Daily Archives: March 11, 2013

ガメ・オベールからの手紙_3

「教室では、わしはわれわれの無知を学んだが、通りでは、人間が神にすぐれた価値を学んだ。
人間の神に勝れた価値?
そんなもん、あるわけねーじゃん、ときみは言うかもしれん。
でも、あるのよ。
人間の愚かさ、人間が一刻一刻に全霊をそれに投企する、
人間の愚かしさのことをわしはゆっているのです。
愚かであることは神を驚かす。 今度は、それを話しにもどってくると思う (つづく)」 と書いた、前回の「ガメ・オベールからの手紙」からちょうど1年半経ってしまった(^^;) これだから時間という、誰の、あるいは何の意識であるのかすらはっきりしないものとの付き合いは油断ができない。 二十代前半においては、わしは北欧人の友達が多かった。 偶然であると言ってよいが、北欧人は気持ちのよい礼儀正しい人間が多い、という理由にもよる。 わしは礼儀正しい人間が好きであって、どちらかというと儀礼的な自己抑制がちゃんと出来るならば、内心が多少ぼろかったり、邪であっても構わずに付き合うほうである。 北欧人は合理的であって、あるとき一緒に昼食を食べていたら「ガメ、アフリカ人の友達を知らないかな?」という。 知ってますよ。なんだったら今度の週末のアフリカ人たちの集まりに連れていってもいいよ、というと薄い灰色の目を輝かせて、行きたい、という。 あとで別の北欧人の友達に訊いてみると、この大秀才でスーパー美人でもある男大学人の憧れの的であった北欧人は、全人種の男とイッパツやってみて、人種によってセックスが異なるかどうか探求しようとしていたものだそーである。 各人種につき1サンプルではいくらなんでもサンプル数が少なすぎるのではないか、と冗談を述べたら、ちゃんと3サンプルづつやってみたのだそーで、お話の合理性に感心してしまった。 こーゆーとき、北欧人に対するわしのヘンケン式メカニズムは発動して、北欧人だなあー、と思う。 スウェーデン人の友達が戦争前にいかに多くのスウェーデン人がヒトラーとナチの支持者だったかを述べるので、わしが、ふと、考えもなしに、「それなのになぜ、国王がナチにかぶれたくらいで国としてはナチに鞍替えしなくてすんだのだろう」というと、友達は「アドルフ・ヒトラーの髪が黒かったのと瞳が暗褐色だったのが気にいらなかったのだろう」という怖ろしい冗談を述べた。 そのときも83式ヘンケン・メカニズムがウィイイイーンと動いて、「北欧人だなああああー」と考えた。 それやこれやで北欧の人、というと「狂気の人」という印象があるが、もちろんベーオウルフを読み過ぎた結果の思い込みが招いた偏見にしかすぎない。 日本語のおおきな魅力のひとつは言語の内部に神が存在しないことだった。 西欧語は言語の「中心にある空白」あるいは「外側にある無言語地帯」のような言語が存在せず、届きもせず、指向することも出来ない場所に「神」という絶対があって、それが実は言語自体の定義にもなっている。 神を前提としなければ思考そのものが成り立たないので、人間として活動するということは、ほぼそのまま言語によって思考して活動することだが、したがって、神を信じなければ人間でいられない。 違う言い方をすれば人間である限り神がいることにせざるをえないので、仮に神なんていないと気楽に否定すると、たちまち現実に存在するはずの自分がかき消えてしまうことになる。 ところが日本語という意識の体系では、そんなことはないのであって、別に神がいなくても困らない言語で、言語による思考の対象になりえず表現もしえない「絶対」の神を言語のなかに持つかわりにお互いの人間が立っているだけである。 外国人は日本にいて日本のことがわかってくると日本人があまりにウソツキなのでうんざりする。 考えてもいないことを相手が喜びさえすれば平気で口にするし、相手がいうことをわかっていなくても、深く頷いて同意してみせたりする。 日本滞在中、わしには虫の居所が悪いことが多い東部アメリカ人の友達がいて、このひとにはよく日本のひとに「いま笑ったけど、なにが可笑しいか言ってみろよ」と突然尋ねるという、粗暴で残酷なくせがあったが、相手の日本人にとってはいくらなんでも気の毒でも、苛立ちは理解できなくもない、と考えたりした。 神がいない結果、どういう社会が現出したかというと、「真実」というようなものはどうでもいい社会になった。 