Monthly Archives: June 2013

豊かさ、はどこへ行ったか?(その3)

オーストラリア人はaggressiveなのが欠点というが、そのシドニーのタクシー運転手は訛から考えて一代目のギリシャ人移民であるのに、たいそうaggressiveで、その点ではもうすっかりオーストラリア人なのだった。 目にみえるものすべてが気に入らないとでもいうように悪態をつきまくっていたが、オーストラリアの生活、ということになると、神経が昂進してしまって正常にもどらなくなったといえばいいか異常な興奮状態になって、こんなクソみたいな国が世の中にあっていいのか、この国の奴はどいつもこいつも頭がわるいクソだ。 知ってるか?おれはオーストラリア政府に騙されてこの国に移民してきたんだ。 なあああーにが「ランド・オブ・プレンティ」だふざけやがって。 犬のおしっこでももう少しマシな、ぬるい薄気味悪いコーヒーに500円とってヘーキなくらいこの国のバカどもはクソである。 知ってるか? オーストラリアの政府は中国人に買収されてんだ。 ほんとの政府は北京にある。 あっ?中国野郎達の首都は上海だっけ? まあ、どっちでもいいや。 あいつら中国人は、それで北京や東京からやってきて、オーストラリアをそっくり買い占めて、中国野郎のうすぎたない顔を通りにならべようっていうんだぜ。 知ってるか? おれの家は買ってから値段が3倍になっちまった。 「よいことでないの」とわし。 「よーいことのわけがねんだろがっ!」と興奮して英語が崩壊しつつある運転手。 お客さん、おっまええ、ばっかだなあー。 だって、おれの家だよ? 売ったらおれはどこに住むんだよ? 不動産の、税金があがるだけで、おれは損しかしねーんだよ。 「なるへそ」 ギリシャ人運転手おっちゃんは、そのまま、ずううううっと興奮していて、オペラハウスからボンダイビーチに着く頃には、哀れな運転手おっちゃんは、かなり凶悪な人相に変わっていた。 オーストラリア人が呪詛する不動産価格の高騰の背景には、たしかに「チャイナ・マネーの流入」が含まれている。 地図でみるとおおきな国だが、オーストラリアはなにしろ(主に水の不足のせいで)南側のへりっこ沿いくらいしか住めるところがなく、経済的にはまったくの小国なので、ちょっと中国からオカネが流れ込んでくると、ちいさなちいさな居住不動産市場は、どんっと跳ね上がってしまう。 中国はインターバンクレートの急騰が話題になったばかりだが、オーストラリア人やニュージーランド人の視点から見ていると、他にももっと不審な点がいろいろある。 「オーストラリア人やニュージーランド人って、あんたねえ、いまの経済は世界的なものなんだよ。そんな視点あるわけないだろ」と怒る人が出てくると困るので説明すると、 不動産の騰がり方がヘンで不動産人と話してみると中国人たちの土地の買い方が「ヘン」だからだという意味です。 もうひとつはニュージーランドやオーストラリアで中国人の「富豪」たちと話してみて初めて判る事実、ということもある。 オーストラリア人たちは大量のカネをもってやってくる中国人たちについて、ほとんど値踏みというものがなくて、まるで国ごと沈没するのがわかっていて救難艇に乗って逃れてくるひとびとのようだ、と異口同音に述べる。 なんだか息せき切って高級住宅を買い漁っている。 4年前には、シンガポール人たちが同じことを述べていた。 自分達の会社の投資団にくわわった中国人たちを案内すると、なにを見ても価格を聞いて「安い!安い!」と連発する。 なにがなし、バカにされたような気になって、セントーサに近い新しいコンドミニアムを見せた。 「いくらか?」と聞くので、待ってましたとばかりに「一戸、二十億円ですね」というと、びっくりしてしまっている。 なはは、驚いたか、田舎者め、と思って溜飲を下げていたら、 「そんなに安いのか!じゃあ、おれと娘用にふたつ買うから、購入を手伝ってくれ!」 と言われたそーでした。 その頃は「中国人は富が偏在しているので、金持ちはバカガネモチであるな」と述べていたが、最近は、どうも様子がヘンである。 こういうことをブログ記事で詳しいことを書くバカはいないし、いままでもうっかり書いて、知ったかぶりのヘンなひとが説教をしにあらわれるだけでよいことはなかったので書かないが、市場の底が抜けるのではないか、と思われる徴候がたくさんある、というよりも中国人たち自身は、はっきりとそう思っているように見える。 中国の経済が実は歴史的には日本経済の模倣とみなせることは前にも書いた。 チョー大雑把に言うと日本の経済をまねてつくりだした自由社会風の統制経済がシンガポールであり、そのシンガポール https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

「分解された光」のような幸福について

1 子供のとき、メイドが必要なオトナになりたくなかった。 祖父は良い人だったが、なにも自分では出来ないひとだった。 卓上の、小さいわりにびっくりするようなおおきな音がするベルを振って使用人の誰かを呼ぶ。 ガキわしはいつもそれをとても「かっこわるい」ことだと思って眺めていた。 ワイングラスをいくら洗っても曇りが残るのにモニが洗うと魔法を使ったように綺麗になる。 どうやったらそんなに綺麗になるの?と聞くと、「ただふつうに洗うだけです」という。 でもわしが洗ってもモニが洗ったように綺麗にはならない。 そーゆーことはあるが、汚れ物の洗濯にしろ、(手でする)皿洗いにしろ、部屋の掃除にしろ、自分でやってめんどくさいと思うことはない。 かーちゃんと妹とわしと3人で並んでTシャツの「あっというまにたためるたたみかた」を習ったり、洗剤をどんなに使ってもおちない汚れがお湯を使えば落ちるのを教わって、「Mr.Hotwaterを讃える詩」を書いたり、 洗濯物があっというまに乾く(しかも、すっごく良い匂い!)ので「太陽の母上様」にふざけて手紙を書いたりした。 自分の身の回りのことがなんでも自分で出来る生活は、とても快適で、人間が自由になるということはほんとうは「自分の世話が自分で簡単にできるようになる」というだけのことなのではなかろうか、と考えたりした。 「小さいひと」が生まれてからは、小さいひとの面倒を見る人に始まって、さまざまなひとがモニとわしの生活を手伝ってくれるが、なんだかつまらない感じがすることがある。 自分達の生活でないみたい、というか、会社みたい、というか、(読んでて気が付いたひとがいるかもしれないが)広尾でモニとわしを手伝ってくれていた(スーパー家政婦)Yさんも含まれていて、とてもすぐれたやさしいひとたちばかりだが、それでもイタリアの田舎で、農家の二階で、おなかがすいて、モニとふたりでありあわせのトマトとモッツアレラにバジルを載せてacetoをかけて食べると、なんだか、そっちのほうが「ほんとうの生活」であるような気がした。 子供ができれば夫婦らしくなるのかと思ったが、全然そんなことはなくて、モニは本を読んでるときに気をひこうとおもってほっぺをつんつんすると「やだ!」と言ってものすごい勢いでいやがり、もっと、頭をなでなでする(モニは、これをものすごく嫌がる)と、チョー怖い顔でにらみつけて、「ガメなんか大嫌い!」と宣言する。 わしは周知のとおり温和で成熟した立派なオトナだが、夫婦としては、まるでふたりの5歳児が、床にお尻をぺったりくっつけて一緒に生活しているものであるという意見もあるよーです。 だがダメ夫婦はダメ夫婦なりに、「自分達がもっと幸せになるためにはどうすればいいだろうか?」と考える。 料理のひとたちとかはモニの実家に帰ってもらって、料理は、また交代で自分達でやったらどうだろうか。 あんなに年がら年中手伝ってくれる人達がうろうろしていては、家中を素足でどたどたと走りまわって、ふたりで素っ裸でおっかけっこもできないし、このブログ記事の初期頃には何度も出てきた「悪いお医者さんと哀れな若い女の患者ごっこ」もできない。 考えなおさないとなー、と思う。 さいわい「クビ」というような恐ろしいことをしなくても、助けてくれるひとびとを、それぞれモニの実家とかーちゃんととーちゃんの家に帰ってもらうだけである。 旅にでることの最も良い点は、どうやっても生活が簡素になることで、この一ヶ月余、おいしいものがあっちの市でもこっちの店でも売っているイタリアを北上しながら、いろいろなものをモニとふたりで料理しあって、一緒に肩をならべて野菜をとんとん切ったり、ふざけて、アメリカの「鉄板焼き」シェフをまねて包丁で、モニが捧げ持つ皿にトマトを切り飛ばして並べたりして遊んだ(^^;) 人間は簡単に言うとバカなので、そうやって夫婦で遊んでいるときのほうがおもわず50億円儲かってしまったときよりも幸せである。 しかも、ふたりでひそひそと幸福をかみしめているときのほうがみなに祝福される瞬間よりも幸せであるような気がする。 2 人間の文明などは地球という星の表面に射した一瞬の影にしかすぎない。 宇宙の膨張と不可逆な老化の過程で起きた、お互いに遠く隔たった宇宙の数カ所で斉一的に起きた現象であるにしろ、ただ、地球という惑星だけで起きた気まぐれで孤独な現象であるにしろ、有機体が神経系をもつにいたって、やがてそれが集中して、中枢を形成し、意識を持つに至ったといっても、うまく言えないが、実はただそれだけのことなのだと思う。 意識は言語を生成すれば必然として思惟をもち、意識をもたない自然から独立したものとして己を意識し、昂然として死んでゆくことを学ぶが、しかし、それは無意識の物質が自然の破壊の力のなかで滅んでいくことと、どれほど異なることだろう。 ブッダというひとは風変わりなひとで、「自分がいま吹いていて頬をなでている風と本質的に変わらない存在である」ということに耐えられなかった。 享楽を捨て、愛情を捨て、富貴を捨て、幸福そのものを捨てて、彼はそれによって旅に出た。 彼の哲学者としての偉大さは、神などいないと一点のくもりもなく確信できたことにあったが、その一方で(矛盾したことには)宗教者として、神は天上から見下ろす父などではなく、一杯のミルク粥を差し出す娼婦のなかにこそ存在することを知ってもいた。 わしが知っているかぎり、ブッダは「神などいない」ということと「言語で考える人間にとっては神が存在せざるをえない」というふたつのことのあいだに矛盾がないことを知っていた初めての人類です。 神を信じなかった彼の宗教は「超越的存在」を必要としなかったことによってパウロが発明した宗教やマホメットが宣伝した宗教よりも本質的にすぐれている。 3 テラスでイタリア風のリネンのサマードレスを着た天使の絵を描いていたら、いつのまにかやってきて後ろに立っていたモニが「ガメ、明日はまた悪魔がいる島に行こうか」といって笑っている。 嫌ですよ、そんなことを面白がって悪魔がのりうつったらどうしますか、と返事をしながら、わしは、モニとわしが遭遇したカタルーニャの悪魔たちについて思い出している。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/23/悪魔の住む町/ そんなことより、明日はかーちゃんととーちゃんがいる家にでかけて、妹夫婦やかーちゃんシスターや義理叔父も交えてみなでのんびり昼ご飯を食べて、それから、ふたりで湖にボートを出して、昔のようにのんびりしましょう。 夏の太陽は強いが、東岸ぞいにボートをすすめて、木陰で休もう。 いつも静かなコモ湖の水面で、太陽は「分解した鏡」のように反射して、モニとわしをうっとりさせるにちがいない。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

