「微かな叫び声」についてのメモ

esp31

たいてい秋から冬に向かう寒い夜ふけ、窓をあけたまま机に向かっていると、遠くから微かな叫び声が聞こえてくることがある。
手を止めて、ノートブックの上にペンを置いて、テラスに出て耳をすます。
きみの両親の家は、なだらかな丘の上にたっていて、遠くまで見渡せる田園の一角にあるが、その声がどこから聞こえてくるか定かだったことはない。
なんだか地平線の向こうから聞こえてくるようでもあるので、しばらく闇のなかをみつめたあと、きみは自分の部屋にもどって、ペンを手にとって、また本を広げる。
だいたい午前1時か2時頃、あの声はなんだったろう、と訝しみながら抽象的なもの思いのなかに戻ってゆく夜が、なんどもあった。

船のキャビンのなかで目をさまして、モニさんを起こさないように、そっと舳先にある寝室からでて、甲板への短い階段をあがって、まっくらな海面を眺めながらウイスキー入りのコーヒーを飲んでいると、聞こえるか聞こえないかのような声で、歌のような、すすり泣いているような、あるいは遠くで呼び合っているような声が聞こえてくる。
星のない夜、町からも島からも遠く離れて、広い海のうえで、ただ自分の船の停泊灯だけがわずかに辺りを照らしている。

きみは甲板の上に椅子をだして、声がするほうを眺めている。
もう少し精確にいえば、声がするほうの闇を眺めている。
風が立てる音をまちがいはしないだろう。
だとすれば、あの声はどこから聞こえてくるのだろう?
凪の海のまんなかほど静かな場所はこの世界にはない。
どんな小さな軋音のひとつひとつのなにがどんなふうに音を立てているのか知悉している、船自体がたてる小さな音の他には、ただ静けさだけがある。
自分の体内がたてる音と船のたてる音以外にはなにも聞こえない静寂の遙か遠くから聞こえてくる声に耳をすまして、きみはなんとか聞こえてくる言葉を書き留めようとする。
ラテン語のようにもイタリア語のようにも聞こえるが、ほんとうは人間の言葉なのかどうかもわからない。
ただ、「嘆いている」ということがぼんやりとわかるだけである。
なにごとかを悔いて、悲しんでいるひとの声であるように聞こえる。
しかもそれは歴然と男の声である。

人間は他人に対してほとんど関心をもっていない。
だからきみがなにをやっていても、他人の目を気にするくらいばかげた心配はない。
ときどき友人たちがやってきて、きみの新しい髪型はヘンだ、変わった言葉づかいをするようになったんだね、ということがあるが、それは手近に目に入ったきみを材料に気張らしをしているだけである。
特にきみに関心をもっているわけではない。
今日は雲が低いね、と述べたり、風が少し湿気っているようだ、と述べるのと同じで、特に意味がある行為ですらない。

それなのにきみが「自分がやっていることはそんなにおかしいのだろうか?」「自分は他人からみると異様なことをしているのではないか?」と往々にして思い悩むのは、落ち着いて考えれば、きみの母親がきみが目をさましているあいだじゅう、絶えずきみに関心をもって、きみが楽しそうであれば一緒に喜び、むづかれば周章して、大慌てでだき抱えてあやしてくれたからだろう。

おどろくべし、きみは18歳をすぎてなお、世界を母親の投影として眺めている。

若い人間が社会に第一歩を踏む出すとき、そこから先の一生にとって最も有用な知識は、「世界は基本的に自分に対して関心などもっていないのだ」ということであると思う。
ぼくは女びとと結婚して子供までいるのに、「愛情は絶対でない」と言ったさびしい男を知っている。
ペンザンスという町の、断崖に近いパブで、1パイントのブラウンエールを飲んだあとだったが、しかし明瞭にその男は「あげつらうほどの愛情など男と女には存在しない」とぼくに向かって述べたのだった。
ぼくは鳶色のおおきな目を見開くようにして自分の夫を懸命に見つめる癖のあるその男の奥さんを思い出して、胸のどこかで痛点になにかが触れたような小さな、でも鋭い痛みを感じたような気がして、なにかに向かって傷口がひらいてしまったような気持ちになったものだった。

