言葉という「わたし」について_1

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英語人が溺れかけているときに「Help me!」と言うが「Assist me!」とは言わない、と前に書いた。
あるいは「朝鮮人帰れ!」という文章を見て、書いた人の意図とは反対に「朝鮮」という漢字の美しさに見とれてしまうことがある。

類語辞典というものがあるが、脳髄は絶えず語彙を比較して、無意識的にも無数にある「類語」から最も適切な単語を選択している。

適切な選択?
選択している主体は、なにが選択しているのだろう?
と多少でも頭がまわるひとは疑問に思うに違いない。
そうして考えをめぐらせて、その単語を選択しているのも、また語彙であることを発見してびっくりしてしまうだろう。

このブログでは何度も書いた、エズラ・パウンドの戦後の沈黙のことをよく考える。パウンドはT.S.Eliotが代表作「The Waste Land」を「 IL MIGLIOR FABBRO」という詩人にとっては最高の讃辞とともに捧げたように、きわめて言葉に巧みな詩人だった。
詩において巧みなだけではなく、話す事においても巧みで、どのような種類の会衆でも一瞬で心を奪われたし、どんな女びとでもパウンドが口説くと我を忘れたようになって気が付くとパウンドのベッドの上で裸になっていたという (^^;  

ムッソリーニ政権下のイタリアで、ファシズム礼賛の連続ラジオ放送をおこなって、イタリアファシズムがいかに、それまでの退屈で醜悪で偽善に満ちた民主主義に勝るものかを説いた。

そのパウンドは戦後、「あなたはなぜ沈黙したのか?」と問われて、「言葉には伝達の能力などないからだ」と述べている。
あるいはW.H.Audenが「Love each other or perish」という人口に膾炙した表現を新しいアンソロジーから削ってしまった理由を問われて、「人間がお互いに愛し合うなどということはありえないから」と答えている
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/07/09/love-each-other-or-perish/

パウンドもオーデンも十分に巧みな詩人だったので、言葉の機能のうち「伝達」などは小さい部分にしかすぎない、ということをよく知っていた。
「あなたを愛している」と言って、その言葉だけで言語であらわそうとおもったことが相手に伝わったと思う人は余程鈍感なひとである。
あなたを世界一愛している、とやや修飾をしても、事態はまったく変わらない。
宇宙一、になると逆効果で、そんな100円ショップの棚に並んでいそうな表現をするくらいなら、腕の筋肉がつりそうなくらいおもいきりいっぱいに両腕を伸ばして「こおおおおおおのくらい、愛してる」と述べたほうが、まだ表現としてすぐれていると言うべきである。
(念のために言うと、腕をのばした際に指の先をピンとまっすぐに伸ばしておかないと「たったそれだけしかわたしを愛してないの、推定1.8mくらいの愛情じゃない」とゆわれた場合、「この左手の指の先が示している銀河から右手の指先が示している銀河まで28ギガパーセク(930億光年)あるのであって、わしが示そうと思った純愛はそれよりも大きいという表現なのね」と説明することができなくなります)

ではどうすれば「あなたと会えたことが嬉しい」ということを示せばよいかというと、
たとえば岩田宏は

「おれたちは初対面だが
もしあえなかったらどうしようかと
そればっかり考えていたよ」

と述べているし、岡田隆彦は、
「ラブ・ソングに名をかりて」という詩で史乃さんという名前の恋人に「あんたが好きなのだ」ということをなんとか伝達したいと試みている
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/02/29/日本の古典_その3%E3%80%80岡田隆彦/

こういう表現が、(相手も言語についての修練が出来ている場合には)過不足なく、精確に自分の魂から相手の魂にとどくのは、現実には言葉には、その言葉を一個のニューロン
http://en.wikipedia.org/wiki/Neuron

とするいくつかの結びつきのうち、いくつかのパターンで「定型」を構成する働きがあるからで、簡単な話、
「武蔵野、朝鮮、オルペウス」(吉増剛造)
という文字の形象と音の反響で構成された一行の詩句で伝わるものは、
これ以外の排列と選択では伝わらない。

しかし、この「言語の定型」による方法は、言葉のニューロンの無数の組み合わせのなかから探り出すのが難しすぎる上に、受取手のがわにも同様のニューロンの組み合わせが用意されていなければならないので、廃れることになった。
変わって編み出されたのが、言語の組み合わせニューロンよりも遙かに論理的な、というのは意識して効果をつくりやすい旋律と言葉を組み合わせる方法で、この方法によった「歌」がもっか全盛を極めている。

言葉の本義は無論、伝達よりも、伝達をしたいと考えている意識の主体のほうで、「わたしは腹がへった」というときの「わたし」はなにかというと、その「わたし」と集合的に呼ばれている意識がもつ語彙の総体が「わたし」なのであるとおもわれる。

だから「わたし」はそこにちょうどブラックホールのようにして存在する語彙の集合によって規定されもすれば制限もされる。

いっぽうで語彙を形成している言葉のひとつひとつには歴史上、その言葉を使ってきた人間の集団が考えたことや感じた事が言葉のなかに堆積して澱んでいるだろう。

さっきもちだした例で言えば、その言葉を使う人が半島の住人を軽蔑しているしていないに関わらず「朝鮮」という2文字の組み合わせが、日本人が歴史を通じて育んできた半島の人間への、(百済観音を思い浮かべるのが最もイメージとして判りやすいとおもうが)自分達よりも洗練されて高度であった、しかもたとえば「流線形」を好むというような多くの点で共通した文明への敬意を表している。
英語のKoreaという表現と同じ国であると思うのは難しいことだし、実際、同じ国を指していても「朝鮮」と「コリア」では違う国のことなのである。
それは英語人がもっている無惨なほどのコリアへの無関心を示している。

日本語だけはなぜか「文章が長い」のを嫌う人が多いので、この辺でやめるが、
わしはこれから、このブログをずっと読んできてくれた人たちと一緒に、言葉と人間の関係を考えていこうと思ってます。
ブログ記事とコメント欄と日本語フォーラムとツイッタとメールで、ちょっとずつ考えていきたい。
その過程で日本に固有な問題がおおく日本語に固有な構造からうまれていることや、前の回にちっとだけ書いたように、日本語は常に言葉に耳を傾けているはずの「第三者」が言語上存在しない点で極めて特殊な普遍語であったこと、そうやって日本語と日本社会と日本人の「形」そのものである日本語が片付いたあとでは、英語欧州語へ出ていって、言語全体と人間の意識の関わりから始めて、現実と宇宙との関連について考えられればいいなあーと思っている。

言葉の正体に正対してみつめているあいだは言葉は、われわれ自身に他ならないが、背を向けて目をそらすと、言葉は、たちまち人間にかかった呪いのようなものに姿を変えてしまう。
いまわれわれが目撃している事態は、そうやって招来された呪術的世界だと考えうる。
その場合、言葉の機能のうちの論理的なベクトルだけに注目しても、事態がいっこうに見えてくるわけはないから、と言い直すのでもいいのかも知れません。
もっと言葉の闇のなかにもぐりこんでいかねば、言葉たちが呟いている「聴き取りにくい声」は聞こえず、それが聞こえなければ、言葉などはたかだかイルカたちの複雑な呼び合う声と同じ、伝達のための不完全な道具にしか過ぎなくなってしまうからです。

ほんでわ

(画像は「東京金沢よりも魚がうまいゆいいつの町」Santiago de Compostelaのレストランのスズキのひらき。無茶苦茶うまいので魚があんまり好きでないわしでも泣きたくなります)

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