Daily Archives: May 11, 2013

沃野としての世界_1

1 10年前、妙に縦にながくて、コロンバスサークルの、いまはAOLビルが立っている側に立って、のおんびり道行く人を眺めている、深い緑色のポークパイハットをかぶった、顎髭のある、縦縞のシャツを着た、足が細くて二の腕が奇妙なつりあいで太い、肩がおおきな、胸が厚い、全体にバランスが悪いような、昼間からアルコール入りの、従ってときどき左右に揺れている、酔っ払っているときには普段かくしている強いイギリス式アクセントまるだしの英語を話す、見るからに世界の役に立たなさそうな青年をきみが見たとしたら、それはぼくである。 いままでは、いろいろにごまかしてきたが、あんまり長い間日本語ブログを書いているので、ときどきぺろっと話してしまったりして、もう隠しても仕方がないのでばらしてしまうと、ぼくは富裕な家に生まれた。 のみならず、ぼくが生まれた社会はヘンな社会で、人間をムーディーズみたいに格付けするが、生まれによって決まる、そのベラボーな格付けも、いっちゃん上のほうだった。 日本のひとは不思議な種族で、こういうと必ず、「脳内お花畑」とか「設定ではセレブ」と言って、現実は逆だろう、と想像する習慣をもつが、それはそれで、アメリカ人たちのようにフェースブックの世界ではみんなが幸福で充足した笑みを浮かべている文字通りのお花畑もあれば、日本のインターネット世界のように「他人が幸福で恵まれているわけはない」という必勝の信念に燃えている人で充満している世界もあるわけで、あまり関係もない社会の知らない人がどう思おうが、ぼくは一向に構わない。 めんどくさいので怒ったふりをすることはあっても、実際のところ、へえ、と思って、変わってんだな、と考えるだけだしね。 気持ちが、うまく言えないけど。 人間の一生が競争であるという意見には賛成しないが、競走みたいな面もなくはないとすると、みなが100メートルの競走に臨もうとするのに、ぼくはゴールのわずか5メートル手前から走り出したようなもので、その点では運が良かったと思っている。 ラスベガスで一文無しになって、赤い砂漠の岩の上に寝転がって、明日からどうするんだ、と焦慮したり、メキシコでカネを使い果たして、海辺の国道で行き倒れになって、しまいには妹が欧州から病院に駆けつけなければならなくなったりして、なんだかいつもどーしよーもないバカモノであったが、ちょービンボなときも、それが(ほんとうは真剣に困窮すれば両親や祖父母たちが放っておかない、というような意味において)真のビンボでないのはわかっていたし、かーちゃんととーちゃんはと言えば、むかしから周りの人が呆れかえるような溺愛ぶりだったので、そもそも子供のときから「将来を心配する」という感覚に欠けていたのではないかと思う。 イギリスという国は、ある条件下では教育制度がええ加減を極めている、というか、ほんとうに近代国家なのか、というようなところがある国で、それをいいことに、ぼくは子供時代の自由を楽しんだ。 いつも時間が豊富にあって、ありとあらゆることをやって遊んだ。妹をぐるにして遊びたかったが、小市民的というか、妹はマジメで、学校ばかり行くので、良い友達にはなれなかった。 わからないことはHALのようになんでも理解している家庭教師のおっちゃんに聞けば、たいてい用が足りた。 2 世界と和解しようと決心した人間がいるとして、和解の手がかりはなんだろうか、とよく考える。 むかしなら「神」というものがあった。 神は定義上言語の外にあるので、こういうときには便利だと思う。 神について考えているあいだだけは論理に縛られなくてもよい。 情緒に溺れるなり、論理の呪いを逃れて徹底的に放縦なふるまいを許された直感の快楽に身をまかせるなり、なにをやっても「自分の内なる言葉」に咎められることはない。 ところが21世紀になってから科学の訓練を受けた人間にとっては、率直に言って「神」を仮定としてうけいれるのはたいへんな困難が伴う。 