奪われた責任

gulf99

ボストンマラソンのゴールに圧力釜に黒色火薬を詰めた原始的な爆弾を置いていった人間は(この記事を書いている時点で)まだつかまっていない。

この爆弾のそばに立っていた8歳の男の子は爆弾によって殺され妹は片足を切断された。
やりきれない、と感じて世界中の人がその持って行き所のない気持ちをSNSに書いた。
ふだんは、そーゆーことに縁がないわしも、やっとれん、と述べないわけにはいかなかった。

ふたりの人(この場合日本語ツイッタに対してなので当然日本のひとだが)が、「それはそうだが中東でアメリカが子供を殺していることを考えると率直に悲しめない」という趣旨のことを話しかけてきた。
あとでわかったことだが、アルファブロガーというような人も含めて日本語の世界では「だって中東やアフガニスタンでアメリカ人も子供を殺しているではないか」
「子供が死んだのは気の毒だがアメリカ人が世界中でやっていることをみれば自業自得だと思う」という意見が多かった。
ざっと見渡して、アメリカ人がひとりでも死ねば大喜びのひともおおいムスリム人と日本人におおかった。

わしはその日本のひとびとの反応を観て「病んでいる」(sickの訳のつもり)と感じたが、そう感じるのがなぜなのかわからないので、こうやって記事を書いているのだと思います。

ボストンのムスリム人たちが人間として衝撃をうけ、自分達への偏見がなければ被害に遭ったひとたちを助けたい気持ちをBBCだかCNNだかの動画で述べていたが、世界中のあちこちではアメリカ人が死んだことで小躍りして喜んでいるムスリム人がいることは容易に想像がつく。
ところが、こっちは、凄惨な感じはしても「病んでいる」とは感じない。

わしのゲール語の先生は、ずいぶん仲が良くなった頃、庭の芝生の上で紅茶を飲みながら自分の国アイルランドと連合王国の関係を述べながら、ふとした調子で、「兄はイギリス人を5人殺した」と言う。
わしがびっくりして見つめていると、「ガメには言っておきたいと思っていたのよ」
「弟も2人殺した」
「IRAのメンバーだったの」

しかしわしは、そのときも怒りや、ましてFというゲール人の神様の名前が付いたアイルランド人の先生を「病んでいる」とは思わなかった。
極端ないいかたをすれば、そういうこともあるだろう、と思っただけだった。

あるいは、子供のときに、いまから振り返るとほんとうの動画だったかどうか怪しい感じがする、地下鉄の構内で阪神大震災のニューズが流れたとたんに大喜びするソウルのひとびとの動画がテレビで流れたとき、わしは画面のなかの列島人の上にふりかかった災厄に喜色満面の半島人たちを眺めながら、半島人たちはひどく「病んでいる」と考えた。

むかし上海人の留学生と酒を飲んで遊んでいるときに、日本の人は第二次世界大戦を欧米人に対するアジア人代表としての日本人の闘いだったと考えるのが好きみたい、と言ったら、この優秀な頭脳をもっているので知られていた中国人は「人種差別主義キチガイのヒットラーの尻馬に乗って中国人を殺して歩いただけのくせになにをいってるんだ」と吐き捨てるように述べた。
わしはいまよりも更にバカで、いまよりももっとアジアの歴史などはわかっていない頃なので、そー言われてみればそーだな、というようなことを言うと、そのひとは「日本人は都合がいいときには黄色い西洋人になって、また都合が変わるとアジア人になるんだよ。評判通り器用なやつらだとはおもわないか、ガメ」と言って、笑った。

それから、気が付いたように表情をあらためて、ぼくはアジア人としてこの国に来ている。きみは人間が聡明だから気が付いているだろうが、ぼくは西洋と西洋人というものがたまらないくらい嫌いなんだよ。でも個人の友情というものはいつだって別なんだ、と言う。
「個人の友情」と「西洋人への嫌悪」は、どういう場合ならうまく区別できるだろうか、と考えたのでその夜のことをおぼえている。

「子供の死」というようなニューズを聞いたときに、われわれは考えてから悲しむわけではない。
そういう言い方をすれば、わしなどは、まだ一生を経験することを始めてすらいない「小さな人間」が訳もわからず、世界についての要約すら頭にはいらないうちにぶち殺されてしまう、という圧倒的な事実に、ちょうど爆風にふきとばされた人に似た気持ちになる。
「考える」というようなことは適わなくて、脳震盪を起こしたひとのようにぼおっとしているだけである。
脳震盪を起こさずに自分が直接の被害者あるいは加害者でない限り個人の深い部分の問題ではありえない観念としての「政治」というものが介在できる魂のありかたを「病んでいる」と感じるのではないか。

