bluewater

イースターホリデーの、ひとの数が少ない通りを歩いて行くと、イースターエッグハントの子供たちの声が生け垣の向こうからきこえてくる。
テニスコートでボールを打ち合う音や笑い声がきこえる。
芝刈り機のエンジンの音や刈られた芝のにおいが夏のにおいの代表だとすれば、イースターホリデーは秋のはじまりの音で、毎年、イースターエッグハントのチビガキたちの声が聞こえると、また1年が経ったのだなあー、と思う。

きのうツイッタで会った70年代後半から80年代という、ちょうどぼくが生まれる直前の連合王国やアメリカで酷い人種差別にあった、というひとのことを考えていた。
連合王国はいわずと知れた階級社会で、日本のひとは階層という意味で「階級が違う」というが、平民、士族、華族とあって、その下に不可触賤民がいた戦前の日本社会と同じで、貧富や学歴にはよらず、社会制度として固定された「階級」が存在する国である。

あのひとはオカネモチで階級が違うから、というのは、だから戦後日本の平等社会が生み出した言葉の誤用で、ただ無軌道な人を「アウトロー」(「捕まっていない犯罪者」という意味です)と呼ぶ人がいる日本らしくて、案外、日本人が誇りにしていい謬りなのかもしれない、と思う。

小さな声でいうと階級社会にもいいことがまったくなくはない、とこの頃おもうが、
いまは恐竜化して意味を失いつつあるシステムとはいっても、やはり「階級」の存在は社会全体におおきなストレスを加えていて、毎年たいへんな数のイギリス人が「新天地」をめざして他国へ移住してしまうのは、イギリスという国のとんでもない天候のせいもあるが、やはり階級社会のせいだろう。

マーガレット・サッチャーは上流階級の人間が自分のアクセントを(もちろん何も言いはしないが)冷え切った冬の底のような気持ちでバカにしているのを知っていて(といって、そんなことを知らないイギリス人はいないが)懸命に発音矯正教室に通った。
それでもイギリス人同士にしかわからない、きわめて些細な、しかし歴然としたやりかたで侮蔑されるので、心底イギリス社会を憎んですごしてきた。

簡単に言えばイギリス社会のいっぺんつくったものは変えたがらない、そういう歪みが生み出した国国が、労働者階級の夢の実現をめざしたニュージーランドであり、もっと野放図なコントロールのない自由をめざしたオーストラリアであると考えることができる。
オーストラリアは、前にも書いたが、なにしろNed Kellyが国民的英雄であり、ユーレカの叛乱
http://en.wikipedia.org/wiki/Eureka_Rebellion
が国民の自由の背骨として記憶される国なのである。

大量の移民と並んで、階級社会がうみだした圧力は、お互いにお互いを、気でも違ったひとびとのように差別する習慣とお互いを労りあう心とを同時につくりだした。
イギリス人の他人に対するすぐれた想像力がなければ絶対に出来ない、魂の中心にささるような、あるいは、猫がねずみをいたぶるような意地悪や、まるで相手が自分自身であるかのような、これも魂にまで届くあますところのない気持ちの暖かさは、両方とも同じ淵源から出たものであると思う。

差別に苦しんだ、と述べていた日本のひとは、世界でも超一流のイギリス人の差別(^^;)にあって、さぞかし苦しんだだろう。
イギリス人の差別は、社会に長くとどまればとどまるほどわかってくるていのものである。
そしてイギリス人の心の底にある、ぞっとするほど冷たい利己心に触れると、いたたまれない気持ちになって国から逃げ出すしかなくなる。
「いまは違う」というひとがいるが、ぼくには、「よかったですね」という以外には挨拶がない。
そんなことは信じていないから。

イギリス社会における差別は暴力と並んでイギリスの文明の本質に根ざしている。

お互いにお互いを階級によって、貧富によって、階級とはまた別の生い立ちや育った環境によって、偏執狂的な精確さと微細さをもって差別するのだから、相手がもっとも嫌がることを知っていなければダメで、そう考えていけばわかると思うが、アジア人が相手ならば、十分にsubtleな共通の基盤がないので、頭の悪い人間はてっとりばやく人種を道具にする。