科学に対しても神に対しても浅い知識しかもたない(それでいいわけだが)人は「科学的事実は神の手のひらの上にある真理にしかすぎない」というが、それはどちらかというと数学をさして「電卓のほうが便利だ」と述べているのと同じで、どう答えればいいか、返答につまる体(てい)の考えであると思う。 たとえば「宇宙の起源」にしても、宇宙の始まりを説明するのに若干の細部に神を仮定しなければならなかった時代を通り越して、神を仮定すると説明が返って複雑になるところまで来てしまった。 言語が触れることができない「絶対」としての神ですら「困難な仮定」になっているので、伝統的なイメージの意匠をまとった神は、というのはたとえばキリスト教の神は、噴飯物、と言っては酷すぎるが、人間とあの程度しか知能に差がない知性が宇宙をつかさどっているのでは、明日の宇宙の存続が危ぶまれる、というようないけないことを考えてしまう。 ムスリムは盛期を迎えているし、仏教はルネッサンス期が近いようにみえるが、それはまた別の記事にゆずるとして、神様自体はいろいろな点で魅力のない仮説になってしまっているようにみえる。 3 長いあいだ英語人をやっていると「英語世界」の軽薄さにうんざりしてしまうことがある。なんというか、底が浅いというか、聖書と不動産契約書の区別がつかないような文明全体のタッキー(tacky)さに嫌気がさしてくる。 昨日、一緒にツイッタの井戸端で遊んでいたひとたちは一緒に観ていたことになるが、アメリカやイギリスのポップスを聴いたあとで、スペインのポップスを聴くと茫然としてしまう。 スペイン語人たちが見ている世界の「深み」に嫉妬の気持ちが起こって、コンピュータをぶん投げたくなるが、ここでぶん投げると、またマーケティング上手の「ぼく環境問題に関心があるんですよねー」なケーハクセールスマンのようなAppleを不必要に儲けさせることになるので、ぐっと思いとどまって、気を落ち着けてビデオを見直すと、声の出し方といい、身体の動かしかたといい、「細部への情熱」が桁違いなのが見てとれる。 「パッと見」はどうでもいいと思っているのが手にとるように判る。 「あっ、かっこいい」と思っているときに見ている視線の先にあるものが英語人とはまるで異なるところにある。 もうなにしろ30歳のジイジイになってしまったので、年をとっただけなのかも知れないが、結局、文明なんちゅうものはイタリアとスペインと、あとはせいぜいフランスとトルコと、そのくらいにしか存在しないのではないかと思ってタメイキをつくことが多くなった。 レオン http://ja.wikipedia.org/wiki/カスティーリャ・イ・レオン州 の田舎の砂漠のまんなかの食堂で、この世のものとはおもえないくらいおいしいタコのカルパッチョが出てきたのは前にも何度か書いたことがある。 そのときに、なんか食後酒でおいしいものはないかなあーと考えて聞いてみたら、 「これ、この辺でつくるリキュールなんだけど、飲んでみない? おごるよ」 ともってきた黄色のリキュールを飲んだら死ぬほどうまかった。 海から遠く離れた赤い砂が延々と続く砂漠のまんなかでおいしいタコのカルパッチョが出てくるのもヘンだが、都会の喧噪から軽く800キロは離れた町のなかにすらない(何度も繰り返して悪いが)ド砂漠のまんなかで、どうして、こんな洗練された味のリキュールが出てくるのだろう、と考えて頭が混乱した。 大陸南部の欧州の人間にとって、世界と和解するのは簡単なことなのであると思う。 自分が20歳でも60歳でも、事情はあまり変わらない。 どんな場合でも、たとえ自分が80歳でも40歳以下であろうとするアメリカ人とは、そもそも「人間」というものについてもっている思想が異なっている。 … Continue reading

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