ものの受け取り方として、個人の死を国家である「アメリカ」の自業自得と述べ立てられるちょっと非現実的な感じがするほどの人間性に対する鈍感さに立脚した理屈の上に立つ、その相手の場所に寄り添って立ってみても、日本はアメリカの最も忠実な同盟国で、片務同盟という日本には都合のよい形式であはあっても、日本こそが、例えば第一次湾岸戦争ではアメリカの後ろに立ってアメリカ軍が費やすオカネのほとんどすべてを賄う、日本の人の言い方で言えば「中東人虐殺」の「大旦那」だったのは、当の中東人が誰よりもよく知っている。

ひどい言い方をすると悪党の首領の一の手先として働きながら、首領が夜中に襲われて村民が夜陰に乗じて一矢を報いると、「やっぱり悪党のなれのはては哀れなものだろう」としたり顔で述べている小悪党のように見えなくもない。

だんだん考えていくと、日本のひとはいまや「自分がどこに立っているかわかっていない」のではないだろうか、という疑問が起きてくる。
日本はアメリカのアジアにおける第一同盟者で、中国に向かってガンをとばしまくっても(つい数年前はこう言っても笑われるだけだったが)中国が攻めてこないのは、アメリカが日本の横に巨大な筋肉を誇示して立っているからである。
前にブログ記事でもツイッタでも何度も書いたように「沖縄の悲劇」と他人事のようなことをいって「おかわいそうに」と言うが沖縄は日本そのものでしかない。
自分で自分をおかわいそうにというバカはいない。

鳩山首相が考えたことを実際に実行していれば日本は滅びただろうが、日本の人が自分の頭の悪さと鈍感さを疑われずに「アメリカ人の子供が死んだのはかわいそうだが自業自得だろう」と言いたければ、あのオオガネモチの息子が最終の目的としていただろうように、アメリカとの軍事同盟をいさぎよく捨てて、国家としてひとりで中国と向き合わなければならないはずである。

原子力発電所がぶっとんでしまった国に住んでいる人間として、日本のひとが「放射能がこわい」「大丈夫と言われても信用できない」「子供の給食が安全だと思えないから食べさせるわけにはいかない」と述べるのは、いかに秀才の科学者から見てうすらバカに見えたとしても当然の反応で、そういう用語を使いたければ「権利」でもある。

怖がり方が科学的だろうが非科学的だろうがおおきなお世話で、わしが日本人なら日本の科学者という連中はどうして頼まれもしないのに自分で発見したのですらない、受け売りの、くだらない知識を披露したがる鬱陶しいマヌケの集まりなのだろうと考えて、クレメンス8世の怒りの正当性について思いを巡らしたのではないかと思われる(^^)

日本では不可解な理由で蹴散らされ逼塞した「放射能がこわい」ひとびとから蹴散らしたがわの科学者のほうに目を転じると、ぜんぜん訳がわからない、といえばいいのか、科学者と称しているひとたちが、専門とはなんの関係もない放射性物質の影響について、したり顔で述べている。
口吻を観察していると、ひょっとすると日本の大学の生協には「難しげな用語をふりかざして素人を恐れ入らせる話術」というタイトルのハウトゥーブックスかなんかあるのか、と疑うような口調です。

同じ「医者」だからという理由で頭が痛いからといって泌尿器科をめざす人間はいないが、放射能について統計物理学者が権威じみた口調で「素人」に鞭をふるうのはみなが当然と思う社会が、この世界にはある。

わしはときどき日本の人が「自分がどこに立っているか」わからなくなってしまったのは、責任というものを奪われてしまったからではないか、と考えることがある。
日本人は、責任をとる、ということを社会によって禁じられた国民として近代を過ごしてきた。
多分、その最大の理由は近代以前の日本で為政者であったサムライたちのばかげた慣習で、不面目にあたればなんでもかんでも切腹自殺を命じられていたことが淵源で、あんなに何をやっても死ぬしか責任のとりようがなければ、どんな社会でも起きたことはなかったことにして、責任はとらないものと不文律をつくるだろう。
本人が頑張って、殿様の妾とエッチしていたのがばれたから武士らしく腹を切る、と言っても周りの武士が「おまえのエッチのせいで俺にも死ねというのか」というので必死になって止めただろう。
適正な処罰をつくれなかったので、日本人は結局個人から「責任をとる」という名誉を守る行動を奪ってしまった。
本人の死だけではなく一家眷属みな路頭に蹴りだされる、むかしのチョー厳罰のせいだと思う。