正しいレミングの夕暮れ

1 ロシア人たちが帰って行ったので、また静かになった。 ウクライナ人とロシア人には共通した文化性として「思い込みの激しさ」みたいなものがある。 コロンバスみたいというか、バハマ諸島をインドと思い込んでしまうとフロリダがマレーシア半島に見えて、これを遡っていけば富貴の王国である中国にたどり着くはずだと思い込んでしまうところがある。 ロシア人たちにものごとを訊くのははなはだ危険なことであって、わしはイギリス人旅行者に、このガスオイルがディーゼルですよね?と訊かれて、いやそっちの緑色のノズルがディーゼルだと自信をもってこたえたロシア人郎党を見て慌てて走って行って気の毒なイギリス人夫婦に、そのガスオイルがディーゼルです、と訂正しなければならなかったことがある。 不思議なのはこのロシア人郎党はもう6年もスペインに住んでいることで、いったいどうやってクルマを爆発させないで6年間を過ごしてきたのかいまでも不明である。 もうすぐ7月なので、夏にコモの別荘にやってくるひとびとはほぼやってきたように見える。 かーちゃんととーちゃんの「山の家」は「チェルノビオ」という、わしがチョーボロイ「息子版山の家」を買ったところからは離れたところにある。 息子さん御夫婦は今年の夏はコモ湖にいらっしゃらないのですか?  いえ、息子たちはLのほうにおりますので、とかーちゃんが応えると、まあ、息子さんは、ずいぶん零落なさって、というような顔をされるようだが、旧世代の見栄の世界などわしの知ったことではない。 コモ湖は面白いところで、コモ湖にやっと頭を出しているような島にあるロカンダ(宿付きのレストランのことですね)の不思議な儀式は、昨日、なんであんなことをやるのだ、と思って調べてみたら、もともと島には悪魔が住んでいてとんでもないことばかり起こるので食事の前に「悪魔祓い」の儀式をしなければいまだに客達に対してすら取り憑いたり事故を起こして殺したりするので悪魔祓いをしなければ営業が出来ないのである。 けっけっけ、そんなん迷信にきまってるじゃんね、と思って調べてみると、ふたりの共同経営者のひとりは不可解な交通事故で死に、片割れも地元コモの伯爵夫人に刺されて死んでいる。 迷信を迷信と笑って受け流すことを許さないのが欧州というもので、実際にこの島は呪われているものであるよーだ(^^) 二回結婚して二回死別したせいで巨万の富を相続したアメリカ人のKさんは、わしの仲の良い友達だが、サンジョバンニの花火が終わった次の日にやってきた。 わしのかーちゃんと同じくらいの年齢の人だが、気が遠くなるように美しいひとです。 酔っ払うと「ガメは、わたしが旦那をふたりとも殺したと思っているのだろう?」というようなチョーあぶない冗談をいう。 そういうときにはライオンのような金髪をバサッとふって、さまざまな毒物の効果と遺留物質について滔々と論じたりする。 わしは、Kさんの傷つきやすい、やさしい人柄を熟知しているので、Kさんが自分の背中の後ろで陰口を利く、脳が半分しかない人間が大半の「上流社会人」たちをからかうために、自分についての卑しい噂を発明した人間たちをコーフンさせてやるために、最近になって勉強した知識だと簡単にわかる。 2 日本が戦争に負けたときに「階級社会」を完全に破壊したことは何と言ってもよいことだった。肝腎の貴族社会の元締めだった世界の歴史でも珍しいくらい無責任な王家である天皇家がマッカーサーの「ドンキ」の棚に並んでいそうな通俗的な貴族趣味のせいで生き残ってしまったのは日本の人のために残念なことだったが、聡明な国民性の日本のひとたちのことだから、早晩、あんな下らないものも廃止してしまうことだろうとは思う。 「無責任」と書いたが、それでは公平でないと言える。 日本の天皇家が「責任」という概念を持ったのはたった一代明治天皇があるかぎりで、他にはあとにも先にも存在しない。 天皇家における「無責任」がどういう伝統的な理由によるかは「調べる」というほどのこともなくて「承久の乱」について書かれた短い読み物を読めばそれで足りる。 普通の日本人の感覚で幕府方に追われて必死に逃げ場を求める元側近の西国武士たちに「おまえたちが勝手にやったことではないか。わたしの家に逃げてきては、まるでわたしが首謀者のようで迷惑である」と言い放った後鳥羽上皇の言葉は途方もなく人非人じみているが、落ち着いて天皇家の歴史を読めば天皇という存在にとっては「責任を認めること自体が最大の無責任」なのである。 種明かしは簡単で、歴代天皇の責任は「天皇家」に対してのみにあって日本人に対してなどはないので、日本人たちに対して自分の過失・責任を認めることは倫理的に酷い無責任にしかすぎなかった。 それはそれでよかった、といえばいいのか、「尊い者への畏れ」ということを理解しない西洋人にとっては「天皇家の不可侵な聖性」「現人神」などはただの日本に蔓延した未開野蛮な習慣にすぎなくても、それは一国の文化なのだから、尊重されるべきだということになって落ち着いた。 そのデタラメで突出した戦闘性ゆえに、わしが尊敬する年長の友人である内藤朝雄は今上陛下のファンである。 「偉大なわれらの天皇陛下バンザイ」というようなツイートがいくつも流れてきて苦笑させられてしまう。 どんな本や記事を読んでもなるほどアキヒト陛下は「善い人」であって、内藤朝雄が知らないことで誰もが感心しそうなことを述べれば、今上陛下は、若いときに昭和天皇夫婦と宮内庁の強い意向に敢然と反抗して、沖縄タイムスと琉球新報の二紙をとることに固執して結局周囲の失望を歯牙にもかけずに購読しつづけた。 顔を見ても、あのアキヒトという人の顔は極めて強い意志と善意をもつ人の顔であって、諸国の王族のなかでも、一生をすごすことによって、あんな立派な顔をつくってもちえた人はいないだろう。 個人としては極めて立派な人であることは、わしは違う理由によっても知っている。 しかし、それがなんだというのか。 福島第一事故が起きたのに誰も責任をとらないのだから、今度はもっと酷い事故がもういちど起きるに決まっているではないか、とツイッタで書いたら、日本人をやめてニュージーランド人になったわが友村上レイが、「責任をとらせる」なんていうことをガメまで言うのか、責任をとらせて何になる、とわざわざ書いてきて、いいとしこいて、なんというバカだろうか、移民局にちくって永住ビザとりあげたるぞ、と思ったことがあったが、「責任」という言葉の意味がまるでわかっていないとしか言いようがない。 「責任」という言葉を儒教的な個人徳目の違反に関わることとして見てしまうから村上レイのようなチョーバカなことが言えるので、責任とは(この場合には)社会的にシステムを究明して不良箇所を発見して繰り返させないためにある。 責任が糾明されない場合には、どうなるかというと、いまこの瞬間の世界中の人間が目撃しているように、南京虐殺はなかったことになってしまい、慰安婦はカネ欲しさに日本兵の男根の行列に向かっていっせいに股を広げて「戦争をすれば必ず止めがたく止みがたく自然昂進する」とたくさんの日本人論者が述べている加虐性性欲が暴力化する「自然事態」への「防波堤」になるヴァジャイナ・テトラブロックのようなものとなって、「結局日本人は悪くなかった」という世界中の人間におなじみになった日本人の「日本人はいつも正しい。お前がわるい」歴史観にたどり着くことになる。 ほんで、どうなるかというと、なんのことはない、そんなに遠くない将来に「日本人はもういっかいやる」に決まっているのだと思う。(ごみん) 新大久保の愛国者達のデモの英語動画を見て、わし友達は「ガメは徴候がでてくるのは2025年くらいからだろうとゆっていたが、もう始まってるじゃん」と言ってきたが、責任を認めないということは結局ああいうことなのであると思う。 皮肉ないいかたをすれば、この日本人が破滅にむかってレミングのように行進する「破滅への道」を切り開いたのはダグラス・マッカーサーであったと思う。 彼は、あのいかにもアメリカ人らしい安っぽい貴族趣味で昭和天皇が「私がすべての責任をとります」と言ったという彼らしい好みの一場の英雄劇を仕立てることによって近代日本から「責任の追及によって社会を正常に戻す」という機能を奪ってしまった。 昭和天皇が日本に貢献できるゆいいつの道であった「自らを死刑に処する」という英雄的な死を彼から奪ってしまった。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

