沃野としての世界_1

nz102

10年前、妙に縦にながくて、コロンバスサークルの、いまはAOLビルが立っている側に立って、のおんびり道行く人を眺めている、深い緑色のポークパイハットをかぶった、顎髭のある、縦縞のシャツを着た、足が細くて二の腕が奇妙なつりあいで太い、肩がおおきな、胸が厚い、全体にバランスが悪いような、昼間からアルコール入りの、従ってときどき左右に揺れている、酔っ払っているときには普段かくしている強いイギリス式アクセントまるだしの英語を話す、見るからに世界の役に立たなさそうな青年をきみが見たとしたら、それはぼくである。

いままでは、いろいろにごまかしてきたが、あんまり長い間日本語ブログを書いているので、ときどきぺろっと話してしまったりして、もう隠しても仕方がないのでばらしてしまうと、ぼくは富裕な家に生まれた。
のみならず、ぼくが生まれた社会はヘンな社会で、人間をムーディーズみたいに格付けするが、生まれによって決まる、そのベラボーな格付けも、いっちゃん上のほうだった。
日本のひとは不思議な種族で、こういうと必ず、「脳内お花畑」とか「設定ではセレブ」と言って、現実は逆だろう、と想像する習慣をもつが、それはそれで、アメリカ人たちのようにフェースブックの世界ではみんなが幸福で充足した笑みを浮かべている文字通りのお花畑もあれば、日本のインターネット世界のように「他人が幸福で恵まれているわけはない」という必勝の信念に燃えている人で充満している世界もあるわけで、あまり関係もない社会の知らない人がどう思おうが、ぼくは一向に構わない。
めんどくさいので怒ったふりをすることはあっても、実際のところ、へえ、と思って、変わってんだな、と考えるだけだしね。
気持ちが、うまく言えないけど。

人間の一生が競争であるという意見には賛成しないが、競走みたいな面もなくはないとすると、みなが100メートルの競走に臨もうとするのに、ぼくはゴールのわずか5メートル手前から走り出したようなもので、その点では運が良かったと思っている。
ラスベガスで一文無しになって、赤い砂漠の岩の上に寝転がって、明日からどうするんだ、と焦慮したり、メキシコでカネを使い果たして、海辺の国道で行き倒れになって、しまいには妹が欧州から病院に駆けつけなければならなくなったりして、なんだかいつもどーしよーもないバカモノであったが、ちょービンボなときも、それが(ほんとうは真剣に困窮すれば両親や祖父母たちが放っておかない、というような意味において)真のビンボでないのはわかっていたし、かーちゃんととーちゃんはと言えば、むかしから周りの人が呆れかえるような溺愛ぶりだったので、そもそも子供のときから「将来を心配する」という感覚に欠けていたのではないかと思う。

イギリスという国は、ある条件下では教育制度がええ加減を極めている、というか、ほんとうに近代国家なのか、というようなところがある国で、それをいいことに、ぼくは子供時代の自由を楽しんだ。
いつも時間が豊富にあって、ありとあらゆることをやって遊んだ。妹をぐるにして遊びたかったが、小市民的というか、妹はマジメで、学校ばかり行くので、良い友達にはなれなかった。
わからないことはHALのようになんでも理解している家庭教師のおっちゃんに聞けば、たいてい用が足りた。

世界と和解しようと決心した人間がいるとして、和解の手がかりはなんだろうか、とよく考える。

むかしなら「神」というものがあった。
神は定義上言語の外にあるので、こういうときには便利だと思う。
神について考えているあいだだけは論理に縛られなくてもよい。
情緒に溺れるなり、論理の呪いを逃れて徹底的に放縦なふるまいを許された直感の快楽に身をまかせるなり、なにをやっても「自分の内なる言葉」に咎められることはない。