恋愛論というような観念からはいって、ヒマな人間特有の思考上の堂々巡りをして遊ぶのならばそれでもよいが、現実世界では、この男はまず「世界が自分に対して関心などもっていない」という第一原則を忘れているのだと思う。

なんとかして自分の内側をみつめただけでつくった、というのは自分の心から世間の反映を注意深く取り除いた作品を売ることだけで生きたいと願う芸術家が最もよく知っていることだが、世界はきみの突出してはいるけれどもささやかな人格や才能になどこれっぽっちも興味をもっていない。
いまは職業的な彫刻家になっているが、六年間ニューヨークで苦闘しなければならなかったぼくの友達は、自分が持ち込んだ作品を前に、まだ自分が背を向けないうちに画廊主が自分の名刺をゴミ箱に放り込むのを何度も目撃しなければならなかった。
「きみの作品はすぐれてはいるが、ただそれだけだ」
「もっとおおきな名前と一緒にもどってきてくれたまえ」

自分の魂を目に見える形や耳に聞こえる音楽に変える才能に恵まれた人間にとっては「世界が自分になど関心をもっていない」のは、ほとんど自明のことであると思う。
ただ才能のない大多数の人間だけが、自分に対して世界が、良きにつけ悪しきにつけ関心をもっているのだと妄想する姿は、奇妙だがありふれた光景であると思う。

きみが美しい若い女なら裸になってみせるということはできる。
欲望をむきだしにした哀れな顔の男たちが、くいいるようにきみの裸体を眺めるだろう。
だが、そうやってきみが世界をおどろかせたつもりになっていられるのも、男達が関心をもっているのは彼等自身の欲望であって、きみではないことに気が付くまでのことである。
それに気づいたあと、それを男達の自分自身の欲望に対する関心でなく、自分への関心であると当の男達に誤解させて、自分への関心をつくりあげていくことも出来るが、それはまた別の事柄に属する。

世界が自分に関心をもっているかもしれないと漠然と考える哀れな男や女は、だから愛情ということを理解できないで死ぬだろう。
個人に対して関心をもつという機能をもたないこの人間の世界は、世界、というよりは実は一個の「条件」にしかすぎないが、奇妙な観念にとらわれたきみをじっと見つめているきみの伴侶の心配を露わにした顔に気づきもしないで、きみは窓を開けて、世界からきみの姿が見えるようにする。
誰もきみなどみていないことに気づきもしないで。

T.S.Eliotが生み出したアルフレード・プルーフロックは、

I shall wear the bottoms of my trousers rolled.

Shall I part my hair behind? Do I dare to eat a peach?
I shall wear flannel trousers,and walk upon the beach.
と自虐的な科白を述べたあとで、

I have heard the mermaids singing, each to each.

I do not think that they will sing to me.
と言っている。

歴史上、さまざまなひとがさまざまな形で、「遠くから聞こえる声」について述べてきた。
それは宇宙が自分に対して無関心であるという明瞭な、しかし不可知な事実に気づいた科学者が呆然として自分の研究の余白に書き記した言葉であることもあれば、聖職者が絶望のあまり書き付けた荒々しい文字である場合もある。
いずれの場合も、微かな声を聴くようになりはじめるひとびとは、世界が諸条件にしかすぎない、ということを認めて、世界を認識するためのスタート地点にたったという共通点をもっている。

それを絶望と呼ぶ人もいれば、単なる認識の原点であるとみなすひともいるだろうが、どちらの観点に立つかは、どっちにしろ、ぼくにはあまり関心がない。
聴き取りにくい声を聴いて、自分の心のどこかに書き留めておこうという、極小な志があるだけのことのようにみえる。
多分、それだけが世界というものに意思をもたせるためのゆいいつの有効な方法だと思っているからなのかもしれません。

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One Response to 「微かな叫び声」についてのメモ

  1. 田鶴 says:

    「彼」はいったい何処へ行きつつあるのでしょう。

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