「責任をとることを禁じられた社会」など聞いたことがないが、日本で起きることはそうでも考えないと説明することはできない。

責任を奪われた社会では自分がどこに立ってものごとを述べているかわからなくなるのは当然であると思う。
発言のたびに立っている場所が変わる不思議な世論の理由は、要するにそういうことだろう。
アメリカと一蓮托生の道を選択しながらアメリカ人の子供が死ぬと手のひらをかえしたようにアラブ人のような顔をして「アメリカは自業自得だ」といい、尖閣諸島で領土問題がくすぶりはじめるとアメリカが「もっと強い対応」をしてくれることを望む破天荒な恥知らずぶりは、自分が実際に見聞きした、あの誇り高い日本人のひとつひとつの顔を思い浮かべると、他に納得の方法がない。

1945年、長いあいだつかえた主への深い尊敬とともに宮中につとめていたひとびとのなかにやめてゆくひとびとが目立った。
このひとたちは死の前に「まさかお上が戦争の責任をおとりにならないとは夢にも思わなかった」と、当時の、他人には言えなかった衝撃を述べている。
戦争が終わったとき、搭乗員たちに対し特攻を日本の支配層らしい狡猾さで巧妙に「志願」するしかない心理へおいつめていった将軍・将校たちの大半は日本の伝統に順って責任をいっさいとらなかった。
東京裁判という連合国による復讐裁判がわずかに数人の日本人支配層に引責を強要したが、昭和天皇自身がまったくなんの責任も問われなかったのに、将校たちが責任をとる必然性は誰がどんなふうに理屈を組み立てようとしてもあるわけはなかった。

もともと責任とは権利である。
それは人間の誇りの成立と関係がある。
わしの観察では、1945年に、責任という衣装をはぎとられて世界の大通りに屈辱的な素裸で放り出された日本人が、世界じゅうの人間の嘲笑をあびながら、必死でつくりあげたのがいまの日本社会だった。
なりふりかまわず、という表現がぴったりの戦後史はそのことを証明している。

ひとりの小さな子供の死をまっすぐに悲しむことができない人間の群や専門ですらない「科学の知識」をひけらかして「素人」を脅しつける、なんともいえない品の悪さを身につけた科学者たちの一群があらわれるのは、必然にしかすぎないとも言える。

誇りをはぎとられ責任すら奪われて、日本は惨めな姿のままこの世界に立っている。
他人に嘲られながらつかみとった経済の王冠をかぶっているが、往来に晒した姿は相変わらず素裸のままである。
その、少し、衰えがみえた薄い胸の裸体を眺めながら、これから日本はどこへ行くのだろう、と考える。
もう、そんなに頑張らなくてもいいのさ、と声をかけて、自分の手で自分の衣装をつくって身につけてもよいときではないか、と話しかけたいと思っているのかも知れません。

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5 Responses to 奪われた責任

  1. 春渓 says:

    正直言って、ガメさんの言っていることには不快感を感じることが多いです。でも、これ程主観、客観を交えて日本のことを表現してくれる人を、私はほかに知りません。私は60歳近い人間ですが、今さらのように、日本という国家の本質を認識させられる思いでいます。ありがとう。

  2. 山口組山次組組長・山本次郎 「ドイツ人はやっぱし偉いです。ヒットラーにしても部下と共に自決して戦争の責任を取っておる。日本は戦争の責任取った者がどこにおるんですか?日本の上の者は絞首刑になったんと違いますか?ドイツは違いますよ。皆自分で責任とってますよ」

    山口組後藤組組長・後藤忠政 「本来、絞首刑になってもおかしくないようなA級戦犯が刑務所から出てきた途端にデカイ面しやがって、たかがバクチの胴元じゃねえか。しかも競艇といったら、競馬、競輪と並ぶ「公営ギャンブル」だろ?なんで競艇だけ、笹川の財団法人がやってるんだよ?自民党や政府をたらし込んで自分だけいい思いしやがって、何が「人類皆兄弟」だ(笑)。人類皆兄弟から金吸い上げてるのはお前だろうが」

    「ハラキリ」とは違い「指詰め」という(実際に機能する)責任文化を持つヤクザはさすがに本質を突いている。

  3. mynameisa2c says:

    日本人が責任について深く考える事をしない国民だという事は同感です。また、「責任を取ることを禁じられた社会」という表現も言い得ていて妙だと思います。
    「潔い」という言葉で、(責任を含む)事実の追求よりも見せかけだけの辻褄合わせを重視するのは、武士の時代の頃から日本人に染み付いた恥ずべき風習なのかもしれないと感じました。

  4. shiroganedori says:

    科学者などがあのように人を見下すのは、日本では「自分の思う通りに振舞うと、他人様に迷惑がかかる。そんな奴は人間失格」と小さな頃から、その子の目が死ぬまで叩き込まれるからで、ようするに、「放射能怖い」という人間を、そういう人間失格者に仕立てあげれば(それは、日本では社会的死を意味する。)、責任を取らなくても良くなるからではないでしょうか。
    レイさんに言われたけど、現在の日本人の頭の中には100%善と100%悪しか存在しない。(法的には有っても)。よく言われた、シロとクロしか無い。
    そして、その決定権は、権力者側に在る(と、思いこんでいる人が多い)。
    いくらかの国民があきれ返っている中、少なからぬ国民は、権力者の言動を規範に「これシロだから」とクロやグレーを行う。

    多分、日本国民は縛られすぎて、とっくに精神の均衡を失っていて、抜け道は全て試さずにはいられなくなっているのではないやろか。悪事を働かねば死ぬ所まで追い詰められているのだから、アメリカの爆破事件のことについても、反射的に、その手当たり次第が噴出したというだけではないかと思う。
    視野を狭く保たれ、心を病んでいる。

    一部の日本人は、責任を取ることを禁じられ、また全ての日本人は、頭の中で自由に考えることさえ禁じられているのだと思う。しばしばそれは、日本人の心を守るのに役立つ。
    もうひとつ言うと、日本では、庶民は責任を取らなくてはならない。

    >日本こそが、例えば第一次湾岸戦争ではアメリカの後ろに立ってアメリカ軍が費やすオカネのほとんどすべてを賄う、日本の人の言い方で言えば「中東人虐殺」の「大旦那」

    ここら辺は、そういう考え方があるのか!と、目から鱗でありました。
    日本は、アメリカの植民地と呼ぶに、そんなに遠くないのだろう思っていたから。

  5. DoorsSaidHello says:

    日本人である自分を疑似西洋人であるように思ったり、無力な庶民である自分を為政者の一部であるように思ったり、米国の追従者でしかない自国を中立であるように誤認することの根源は「責任をとらない」ことにある、という指摘は鋭いなあと思います。それがひいては「放射能は安全だ」という言説の横行を許すことになっているのだという指摘もその通りだと思います。

    自分の声で意見を言い、言った事の責任を自分の身体で支払うことは、自分が何者であるか知るための出発点です。痛い支払いをしながらも物言う事をやめない人は、自分の大きさと立ち位置を何度も思い知らされながら生きることになるからです。

    ところで私の父の家は長く続いた関東武士の家系です。子供のころから父に最も厳しく求められたことは「けっして嘘をつかない」ことでした。もし真実を口にした事で自分はもちろん、周りの誰もが損をし、困った事になるとしても、けっして嘘をついてはいけないと教えられ、また実際に父がそのように振る舞うのを見て育ちました。

    子ども心にも「誰一人得をしない時には黙っていればいいのに」と思ったのですが、真実は損得の次元を越えたものであって侵してはならないというのが父の価値観でした。言葉に出して確かめた事はありませんが、父の親族にはどことなく同じ雰囲気があったように思います。

    もちろん実業界では百害あって一利なし、という類の生き方でした。時代にも合っていませんでした。誰も引き受けたがらない損な役回りを「では私がやりましょう」と引き受け、体に鞭打ってでも責任を果たし、迷惑がられながらもあった事はあったと言明する父の姿を見て育った経験は、「責任を取らない」生き方が武家のものだという指摘とは符合しません。私が子供のころに出会った武家の末裔と思われる人々(そのほとんどが戦前生まれ)の雰囲気は、無責任とは正反対の、いたって生真面目なものでした。

    私がガメさんのブログを読むのは、昔懐かしい良識あるひとたちの気配が蘇るからなのかも知れないなあと思いました。でも懐かしいということは、失われて久しいということでもあるのです。いつ、どのようにして失われてしまったのか、時間をかけて考えてみようと思います。

コメントをここに書いてね書いてね

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