ところが21世紀になってから科学の訓練を受けた人間にとっては、率直に言って「神」を仮定としてうけいれるのはたいへんな困難が伴う。
科学に対しても神に対しても浅い知識しかもたない(それでいいわけだが)人は「科学的事実は神の手のひらの上にある真理にしかすぎない」というが、それはどちらかというと数学をさして「電卓のほうが便利だ」と述べているのと同じで、どう答えればいいか、返答につまる体(てい)の考えであると思う。
たとえば「宇宙の起源」にしても、宇宙の始まりを説明するのに若干の細部に神を仮定しなければならなかった時代を通り越して、神を仮定すると説明が返って複雑になるところまで来てしまった。

言語が触れることができない「絶対」としての神ですら「困難な仮定」になっているので、伝統的なイメージの意匠をまとった神は、というのはたとえばキリスト教の神は、噴飯物、と言っては酷すぎるが、人間とあの程度しか知能に差がない知性が宇宙をつかさどっているのでは、明日の宇宙の存続が危ぶまれる、というようないけないことを考えてしまう。

ムスリムは盛期を迎えているし、仏教はルネッサンス期が近いようにみえるが、それはまた別の記事にゆずるとして、神様自体はいろいろな点で魅力のない仮説になってしまっているようにみえる。

長いあいだ英語人をやっていると「英語世界」の軽薄さにうんざりしてしまうことがある。なんというか、底が浅いというか、聖書と不動産契約書の区別がつかないような文明全体のタッキー(tacky)さに嫌気がさしてくる。

昨日、一緒にツイッタの井戸端で遊んでいたひとたちは一緒に観ていたことになるが、アメリカやイギリスのポップスを聴いたあとで、スペインのポップスを聴くと茫然としてしまう。

スペイン語人たちが見ている世界の「深み」に嫉妬の気持ちが起こって、コンピュータをぶん投げたくなるが、ここでぶん投げると、またマーケティング上手の「ぼく環境問題に関心があるんですよねー」なケーハクセールスマンのようなAppleを不必要に儲けさせることになるので、ぐっと思いとどまって、気を落ち着けてビデオを見直すと、声の出し方といい、身体の動かしかたといい、「細部への情熱」が桁違いなのが見てとれる。
「パッと見」はどうでもいいと思っているのが手にとるように判る。
「あっ、かっこいい」と思っているときに見ている視線の先にあるものが英語人とはまるで異なるところにある。

もうなにしろ30歳のジイジイになってしまったので、年をとっただけなのかも知れないが、結局、文明なんちゅうものはイタリアとスペインと、あとはせいぜいフランスとトルコと、そのくらいにしか存在しないのではないかと思ってタメイキをつくことが多くなった。
レオン
http://ja.wikipedia.org/wiki/カスティーリャ・イ・レオン州
の田舎の砂漠のまんなかの食堂で、この世のものとはおもえないくらいおいしいタコのカルパッチョが出てきたのは前にも何度か書いたことがある。
そのときに、なんか食後酒でおいしいものはないかなあーと考えて聞いてみたら、
「これ、この辺でつくるリキュールなんだけど、飲んでみない? おごるよ」
ともってきた黄色のリキュールを飲んだら死ぬほどうまかった。

海から遠く離れた赤い砂が延々と続く砂漠のまんなかでおいしいタコのカルパッチョが出てくるのもヘンだが、都会の喧噪から軽く800キロは離れた町のなかにすらない(何度も繰り返して悪いが)ド砂漠のまんなかで、どうして、こんな洗練された味のリキュールが出てくるのだろう、と考えて頭が混乱した。

大陸南部の欧州の人間にとって、世界と和解するのは簡単なことなのであると思う。
自分が20歳でも60歳でも、事情はあまり変わらない。
どんな場合でも、たとえ自分が80歳でも40歳以下であろうとするアメリカ人とは、そもそも「人間」というものについてもっている思想が異なっている。
(そのアメリカ思想の非人間性をハリウッド女優の立場から描いたRosanna Arquetteの「Searching for Debra Winger」
http://en.wikipedia.org/wiki/Searching_for_Debra_Winger
は、素晴らしいドキュメンタリだった)