吉田健一の本には「草の家に住む者は石の家に住む者に刃向かってはならない、という言葉を知らないのか」と言われて若い吉田健一が悔し涙にくれるところが出てくるが、このイギリスじじいは、イギリス的意地悪の規範から外れているというべきで、そんなありきたりの格言をつかってあからさまに相手を侮蔑するような頭の単純さでは、自分が仲間はずれにされてしまうが、人種差別主義者というのは概して脳の容積が足らない人間が多いので、この程度の退屈な意地悪しか思いつかなかったのかもしれない。

人種差別は差別されたと感じるほうの定義によって100%差別であるかどうかが決まるというのがルールで、「黒人のひとはリズム感がいいね」と言われればアフリカン・アメリカンは差別的な発言であると感じる。言われたときに頭のなかで条件をいわば計算して、言った人間がたとえばアメリカに留学してきたばかりのそういう事柄についてナイーブな日本人留学生なら、笑って、ふざけて答える可能性があるが、アメリカで生まれて育ったコーカシアンがそう述べた場合には、少なくとも心のなかで警戒するだろう。
「プエルトリカンの女のひとは美人が多いな」というのも同じだし、アジアの女のひとはやさしい、と述べるのも、人種差別であるとみなされる。
少なくとも、そんな危ない人間をパーティに呼ぼうと考える人はいないに違いない。

アジア人が述べる自分達への人種差別などくだらない、コーカシアンがアフリカ人に対してもってきた「人種差別意識」はそういうこととは別のものだ、とデンゼル・ワシントンが演じるアフリカン・アメリカン青年が恋人の父親であるインド人に激怒する有名なシーンがミラ・ネアの映画のなかに出てくる。
アフリカンアメリカンにすれば、「これ以上くるな」と嫌がらせとともに述べられるアジア人への罵声は「差別」というようなものではなくて、差別というのは、(アフリカから遠いむかしに連れてこられて自分はアメリカ人でしかないのに)自分そのものが否定されて、この国に生きているのは許さない、と言われることである。
アジア人はアメリカにいてもアジア的な文化や思想をもって逃げ道をつくって暮らしているくせに、なにを言うんだ、おまえらは白人のふりをしたいだけじゃないか、という理屈をもっている。

ハイチではフランス人はハイチ人たちを文字通り家畜としてあつかった。
少しでも反抗的な態度をみせれば足や手を切り落としたし、気が向けば女たちを鎖につないで強姦した。
ブードゥーという不思議な宗教は「呪い」と「毒」がもつ比重がおおきいが、その理由は、このハイチの苛酷な、人間としてどころか、生物としてすら生きることそのものを許されない環境だった。

吉田健一(元首相麻生太郎の叔父さんです)はキングスコレッジを中退した理由をさまざまに述べているが、この繊細な魂をもった、あとに日本の首相になるエリート外交官の息子がなぜケンブリッジを去ることに決めたかは、活字にするわけにはいかなかっただろう。
書いたものを読んでいて田舎者まるだしの態度が原因なのが看てとれる、大半の欧州人の冷淡な相手の態度に腹を立てて「人種差別」と日本語で述べ立ててまわるのが好きな「作家」たちを、彼等よりもひどいものを見て、何を見たか、ひと言も述べないまま死んだ吉田健一が見たら片頬をゆがめて笑うだろうが、その吉田健一が死んでから、38年が経っている。

上で述べたツイッタで出会ったひとが連合王国の醜さに脅かされ辟易してから、30年が経っている。
ちょうどその頃は、日本という、まったく自分達とはルールが違う、休みもせずに、狂いでもしたように低賃金で働いて、会社の部品になりきることが幸福だとでも言うような、いままで欧州人たちが見たこともないような人間の集団が、自分達の仕事をどんどん奪って、あまつさえ会社の幹部たちには「お前達が遊んでばかりいるから日本人に市場をとられるんだ。もっと低い賃金で日本人なみに働け」と自分達が人間並みの生活をするのが悪いと言わんばかりの態度をとられ、あいつら日本人は自分達が人間でなくてもいいとおもってるのか、そんなゲームのルールがあってたまるものか、という怒りに駆られていた頃なので、考えてみると、実際に大変だったはずである。