みなが「これが真実だ」とはやしはじめると、驚くべし、それが真実でないとほぼ歴然と了解されていても日本語のなかでだけは「なんとなく真実」「多分真実」「真実」と真実性が支持する人間の数によって補強されてゆくことで、ウソだと信じていた当人たちも真実だと信じるようになって、しまいには「放射能は安全である」と決まって、崩壊した原子力発電所からたった30キロしかないところで子供たちが学校へ通うことになる。 ここでも当初は個人の理性にかけて「安全でない」とおもっていても、集団に説得される形で心から「放射能は安全である」と信じてしまうようなので、他には、こんな文明が目撃されたことはないと思う。日本というマイクロ文明の重要な特徴ではないだろうか。 なぜそうなるのかというと日本語にはもともと「絶対」が存在しないからで、真理さえも言語の構造が原因して相対的だからである。 日本人の生活においてはお互いの表情や目つきというような反応が手がかりで真理はそれによって決定される。 真理がもたれあって生活している。 一方で日本では「妊娠中絶は胚が若いときでも殺人だ」「強姦された結果であっても神の意志なのだから中絶という名の殺人は許されない」という、特に北アメリカ大陸に多い狂信者のたわごとが勢力をもつ、というようなことは考えにくい。 ついでなので述べると胚の中絶は観念と思想の立場からはどうあれ、医者からみると、4ヶ月をすぎてしまうと殺そうと思ってもなかなか母胎にしがみついて死んでくれないので実感として殺人で、別に宗教キチガイに言われなくても自動的に罪悪感が生じる。 だが胚が「おかーさん」の体にしがみつきはじめる前の段階では、考えている言語に神がいなければ、罪障の感覚は起こらないのではなかろーか。 日本語で出来た日本社会の、いまは、当然、前からあったもんね、とされているモラルには、明治時代以降に「神を前提とした言語体系」をもった国からはいってきて、むかしから日本語の家に住んでいるような顔をして座っているだけのものが多い。 日本語における日本社会についての議論が多くの場合混乱して不毛なままの罵りあいで終わることが多いのは、チョー下品としか言いようがない人がおおい議論している人間の品性や適性ということを別にしても、錯綜した複数の系からなる文化がよじれあっていて、どれがどこに由来するのか、もう判らなくなっているからであるように思われる。 このブログがゲームブログだった頃に、アニメに関連して近代以前の日本ではビンボな家では近親相姦は(それが妊娠という結果を招かない限り)特に驚くほどのことではなかったようにみえる、と書いたら、えらいことになったことがあった。ゲームブログにそういう記事を書くやつが間違っておる、とも言えるが、前近代的なことを人目にさらさないことが「洋化」をめざす明治政府の大事な役割であったのをすっかり忘れて、どこに活字のものがある、証拠をみせろ、これこれこういうわけでおまえが言う事は現実ではありえない、馬脚をあらわしたな、と日本語インターネットを徘徊するアホな人たちの集団が飽きずに常用する退屈な語彙を丁寧に踏襲して息巻く大集団があらわれておもろかった。 メンドクサイのでほっといておいたら、これもアホのひとつおぼえというか「逃げた」の大合唱がはじまったが、江戸時代の近親相姦やほとんど罪悪感を伴わない強姦は草書に細々と残された以外は活字にはされず(明治という暗い時代は、そんなことを活字に出来る時代ではなかった)抹消されてしまったが、ではなぜたとえば外国人たちは、それを知っていて言及しているかというと、近親相姦の事実そのものが近代になっても生き残っていたからである。そうして近代になっても続いていた「身寄りのない女が縁側に寝ていると一日に数回強姦されることがあった」というような話は、明治以降に西洋から伝わった「反政府思想」人たちが活写した下層社会の実態を描いた記事のようなものに残っていった。 もっとも、このブログがはてなにおかれていたころといまでは読んでいる人の質が全然ちがうようでもあって、ツイッタで(よせばいいのに)同じ(絶対倫理の欠落と関連して)近親相姦の伝統について述べたらツイッタでもf_theoria(@f_theoria)さんが紀田順一郎の本をすぐ教えてくれたし、他の閲覧可能な本についてメールで教えてくれる人が何人かあった。 ものすごいことをいうと、近親相姦が絶対タブーである社会と、酔っ払った父親が娘を相手に性交してしまう社会とどっちが「進んでいるか」というような議論には意味がない。 よくニューズでも伝えられるように西洋でも娘を性的奴隷として虐待する親はいる。 … Continue reading

Posted in 近況報告, gamayauber | 1 Comment