土曜日の夜に、人混みがだんだん濃くなってくる夜更けの街の通りで、ヴァイオリンやチェロや、アコーディオン、ギター、思い思いの楽器を手にとって演奏しているひとたちの前に、ひとり、ふたり、と現れてしばらく足拍子や手拍子で調子をとってから踊り出す。
やがてそれが十数人の群舞になって、夜っぴいて踊る。
そうして、夜空に消える歌声や、地面を蹴って身体に伝わる振動が魂をつきあげたあとでは、彼女あるいは彼は、すでに世界と和解しているのであると思う。

「滅亡」という言葉の意味が、ハリウッドの特撮映画のように、世界が氷に閉ざされたり、巨大な隕石が衝突したり、あるいは致死的なウイルスのパンデミックが起こって、人類が死に絶えたりすることならば、地球の「滅亡」を考えるのは難しい。
7万年前のトバ噴火を生き延びて以来
http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory
人間は破局的危機に遭うと、知的生産性の爆発というか、ふだんのどちらかと云えばゆるやかなブレークスルーの産みだし方とはまったく異なる、「危機モード」のようなものを持っていると考えられるからである。

しかし人間はすでに「人間と呼びうるものとしては破滅してしまっているのではないか」という意見は常にある。
欧州で言えば「人間の世界は1918年に終焉を迎えたのだ」と普通に感じている人間がいくらでもいる。
残っているものは生存競争の強い必要から卑しい「強さ」を追求するだけのティラノサウルスに似た、どんなものでも生存のために噛み砕いてみせる「オオアゴ文明」なのではないか、という。

ちょっと前に書いたように、いまの世界の人間が「食物」だと思って口にしているものは外形だけが伝統的な食べ物に似ている「栄養も補給できて味覚に訴えることもできる食べ物に似た何か」にしか過ぎない。

身近なものでいえばマクドナルドのチキンナゲットが半分だけが鶏肉であることは有名だし、2つ(日本の数え方で言えば4斤)で二ドルのパンなど、説明がなくてもどういう代物か想像がつくが、そういう食物の事情を離れてみても、社会は個人が個人として自足した精神でいられるためのサポートシステムから個人を部品として使おうとする日本や中国や韓国のような行き方と、個人同士が競争するためのルールが網羅されていて、ルールにさえ従えばなんでもありのサバイバルゲームのグラウンドになりはてたアメリカや欧州の国々のような行き方と、いずれにしろ、世界は、収穫が終わって刈り入れのあとが剥き出しになった荒野に似ている。

冒頭に自分の生い立ちについて(必要と思われるぶんだけ)述べたのは、きみの好奇心を満足させるためであるよりは、自分がこの、いまの世界という地獄を通行しなかったことを自白するためであると思う。
だから「自分がラッキーだったからって好きなこと言いやがって」という非難は甘んじて受けることにしよう。

だが、(たった)5万年前アフリカの小さな村に集住していたと考えられるいまの人類全体の共通の祖先は、かつては緑の沃野だった村が再び褐色の荒野に変わってゆくのを見て、たちあがって、細くかすかに途切れながら続く「緑の道」をたどって世界中に広がっていった。
かつて彼等を人間たらしめていた「沃野」の記憶だけを支えに氷に閉ざされたピレネーを越え、当時の筏とも言えない筏で海を渡ってインドネシア、さらにはオーストラリアに向かいさえして、人間は人間であることを取り戻そうとした。

人間には意匠として悲観的なもの言いをしたほうが知的にみえるという可笑しな癖がある。
だから世界中の賢げな人間たちが悲観的な未来を述べたがるのはあたりまえだが、現実の人間はいつも「賢い人間たち」の予測を裏切っていきのびてきた。

こういうと、きみは大笑いするだろうが、ぼくは、それは人間に「自分が幸福になりたい」という途方もなく強い欲求があるからだと思う。
この記事は日本語で書かれるはずで、日本は個人が幸福を願う本能を社会的訓練と習慣化されたサディズムによって圧殺することに長けた、「個人の部分化」が最もすすんだ社会をもっている。