ピエモンテの畦道

アウトレットへは意外に遠くて片道で100キロ近くある。 運転しているのはウクライナ人のAで、助手席にはAの奥さんLが座っている。 情報工学に進路を変えて修士号を取る前はダンサーだったAが運動神経抜群でクルマの運転が上手なのは経験から判っているのでモニとわしは後部座席でのんびりシャンパンを飲んでいる。 イタリアのドライバーは相変わらずで、状況に関係なく反対方向車線を突進してきたり、一時停止のはずの脇道から飛び出してきたりするが、Aは持ち前の反射神経で、悪態をつきながら、それでもモニとわしが安全と感じる巧さで運転してゆく。 ミラノ空港を過ぎてしばらくするとピエモンテにはいった。 ロンバルディアとは打って変わった美しさで、へえ、と思います。 美しい田園風景を見たとたんにバローロという人口500人に過ぎないイタリアでも最小の「コムーネ」がピエモンテにあるのを思い出した。 ワインで有名な村で、イタリアのワインの代名詞のように思う人もいる。 しばらくして両側が森林になると、風景はモニの母親の別荘が立つ湖のあるパリの郊外に似てくる。 ウクライナ人夫婦が嘆声をあげるので、「どうしたんだび?」と聞くと、 「ウクライナにそっくりの風景なんですよ、この道」という。 ウクライナと聞くと一面の麦畑のところどころに油井があって、道路の脇に3号戦車のまだ煙をあげている残骸が点々としているというドアホな風景しか思い浮かばないわしは、 へえええー、という気の抜けたマヌケな相づちを打つのがやっとである。 コモのあたりではあまりみかけない広大なヴィンヤードやオリブの林がみえて、ピエモンテは結構綺麗な土地だのお、とモニに述べていると、びっくりしたことには広大な水田地帯がみえてきた。 初めは半信半疑だったが、少しいくと道の両側に水を満々と張った美しい水田の広がりがすぐそばに見えて疑いの余地がない。 まるで、日本のようだ、とモニがつぶやいている。 日本になど、これっぽっちも関心がないウクライナ人夫婦は、「日本は米しか作物がないって、いいますものね」という。 それに日本の農民には移動の自由がない、とAの奥さんのL、いや、それとも選挙権がないんだったっけ?というとAが運転しながら、移動の自由はあるよ、たしか選挙権が与えられてないんだよ、と応えている。 ここは日本に似ているなあ、とふたりの会話を遮るようにモニがいう。 わしも、ほんとうに似ている、という。 ウクライナ人夫婦がびっくりしたように、「日本て、こんなに綺麗な国なんですか?」と振り返って聞いている。 畦道をひとりの老人が歩いていくのがみえる。 小さくて、腰をわずかにかがめていて、日本のひとのようです。 ひょこひょこといえばいいのか、人形のような歩き方といえばいいのか、 歩き方まで日本のひとに似ている。 あのひとはフクシマの事故をどう考えただろう? と唐突なことを考えた。 どうとも思っているわけはなくて、フクシマのことを知っているかどうかも怪しいが、しかし、イタリア人だけは、そう思ってくれていなければいけないような(というのは言い方がヘンだが)気がしたのは、ついさっきのウクライナ人たちの選挙権や移動の自由への誤解が頭に残っているからでしょう。 ミツバチの巣箱が見えたところで、ウクライナ人夫婦が、ウクライナの蜂蜜がいかにうまいか話し始める。 モニがイタリアの蜂蜜もおいしいぞ、種類も豊富で、わたしはエミリアロマーニャでchestnutの蜂蜜を生まれて初めて食べた、と述べると、英語が得意のウクライナ人夫婦であるのに「chestnut」が判らない。 castagnoのことだよ。ロシア語ならкаштан というと、「ああ、カシュタン!」と言って喜んでいる。 あれから蜜がとれるなんて知らなかった。 ウクライナ語でもほぼ同じという。 ウクライナは面白い国で500キロしか離れていないのにAはロシア語で育って奥さんのLはウクライナ語で育った。 そうであるのに、あるいはそうだからなのかもしれないが、Aはロシアが大嫌いで奥さんのLは「ロシアにもいいところがある」という。 アウトレットはウクライナ人夫婦とロシア人たちの希望なので、モニとわしはモカ(エスプレッソをつくる伝統的にはアルミ製の器具のことです)の専門店とモニの靴をみたりして1時間足らずを過ごしただけで、残りの二時間近くをアウトレットのなかのカフェの通りに面したテーブルに腰掛けて、アウトレットでこんなにすごい人出はアメリカでもどこでも見たことがない、と言いたくなるような数の人間でごったがえす通りを眺めていた。 「イタリアの人は小さいのお」とわしがおもわずつぶやくと、モニも不思議がっている。牛乳が不味いからかな、と言うとモニが「ガメはまたすぐそういうことをいう」と言って笑っている。 男も女も小さなひとがおおくて、なんだか日本の人達を見ているような気がする。 実測してみると、もしかすると日本の人よりも平均身長が小さいのではないか、と思うほどである。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 3 Comments

麦わら帽子の思考

1 家庭内の「おかあさん」の地位が高く社会が母親を尊敬している国では一般に社会における女性の地位は低い。 日本で赤ん坊という「邪魔者」をつれた若い母親をいいとしこいた男がチョー下品な表情でにらみつけたりしたりするのは日本でも女びとの権利が高まる前兆だろう、と冗談を言ったらモニに怒られたことがある。 イタリアはおもしろい国で父親と息子のふたりづれで旅行しているのや母親と息子、母親と娘、父親と娘の組み合わせで旅行しているのにもよく遭遇する。 ニュージーランドならば父親と息子が一緒に狩りや釣りにでかけることはあるが、旅行するのに息子を連れて行く、という父親は少ないだろう。 旅行は夫婦あるいは友人同士でするもので、娘と母親を家に残して父親と息子がクルマで旅行して歩く、というのは想像するのがちょっと難しい気がする。 フランス人と結婚して、20年住んで、フランスの生活にも慣れ、友達も出来て、週末のパーティをこなし、子供もおおきくなって、というところで夫が死んだら、友達が寄りつきもしなくなって、パーティに呼んでも一向に「長年の友人」であるはずのひとびとはあらわれず、自分は夫の付属物にしか過ぎなかったのか、と失望落胆するという話はフランスの(特に)外国人社会ではよく聞く。 イタリアではどうだろう、と考えることがよくある。 あっさり「イタリアでも同じですよ」とイタリア人の友達に言われたことはあるが、このひとはいわゆる「上流社会」のひとなので、社会の一般的傾向をつかむためにはまったくあてにならない。 世界中どこでも上流社会人は薄情なものと決まっていて、しかも国民性の反映がもっとも薄い社会層だがらです。 湖水に面したテラスに座って意地汚く巨大なジェラートの塊をつついていたら桟橋にチャーターのスピードボートが近づいてくる。 英語圏ではcabrioletと呼んだりする。舳先にU字型のベンチがついているタイプのデーボートである。 http://www.tristramboats.com/cabriolet-models/690-cabriolet/ イタリアの人のなかには物腰仕草がびっくりするほど日本人に似ているひとがいるが、ボートの若い衆に助けられて「えっこらせ」と下りてくる70代くらいのばーちゃんと40代くらいのおばちゃんの親子らしいふたりづれを見て、「あっ日本のひとだな」と考えたが、顔をみるとイタリアのひとびとです。 ボートの乗り降りというのは意外と体力を必要とするので40代のおばちゃんはともかく、でっぷり太った70代のばーちゃんのほうは角度を変えてみたり後ろ向きに降りようとしたりするが、ボートチャーター会社の若い衆ふたりの手を借りてもたいへんそうで、桟橋に下りる努力を観察している課程でばーちゃんのでっかいパンツという見てはいけないものまで見てしまって失礼なことになってしまった。 ところで舳先のカウチに座ったままばーちゃんの旦那さんとおぼしき男人は動きもしない。 なんでだろー?と思ってみていると、若い衆ふたりに促されて、やっと、よっこらしょと腰をあげておる。 なんだ、やっぱり下りるのか、と安心する、わし。 ここでじーちゃんがおりないとするとボートはたしかにチャーターなのでいろいろと説明がつかなくて困るのです(^^) ところがじーちゃんは上背がデカイ上に太っているので、若い衆ふたりがかりでもたいへんで、クレーンを呼ばないとダメそうな困難な状況がみてとれた。 悪戦苦闘七転八倒で、第一イタリアの桟橋というのはコモ湖に限らずええかげんというか年より向けにできていなくて桟橋とボートのあいだにおおきなギャップができやすいので、フェンダーがでかいこともあって下の湖におっこちてしまいそうである。 ばーちゃんと娘も心配しているべなああー、と思って、ふたりのほうを見ると、豈に図らんや、ふたりはとっくのむかしに岸辺にあがって、折から開かれているマーケットの洋服屋に盛んに質問している。 じーちゃんのほうは振り向きもしません。 わしは足柄山の金太郎を日立製起重機でパワーアップしたくらい力持ちで、ボート上でバランスをとるのも慣れているので桟橋までおりて手を貸してやるっぺかなあーと思ってモニの顔をみたところで、じーちゃんも必死に足をばたばたさせたりした不屈の努力の末に桟橋に降り立った。 下りてみるとじーちゃんがボートを下りるのに悪戦苦闘するわけで、歩くのにも杖を片手にゆっくりとしか歩けないのです。 桟橋をやっと歩いていって、階段の前まで来て、手すりなんて滅多についていないイタリアの古い階段はときどき無慈悲に一段の高さが高いが、その階段の前でたちすくんでいる。 若い衆のひとりが、ボートをとびおりてダッシュで走ってきて、じーちゃんが階段をあがるのを支える。 ばーちゃんと娘は気付いてもいないというか一瞥もくれないで、ふたりでドレスを手にとってひそひそと話し合うのに夢中である。 じーちゃんが開始以来およそ5分の激闘の結果、ボートを下り階段をあがってふたりに追いついて話しかけると、「あら、あなた、まだ死んでなかったの?」という風情でばーちゃんがふりかえって、なにごとか話しかけている。 うーむ、と呻く、わし。 イタリアのおかーさんは夫に冷たいのではないか。 なんだか粗大ゴミと言われる極東某国のようなおとーさんの扱われかたである。 一緒に眺めていたモニは、「あのおじーさんはきっとずっとプライドが高い夫として生活してきたので、自分が弱いところをひとに見られるのが嫌なのに違いない。奥さんと娘さんは、それを熟知しているのでわざと無視していたのだろう」と述べたが、ほんとうかしら。 長年の「女としての抑圧されてきたことへの恨み」が感じられる。 男がやりたい放題であることで欧州ではギリシャとならんで有名なイタリアだが、ほんとうは年をとってから静かに復讐される夫のホラーストーリーが豊富に眠っている社会なのかもしれません(^^;) 2 マーケットの帽子屋台でイタリア式の麦わら帽子を買った。 どこにでも売っている、安い、使い捨ての麦わら帽子です。 表に帽子を出したままで誰もいないので、奥のキャラバンとテントに向かって、 「ボンジョルノ!」と大きな声で呼びかけてみると、店のひとが出てきたが、このひとが、わしの日本人友達のミナにそっくりのひとだったので、わしはびっくりして涙がでそうになってしまった。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

