グローバリズム(1)

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グローバリズム、はいま世界の半分で進行していることへの下手な命名、あんまりうまく呼べていなくて、そのせいで定義も常に曖昧になってしまう不細工な命名であると思う。
多分、そのうちに違う言葉で呼ばれるようになるだろう。
いまは「ひとが『グローバリズム』という名前で呼ぼうとしている世界的な傾向」のことを、曖昧な習慣にあわせて模糊として「グローバリズム」と呼ぶことにしよう。
グローバライゼイションも慣習によって出来た区別はあまり気にしない。
日本語で「グローバリズム」と言うときにはMundializationへの指向も含むように見えることもあるが、そんなことまで言っていると何が「グローバリズム」なのかさっぱり判らなくなってしまうので、これはまた別に項を立てるべきと思う。

移民に門戸を開くまでは、イギリスなどはまだチョーチョー、チョーx5なくらい退屈な国で、歩いている人間は色が白い奴ばっかし、話す英語のアクセントも(内部バラエティはあっても)同じ、食べるものに至っては普通の収入の人間なら即死するような金額を支払わなければならないレストラン以外は、きみ、これ、水煮したままどっか遊びにいって忘れてたんでしょう?ちゅうようなぐったりして口に含むと舌の上でとろけるような温野菜とか、表層が2ミリの厚さでチャーコールになっているステーキとか、いろいろに冒険的な食べ物を食べることになっていた。
いまでもイギリスには「ステーキは表面のおこげが好きである」という40代以上のおっちゃんがたくさんいるが、それは国全体が白かったころの悲しい食生活の習慣に基づいている、とみなすことが出来る。

アメリカはアメリカで、1982年、初めのうち全然(ただなのに)読んでもらえなかった USA TODAY
http://www.usatoday.com/
が発行されるまで日本の読売・朝日のような「大衆向け全国紙」というものは存在しなかった。
大多数のアメリカ人にとっては「満タンのクルマで行ける範囲」が世界であって、ときどき火星に旅行するようにしてニューヨークやサンフランシスコに出かけたりした。
「火星に旅行」がオーバーなら (オーバーだが) お伊勢参り、でもいいです。

英語人の生活は最近までものすごく狭い範囲に限られたものだった。
わしガキの頃、90年代の初めでもまだそうで、その頃の町の様子や、ペンザンスのような町のにぎわいを考えると、なんだか別の国のことを考えているような気がする。

初めてニュージーランドに行ったのは、多分6歳のときなので、1989年だと思うが、
クライストチャーチのカテドラルスクエアの真ん前にある「ミルク・バー」に連れて行ってもらったら、ミルクシェークが錫のカップに入って出てきた(^^;
ばーちゃんの話で聞いたことはあっても現物をみるのは初めてなので、おお、すげえ、というか、2万キロを移動するとアインシュタイン効果かなんかでタイムスリップするのかと考えた。

その頃は開店したばかりのマクドナルドがミラベルとリッカートンにあって、兄弟みたいな国のオーストラリア資本をのぞけば、ニュージーランドの外からやってきた会社はマクドナルドくらいのものだった。
あとはせいぜいフォード、ジョンディア、というような会社の製品を製品輸入していただけだったと思います。

日本は対照的に常に世界のものを取り入れようとしてきた国で、上等舶来という言葉さえむかしはあった、西洋の文物は上等だという長い時期を脱して、ちょうど当のその西洋の国国とは逆に、「日本のもののほうがいい」「洋モノはしっくりこない」という思潮が強く出てきたのが1990年代半ばくらいで、「国の門戸を開いていかねば生きていけない」と欧州やオーストレイジアの国々が思い詰めはじめたのとちょうど逆の方向に思い詰めはじめた頃に「グローバリズム」というものが姿を見せ始めたことになる。

あの「ミルク・バー」があった場所は、いまは地震の瓦礫で、背よりも高いネットが張り巡らされて立ち入り禁止になっているが、地震があるまでは「スターバックス」があって、そこによく「グローバリズム反対」の運動家たちがなだれこんだりしていた。
ニュージーランドで、そういう反対運動が頻繁に起こるようになったのは2000年くらいからのことで、それまでは切迫した語彙ではなかった「グローバリズム」が自分の生活に密接に関係があるものとして、多くの場合否定的に語られるようになったのは、そのくらいの頃からだったと思う。

メキシコのクエルナバカという内陸の、メキシコのなかでは裕福な町に行くと、むかしメキシコから休暇に来た大金持ちたちの生活を偲ばせるカシノの跡があって、いまはコスコ(Costco)になっている。
2003年、このコスコが進出するときには、地元のメキシコ人たちは激しく反対して、そのうちの数十人は道路を封鎖するところまでいった。
コスコのすぐそばに経緯をしるした碑(?)が立っている。

http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=20030131&slug=costco31

わしはコスコが出来てしまってからのクエルナバカでぶらぶらして過ごしていたが、地元の人たちのコスコに対する反感は強くて、あんなものがやってきてしまっては、おれはどうやって生きていけばいいんだ、と叩きつけるような口調で述べる食料品店主にであったりした。

