言葉の死について

gulf23

インターネットのあちこちで、共有できる言語を伝って、世界中のいろいろな人たちが話を交わして、びっくりしたり、笑いあったり、喧嘩になったりしているのは、20年前ならSFだが、いまではありふれた光景になった。
ぼくはニセガイジンという有り難い称号をうける程度には日本語で考えることが出来るので、こうやって目の前にあるコンピュータのスクリーンのなかに開いているウインドウのひとつは必ず日本語になっている。

スクリーンのそちらがわからこちらがわは見えなくて判りにくいのは当たり前だが、だいたいぼくの部屋では大音量で音楽がいつも鳴っていて、こう言うとまた「そんな人間がいるわけがない」と言ってくる人がいるに決まっているが、めんどくさいので構わずに話をすすめると、3つか4つくらいの言語にまたがったSNSとフォーラムのウインドウが開いている。
その他にスカイプを含むVoIPも使うが、こちらは日常生活でよく知っているひとだけです。

日本語で日本の人とSNSやなんかで話しているときに、人柄のよさそうなひとに多いが、「いまのは大事な意見だ。日本人に適切な忠告をしてくれてありがとう」と言われたりすることがよくあるが、少なくとも自分が知っている範囲では、そういうお礼を述べる「国民」は日本人だけなので、びっくりしてしまう。

日本の人が日本語を使ってものごとを考えているときに、いかに孤独か、ということを考えることが多くなった。
日本語で不足なくものごとを考えられる人間が側に立って、えっ?これはダメっぽいんじゃない? こっちはカッコイイな、と言って話しているときに突然「日本人への忠告ありがとう」と言われるのは、人によっては「ガイジン」というすごい差別語をもつ日本人の閉鎖主義の表れだと怒る人がいると思われるが、ぼくは、その徹底的に孤独な心性に驚いてしまう。

ついさっきまで同じ言語で、というのは取りも直さず同じ情緒と癖がある思考の幹に属して、肩と肩を並べて話していたのに、「日本のこと」になると日本人以外は遠くから見下ろして考えているとほぼ自動的に考えるのは日本のひとの強い性癖で、他の国民にも見られることだとは到底いいがたい。

イギリス人とニュージーランド人が話していて、ニュージーランドは簡単に大聖堂ぶっ壊しちゃったりして、ああいうのは拙いんでないの?とイギリス人が言い出して、ニュージーランド人が貴重な忠告ありがとう、と述べるとは考えられない。
あれはボブ・パーカーよりも政府がもっとバカで、あいつらは出費の削減しか考えない途方もない白痴である。
このあいだは、クライストチャーチでは人口に偏りができたから、生徒数の少なくなった学校がでてきたので就いては他の学校に統合すると言いやがった。
白痴である上に血も涙もない奴らである、というふうに会話は続いていくものであると思われる。

日本語で日本のひとが欧州のことについて述べたものは間違いがおおいようだ、と書いたら、では欧州人のお前が日本語で日本について述べることにも意味がないではないか、とえらい剣幕で述べに来た人がいて、(そのひとにとっては失礼にも)大笑いしてしまったことがあったが、そのひとは言語の機能と外国人・自国人ということについて頭が混乱してしまっている。
「日本語で日本人が欧州について述べる」ことに照応するのは「欧州人が欧州語で日本について述べる」でなければならないのだが、カッとしやすい、おっちょこちょいな人だったので血が頭にのぼって譫妄したのだと思われる(^^)

日本人の孤独な姿は福島第一原子力発電所事故を契機にして、異様な影を世界中のメディアに浮かびあがらせてきた。
なにしろ考えの前提も常識もなにもかもが唖然とするくらい違うので、経緯をちゃんと把握していないと、「言っていることがぜんぜん判らない」くらい日本のひとの「常識」はいまでは他の世界のそれと隔絶してしまっている。

もう事故から2年も経っているので、英語でも日本のひとが「なぜ放射能が安全だと考える」のが説明されている文章があちこちにあって、拾い集めてくれば、辻褄だけはあっている巧妙な説明を見通すことは出来るようになっている。
このブログでは何度も書いたので具体的な疑問は繰り返さないが、これこれこうだから日本の事故はたいしたことはなくて安全基準もつくってあるから日本人は安全です。
心配してもらわなくていい。
事故は収束しました。なんなら終熄と呼んでも大丈夫。

はっきり言ってしまうと、日本人の言い分だけを聞いていると、まったく尤もらしいが、我に返って、自分の頭の中の世界と照応させて、言わば「日本人の常識」と「普通の常識」を較べてみると、「日本の常識」は辻褄があっているだけでいかにもチャチで、もっともっとはっきり強い言葉をつかって言えば軽薄を極めていて、かつては科学の分野でもおおきな声望をもっていた日本人の科学性とは、たったこれだけのものだったのか、と思う。

ここまで読めば気が付くと思うが、ここで初めて日本人でない人間ははっきりと「日本人」の異様さについて眼を瞠っているので、ここに至って、普段は意識しない「日本」という仕切りが意識の上で越えがたい理解不能な壁となって眼のまえに登場してしまっている。
いわば「忠告ありがとう」と突然述べて外国人を訝らせる、不思議な日本の人の心性と同じ場所に外国人たちを押しやってしまっている。

ここから先は書いても日本語である以上わかってもらえなさそうで、書いてもしようがないような気がするが、そういう投げやりなことではいけないだろうから、数が少ない何人かの人に向かってでもいいから書くと、ここで起こっていることは何かというと実は日本語の「地方語化」が過去に予想されたよりも遙かに速やかに起こってしまっているのだと考える。