闇に目をこらす

1 コモ湖といってもいろいろな場所がある。 モニとわしが買った家は湖のまんなかくらいのところにあって、別荘はあまりないただの村です。 5軒ほど離れた家にはドイツ人の家族が住んでいるが他はイタリアのひとたちで、しかも一年中ここに住んでいるひとたちである。 朝、散歩すると道行く人がみな「ボンジョルノ!」と挨拶してゆく。 庭で野菜の世話をしているおばちゃんも曲げていた腰をのばして「ボンジョルノ」と述べるし、裸の上半身を窓からのぞかせているおじちゃんも「ボンジョルノ!」という、いうだけでなく子供のようにちぎれそうな振り方で手をふるところがたいへんイタリア的である(^^;) 急な坂の狭い道がおおいのでベスパを買おうと思ったらモニに「ダメ」と言われた。 運動になりません、という。 運動は走ればいいんではない?というと、走るよりも散歩のほうが運動としてかっこいいと思う、という。 モニが言うと、なんでもそっちのほうが正しいような気がする。 だから急坂をくだり急坂をのぼる。 やってみると一日でなれて、なるほどベスパよかこっちのほうがいいや、と思う。 普段の買い物はMenaggioへいくが、昨日は火曜日だったのでLennoの市にでかけた。近在の農家やなんかが出店してモッツアレーラやぶどうやいちご、パン、なにによらず実質的な買い物ができます。 スーパーマーケットよりも安いし、品質は遙かによろしい。 日本でもマーケットが出ると楽しみにでかけたが「縁日」のようなものは行ってみると、やくざっぽいおにーさんやおじさんが全然やる気のないタコ焼きや焼いたトウモロコシを売っていて、ひどくがっかりすることが多かった。 マーケットは本来、地域のひとが買い物を楽しみに出かけるもので、たとえば佐久穂のマーケットならば東京の原宿のブティックが出店している洋服の店や、上野の韓国料理屋のチヂミ屋台、東京や大阪の先端ファッションの卸屋さんをまわって売り主が自分のセンスを賭けて買い付けてきた服というような店が並ぶべきなのに、ふつう自分達の町で売っている商品よりも遙かに質が落ちる品物を「土地の区割り」に利権があるというだけで見ていて恥ずかしくなるような態度で店をかまえ、土地の日本のひとも警察も違法な状態全体を合法化したような奇妙な空間を支持している。 イタリアでも「これは下っ端マフィアだびな」という出店はあるが、少数で、土地の人と話をしてみると、やはり商売不振で年中店が変わっているよーでした。 Lennoでmozzarella di buffalaを買って、モニはいかにもイタリアらしいサマードレスを三つ買った。 イタリアの女のひとは、びっくりするほど小さなひとが多いが、コモ湖にはスイスやドイツからおおぜい観光客が来るのでイタリア人と較べれば背がありすぎるモニさんにも買えるサイズがあるよーだ。 2年前に来たことがあるレストランに寄って午ご飯を食べたが、コモ湖では初めて見る中国のひとびと、より正確にいえば中国系アメリカ人の大家族がいて、行儀のわるい子供が驚くべきことにドイツ人夫婦のテーブルのすぐそばに立って彼らのテーブルの食事を見てる。 無礼を怒ったドイツ人夫が顔をそむけていたと思ったら極めて厳しい言葉で子供をしかりつけている。 それを眺めていた中国家族祖父母が今度はドイツ人夫婦をずっと睨み付けている。 全体が、なんだか見ていて恥ずかしくなるような動物園じみた光景です。 一部始終を見ていた隣のテーブルのフランス人の夫婦がモニに向かって「アジア人が来るようになれば必ずこうなる。人間でないものたちがうろうろするようになるのではコモ湖ももうすぐ終わりね」とフランス語で述べたので、わしはいきなり憂鬱になってしまった。 タラのリゾットは塩が多すぎたし、ポモドーロの海鮮スパゲッティはおいしかったが平凡だった。 帰りの支払いのときに「前のはなひげのシェフのおっちゃんはやめたのか?」と訊くと、いきなり若いシェフを呼んで挨拶させた。 もう戻れないよねー、と悲しい気持ちで考えました。 間が悪い日、であるだけなのかも知れないが。 2 中世の町を歩いてしみじみと考える事は、「われわれはみないなくなるのだ」ということです。 人間などは太陽に照らされれば蒸発する儚い影のような存在にすぎない。 千年、というような時間を経た石畳の狭い道を踏みしめて歩いて行くと、考える必要などなくて、ただ歩をすすめるだけで実感される。 この階(きざはし)の下にたたずんでいた美しい女や、石作りの建物の高い窓の向こうに住んでいたカップルも、旅の商人も、オーストリア人もイタリア人もスイス人も、繁栄したものも零落したものたちも、みな肉体の法則に従って消えてしまった。 いま石畳を右往左往して あるいは得意の絶頂になり、あるいは失意の底に沈んでいるひとも等しく、ただ地表にさした影にすぎなかったとでもいうように死んで消えてゆくに違いない。 曾祖父が友達と話していて、やや新しいものを毛嫌いする傾向のある曾祖父の友人が、「自分はどうしても中東人やアフリカ人やアジア人は好きになれない。少数なら親切に接することが出来るが、数がこんなに増えてしまうと、なんというか、不安になる」と内心を告白すると、 「ひとは来るが去ってゆくのさ」と応えた。 ガキわしは「しかしアジア人たちは去るだろうか。それがこの国にとっていいことにしろわるいことにしろ定着するのではないか」と曾祖父の意見を訝ったが、いま考えてみると、曾祖父は区々とした異文化人のことを述べたのではなくて、人間という存在そのもののことを述べていたのだと判る。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 7 Comments

明日があるさ

日本は2050年にも独立国でいたければ対中国戦略に全力をつくさなければならないし、そのことに集中力をもたなければならない。 極端ないいかたをすれば世界中の日本に興味がある外国人が知っていることで、日本人だけがぼんやりとおもいうかべることなのかもしれません。 もちろん他にも日本が生きのびる道はあって、中国が西洋諸国に向かって盛んに示唆する「中国圏の形成」提案にしたがって、中国圏に入り、古代の東アジア政治の文法に戻って中国の衛星国として生きてゆくという戦略は残されている。 でも、甘やかされた子供のように自分のいいたい放題を述べて、悪い事は全部同盟国に押しつけて、アメリカを「横暴な専制主義国家」と口汚く罵り、アメリカとの同盟を維持しようとする自国の政府は傀儡であり奴隷であると嘲って快哉を叫びながら、2050年にもいまのような政治的な立場である日本であることは絶対に望めない。 可能性はゼロです。 いま20代で2050年にはアメリカの支配層として国策を決定する立場になるひとびとと極東の将来に対するビジョンについて話してみれば簡単にわかることであると思う。 鳩山由起夫は日本では「バカな変人」ということになっているのは知っているが、論理の筋道は通っていた。 わしは彼の主張は観念の世界のみでうまくいくもので現実世界では到底無理だんび、と思っているが、たとえば沖縄の問題ひとつとっても「彼の主張が現実的でない」のならば、最小限沖縄県以外の日本人は沖縄人ひとりあたり年間200万円程度の賠償金を払っていなければおかしいはずで「お気の毒に」と述べて言っていることとやっていることにまったく整合性がない。 橋下徹に至っては沖縄の「風俗業」に従事する女びとたちごと「ダッチワイフ」扱いで、彼にとって「政治」などは観念を現実に無理矢理変換する遊びにしかすぎないことがばれてしまうていたらくだった。 くだらないことをいうと、橋下徹のような人は、むかし沖縄や横須賀で週末になれば性器裂傷や子宮口破裂で救急搬送されてくる「風俗業」の若い女びとたちを泣きながら「もっと自分の身体を大事にしなさい」と叱責しながら治療した女医さんたちの話でも聴きにいけばどうなのかと思う。 わしのようなプーのガイジンでも会って話を聞かせてくれたのだから、大阪市長という「要職」についている人間ならやる気になればいつでも出来るのではないでしょうか。 中国の外交はむかしからやりかたがはっきりしていて、先ず「こうしたい」とはっきり言う。友好協会や政治的にぶっくらこくようなことを述べても(シビリアンコントロールが発達している)西側ではたいした問題にならない西洋国家訪問中の高級将校、あるいは学者の口を借りて、公の場でのべてみせて反応をみる。 反応が手厳しければ、また4、5年待ってから同じことをやってみます。 アメリカで中国の将軍が「日本はすでに中国圏だ」と述べてみたり、「アメリカにはなにも出来はしない。きみたちアメリカ人がICBMを中国に打ち込むかどうか鳩首会議を開いているあいだに、われわれのICBMはロスアンジェルスにもシカゴにもワシントンDCにもニューヨークにも命中してとっくのむかしに灰にしているのさ。シカゴもワシントンDCもニューヨークも!」と言ったりするのは、中国のむかしからの外交の文脈に照らせば失言ではありえない。 あるいは中国の学者たちが突然「琉球は中国領土であって日本は簒奪者にすぎない」と述べるのも学説の主張であるよりも「歴史の事実を中国はこういうふうに書き直したいから、よく自分の国の損得を考えて日本に味方するのがいいか中国に味方するかよく考えてみよ」と言っている。 日本人は発言がなんとなく「先進国」に向かってされていると感じてしまうので「学説が正しくない」という「正しさ」の話になってしまうが、実体は近隣アジア諸国とアジア全体を取り仕切っているアメリカに対する政治的メッセージなので、正しくても正しくなくても、それ自体は発言の意味とはあんまり関係がない。 オーストラリア首相のジョン・ハワードは退任直前に「オーストラリアには百万人の中国スパイがいる」と述べて、オーストラリア人を爆笑させ、有名な中国礼賛政治家のケビン・ラッドが首相の座につく道を舗装したが、現実は常に意外なもので、この「オーストラリアの百万人中国スパイ説」はイギリスのような閉鎖的なところで政治が語られる習慣がある国では長い間常識とされていたことにすぎない。 ハワードは連合王国の誰かから在任中に警告を受けていたのでしょう。 アメリカに暮らす中国人スパイの人口は百万人どころではないが、なぜスパイ人の数がそんなものすごい数になってしまうかというと、「中国のスパイ」はかつてのロシアのKGBというような専門職ではなくて「パートタイム」だからです。 たとえば横浜のバーで働く若くて気立ての良い中国人ホステスがいたとして、日本の暮らしも悪くないと考えて働いて、横須賀の海上自衛隊の将校と恋に落ちる。 この将校がたとえばイージス艦の技術将校ならばまず間違いなく、知らない中国人があらわれて「これこれこういう情報を聞き出してくれれば報酬をやろう。断れるとは思ってないよね。きみの両親は四川省の成都にいるんだっけ?弟さんは優秀で北京大学で政治学を勉強しているのだったね」と言われることになる。 日本のような国では外交回復以前の「日中友好協会」時代から育てた専業スパイもいると言っていたが、こっちはブログで書くことではないと思う。 そういう中国の「文脈」を考えるといま日本を巡って起こっていることは中国が明瞭に「日本は自分のものだ」と述べ始めたということで、物事の生起の順序と時間を考えると2050年という年を見つめて主張をはじめたのだと思われる。 尖閣諸島が国家としての中国にとって3本指にはいる重大な問題なのは中国がそれを問題の本質を覆い隠すための仮面にしている資源問題ではなくて「日本を中国圏に編入する」問題のロードマップの要に位置しているからだと思われる。 中国の「将来は日本を中国圏に組み入れたい」という希望の表明に対するアメリカの返答が以前に書いた「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」だった。 今年にはいってニュージーランドとの軍事同盟を実質的に回復したアメリカはオーストラリアとの軍事同盟を強化するだろう。 オーストラリアの「仮想敵国」であるインドネシアがオーストラリアの北に位置しているのはもっけの幸いで、アメリカとオーストラリアは伝統的な太平洋の拠点であるブリズベンよりもダーウィンのような土地に軍事力を集中していくと思う。 アメリカ人の友達から届いたemailを読みながら、ふと思ったのは、「日本はどうなるんだろう」という、自分でも理由がわからない胸を締め付けられるような気持ちで、わしは繰り返し述べているように日本語は好きでも日本の社会には大して興味がなく、日本人全体に至っては個別に名前が言える、すべりひゆやナス、ミナ、…義理叔父、TさんUさん…あるいはオダキンというような友達をのぞけば、チョーくだらなかった(マジメに騒いだはてなの人たちごみん)「ニセガイジン」騒ぎと、それにつづく「はてな」住民の大挙襲来と執拗でバカみたいな攻撃のあとでは軽蔑しか残らなかった。 (あの騒ぎのせいで当時日本語を勉強していたわし友達が大挙して日本語と日本文化の学習を放棄したのは前にも書いたが、やむをえなかったと思う) だから「胸が締め付けられる」理由はどこにも見当たらないが、わしが「この人達が太平洋の未来をつくっていくのだな」と感じる若いアメリカ人たちは、はっきりと日本を「不誠実な同盟者」としてみているし、うんざりしている。 面白い、といっては語弊があるが、この若いアメリカ人のひとつ上の世代が日本人を日本人として見ていたのに較べて、若い世代のほうは(良い意味ではない)「アジアの国」とみなして、どれほど理不尽な悪態をつかれても未開なのだから仕方がない、国益のためにはここで怒るのはアホのすることである、という態度に戻ってしまったことで、ときどきは「日本の命脈もつきてしまったかなああー」と思うことさえある。 だから、どうだ、と言われても困るのだけどね。 ボストン近郊の友達のemailに珍しく日本についての長い記述があったを読んで、日本のことを思い出しただけです。 暗い話で、ごみん。 (画像はウンブリアの田舎のホームセンターで買った「蚊取り線香」。コモ湖には蚊がいないんだけどねw)