グローバリズムがソビエトロシアの崩壊とともに世界を覆い始めたのは、もちろん偶然ではない。
共産主義が強固な幻想として壁の向こう側で君臨していた頃には資本主義側には「やりすぎると必ず共産主義にその「やりすぎ」を衝かれて育てた市場をねこそぎもっていかれてしまう」という恐怖心があった。
ラッキー・ルチアーノが一生の最後の夢を見たバチスタのキューバはサトウキビ畑から姿を現したフィデルの軍隊にカシノからホテル、クラブまで綺麗にもっていかれてしまったし、メキシコも社会主義を標榜してことあるごとに「東側」寄りの発言をする。
ドイツでも日本でも共産主義は正義感の強い若い人間を惹きつけ続けて、日本では自民党政権への失望が少しでも強まると共産党が躍進した。
イタリアでもフランスでもスペインでも、「資本主義の豚」に反撥した国民が共産主義になだれをうって参加してしまう、というのは現実的な脅威だった。

「東欧の自由主義運動を弾圧するために派遣する戦車の燃料が買えない」ところまでソビエトロシア経済がおちぶれて、プラハに真実の春が訪れ、共産主義の理想が姿を変えた全体主義の幻想に他ならないことが白日にさらされると「資本主義の豚」たちのほうは歯止めがなくなってしまった。

流れている「We shall overcome」は同じだが、歌っているのは、今度は資本家たちなのである 
(歌詞を考えてみればよい)

共産主義なきあと、資本家たちにとっては「国権主義国家」ほど腹が立つものはない。
資本の論理で見つめる世界は、ちょうど部族の力関係と支配領域をまったく無視してひかれたアフリカ大陸の国境と同じで、市場としてみればひとまとまりに当然なっていなければならない地域に「国境」というくだらない線が引いてあるばっかりに関税を払わねばならないし、第一、仕切りの右と左で世帯収入から何から政治という経済にとっては往々にして邪魔なだけの代物のせいで性格がまったく異なるマーケットになってしまっている。
本来8000万人規模の同一マーケットであって当然の南北朝鮮が良い例である。

よほど不健康な政商もどきの商売をしている人でないかぎり、ビジネスや投資をする人間にとっては「国」などは邪魔なだけで、さっさとなくなって欲しいものの代表である。

ビジネスにとっての理想的な地球とは、全員が同じ言語をもち、収入も同じで、同一の嗜好をもつ世界であって、そこで一個「Roundup」ならRoundupが大受けしてくれれば、巨大な利益をあげることができる。
ユニクロの柳井正などは世界71億人の人間が全員自分であればどんなにいいだろう、とアンディ・ウォホールのようなことを考えているに違いない。
なにしろみんな柳井正なのだから自分の言ったことが誤解されずに直ぐ伝わる。
第一、作る服のサイズがひとつですむ。

日本ではそれほど発達しているとは言えないが、西洋諸国、特に英語国では「モール」が全盛を極めている。
何千台というオーダーの駐車場があり、シネマコンプレックスがあり、スーパーマーケットが両翼にふたつあって、巨大な建物のなかに商店街がつくってある。
冬がむちゃくちゃ寒いシカゴや、夏がクソ暑いテキサス、あるいは雨が降るとやることが徹底的に何もないニュージーランドのようなところではよく発達している。

わしはこの「モール」というものが嫌いであって、理由は簡単、「退屈だから」です。どこに行っても同じ店:「Banana Republic」「Body Shop」「Vodafone」「Sony Shop」…. 怖ろしいことにロンドン、ダラス、ニューヨーク、シドニー…どこに行っても同じ店があってうんざりしてしまう。
ビジネスにおけるグローバリズムの限界は、要するに「モール限界」で、リテールとマスメディアの違いはあっても、テレビの普及と産業のグローバリズムはたいへんよく似た事象をなしている。
より多く広汎な人間の嗜好に対応しなければならないので、必然的に供給されるものの工芸的美的質は低くなる。
質が高いものは何によらず受け手の側に質の高さに感応するための訓練を要求するので、99%の人間が、そういう「めんどくさい」ものにオカネを払う必要を認めないのは理の当然でもある。

企業のグローバライゼーションは経済の法則に従って規模を追究するために起きる結果なので、「良い悪い」を論じることにはまったく意味がない。
「悪い」と企業に告げても「そうですか」と答えて企業は世界中に工場や支店を開きつづけてゆく。
あるいは国民全員で連れ立って選挙を利用して政府や立法府に「悪い」と告げに行けば、今度は政府がおおよろこびで規制にのりだして、ビジネスにはおよそ向かない頭で「絵に描いた餅」をたくさん描いて国内のすべての経済を破滅に導くだろう。