日本社会のなかで高名な科学者たちや知識人たちが「放射能の無害性」について力説するときに、どの程度自分の議論の普遍性を意識しているのかわからないが、結果からみると、地方ルール、日本社会のなかで説得力があればそれでいいや、な投げやりな感じがして、変な言い方だが、これまで放射能の害について世界中の人間が蓄積してきた「常識」へ真っ向から挑戦する緊張感などまるでみられない。
まるで「日本人はバカだから、こんなものでいいだろう」とでも言うような、真理を自作して適当に犬たちに投げ与えるいんちきな学問の神様のような好い加減さにみえる。

普遍語が支える世界に背を向けて「日本人向けの真理」を何の躊躇もなくつくってしまった結果、言語というものは自分をぞんざいに扱ったものたちに対して常にそういう巧妙で本質的な復讐をするが、日本語全体が地方語化して、日本語で語られるものは、日本語人のあいだでだけ通用する「真理」になってしまった。

半島人はむかしから半島でだけ通用する「真理」のタッキーさに苦しんで、おかげで朝鮮語はどんどん真理性を失ってしまい、英語でものを考える以外に方法がなさそうなところまで自分達を追い詰めていった。

インド人たちも同じで、というよりは、もう一段積極的にインド諸語を地方語として自ら定義して娯楽映画や歌謡にかぎってしまい、思考は英語で行う、と決めてしまった。
インド人たちはお互いの母語が通じないので英語を共通語として採用したのだ、と思ってしまいがちだが、当のインド人たちと話してみると、ぜんぜんそういう理由ではなくて、どちらかといえば英語の普遍性をインド文明で乗っ取ってしまってインド英語をつくったほうが文明の建設がやりやすい、という積極的な戦略であるらしい。

いまの日本で起きていることは、10の選択がある事象に6つの選択しか可視的に与えられず、残り4つの選択は伏せられていて、どのひとつも正しくはない6つの選択肢から正解を探すという徒労の連続である。
あるいは日本人は選択肢そのものが捏造されていて日本のなかだけで「完璧に証明された」、外側の人間からみるとクビをひねるしかないような定理を組み合わせて、更に突飛な空想的な「事実」を証明しにかかっているヘレニズム時代の歴史の闇の向こうに消えていった数学者の姿に似ている。

このブログを始めたときには、まさか日本語が言語としての意味を失ってゆくところに立ち会うとは思っていなかった。
そういう可能性すら考えられなかった。

日本語はいまの段階では架空な現実に架空な現実を架して、巧妙だが薄っぺらな、自分達で容易に信じられることだけ、あるいは信じたいことだけを材料に、それ以外のことはすべて虚構だと退け、現実であるはずがないと小心な心に言い聞かせるためだけに存在する「道具」になりさがっている。
言語は本来「道具」にはなりえない。
「日本語を使う」というが、本来は言語は人間の脳髄が「使える」ような代物ではなくて、言語自体が思考している。脳髄にできることはわずかに言語が内蔵している論理ベクトルを差配して方向を決定したり、言語が歴史を通じて貯えた情緒のなかから適宜選択してより明然と情緒を表現できるように選択することだけである。
ところが言語の真実性が失われるにしたがって、日本語は急速に論理のつじつまあわせの「道具」に変わってきた。
強い言葉を使えば劣化して腐敗してきたのだと言い直してもよいと思う。
この段階になると放射性物質についての、議論とは到底よびえない言い合いが良い例だが、同じ材料をつかってAがBであるという「完全な証明」とAは(Bと相反する)Cであるという結論を、どちらも「完璧に」証明できるようになる。
相反する「真理」が並立してしまう。

「南京虐殺」というような事例を考えればわかるが、日本語の世界ではどんな「真理」でも自在に証明できるようになった。
ついに日本人は末期の古代ギリシャ人たちと同じ文明の段階に至ったのだ、と祝福することも出来るが、当の末期古代ギリシャ人たちがその後雨散霧消して、民族的存在ごともともとが幻であったかのように歴史のなかでかき消えてしまったことを考えると、そうそう手放しで喜んでいるわけにもいかなさそうな気がする。

具体的には日本語からここまで真理性を奪ったテクニックは語彙のひとつずつから常識をひきはがして、たとえば百人殺されるのも千人殺されるのも同じ、というような理屈を組み立ててしまうことに習熟した結果えられたものだが、いまさら、そんなことの数々をくだくだしく述べることには意味がないと思う。

自らの言葉を殺害したものは、その言葉のなかで死ぬ。
いまは急速に書き割りじみていく日本語の世界を眺めながら、こんなふうに終わりになる世界もあるのだ、と考えた傍観者のメモを書き付けておくだけにしておきたいと思います。

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2 Responses to 言葉の死について

  1. 稲本喜則 says:

    読んでいて、なるほどナァ、と思うところが多々ありました。ただ一点、日本語はこのごろ地方語化が進んでいるのではなくて、むしろ元々地方語であった日本語がこのごろ世界にさらされる機会が増えたのに、そのことに気づかず、相変わらず閉じた回路の中で信号を回しているんじゃないかな、と思いました。

  2. 田鶴 says:

    オベールさんの問いかけ、声の静けさに。まなざし、しぐさに。  
    そして、このまま灰になるわけにはいかないのだと思いつつ読みました。。

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