Posted in Uncategorized | 1 Comment

スパゲッティ・ナポリタンの秘密

欧州にいるときは、お昼時にトラックがいっぱい駐まっている定食屋さんを通りかかると、委細かまわずクルマをターンさせてそこで午ご飯を食べることにしているのは前にも書いた。 コモから100キロほど南東の産業・倉庫街にオモロイアウトレットがあると聞いて出かけたら、白埃まみれのトラックが駐車場に並んでいる。 モニさんは「嫌な予感がするなああー」と小さく呟いていたが、わしはダイジョブでしょう。ダイジョブx2、と呟いてクルマを駐車場にいれます。 外のテラスにチョー人相の悪いおっちゃんたちが6人でテーブルを囲んでいて、わしとモニがクルマを降りるなり、じいいいいっっと見つめている。 中にはいると、むさ苦しいという言語表現を3次元立体で実現したようなおにーちゃんやおっちゃんたちでごったがえしている。 アフリカから移民してきたにーちゃんたちも散見される。 結果から述べると全然おいしくはなくて、不味くはなかったが、なんの感動もない €10定食(プリミ+セコンディ+ワイン+イモまたはサラダ+炭酸水+コーヒー)だった。 セコンディのビステカ・デ・マヤーレは気の毒にシェフのにーちゃんにぶち叩かれすぎてへろへろになっていた。 フレンチフライは肉体労働者相手のイタリア定食屋でよく出てくるマヨネーズ付きの皿で、おばちゃんたちは音速に近い早口のイタリア語でまくしたてる。 でも親切であって、テーブルの選び方ひとつとってもモニさんが嫌な思いをしないようにちゃんと配慮したようでした。 ところで、わしが、おおっ、と思ったのは、プリミに頼んだ「スパゲッティ・ポモドーロ」が、わしがむかしからほんとうはナポリタン・スパゲッティの淵源はこれだったりして、と疑っている「つくりおきスパゲッティポモドーロ」だったことで、イタリアで遭遇するのは3度目だが、日本の「おいしいナポリタンで有名な」喫茶店で出てくるナポリタンと味がそっくりである。 同じ味です。 ケチャップを使っているわけではなくて甘みはポモドーロ(トマトさんのことです)とオリーブオイルそのものから出てくる。 この「イタリア安い定食屋スパゲッティポモドーロ」で最も特徴的なのはイタリア人があんなにうるさい「アルデンテ」が全然守られていないことで、日本のナポリタンと同じで、なんというか腰がなくて「くたっ」としている。 人生に疲れてしまった中年スパゲティのような趣です。 日本語インターネットサイトを見ると「横浜山下町にあるホテルニューグランド第2代総料理長・入江茂忠が最初に考案した」と実名まで入れて重々しく厳然たる事実である由来が書いてある。 なるほど。 でもね、でーもー、ですよ。 この場末の定食屋、町中では絶対にお目にかからない田舎のトラック運転手めあての定食屋でしか味わえない「スパゲッティ・ポモドーロ」と日本の洋食屋や喫茶店で出す「ナポリタン」の決定的な味の類似をもっていかんせん。 実はガリシアにもスパゲッティナポリタンそっくりの味のスパゲティが存在して、これは通常「タコのスパゲティ」を名乗っている。 説明するのがメンドクサイので省いてしまうが、こちらは実はもともと「定食屋風スパゲティポモドーロ」がアルデンテが嫌いで、くったりへろへろなパスタしか食べないスペイン人の口にあって、そこにパンチェッタの代わりにタコをいれちまえばうまいべ、というスペイン人の思いつきの結果できた料理であることが判っている。 笑われてしまいそうだが、わしは、なんだか真相は意外なことであるような気がする。 ドイツやイギリスのような大国ばかりに倣おうとする政府の方針に背を向けて、ぜんぜん出世の足しにならないことも承知のうえで、ただ美しいものをみたいという説明のつかない衝動に駆られて、横浜から出航する船に乗って、「役にたたない国」イタリアに向かった変わり者の日本人青年が日本のぎすぎすして物欲しげな近代選良の歴史のなかにいたのではなかろうか。 あるいは画家志望の青年だったのかもしれません。 そして、その青年が世の中に拒絶されたまま、あり余る時間をつぶすために帰国後いりびたるに至った「町の洋食屋」の腕のいい職人のオヤジに頼んで、こうしてみようああしてみたらとふたりで合作したのが「スパゲッティ・ナポリタン」なのではあるまいか。 ガリシア名物の「タコのスパゲッティ」と日本の「スパゲティ・ナポリタン」は実際には直系の兄弟なのではないだろうか。 「そんな、出典も権威のある人のお墨付きがない妄説にしても、いくらなんでもそれは酷すぎる」と言われそーだが、というか言われるに決まっているが、出典はなくても、(しつこいようだが)材料が違うのに「くったりスパゲティ・ポモドーロ」と「スパゲッティ・ナポリタン」が「まったく同じ味」と言いたくなるほど味が同じであることを説明するには、ホテルの総料理長の権威あるレシピでは、どうでも、難しいような気がする。 しかも、この入江茂忠という重鎮シェフはフランス料理にしか興味をもたなかった人なので、最も「フランス的味わい」から遠い「スパゲティ・ポモドーロ」のしかも「くったり定食屋版」を結果的にでも再現したというのは、不思議を通り越して非現実的な気がする。 世の中には観念の世界では理屈が通ってみえ、証拠すらずらずらと並んでいても、現実の細部に目を向けると、「そんなことはありえない」とすぐに判ることはいくらでもある。 「現実の細部」から遊離した理屈の世界ではどんなに現実からかけ離れたことでも、正しいと全員が納得できる「証明」をしてみせるのがいかに簡単であるかは、それこそ人間の歴史が証明している。 スパゲティ・ナポリタンの「確認された歴史」が、まさにその例で、この「スパゲッティ・ナポリタン」の確定した歴史を書き継いでいったひとびとは、ひょっとすると自分では料理をしないひとたちだったのではなかろーか。 理屈はあっていても現実としてはちょっと考えられないように見えます。 甘みのでない日本のトマトを諦めて、タマネギやケチャップを動員して、ついに貧乏留学生時代の昼ご飯の味が再現された当時は万能手形だった「洋行帰り」なのにうだつがあがらない青年と、腕が良いのに商売が下手で横浜の横丁でうらぶれた洋食屋を開いている無名料理職人とは、ふたりで、戦争が間近に迫った、軍靴の音が響く暗い世相の町の一角で踊り出したいように「やった、やった」と味の再現を喜んだのであるかもしれません。 その時代には正義をふりかざして肩で風を切る人間が増えたことに嫌気をおこして「なんの意味もないこと」に熱中して、当人は無意識でも、いわば人間の「愚かさ」という尊厳を確認している青年がたくさんいた。 歴史は残酷で、世の中の人間の目に触れて、おおきな声になったものだけが「歴史」として語られる。 声が掻き消された者達は、あとから来た者がどんなに歴史の闇の奥に向かって窓をひらいて耳を傾けても、微かな、意味をなさない声が聞こえてくるだけである。 その一瞬の「微かな声」も、朝になれば「正しさ」に酔っ払った醜悪な人間たちに、誰かが「一緒に石をもって投げに行こう」と呼びかければ訳もなく声をあわせて「悪いひと」を石で打ち殺しに嬉々としてでかける、さらに多数の「正しさ」に酩酊した思考力すらもたないひとびとがついて歩く。 欧州人はそれでも一般の人間が読む事ができない記録などは山のようにあり、引き出しに埋もれてしまった戦争中の「他人の目に触れることを禁じられた事実」などは無数に存在するということを熟知している。 一般に革装のおおきなサイズの本でつくられる、多くてもほんの数十部という数しか作られない欧州版の「一族の歴史」には写真入りで歴史家がみたらひきつけを起こしそうな記事が記録されている。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

豊かさ、はどこへ行ったか? (その2)