この人がスーパーマーケットにいれてもらうことすら許してもらえなかったと述べている当時のアメリカ合衆国の地方都市、たとえばGMタウンのミシガンのフリントでは、1978年を転がり落ちる初めの年として、過労死を繰り返しながら、それでもまったく企業戦士であることをやめようとしない日本人の(アメリカ人にとっては)狂気としか見えない労働文化をもった日本の自動車企業に進出によって町が失業者であふれるようになり、フリーウエイをまたぐ橋の上から日本車を狙って狙撃しようとする人間があらわれるところまで日本人への憎悪が高まっていった。
どこかで日本の自動車や家電製品をハンマーで叩き壊して気勢を挙げるアメリカ人の群衆のフィルムを観たことがあると思う。

湾口を出た外洋の深い色の海のことを英語ではbluewaterという。
そこでは人間の人種はおろか、生物間の区別もあまりない。
海によく出るひとは知っているが、あの、どこまでもつづく、みっしりとした感じの莫大な水の表面の下の世界は、まったく容赦のない生存闘争の世界で、共食いなどは当たり前で、たとえば鰺を釣ってまごまごしていると、その鰺に鯖がくいつき、その鯖の半身をヒラマサが食いちぎってゆく。
釣り上げた鯛の体が、すでに何者かに食べられて半分しかないこともある。
それでもまだ半分しかない身体の力をふりしぼって鯛は餌に食いついている。

くだらないことを書くと、ヨットでbluewaterを行くひとは、猫を飼っていることが多いが、猫が水におちれば、ときに、あっというまに鮫がさらってゆくので、載せる前に、ヨットのなかの猫を水から拾いあげるためのラグに爪を立てて素早くヨットに戻る練習をさせておく(^^)

bluewaterへでると、自然のなかで人間の小ささを感じる、というようなことではなくて、人間という存在自体たいした意味はないのだ、と実感としてわかる。
小さい存在なりに宇宙を知覚していようが知覚していまいが、そういうことにも意味はなくて、宇宙にとって、ではなくて、何にとっても意味などありはしない。
ただ肉体があって感覚の集中したものとしての意識がある。
そうして宇宙のすべてのものは、「意味」を洗い流された「内側にある燦めく光」のような人間の感覚に照応している。

このブログには人種差別についての記事がいくつかある。
いまちょっと読んでみて、むかしは、こんなふうに考えていたのか、とびっくりして笑ってしまう。
人種について何事か考えたのは、どういうわけか日本語でだけで、なんだか日本語の文明には「人種」という言葉がべったり塗りつけられているのではないか、という気がする。

ツイッタでバジルさんに話しかけたように、(バジルさんは少し驚かれたようだが)アメリカやイギリスでは「人種」について話すひとは、ほぼ自動的に本人が人種差別主義者だとみなされる。
オーストラリアの都市でも、世紀が変わってからは、ほぼそれに準じている。
ニュージーランド人は、同じ英語人であるのに、行き方が正反対で、相変わらず、というよりも、ますますおおっぴらに人種ごとに一般化されそうなことについて議論しているが、多分、アメリカやイギリスが歩いた道を歩いてゆくと思う。

ぼくはもう(日本語でも)人種の話をしないだろう。
モーガン・フリーマンが、おおきな話題になった「60minutes」インタビューで述べた「人種差別をなくしたければ人種についての話をするな」という考えに立ってというよりも、めんどくさい、というか、話題としてダサイ、というか、そういう言葉使いでは酷いが、いろいろな日本の人に人種差別についてどう思うか聞かれて書いてみはしたものの、どうも自分では人種差別を「過去のもの」と抜き難く感じているからのように思える。
それを日本のひとが信じられなくても、もう、そういうことにも興味がなくなってしまった。

人間は7万年もとどまっていたガルフを出てbluewaterに乗り出したのだと思う。
湾内に較べれば遙かに危険に満ちて、どんな一瞬で破滅するかわからないbluewaterの上では、余計なことを考えているひまはない。
退屈で悪意しかもたないもののひまつぶしなどに、つきあっている時間はない。
なぜ人間がbluewaterに出ていかなければならなくなったかは、また、この次に説明したいと思います。

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