世界が観ている

gulf88

ゼノフォビア、という。
外国嫌い、のことです。
国家的行動にまでエスカレートした例でいうと、
最近で言えばジンバブエは欧州人を追い出して農場をとりあげてしまった。
そのときに追い出された人たちがたくさんニュージーランドに住んでいるので、当時のジンバブエの様子はよく耳にする。
あるいはMira Nairの映画「Mississippi Masala」に出てくるインド人の家族はウガンダを追放されてアメリカにやってくる。

日本にいるときには日本人のゼノフォビアが、よく話題になった。
「そのうちに鶴橋の韓国人街とか横浜の中華街で『韓国人出ていけ』デモをやりかねない」「まっさかあー。いくらなんでも日本人がそこまでおちぶれることはないっしょ」と言って笑いあっていたが、わしが日本を離れたあとでほんとうになってしまって驚いた。

1973年まで日本語で白豪主義という、White Australia policyをとっていたオーストラリアはニュージーランドや連合王国よりも「人種についての発言」は公の場では避けなければいけない暗黙の了解があるが、ゼノフォビアそのものは社会の底に堆積していて、Pauline Hanson
http://en.wikipedia.org/wiki/Pauline_Hanson
のように全国的なアジア人排斥運動として爆発することもあるし、
「Curry bashing」
http://www.fightdemback.org/2009/05/29/curry-bashing-in-melbourne-sydney/
のように局所的なものは、いつも(もちろんいま現在でも)社会の深層にくすぶっている。

欧州人の子孫の場合は容易に「外国人排斥」が「人種差別」と結びついてあらわれるので、同じものだと錯覚するひとが日本人には多いが、実際には、「人種差別」と「外国人排斥」というふたつの根が異なる木が絡み合っていることは、わしが子供の頃はニュージーランドではまだ根深くあった「オランダ移民排斥」を考えれば明かだと思う。

「オランダ人は人前で感情を爆発させる(感情の抑制が利かない=未開である)」
「オランダ人は自分勝手で吝嗇」
「オランダ人は理屈をこねるのが好きで自分ではなにもしない」というのから始まって、「オランダ人は他人の社会にはいりこんで社会の努力の成果である医療や教育の成果を盗みとろうとする」
「オランダ人はわれわれの税金を泥棒することばかり考えている」

その結果、オランダ人の家に遊びに行ってお互いの顔が見えなくなるまで部屋の灯りをつけないのを見て「やっぱり…」と思う。
義理叔父によると「欧州文化の外側にいる人間からみるとまったく気が付かない」そうだが、内輪では明らかで、いまでもオランダ人に対する強い反感は残っていると思う。

同じようにフランス人はベルギー人たちに対して「軽い軽蔑」を隠さないし、当のベルギー人(ワロン人)たちはフレミシュに対する激しい嫌悪と軽蔑の感情を隠しはしない。

いつかいとことかーちゃんシスター、義理叔父との4人で、欧州人間のゼノフォビアの話をしていたら、鎌倉ばーちゃん(叔父のおかーさん)が珍しく「どんな話をしているの?」と訊くので説明したら、あー、そういうことは日本でも地方間であるわねえ、東京の人は関西弁でまくしたてられるのを嫌うし、関西の人は東京に出てきて「みんな喧嘩してるのかと思った」と言うのよ、と感想を述べたのでおもしろかった。

日本が長い間「分国」していて互いの通行をきびしく制限していたことを考えると、日本という国は内部に一個の「国際社会」をもっていたわけで、納得できる感じがする。

日本語で書かれたものを読んでいると、「世界に対して恥ずかしい」「外国人が見たらどう思うか」「世界から見てどうか」という言葉がよく出てくる。
福島第一事故のあとでは、特におおかったように見える。
特に政府の、子供に出来の悪い絵を描いてみせて現実だと思わせようとするような「放射能は安全です」に(正当な)怒りを感じたひとびとは、自分達の当然うなづいてもらえると思っていた恐怖や不安に対して、驚くべきことにさまざまな屁理屈を述べて「頭から安心しろ」と学者達までが述べだしたことに衝撃をうけて、「世界の人が見たらどうなるとおもっているのか」「日本人は騙せても外国人たちは騙されない。いまに外国から怒りの大波が寄せてくるぞ」と述べた。
自分の社会のあまりの常識のなさに衝撃をうけて、「もっとまともな常識がある世界」として欧州なりアメリカ合衆国に期待したのだと思う。

