 いくら隠そうとしても傍目には明かだったもののようである。 昨日、「もう死んでしまったものたちのやさしさ」と記事に書いたら「意味がわからなくて困った」というメールがきた。 理解しようと思って理屈を使って考えるから判るのが難しいと思うので、簡単に言って解剖台に横たわっている死体をみて、同じことを感じない人、というものを想像するのは難しい。 棺のなかでもよい。 死んでしまった人間の肉体というものは、多分、人間が一生のなかで目にするもののうちで、最も安らぎを感じさせる自然であると思う。 50歳をすぎた人間は理想的なスタート地点にいる。 人間の肉体はだいたい50年もつように設計されているので、設計上の耐用年数は実はもう過ぎている。 このあとはmRNAやtRNAがへまをこいたりコドンを写し間違えたりして、肉体の維持体制がだんだんデタラメになってくる。 いわば50歳くらいから人間は少しずつ確実に死んでゆく。 だから50歳で「希望をもつ」というのは実はほとんど論理的な矛盾である。 途中で必ず墜落するとわかっている飛行機に乗り込んで行く先のカリブ海に面したホリデースポットでの午後を夢見る人はいない。 よく目を開けて落ち着いて考えてみれば一生はとっくに過去のものになって肉体が残映のなかで生きているにすぎない。 だが絶望もない。 老いた人間が「絶望」する場合には単に精神的なディプレッションであることのほうが多いだろう。 希望が存在しないのに絶望だけが存在することはできない。 「死」に向かう人間は自己の消滅という究極の破滅に顔を向けているので絶望も希望も、もうそんなところにとどまっていては、人間として自己を維持するのが難しいものになってゆく。 … Continue reading

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