そうやって考えてみると、真剣に企業の「グローバライゼーション」を止めたい、世界がド退屈で画一的では困るのだとおもえば、明日から「コスコ」にも「ユニクロ」にも「マクドナルド」にも行かないですませる以外には方法がない。
どれほど微々たる効果にみえても、実はそれがいちばん効果がある。
いや、それしか効果がない。
他の効果がありそうに見える方法は副作用が強すぎて服用すると頓死する危険すらある。

ところで、こうやって書いていくと気が付いた人がいると思うが、グローバリズムにはおのずから限界がある。
簡単に言えば日本人はアメリカ人になりうるか、という問題がある。
なれる、という人もいるかも知れなくて、ま、字義通りならパスポートをとるだけなのでたいていの人間にはやれるが、そうではなくて帰属する文明という意味において日本人はアメリカ人になりうるかと言えば、なりうる訳もないし、なりたいというひとも少ないであろうと思われる。
世界にはいろいろなひとびとがいるので、例外もあるだろうが、少なくともわしが知っている人のなかにはアメリカ人のように眺めているぶんには面白いが自分であれになるのはかなわん、という人しかいないよーだ。

日本語はすでに1990年代のどこかで地方語に転落して世界を考えるには不適切な言葉になっていると思うが、日本人が炬燵にあたる団欒のときまで英語で話すというのは考えられない。
日本人が日本語を捨てる、ということは、起こらないように思える。

しつこいが、これも「良い悪い」を論じても意味がないことで、ただ「起きない」というだけのことです。

皮肉なことだが、実はもともとは急激な国内のグローバライゼーションを最も性急に推し進めて、しかもまがりなりにも成功したのは世界中で日本という国だけで、いま最も先進国中でグローバリズムに抵抗している日本人という国民は、なんのことはない、明治以来、国を守るためだと教えられた必死の「グローバリズム許容」を自分たちの魂と身体に強いてきた結果の、抑圧はされているが強烈な痛みの記憶を思い返して、「もうあんなことは嫌だ」「おれは、あのとき苦しくてたまらなかったんだ。口に出して言えなかっただけだ」と叫んでいるのにしかすぎない。

これから世界中の人間が経験していくだろう痛みを、世界のひとびとに先駆けて全身で経験した国民の拒否反応なのではないかと思います。

わしはどう思っているかと言えば、グローバリズムが浸潤していくのは避けられないと思っている。
何度も繰り返すように、評価したり、「良い悪い」を述べてどうにかなるものでもなければ逃れようと思って逃れられるのは、ごく一握りの大金持ちだけで、その他の人間にとってグローバリズムについて思いを巡らして何か変化があるとは考えるのが難しい。

それはなぜかといえばグローバリズム以外に爆発的に増加する人口を支える方法が見あたらないからで、これから中国の退潮、大混乱期、インドの一時的な興隆を経て、2050年代にはアフリカ人に経済と地球人口を支えるだけの生産性のバトンをうまく渡していかねばならない地球人の文明のロードマップのなかで、ゆいいつ生産性の点でなんとか辻褄があう可能性があるのはグローバリズムだけである。

中国人全体が日本の60年代の生活レベルで暮らすためには地球がまるまるもう一個必要であることを忘れるわけにはいかない。
ヘンなことを言うと、うなぎの蒲焼きを食べるのをやめてサーモンの照り焼きに買えれば市場規模の生み出す生産性によってアフリカ人の子供が10人助かるのならば、野田岩も竹葉亭も尾花もぐっとこらえて、サーモンを食べなければいけない時期にさしかかっているのかも知れないのです。

なるべく具体的に書いていこうと思ったら、なんだかヘンなことになってしまったが、次回このテーマでもどってくるときには、思想的な面に焦点をあてて、そもそもグローバリズムが誰によってどんな目的で夢見られたものかについて書こうと思う。

相も変わらず「次回」が6ヶ月後かも知れないけど。
いつも怠けもので、ごみんち。

でわ

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2 Responses to グローバリズム(1)

  1. katshar says:

    誰かに何かプレゼントするときに、自分の手作りのものならいちばん良いと思う。
    でも、いつだってそうはできないし思いついたものがなんでも作れるわけもないので、
    それなら何が良いのか一生懸命考えて、
    自分お金を出して買えるなかで最もふさわしいと思える物を探し出して買って渡します。
    場合によってはそれが7−11で買ったアイスクリームだったとしても、
    どんなふうにそれが選ばれたのか想像してくれてちゃんとわかってくれる人となら、
    シアワセになれるんだと思うのです。
    だから、こういっちゃあなんだけどグローバリズムだってなんだって、構わないんです。
    ユニクロとマクドナルドとコスコしかない世界になったら困るけど、
    まだしばらくは大丈夫そうだし。

  2. 眠れるドタマ says:

    写真に写ってる筆達はガメさん愛用の筆かいの?右から二番目の刷毛みたいなやつで顔こしょこしょすんの気持ちいよね(超やらかいやつ限定。)

    記事と関係のうてあい済まぬw(また読み返してまんねん。せんねん ひゃくねん)

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