トカゲが石壁を這い回る、人間がふたり並んで歩くのがやっとの幅の中世からの石を敷き詰めた道を歩いて隣の村まで歩く。 夏のコモ湖は湖畔は観光客に占領されているので、日本で言えば夏の軽井沢と同じことで、丘の中腹を延びている「裏道」から「裏道」を伝って移動する。 イタリアに来てからちょうど1ヶ月になる。 まるで戦前の欧州の山間の村のようなラツィオの曲がりくねった山道や、見渡す限りブドウ畑のトスカナとウンブリア、おいしいものがこれでもかこれでもかと詰め込まれたようなエミリオ・ロマーニャを経てフランス語圏・ドイツ語圏とイタリアという文明の核融合炉をつなぐシナプスのようなロンバルディアにやってくると、やっぱりなんだかほっとする。 近所の知り合い夫婦が経営しているホテル兼料理屋に朝ご飯を食べに行くと、イタリア語に混じって聞こえてくる言葉はほとんどドイツ語だが、ときどきでかけるレノには英語人たちがたくさんいる。 アイスクリームを食べによった店では隣のテーブルに座っていたのはフランス人の若夫婦で、よく考えてみるとなんだか信じがたいことだがイタリアに着いてから初めて知らないひととフランス語で話をした。 目の前のベネトーのヨットが21フィートで、あんな小さなベネトーは初めて見たということから湖上でのヨット遊びも楽しいべな、という話をした。 フランスはどんな場合でも偉大な航海者だったBernard Moitessier https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/03/23/「とても単純だが言葉によっては説明できない理/ が生まれた国で、もちろんヨットきちがいが多い国だが、Jenneauのヨット  http://www.jeanneau.com/mur/interieur/Sun-odyssey-50-DS.html が典型的であるように沿岸周航を念頭にデザインしたヨットが多い。 大洋を横切って航海するよりも地中海のコスタブラバからニースへ、ニースからギリシャの島々へというフランス人のヨット遊びのやり方がよく出ていると思う。 イタリア人たちはヨットにおいてもスピード狂で、モニとふたりでハウラキガルフの島に遊びにいく途中で、夕暮れの海を風にまかせて疾走するプラダチームのアメリカズカップ用のレーシングヨットによくでくわしたが、クルージングちゅうにはイタリア人にはほとんどでくわさなくて、どうもイタリア人たちにとってはヨットは風のスピードで暴走するためにある船であるらしい。 フランス人夫婦と、わっはっはと笑いあいながら話をしていると、じっとこっちを見ているイタリア人がいたりして、やべー、あのおっちゃんフランス語がわかるのだ、やべーx2と考えたりした。 日本はどうして田舎を破壊してしまったのだろう、と考える。 イタリアの田舎を旅行してうっとりすることのひとつは川の美しさである。 イタリアの自然の特徴は「やさしさ」であって、人間がどれだけ丹精こめても形のどこかにもともとの呵責ない自然の獰猛をのぞかせている連合王国の自然とは根本から異なる。「これがほんとうに地球上の風景だろうか」と誰でもが息をのむニュージーランド南島のraggedな異惑星的な風景などは言うまでもない。 大河であるポーもそうだが、田舎のそこここを流れている川の堤の美しさはイタリアの自然の美しさのなかでも特別に述べなければならないもののひとつであると思う。 舗装されてはいてもデコボコなイタリアの田舎道をドライブしながら、横にそれて、川端の芝生に腰をおろして食べるパニーニはおいしい。 チリビンからランブルスコを出して600円もだせばチョーうまい一本が買えるこの発泡性の赤ワインを飲みます。 モニ、大好きと述べると、モニは「ガメは朝からもう6回もわたしを好きだと述べている」と可笑しそうに笑う。 でもやさしい顔でにっこり笑っていて「わたしも」という代わりに、やわらかい唇をそっとほっぺにくっつけてくれる。 大洋は広大だが魚が住めるところはほんの一部しかないのと同じことで、地球はおおきな星だが人間が自然のやさしさにタメイキをつける場所など、いまちょっと考えると中部イタリアの田舎くらいしかありはしない。 そして日本も明治の初期までは同じような稀有な繊細な自然に恵まれていたことを当時日本を訪れたおおぜいの欧州人が証言している。 父親と一緒のわしガキと妹に鳥取県の沿岸を案内してくれた建設省のひとは、テトラポッドを指さして「こんなものいらないと思う」と言った妹に日本の海は荒いので欧州と違ってこういうものが必要なのだと述べたがコンクリートだらけの海岸を見てえらく機嫌が悪かった妹も、そういうことは表情に出ないわしも、それはウソだとしっていた。 欧州はもちろんニュージーランドでもテトラポッドよりもたとえば溶岩を使ったほうが遙かに消波性が高いのがわかっていたからで、小学生のわしでも、川の両岸を部分的でもコンクリートを使ってかためはじめれば、いずれ全流域をコンクリートで固めざるをえず、しかも川の増水傾向が悪化してかえって治水に失敗する例が多いくらいのことは本で読んで知っていた。 1906年に天皇の命令一下無数の鎮守の森を破壊した神社合祀令以来、日本のひとたちは憑かれたように自分達の文明の揺籃である自然を破壊しつづけた。 皮肉な言い方をすれば「カネさえあれば自然の破壊に情熱を傾けた」と言ってもいいくらい熱中した。 わしはコモ湖に移すまでは軽井沢に「山の家」をもっていたが、江ノ島電鉄の社長が植えたという(うるさいことを言えば土地の植生とあわない)落葉松の林は、特に早朝は木漏れ日が宝石の光のようでかっこよかったが、ちょっとクルマで周りにでかけると酷いもので、まるで土砂崩れをを誘発するためにつくったような「砂防ダム」や江戸時代につくられた、むかしの写真をみれば美しいとしか形容のしようがない用水を無惨にコンクリートで固めてしまい、旅人に日陰をつくるために街道の両側に植えられた松は切り倒されて倒産した「ラブホテル」の巨大な看板が赤錆びて斜めにたおれかかっている。 あるとき道に迷って望月の宿の近くのなんだか妙に新しいトンネルを抜けたら、あれはタイムトンネルなのだろうか、というくらい風景が変わって、一面、黄金色の稲穂の海で、遠くに見えている山のほうに向かってクルマをすすめていくと、森のなかに路面一面に細枝がちらばった明らかに使われていない舗装道路があって、そこだけは別天地で、天気がよければそこにでかけて、いま思い出してみると笑いばなしみたいだが、綺麗に舗装された道路のまんなかに敷物を敷いてピクニックをしていた。 イタリアの田舎のBar(バール)で、グラッパをしこたまいれたエスプレッソを飲みながらイタリア人おっさんたちと話していると皆、「経済? ダメダメダメ、全然ダメ。ダメダメダメダメダメ」と言うが、イタリア人は不思議にもあくまで屈託なく、友達同士誘い合ってビールを飲んでだらしなく、げひひひ、と笑いあい、ときにはおめかしをして奥さんを伴って友達夫婦とかっこいいレストランに夕食を摂りにいく。 そんなのどこの国でも同じじゃん、という人がいると思うが、そうではなくて、うまく言えないが、なんとゆーか余裕で、いっぱい借金してクビがまわらないのに、この余裕はどこから来ているのだと訝しんで話したり観察したりしていると、(笑ってはいけません)イタリアのおかーさんみたいにやさしい自然の美しさから来ているのだと考えた。 (小さい声でいうと自然、には(一部)男の姿の良さや女びとの美しさも含まれておる) 欧州の国が「工業化」に向かうときに絶対に農業を犠牲にしなかったことには「おいしいものが食べられなくなるのはやだ」というような理由がいろいろあるが、どんなに日本や中国に鈍くさいとバカにされても(むかしから、この分野では日本の経済専門家から欧州はバカ扱いされておる)工業と農業のバランスを捨て去らなかったのは、意識してではなくても、「それでは人間ではなくなってしまう」という気持ちがあったからだと思います。 工業に産業を収斂して所得が倍増されたとして、その倍になったオカネでプロシュートもゴルゴンゾーラもオリーブが入った天にも昇る味のパンや12年もののバルサミコ酢のひとくち口にふくんだらおいおい泣きたくなる感動や。ゼロゼロ小麦粉を寝かせて使って、ドウをつくる母親の味のピザが食べられなくなったとしたら、なんのための「所得」なのか? 第一、景気をよくするために公共事業を興すというが、それは要するにわたしたちの自然を幾許かの利益のために切り売りすることなのではないか? そんなにっちもさっちもいかなくなった家計が自分達の先祖伝来の森や家具や庭園を切り売りするようなやりかたが「景気振興策」といえるのか? あなたがた政治家はそれほどさもしく頭がわるいのか? … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

Back to Como

コモ湖に着いた。 ローマからだいたい3000キロをクルマで右往左往走り回りながらだんだん北上してきたのだ、とクルマの走行距離計が述べている。 北上するに従ってイタリアは「大陸欧州」に変貌して、ロンバルディアにはいると「カルフール」や「Auchan」があちこちにある(^^) イタリアらしい典雅な田園は影を潜めて、欧州のカサカサとした風景がそれにとってかわる。 モニさんも自分が小さいときから馴染んだ「欧州」の風景に戻ったので安心したのでしょう。 「わたしは今日は酔っ払うのだ」と宣言して、かーちゃんととーちゃんの家に行く前から飲み始めてシャンパンとランブルスコで足下をふらふらさせて「山の家」のなかを歩き回っておる(^^;) 軽井沢に代わる「山の家」として買ったこのコモ湖湖畔の家は、コモの町から40キロくらい離れたところにある。 テラスに座って湖を眺めると、白い航跡をひきながらひっきりなしに行き来する船がみえます。 ときどき青空がみるみるうちに向かい側の山の端から姿をあらわした積乱雲に覆われて、すさまじい雷雨を降らせる。 晴れると、風景は「美しい」というようなものではなくて、魔法使いに悪戯した復讐に19世紀の風景画家の絵のなかに閉じ込められた人のような気分になる。 この村は後ろの山を登ればもうスイスだが、それでもたいそうイタリア的な村で、優雅という優雅が風景のどんな細部にも張り詰めたように敷き詰められている。 いちばん近いスーパーマーケットまで35キロ。 いちばん近い商店まで歩いて40分。 なにもなくて、ただ湖と山だけがある。 湖畔は観光地なので桟橋があちこちにあって、その周りにはミシュランに出ているレストランがいくつもある。 観光客でいちばん多いのはイタリア人、次がドイツ人、スイス人、7月になると連合王国人とアメリカ人たちもやってくる。 教会の鐘が鳴り渡って、他には鳥の声が聞こえるだけである。 「隣り」というものはちゃんと存在して、近くのホテルを経営する夫婦が住んでいる。 なんだかチョーまじめな夫婦で、チョーまじめな夫婦に感化されたチョーまじめな息子が、どうやらチョーまじめであるらしい寄宿学校から夏は戻ってきて、チョーまじめなかっこうでほおづえをついて太陽に輝く芝生をみつめながらチョーまじめな憂い顔で何事か考えごとをしている。 山の家に到着したので、やりたいことはたくさんある。 旅行中には無理だったAKさんやSDへの返信、tetsujinさんをはじめ、なんだかこのブログの特徴のようになってしまった記事よりも遙かに素晴らしいコメントのひとつひとつに返事を書きたい。 日本語フォーラムでちゃんと話をしたい。イタリア語やスペイン語に「けり」をつけてしまいたい。 いまくらいの時間(夜の9時半)になるとゆっくりと暗闇がやってきて、対岸の町に明かりがともる。コモ湖は長く細い湖なので、対岸の明かりが水面に映って揺れている様子が綺麗であると思う。 ジョン王と会話しなければならない。 かーちゃんやとーちゃんや妹たちとも一緒の時間を過ごしたい。 今年からかーちゃんシスターと義理叔父もコモに会合することになったので、楽しい時間がもてそうである。 最近はフランス語に続いてイタリア語やスペイン語で何かを書いていたり話していたりする時間が長くなってきたので「欧州とはなにか」というヘンなことを考えるくせがついてしまった。 北海の暗闇と暴力の世界と地中海の太陽と残酷の世界にはさまれてできたこの世界は、一般に考えられているほどの普遍性はもちえていなくて、あの「普遍性のある欧州」という観念は実は「誤訳された欧州」のほうなのではないか。 何代か前は欧州のイタリアやイギリス、フランスに住んでいたはずのアメリカ人さえ、欧州を完全に誤解していることが多いのを眺めていると、結局現実のままの欧州は地方性どころか単純に「個」に由来していて、「個」の発見のみが欧州の普遍性なのではないかと思う。 しかも、この「個」は欧州の外では呼吸ができないのではないだろうか。 そう思いながら自分のブログを開けてみると、tetsujinさんが同じ考えであるような、全然違う考えであるような微妙な意見を述べていて、めんどくさいから電話して話し合ってみたい、という衝動を感じてしまったりした。 イタリアほど「文明」について考える契機を与えてくれる土地はない。 イタリア人が1940年代につくったフォークリフトを観察すると、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチが考えました、というような説明的な動力の伝達系で、「マッキーナ」というものが本来はどういう思想のもとに生まれたものか、というか、実は産業革命の申し子などでは全然なくてルネッサンスの直系の子孫であるのが判る。 産業革命で生産機械が生まれたという妄信はイギリス人のへのこ自慢でなければ、将来、必ず人間を不幸にするであろう機械文明の発明民族としての誹謗を免れるためにイタリア人が仕組んだ深慮遠謀なのではないかと思われる。 燃えるような赤色の薔薇が延々と続く湖畔の散歩道や、装飾性を極めたローイングボート、どんなものを作っても「デザイン」を絶対に優先してしまう「美への依存症」とでも言いたくなるようなイタリアの工業製品を見ていると、文明は、長い歴史をもつと集団としての病に似てくるのではないかと皮肉を述べたくなる。 アメリカ人や日本人は考えてみればそんなことが絶対に出来るわけはない「文明を解体・輸入して自国の社会で再構築する」という間違いを犯した。 ヘンなことを言うなあ、と考えて笑う人がいるだろうが、ペストリとスパゲッティが両方ともに「パスタ」である言語をもたない人間がローマ人に倣うことはやはり無理であると思う。 同様に、機械システムとして人間を見たかったレオナルド・ダ・ヴィンチと同じ視座をもてないものが機械文明を興してしまえば、それがどんなに興隆しても畸形性が拡大していくだけだった。 「思想を借りてくる」ということの困難と危険を現代の人間は世界中で体現している。 そう述べているわし本人が、ついこのあいだまで思想は普遍性をもちうる、言葉を変えれば言語に内蔵しうると、のほほんと考えていたわけで、無味透明な「個」などなくて、言語が染まったさまざまなものに(考えてみれば当たり前だが)「個」もまた染まっているところからすべての話は始まったのだということに気が付いて、「やべー」と思っているところなのだと思います。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