インターネットが普及する前、わしガキの頃の新聞は、なんというか、チョーしょぼい新聞で、ニュージーランドの「The Press」で言えば日本で大政治スキャンダルが発生した記事よりも、ワイマカリリ郡で一夜で牛さんが十頭死んだことのほうが遙かに大きな記事だった。
というよりも連合王国でもニュージーランドでも、日本のニューズなどは「ゼロ」に限りなく等しい日々で、もちろんドラゴンボールを始めとする「アニメの日本」は誰でも知っていたが、(うまく言えないが)それと「現実の日本」とはどうしても結びつかないように見えた。

その結果、日本人が父親のいとこをまぶだちとして、日本に住んだことがあり、もっともうまがあうオトナが日本人の義理叔父であったにも関わらず、わしにしても、「日本」というのは、なあああんとなくアジアアジアしてないアジアの国、というようなチョーあいまいな、模糊模糊した、ぼんやりと立ち上がった積乱雲のような存在にしかすぎなかった。
まして周りの友人たちにとっては「日本」と言えば悟空で、それ以外のことになると、中国と違うのはわかるけど中国みたいなもんじゃないの?で、「なんだかわかんないし、わかんないままでほっといても別に構わない国」だったと思う。

上の世代はもっとひどくて、じーちゃんばーちゃんたちに至っては「日本人て、なんであんなに自転車が好きなのだ」(中国、しかも1970年代の中国の朝の風景を日本だと思っている)という人もいれば、「共産主義の国でトヨタみたいに良い品質のクルマをつくるには何か文化的な秘密がなければならない」と考え込む人もいて、そんなに何にも知らないんだったら、とりあえず考えるのやめて寝れば、と言いたくなる人も結構たくさんいる。

日本の人は欧州人のなかではドイツ人に親近感をもち、近しいと感じる人が多いが、わしが会った50代のドイツ人は特にパーな人だったわけではないのに日本がカムチャッカ半島にあると思い込んでいた(^^;)

インターネットが普及するようになって初めて、英語世界では「外国」というものがややまともな姿で誕生したのだ、と言ってもいいと思う。
英語のニューズを読む人なら気が付いていると思うが、アジアがおおきな記事になることはいまでも稀であると思う。
アメリカのCNNであれば、国内が最大の関心で、欧州があって、中東がある。
最近はメキシコ、中米、南米の記事がどんどんおおきくなって、アジアはやっとその次である。
北朝鮮の記事が今この瞬間はおおきくとりあげられているが、実はそれすら、他の地域の状況と状況の狭間の時期であるからに過ぎない、という事情がある。

「世界が自分の国を見ている」という「見られている」社会の意識は実はゼノフォビアを生み出す社会意識と同一の機構のまったく相反した結果として生まれてくる。
それは「孤立した魂」から生まれる。

日本人の切なさは、「世界が自分達など見ていない」ということをプライドの問題として受け取ってしまうことであると思う。
実際には、(あたりまえだが)たとえばイリノイ人はイリノイ州の経済や社会のなかで自分が生き延びてゆくのに必死であって、そのために必要なイリノイの天気、イリノイの交通状況、イリノイの経済動向、イリノイの不動産価格、昨日のダウジョーンズ、昨日のナスダックは重要でも、自分の生活と関係がない日本の政治や社会や、ましてぶっとんでしまった原子力発電所になど興味がある人はほとんどいない。
もしかすると英語人や欧州語人の特性なのかもしれないが、「自分に直接関係がないもの」や「頭のなかだけの思考にしか使えないもの」には、まったく興味をもたない。
日本に興味を持つ人、というのはアニメをのぞけば、ものすごく変わった人であると思う。

