Daily Archives: April 14, 2013

「時間を取り戻す」_教育篇

人間が絶対時間を生きているわけではないことは酩酊しているときのことを考えればすぐにわかる。 バーで友達と酒を飲みながら壁の時計をみて「まだ午後十時だから大丈夫」と思う。 もう少しだけ、と思って、よくみるとやや呂律が怪しくなった友達と、にこにこしながら話していて、ふと時計をみると、さっき時計をみたときからほんの少ししか経っていないのに針が午前3時を指している。 「10-minutes rule」はDuke大学のハリス・クーパーが唱えだした簡明なルールで、「学校は宿題を出した方が子供の教室での理解は容易であること」 「宿題は学年数に10分間をかけた時間がかかるものであることが望ましいこと」を述べている。 第7学年(日本ならば中学一年生)は7x10=70分ぶんの宿題、 第12学年(日本では高校3年生)には12x10=120分ぶんの宿題を出す。 最近、アメリカの親たちが「宿題を減らす運動」を繰り広げているのはもともと典型的な学歴社会であるアメリカで、社会の競争が激化した結果、塾通いをはじめ、特にアジア系移民を中心に子供の時間が「勉強」で埋めつくされることに対して起こった「西洋人の伝統的な教育への考え方」の叛乱というべきもので、「10-minutes rule」は、そういう親たちの理屈の上での支えになっている。 日本にいるときに不思議だったことのひとつは、たとえば、「なぜ日本人はあんなに急いで靴紐を結ぶのか」ということだった。 通勤時に背広服で雑踏する有楽町の駅の前に立っていると、50代のおっちゃんが足下の靴紐がほどけたのに気づく。 さっ、としゃがんであっというまに靴紐を結び直す。 器用なひとがおおい国なので、ほんとうはきっとあの電光石火といいたくなる早業で、ちゃんと靴紐を直してしまったのだと思うが、頭はそう考えて納得しても、余計なお世話で、やはりまた靴紐がほどけそうな気がする。 それはなぜかというとこちらの「靴紐を結ぶのにかけるべき適切な時間」とおっちゃんの「靴紐を結ぶのに許された時間」の感覚がまったく合致していないからで、わしの頭の中では、靴紐を結ぶという作業は、おっちゃんの2倍はじっくり行われるべきものだからです。 鰺を釣るときには、日の出か日没のときが最もよい。 ニュージーランドなどは、よもや鰺が食用になると思っている人間はいないので、鰺は油断したまま海面下にうじゃうじゃ群れていて、 おもりをつけてぽおんと放り込むと水の下に針がもぐった瞬間に餌無しの4本針のサビキに、いきなり4匹鰺がぶらさがって釣り上げられてくる。 快晴の昼間は満潮干潮に関わらず、まして満月新月もなく、餌をつけて、しばらくじぃっと我慢しても針にかかるのは鯛ばかりで、鰺はいっこうに釣れない。 鰺の押し鮨に味をしめているので、ときどき鰺釣りに行こうとおもうが、チョーあたりまえのことを言うとパワーボートででかければ日の出にマリーナについても時速50キロなり60キロなりでポイントに急行してどばどばと鰺を釣り上げることができるが、ヨットを選択すると、なにしろ諸葛亮孔明は「強風を起こす術」について具体的な方法を残しておいてくれなかったので、文字通り風任せで、時速9キロで、へろへろと現場へ向かうしかない。 現場に着いたころは鰺は離散してしまうので、やむをえないので、もうちょっとヨットで遊んでから夜はステーキにしよう、と思うが、ヘンなことをいうと、ここでモニとわしはヨットから「自然の時間はどういうペースであるか」を復習している。 日本の社会のいちばんの大罪は子供とおとなの双方から「時間」を大量にしかも恥じらう様子もない露骨さで奪っていることにあると思う。 ずっとむかしには、子供が学校が終わったあとでまた学校に行く、ということがどうしても理解できなかった。 なんでそんな時間をみすみすドブに捨てるようなもったいないことをするのか、だいいち、それではいつのんびりして「子供」がやれるのだ、と考えた。 子供の意識はおとなよりも遙かに稠密に出来ているので、1時間も勉強に集中させれば観念が猛烈な勢いで組み上がって、現実を蹴落として、自転する言葉の理屈というか、現実とは乖離した精緻な「観念のための観念」を動かす機械が頭のなかに発生してしまう。 「学校のあとの学校」へ行くとなると、子供にとって最も必要な「自然の時間の流速」を感得する人間の一生で最重要な機会を失って、根源的な不安、社会や自然から自分の時間の流れが孤立して齟齬をきたす、という不協和のなかで死ぬまでを暮らすことになる。 子供は子供らしくなどということは大人の蒙昧な思想で、子供という概念そのものが最近の産物なので、子供は人間らしくなることなしに「子供らしく」なったりはしない。 子供は「無防備なおとな」で、これから育ってゆくために最大の「防備」になるのは、「自分がここにいることは自然なことなのだ」という感覚である。 自分が自分の立っている場所に立っているのは世界にとっても自分にとっても当然のことであって、この世界と協和して齟齬が無い感覚で生きていることは当たり前のことなのだという感覚によって人間はときに起きる「困難なとき」を慌てもせず悲観もせずに、それこそ、忙しい雑踏のなかで、充分に時間をかけてゆっくりと靴紐を締め直すひとのように困難を乗り越えてすすんでゆくことができる。 そうして、その「生きてゆくペース」が、自然にかつて「子供」であったひとに、自分は自分であることだけで重要な存在なのだ、という意識を自然に与えてゆく。 子供にとっては「急かされる」ことは致命的でありうる。 まして社会全体によって急かされつづけて充分な時間の感覚を与えられなかった子供は、おどおどした気持ちのまま世界を渡ってゆくことになる。 「自分に最適な時間の感覚」「自分がもっとも自然でいられる時間の流速」はひとによって異なるが、日本のような高速で変拍子なコンテンポラリイジャズのビートに似たリズムが支配する社会では、そこで齟齬をきたさないのは、簡単に言えば「軽薄才子」だけだろう。 だが時間を取り戻すことは出来る。 子供のときに受けた大きな傷をいやすことは出来る。 前に「経済篇」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/「時間を取り戻す」_経済篇/ で述べたように、1時間があれば50分だけを使うのがよい。 それで社会が要請する約束がはたせなければ約束のほうに諦めてもらうのが良いと思う。 約束のほうに諦めてもらうことが許されない社会ならば、その社会はきみにとっては時間が窮屈にすぎる社会なので、やむをえず、その社会を捨てて他の社会へ移動するしかない。 … Continue reading

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