Pater noster

モニさんは午後に一緒にでかけたAuchanでイタリアの夏の太陽に負けてしまって、お午寝です。 駐車場は摂氏35度もあるのでモニでなくてものびてしまう。 イタリアという国は太陽が国や風景のデザインに組み込まれているので、太陽のほうでも勝手きままにふるまって、たいした緯度でもないのに、ぐわあああああ、なくらい暑い。 子供のとき、初めてか二度目かのイタリア旅行で、わしは怖い夢を見た。 悪魔達が集まってchantsを唱えている。 その祈りは(夢のなかなので)何故か「Pater Noster」で、 Pater noster, qui es in caelis: sanctificetur Nomen Tuum; fiat voluntas Tua, sicut in caelo,et in terra. であって、そのころのわしには無論、なにを言っているかは判りはしないが、 それが「Pater Noster」であることだけは判って、なぜなら、あの祈りはいまの日本語だけは違うらしいが、他のどんな国語でも同じ「声調」だからです。 目を覚ましてみると、宿の近くでカトリック教会の組織した少年団だかなんだか学校の学期の終わりが近づくとさまざまな催し物をするイタリア人たちの不思議な習慣に従って開かれたパーティで「少年」どもが「Pater Noster」を唱和しているのであって、それは、穏やかであるよりは熱狂的な調子で、わしに「イタリア」という風土についての強烈な印象を残した。 イタリアは文明の母であるとともにファシズムの国である。 イタリア人たちは「熱狂」が好きである。 普段の「ぼくはぼくの幸福を追求するのがすべてなのさ」という地平から止揚されて「集団としての熱狂」の中空に浮くカタルシスを特に好む。 モニとわしが買ったコモの家の隣にはチョーまじめなイタリア人の夫婦が住んでいるが、その家の寄宿学校に通っている14歳の息子が帰ってくると、ミラノのコンサートに行きたい、とか言い出すよーで、親子での長い長い激論が始まる。 その一部始終を、わしは自分の家の裏庭のテーブルで聴いておる(^^;) 他人の家の家庭内論議の詳細をばらすわけにはいかないから、それはいかに日本語で書いているといっても省くが、わしが感銘を受けたのは、話の内容とは別の「おかあさん」の話しかたで、話が佳境にはいってくると「お父さんだって、あなたを愛しているのを良く知っているでしょう?」「だからロックコンサートに行かせてあげたいけど、まだ若すぎると思って心を鬼にして『ダメだ』と言っているのよ」と述べているのだが、その声調が「嫋嫋と」という漢語表現そのままの情緒が堤防からあふれ出してくるような切々としたものである。 英語人は「感情を露わにする」ということを極端に嫌う。 そんなことをするくらいなら物理的に殴っちゃえば、と思うほうである。 どれほど悲惨な内容の話をしていても一滴でも涙がこぼれれば相手に「I’m sorry」と述べる。 香港。19歳でボランティア赤十字看護婦をしていたイギリス人上流階級の女びとはある日上陸してきた日本兵たちに集団強姦された事実を「That wasn’t … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

カルボナーラの謎

「ほんもののカルボナーラ」という話を英語でも日本語でもときどきみかける。 イギリスやニュージーランドのカルボナーラは通常生クリームがどっちゃり入っていて胃の弱い人は蒼白になりそうな「リッチ」なソースだが、クリームが入るのは邪道だということになっている。 「ソースをかけて混ぜるという発想そのものが間違っている」というひともいる。インターネットでもいろいろ書いてあるに決まっているが、イタリアにいるのだから心がけてプリミにはカルボナーラをなるべく食べるべ、ということにした。 プリミにはなるべくカルボナーラを食べる、といってもなにしろイタリアの田舎というところはやたらとおいしいものが多いところであって、パスタといえど例外ではない。 エミリオ・ロマーニャはラグーソースが有名な地方で、ラグーソースは日本語で言えばミートソースだが「鵞鳥のラグーソース」や「鹿肉のラグーソース」のパスタを頼むと、野趣が風味に残った「肉とはこういう味のものを言うんじゃあああ」と言いたげな雄渾な味のラグーソースで、パルミジャーノを焼いてパルミジャーノ煎餅みたいなものにした「パルミジャーノで出来た皿」にトルテッリが鵞鳥のラグーソースがどっちゃりかかった姿で出てくる、 というような豪勢な料理があるので、そーゆー場合は、いかに探究心の強いわしと言えど、どうやっても「カルボナーラスパゲッティ」とかは頼めません。 そんなものを頼んだら、鵞鳥の神様が夢に現れて「愚か者」とわしを叱咤することだろう。 「鉄板焼き」について由緒ありげなことを書いてある本もあるが、ふつーに考えて元プロレス選手のロッキー青木が考えたアメリカ料理が、なああーんとなく日本の料理なような顔をして往来に看板を出しているのだと思われる。 韓国焼肉料理店というのも日本にはたくさんあるが、(これをいうと、いっつも韓国人のお友達に「ぶわっかもの」とゆわれるが)、あれもふつーに見ていって朝鮮戦争のときにいっぱいやってきたアメリカ人がバーベキューをするのを見ていたのが淵源であるように見える。 もっとスパゲティナポリタンといういまでは日本の人にも日本料理だと周知されるに至った「ケチャップを焼いてしまう」というすごい発想の料理があるが、実は「スパゲッティナポリタン」はオーストラリアにもニュージーランドにもあって、名前はナポリタンで「イタリアではお袋の味である」とイタリア人が経営しているイタリア料理店のチェーンのメニューに書いてあるが、もちろんイタリアの料理店にはそんな料理はあらしまへん。 カルボナーラは、そこにいくとちゃんと殆どイタリア全土のイタリア料理店のメニューに載っている。 あんまりめぼしいパスタ料理がメニューになくて、でもピザとかっちゅう気分じゃないし。セコンディは重すぎるよねー、と思うときに「じゃ、カルボナーラにすっか」という具合で注文されることが多いように思われる。 印象でいうと高級店であると黄色いカルボナーラと白いカルボナーラが半々で黄色いのは卵黄で、もしかすると4個くらい卵を使っているのではなかろーか。 卵が使われていてパンチェッタが入っているのが条件。 イタリアの人には「戦後のローマの店が始めた料理でアメリカ軍がいっぱいもってきた卵で栄養をつけるためのパスタなんだよね、あれ」という人もいる。 このガルダ湖西岸にある有名なレストランのカルボナーラは、ものすごくおいしかったが、見ればわかるとおり。 卵はパスタにからめて、スクランブルエッグ風に料理されていて、その上にカリカリ寸前に炒められたベーコンが載っている。 ベーコンエッグじゃんね、これ、としたりげにひねくれてみせることも出来るが口にしてみれば一舌瞭然紛うことなきカルボナーラの味で、すげっ、すげっ、すげっと下品な賞賛の言葉を口にしながら、世の中にこんなうまいカルボナーラがあるのか、と呟くことになる。 下のふたつはトスカナのカルボナーラで、上が卵黄で黄色いカルボナーラ、下がナマの卵黄の色は消滅している白いカルボナーラ。 上に載っているのは両方tarutofo(イタリアントリュフ)で、ウンブリア(トスカナの隣でがす)が産地なので、ウンブリアやトスカナでは季節になるとカルボナーラにぴったりあうイタリアントリュフが€4ほど余計に出すとのっかって出てくることになっている。 下のカルボナーラはアレッツォのレストランで出てきたもので、これはアスパラガスが載っている変わりカルボナーラ。 (画像、行方不明中) あちこちで「カルボナーラの謎」考究のために隙さえあればカルボナーラを食べながら考えたことは、スパゲッティ・ア・ラ・カルボナーラは、「ラーメン」みたいな食べ物なのではなかろーか、ということでした。 イタリア人は日本の人がラーメンに狂うほどカルボナーラに狂ってはいないが、由緒ありげな説明(炭焼き党が発明した。炭坑夫の夫が滋養をつけるために妻たちが考え出した…)がいろいろある割には、どうやら歴史は存外新しくて、戦後で、しかも身元がはっきりしないこと、シェフが守るべきルールは「パンチェッタを使う」「卵を使う」のふたつしかなくて、それさえ守られれば生クリームをどっちゃりいれよーが(下の写真はカルボナーラ発祥のラツィオのものだが生クリームがはいっておる。クリーム入りカルボナーラはイタリアでもありますねん) 卵黄を大量にいれてねっとり感をだそうが、シェフの自由です。 あんまりシェフが「勇気をだして新しいアイデアで伝統に挑戦する」タイプの店で無くて、ごくごく守旧的な店でもいろいろな「変わりカルボナーラ」が出てくるところは、ティラミスにもちょっと似ている。 イタリア人がそんなことを言われても「きょとん」としてしまうに違いない「ほんもののカルボナーラ」や「ほんもののスパゲッティ・ボンゴレ」が、余興でも議論になるのは、日本やニュージーランドがいかにイタリアから離れた国で、観念としてや、ごく限られたイタリアでの経験として輸入された「カルボナーラ」の真正度について講釈をしたがる人がたくさんいる、要するに「イタリアが全然わからない国」であるからだと思われる。 距離や文明の質の違いのうえで「遠く離れたものを輸入する」ことには、硬直化や訓詁学化、観念化がつきものである。 当の「カルボナーラ」を発明したイタリアでは断然バラエティに富んだカルボナーラが多種多様に存在するのに、イタリア移民がおおぜい住んでいるアメリカでさえ、「イデアのカルボナーラ」めざしてシェフたちが切磋琢磨し、その厨房から出てくるカルボナーラを待つテーブルでは、「こんなものはカルボナーラと呼ぶことはできない」と憤然とする客や、「ほんとうのカルボナーラ」について声を低めて秘密結社の会合参加者のような上目遣いでひそひそと語り合う客たちが息を凝らして「真のカルボナーラ」が到着するのを待っているのは、「遠くから輸入されたもの」の宿命だと思う。 アジアにおける民主主義の難しさの本質はそこにあって、まったく違う土壌、まったく異なる考え方のひとびとが考えた社会を、もっかアジアのひとびとは自分達の国で実現しようとしている。 日本は、どんなに日本に対して意地悪なアジア人に聞いても、その試みの先頭走者です。 カルボナーラから類推するのでは酷いが、きっと、ここでも最も重要なことは「真の民主主義」や「なにがほんとうの民主主義か」ではなくて、自分達の舌にそっくりなじむ、自分達にとって違和感のない民主主義をレシピを変え、鍋のなかの失敗を繰り返して、シェフと客が協力しあって、「これなら、いいんじゃね?」の状態にもっていくことなのではなかろーか。 レストランで声高に「真の料理かどうか」を議論したがる人に料理の味が判るひとが存在した験しがないように、イデアの民主主義を観念の世界で完成したがる人が民主主義を議論するのは、実はそれ自体民主主義という「現実主義の化け物」の本質に反している。 あんまり観念的になって「正しさ」ばかり狂ったように主張しなければ、日本人のことだから、フランス人やイギリス人が、「ええええー、こんなの民主主義っていうかなああー」と一見して驚いても吟味してみると「これはたしかに民主主義で、しかもよく出来ている」と思う、新しくておいしい民主主義、できると思うけど。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