だが社会というものは個人に較べて回復力をもたないということに気が付いているだろうか。
個人はどれほど痛めつけられても、たったひとつのチューンによって力を取り返し、世界と和解することを決意し、また立ち上がって緑の道をたどって沃野に至ろうとする能力をもつ。
社会は通常いったんシステムが固まってしまえば、そのシステムが環境に適応できなくなっても、現実から目をそらし、生起したことすら起こらなかったことにして、嘘に嘘を重ねて、ますます硬化して内部への圧力を強めてゆく。

顔をあげて沃野をめざす決心ができるのは、ひとりひとりの人間の5万年の向こうにある勇気だけであると思う。
個人に帰らなければ、この世界に沃野が存在することすら信じる機会をもたずに一生を終わってしまうだろうと思うのです。

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3 Responses to 沃野としての世界_1

  1. Rojas y Niña Pastori、これでポップなんですか?、て信じられないくらい深い物を感じますね。言葉は意味を越えた所にある。むしろ意味は言葉を理解する妨げになってしまう、みたいな。

    ついさっき見てたTV番組でフランス人カップルが金沢市内を観光する姿を見てて、ガメさんとモニさんが日本を観光してる時の姿を想像してしまいました。

    近現代にかけて日本は個人を抑圧する方向に社会の舵を切る事で西欧化(近代化)を急ぎましたけど、その抑圧の最中でさえ、個々人は自分達にとって大切な灯を守ってきて、それがそれぞれに異なる文化の所産として今日まで受け継がれて海外からも評価されています。

    歌い踊り世界と和解し、より幸福になる為に生きるなんて当然の事は日本人にも出来ていた筈の事で、歴史や習慣が捻じ曲げられた所産です。日本人だから「私利私欲を追ってはいけない」とか「何よりも全体の和を乱すな」とか、戦国時代以前を考えるだけでお笑い種でしかない事が判ります。日本語が真実を語れないのではなく、真実を語れない社会を作って維持してきてしまっているだけです。

    日本やその近海が健全な沃野に戻る事は数万年単位でもう無いかも知れませんが、私はまだ日本にもそこに住む人々にも希望を抱いています。

  2. iro says:

    ガメさんの言葉がすごく好きで、泣いたり笑ったりしながらこのブログの記事を読んでいます。
    なんでガメさんの言葉ってこんなに響くんだろう?って考えたんですけど、じたばたしながら生きているひとりひとりの人間が好きで(勿論その中にはガメさん自身も含まれていて)、その人たちがつくっていく未来を信じてるっていうのが伝わってくるからかなって思います。勝手な推測ですけども。
    いつもどこか希望のある言葉に惹きつけられちゃうんです。

  3. 眠り頭 says:

    「沃野の記憶」か。良いね。すごく良いね。

    この映像は以前、泉健司さんのツイートにリンクが貼ってあったものだけど、これを見ていると音楽というものが人間を媒介にして別の形に置き換えられた自然であるということが、僕のような音楽に対しての理解が無い人間にもよくわかる。

    この映像の最後の方に出てくる人々が音楽に合わせて踊り狂うシーンを見て僕は、春の到来とともに歓喜を爆発させたかのように若葉を芽吹かせる植物や、雨が降り出すと一斉に鳴き始める水田のカエル達、或いは夏の間中、力の限りに鳴き続ける蝉たちを思い浮かべた。

    こう云うとすごく素朴に聞こえてしまうだろうと思うけれど、音楽を奏で踊っている彼らは、普段、僕等を自然から隔離している精度の悪い受像機のような「言語」を超えて、自然、というか世界と一体化、或いは世界に寄り添える場所に到達しているかのような印象を受ける。 これがガメさんのいう「世界と和解する」ということなのかはわからないけど、僕にはこれもひとつの「沃野の記憶」のように思えるよ。

    (歌詞のない)音楽や踊りは抽象性が高い分、肉体的でより記号や象徴から自由でいられるから、音や身体の動きの中に世界に繋がる回路を保存しやすいのかもしれないね。

コメントをここに書いてね書いてね

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