Sarteano

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Umbriaから国境を越えてTuscanyに入ると、突然土地のたたずまいが商業主義的になって、並んでいるオリブの木の一本一本までが「ぼっちゃうぞおおー、にひひひ」と囁いているように見える。
日本で言えば群馬側から国道18号線で軽井沢にはいるというか、熱海みたいちゅうか、そーゆー感じです。

Sarteano
http://it.wikipedia.org/wiki/Sarteano
でお昼ご飯を食べたら、アメリカ人だらけだった。
ドアのところにミシュランの一つ星だかなんだかが付いていたので、もしかするとアメリカ人向けのガイドブックに出ているのかもしれません。

でっかいラビオリに炒めたトマトのソースがのっかってるのと、ビステカ・デ・マヤーレを食べたが、それぞれ€7.5と€7で、いかにワイン熱海といえど、たとえばレオーネ広場があるフィレンツェの川向こう(観光地でないほう)のレストランストリートよりはだいぶん安い。
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フィレンツェならば、たぶん、€12と€10。
銀座ならば同じくらいのものを食べて、
ラビオリは1400円(但し量は半分)、ビステカ・デ・マヤーレのほうは量も同じ200グラムの豚肉で「鹿児島県産黒豚です」という能書きがついて3200円くらいではないだろーか。
それにテーブルワインの赤と炭酸水でモニとふたりの分で€37だったので、まあ、そんなもんかなあーという昼食代だと思われる。

マジ田舎のUmbriaと異なってTuscanyは、なにしろ世界中からイタリアにやってくる観光客の一大目的地なので、超巨大ホテルが通りに軒を並べている。
おおきなバスを連ねたドイツ人やアメリカ人がぶいぶいしている。
イタリアでは「オカネのある観光客」と言えば、おおきな町のフィレンツェやローマ、ミラノでは中国人、田舎ではドイツ人とアメリカ人と相場が決まっているが、
その通り、絵に描いた通りで、道を歩いていると、あるいはスーパーマーケットで飴っこを買っているとドイツ語やアメリカ語がたくさん聞こえてきて、観光地だなああー、儲かってるなああー、と考える。

アジアの人の顔は朝から晩までひとりも見ないが、銀座やなんかのレストランでレストラン協賛の「トスカナのビンヤードめぐり」なんちていっぱいパンフレットを置いてあったのを思い出すと、8月くらいになれば、日本の人がいっぱい乗ったバスも現れるのではないだろーか。

Lazio
http://it.wikipedia.org/wiki/Lazio
の田舎やUmbriaではアジア人はおろか、他の国から来た欧州人もあんまりでくわさないので、Tuscanyは国際的で、ひらけておるのおー、と感心します。

国境を越えたばかりのChiusoにしてからが、もうTuscanyぽい、というか、イタリアの田園カッコイイでしょう? オカネ頂戴ね、ね、ね、という雰囲気がばりばりに感じられて、なんとなく、オカネ使わないと悪いよねー、という気持ちにさせられるように出来ている。
使わないけど。

州ごと集金装置然としたTuscanyではあっても、田舎は田舎で、イタリアの田舎道ではあちこちで走っている、というか歩いているというかの50cc軽トラ Piaggio Ape
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の後にくっついて、50ccエンジンなのに車体と荷台があるというだけでも、最高時速30キロの低速が保証されているのに、イタリアでは二人乗りのモデルまであるので、そうすると時速20キロ出ればいいほうのクルマの後をのおんびり走っていると、イタリアの田舎にいるのだなあ、としみじみと感じる。

(そのまましみじみとしていると夜になっても宿に帰りつかないので、追い越すことになります)

カタルーニャでは昔ながらのマーケットがバルセロナのような都会でも町のそこいらじゅうにあるが、イタリアではマーケットがおおかたスーパーマーケットに駆逐されている代わりにスーパーマーケットで売っているハムならハム、ソーセージならソーセージの品質がカタルーニャよりも高い。

町も、イタリアもローマより北になると、カタルーニャですら免れないスペインのあの、(わしが大好きな)チョーだらしない、ねろおーんへろおーんな感じがなくなって、ばりばりにマジメになる。

日本での日本の人が笑い話にして嘲るような「怠け者のイタリア人」のイメージは、どこから来たのだろうか、と前に調べたことがあったが、むかしむかしイタリア移民達が初めてアメリカに大量にやってきた頃に、アメリカ大陸で「エスタブリッシュメント」をこいていたアングロサクソン達が、「勤勉で優秀なわしらアングロサクソン」対「怠け者で食べ物と女しか考えないイタリア人」という偏見を発明して、それを白人社会全体を物陰から息を潜めるようにして観察していた日本からの留学生たちが日本に戻ってからおもしろおかしく、まるで自分がアングロサクソンと同じ場所にいたかのように仮定して伝えたもののよーでした。

現実のイタリア人は、このブログにも何度も出てくるように、頭痛がするくらいマジメで、集団作業に長けている。
しかもわしの観察によれば、極めてせっかちで、夕飯を食べるスピードなどは、多分欧州一の高速であると思われる。
わしの主観では日本人よりも速いと思います。
コースで食べてものの30分くらいで食べてしまう。
モニとわしはイタリアで昼ご飯や夕ご飯を食べるときには、「チョーゆっくり持ってくるよーに」と席につくなり厳命するのを習慣とする。
それでも、おもいがけないほど速いタイミングでもってきてしまうが。