ずっとむかし、ロックの話をしているうちに「いろいろな国の音楽を聴くべ」ということになって、めいめいが「きっとこれは誰もしらないべな、うっしっし」というCDを持ち寄ってみんなで友達が協同で生活しているフラットで集まって聴くことになったときに、ドイツやフランス、スウェーデンのロックで滅茶苦茶に盛り上がって、従兄弟が自分が大好きだった忌野清志郎の「レーザーシャープ」をかけたら、隠しようもないくらいしらけてしまって、途中でいたたまれなくなったいとこがかけるのをやめてしまったことがあった。
わしも事前にいとこから聞いていて「いい考えだね!」と言ってあったので、皆の反応がなぜだかわからずにびっくりしたが、あるいは日本語が聞こえた途端にダメだったのか、礼儀ただしくはしていたものの、みな明らかに、とまどってしまった、というよりも、どういう態度をとればいいか判らない、というふうだった。
良い奴ではあるが、こらえ性がないのでいつも態度が悪いPが、おれ、テイクアウェイ買ってくるわ、と言って出ていってしまったのを皮切りに、みんなが聴かなくなったのを見てとったいとこの淋しそうな顔が忘れられない。

日本で、たとえば朝雄さん(わしの友達、内藤朝雄 @naitoasao のことです)が、「こんな酷いことが世界で通るわけはない! これを世界に広めてください!」とフクシマのことを翻訳してRTしてくれ、世界に助けを求めてくれ! と述べているのをみるたびに、わしはなんだか「心」というものが臓器として胸の上部あたりに現実に存在して、それが劇症的に痛みだしたような、冷たい汗がでてくるような、緊張した悲しさを感じる。
朝雄さんは、ひたむきなひとで、たくさん罠をめぐらせている奸計にたけたひとびとの群れの中へ、自分で信じることを述べながら、両腕をぐるぐるまわして、大きな声で叫びながらひとりで突進してゆく。
体(たい)を交わされ、足をひっかけられて転ばされ、日本の人が天性もっている人間の冷たさと「善」を信じない人特有の天才的な巧妙さに満ちた他人を貶めるための技の巧みさで、ひっくりかえったままバタバタもがいている朝雄さんを、蹴飛ばし、つばをはきかけて、みなで嘲笑する。
同胞の徹底的な悪意に遭遇しながら朝雄さんは「世界にSOS」を打ってくれ、とみなに向かって悲鳴のように述べている。

しかし、この世の中に朝雄さんが信じるような「世界」が存在しないのを知っているわしは、なんだか涙ぐんでしまいながら、唇をかみしめて、ただ眺めているだけである。
それでも、ときどきはいてもたってもいられなくて、自分の特殊な生い立ちのせいで知っている英語圏のテレビ局人や他の、あんまりここに具体的に書いても意味がない人びとと一緒に夕食をたべて話してみたりしたが、反応は、述べるに値しないものだった。

唐突な言い草で、気が狂った人のようであることは認めるが、日本のひとはいまの苦境を、自分達の力で切り抜けるしかない。
いもしない「外国人たち」などに、最も淡い期待でも持つのは有害であると思う。
そのためには海の向こう、水平線の向こうに期待のこもった眼をむけるのをやめて、振り返って、自分達日本人のお互いの眼を見つめて、議論し、決心して、自分達の知恵に投企して国を変えていくほかはない。

外国人どころか、もうこの世界には、神さえ居(い)はしないのだから。

This entry was posted in 日本の社会. Bookmark the permalink.

One Response to 世界が観ている

  1. 田鶴 says:

    心の揺れるままに素直に読んでいました。月明かりの美しい森の奥で一頭の生き物が痛みをこらえているようで、私は思いっきり泣いてみたい。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s