道路でも辺り一面不思議の国のアリスのうさぎさんがピョンピョンはねて、ときどき懐中時計を取り出しては「ああ、急がなきゃ。たいへんだ、急がなきゃ」と言っているようなもので、やたらと追い越しをする。
普通の国では対向車が向こうからくるのが見えているときに追い越しをしたりしないが、イタリアの人は恐ろしいことに対向車が迫っていても、車線にやや余裕があって、対向してすれ違うクルマとクルマのあいだに隙間があると見ると、そこに突っ込んでくる。
当然の帰結としてサイドミラーがふっとんでしまったり、あえなく衝突して、くるりんとまわって道路の端に投げ飛ばされたりするが、国民芸というか、一向に改善されないよーです。

橋下徹市長の「大阪市長である私は沖縄の女性の怒りを代弁しています」「日本人は他国の女性の権利を心配しています」と聞こえる長口舌は、旅行中はテレビも新聞も見ないのでイタリアではどんな反応があるか判らないが、昨日、Lago Trasimenoにでかけたときに寄ったバールで見た新聞には何も載っていなかった。
ニュージーランドでもニュースにはなっていなかった。
イギリスでも普通の人間にとってはニューズにはなっていないが、残念ながら日本の人が考えるよりも遙かに少数だが「日本に関心がある人」は、BBCの小さな「アジア」記事
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-22666899
に目をとめた可能性はあるでしょう。

橋下徹大阪市長は本来、主張どおりならば、この記事で言えば
「Some 200,000 women in territories occupied by Japan during WWII are estimated to have been forced to become sex slaves for troops」
という部分に、彼自身が大好きな言葉でいえば「しっかりと」反論しなければならなかったが、どういう理由によるのか、あるいはほんとうはデータが見つからなかったのか、それはかなわなかったもののよーでした。

傍らでみていて、この橋下というひとは面白いなあ、と思うのは、片方で「アメリカ人たちに風俗産業を使えとすすめた」ことを認めておきながら、もう一方では「女性を利用したことは世界各国が過去を直視しなければならない」と言ってみたりするところで、他人に「風俗に行けば」とすすめるような性的にだらしがない、卑しい心根の人間が「世界の女性の人権」をマジメに心配したりするわけがない、という文字通り子供にでもわかる常識が、このひとには欠けていることであると思う。
世界のすべての事象は頭のなかでつくりあげる理屈のための部品で、理屈と理屈を組み合わせて自分が描いた絵にあうように見えればそれが現実そのものなんです、と考えてすましている癖のある「日本語人」が冒す過ちの典型で、日本語世界のなかではこのやりかたは万能でも、日本語から一歩でも外に出てしまえば、そこで行われている思考には人間が長いあいだに営々と培ってきた「常識」というものの厚い壁があって、頭はいいがなぜか本質的に人間性に欠けるところがある子供が自分を尊敬させるために夢中でつくりあげた自分では万全なつもりの精妙な理屈が、「絵に描いた理屈」とまるで異なる「常識」というものの鏡に照らして現実をみることに慣れているおとな達に冷笑で跳ね返されて途方にくれる、目に馴染みのあるシーンを、日本の大阪市長は、また繰り返してみせてくれたのだと感じる。

ほんとうは、橋下市長が自らの政治的野心のために使ってみようと考えたらしいこの問題は、自分達への歴史的社会的な抑圧に苦しんできた女達の視点からしかうまく考えることは出来るわけはない。
橋下市長のみならず、「慰安婦の認識は論外だが、戦争と性の切っても切れないやむをえない関係への認識には一理ある」という戦争の神様でも腰をぬかしそうな感想を述べて、そのうえに自分が何を述べたかの自覚もない社会の反応を眺めていると、この問題の舞台の裏をとおって向こう岸に出て、女の立場からすべてを見直してみよう、あるいはせめて、自分の肉体の内部に仮想された暴力を突き立てて自分の肉体と魂を「消費」するために何十人という男が自分が監禁されている小屋の外に列をなして立って談笑しあっている声を聞いている若い女の気持ちを想像力によって復元してみる、地獄の底でさいなまされる自分自身の肉体を冷ややかな目で見続けることを強いられた女びとの気持ちを社会として想像してみる、などという考えは夢もまた夢で、人間はどうして頬を殴られ踏みつけにされたものの肉体や心の痛みに耐えかねた低い、しかし明瞭な苦しみの呻きよりも、奇妙なくらい明快な調子の空虚な正義の言葉が好きなのだろう、といういつもの問いにもどってきてしまうのです。

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2 Responses to Sarteano

  1. Roki says:

    ガメさん、僕は沖縄出身なのでFacebook上で沖縄の友達がたくさんいます。
    この前(2日または3日前)米兵による女性への暴行事件が起こりました。それがニュースになっているかどうかはわかりませんがFacebook上でシェアされて付近の女性に注意を呼びかけていました。その投稿へのコメントには「米兵は道端で女性を襲うぐらいなら風俗へ行けばいいのに」という女性からの意見が少なからずありました。そしてそういうコメントの多くは橋下徹に賛成、または感謝の意を表しています。彼女らは自分たちが襲われるかもしれないという恐怖に目を向けてくれた橋下市長に感謝しているのです。外の世界からどう見られても、沖縄で暴行に怯えている女性たちの間では、この見方は変わらないと思います。ガメさんや他の人々はもちろん、僕が立っている視点も「外」のものですが、「外」から非難されることでも「内」からは感謝、ひいては英雄視されることもあるということを知って頂きたく、コメント致しました。

  2. spacenoid says:

    ガメさん、おはようです。
    トスカーナにおられるのですな。イタ飯うまそうです。
    Firenzeには行った事ありますよ。でもおそらくガメさんが生まれる前くらい昔の事ですがね。
    イタリア楽しんでくださいな。そしてここでおすそ分けして頂ければ、尚よろし。

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