手作りの宇宙

イタリアの田舎の村から村へ走っていて楽しいことのひとつに村ごとに開かれている「メルカト」(マーケット)があることはもう何度も書いた。 おおきなマーケットが立つのは土曜日や日曜日だが普通の日でも「朝市」が立ちます。イタリアではなぜか多い洋服の屋台は正直に言ってあんまり興味がもてないが、小さな朝市でもプロシュートの店がふたつ、魚屋さんがふたつ、パン屋もふたつくらいは開いていて知らない食べ物の説明を聞いたり、試しに食べてごらんよ、と言われてあまりにおいしいので食べてびっくりして後先も考えずに買ってしまったりするのは楽しい。 大阪や東京なら「デパ地下」に匹敵する楽しさがあると思う。 朝市を冷やかして、プロシュートやエビやいわしの揚げたのがはいった袋を椅子の上において、ちっこいウナ・パスタ(デニッシュでごわすな)をウン・カフェでかじるのは平日の楽しい朝の過ごし方である。 チェントからレッジョエミリアへ行く途中で、道のわきにちらっと市が立っていたのが見えた、とモニがいうので町の終わりのUターンできるところまで行って引き返してきた。 クルマを駐めて外に出てみると普通の市ではなくて骨董自転車の市である。 50年代の60年代のビアンキやなんかがいっぱい並んでいて、1946年製のビアンキまで売っている。 中古の部品を売っている店もたくさん出ている。 ニットの、右肩に並んだボタンで止めるチョーかっこいい柄の自転車ジャージー(!)も売っていて、欲しかったが、いつものことというか、サイズが全然あわないのであきらめるしかなかった。 イタリアは「オバチャリ」王国で、田舎にいると大量のオバチャリが時速100キロでクルマがびゅんびゅん走ってゆく県道の路肩をえっこらえっこらるっこらと走っている。 ビアンキを初めとしたロードレーサー、あるいはロードレーサーぽい自転車に乗ったおっちゃんやおばちゃんたちは、今度はかっこよくもど派手なぴっちりサイクリングスーツで決めている。 どっちか、です。 フランスと並ぶ自転車王国なので、ぴっちりスーツで決めて群れをなしてびゅんびゅんとばしている集団もある。 自転車の製造技術が世界一高いのは台湾で、特に溶接しないで初めからフレーム全体をつくってしまう技術は台湾の独擅場で他の国はぜんぜん足下にも及ばない。 台湾自転車メーカーの「GIANT」に欧州自転車が価格的に太刀打ちできないのはGIANTが低賃金で労働者をこきつかっていたり、材料で手抜きをしているわけではなくて、大量生産で高品質の自転車をつくるメーカーが他には存在しないからです。 欧州の自転車メーカーは、アンドラ公国のコメンサルのスタジオでも判るとおり、もともと家族営業の手作りで、分野が違うので比較として異様だがそれでも譬えてしまえば日本刀の刀鍛冶に似ているのかもしれません。 メルセデスベンツのSクラスとEクラスのステーションワゴンは、ヘッドライトが「角目」のモデルまでは手作りだった。 ひとつのチームがクルマの製作にあたって、Sクラスのチームともなると、たいへんな栄誉で、ドイツ人はああいうひとたちなので「トルコが生んだ傑作芸術」などと皮肉な言い方をして喜んだが、いまのオンボロなSクラスとは違って、当時のSクラスは「高級車」だったことを認めないドイツ人はいないと思う。 もっと時間を巻き戻してしまうと、たしかこのブログ記事にも書いたことがあるが メッサーシュミットBf109という第二次世界大戦中のドイツ軍の戦闘機はもちろん手作りで生産性が一向に向上しない責任をとって、そういう仕事に才能があったとは思えない航空総監エルンスト・ウーデットが自殺してしまった後、ミルヒのために働いていたアルベルト・シュペーアが調査してみると、最大のボトルネックはなんと操縦座席の製作工程で、その最も工数がかかる作業は「操縦席の座り心地をよくするための椅子の背に馬の毛をいれる作業」だった。 ドイツという「職人大国」における職人の「ものをつくる」ということへの偏執がよく判る話だと思う。 日本やアメリカのような国では、工業製品は、どう言えばいいかよくわからないが「完成しているもの」として生活のなかにはいってくる。 トヨタのクルマを買えば、まず間違いなく故障せずに動いて、なかには新車を買って、ボンネットをいちども開けてみないでクルマを買い換えてしまうひともいそうな気がする。 素人がかけらも理解できない知識と技術をもった「専門家」たちが完璧な製品をつくりあげて、それに対価を払う「素人」は言われた通りに使って、万が一壊れた場合には、「専門家」がいるトヨタのガレージならガレージに電話することになっている。 「電力」などいうものに至っては、もう準神様がつくっているもので、人間が不平を言うなどとはとんでもなくて、「神様」がつくった原子力発電所がときどき爆発したりメルトダウンしたりしていることは目をつむって、恭しく下げ渡される電力を黙って使わせていただいている。 原子力発電所が稼働できなくなって火力に頼らなければならない夏がくると、「恐れ多くも畏くも電気様は足りなくなりそうなのであるから下々のものどもは電気様の使用を控えるように」とご託宣が述べられると、みなでエアコンを止めて汗まみれになりながら、予備電力あと20%あと12%と神々の労役をはらはらしながら見守ることになる。 欧州はもともと「手」の文明なので、なにもかもが個人の手が生み出したものだ、という「文明」に対する基礎的なイメージがある。 鉄を「熱いうちに」叩き、グラインダーでシャフトを削り、エンジンのボアを拡大して手製オートバイが出来る。 自転車などは更に典型的で、フレームは名人がつくったものがしなりと剛性のバランスが良いのでコルナゴかなにかにしたいが、その他のものは既製品はシマノ(くだらないことを書くとこの会社の名前はイタリア語式に「シマーノ」と言いやすくて、なんとなくイタリアっぽいのもイタリアで人気がある理由のひとつであると思う)の変速機は既製品を買うとして、他は自分でつくっちまうべ、という人がいる。 サドルやなんかは、実際、自分でせめて改造したもののほうが具合が良いと思う。 日本酒という飲み物は自分でつくると酒精度が強くなりやすい飲み物のようで、イギリスでは、「裏庭でみんなで日本酒をつくって飲んだら強くてトイレに嘔きに行く以外一日気絶していた」 「救急車で運ばれた」という話をよく聞く。 バルサミコビネガーやワインは自分でつくり始めると凝りまくって、蒐集がつかなくなる。 わしの友達でも病膏肓に入ってニュージーランドの小さなワイナリーを買ってしまったひとがいる。 (欧州に買わずにニュージーランドに買ったのは欧州と異なってニュージーランドはワイン造りの細かい「これはダメ」「あれはダメ」規則が少ないからです) フィレンツェで靴職人の4人にひとりは日本人だと言うので驚いて日本人職人のにーちゃんに理由を聞いたら、 「日本では『職人』というものがもう成り立たない社会なんです」という答えだった。 奇妙な感想を述べると靴職人が成り立たなくなった社会ならマンガ職人である漫画家や物語職人である小説家もいなくなってしまうのではないか、とヘンな感想をもった。 この世界にはついこのあいだまで個人が自分で興味をもってやってみて作れない技術というものは存在しなかった。 わしの友達には「ぼく、ひとりでもガメがオカネだしてくれれば原爆くらいならつくれると思うけど」というカリフォルニア人の危ないワカモノがいるが、そういう「ヘンなひと」を例外にして、個人の手が届かない技術の代表として原子力発電は存在している。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

豊かさ、はどこへ行ったか? (その1)

定食屋さんのピザ窯のなかではピザを焼く薪の炎がごうごうと渦巻いている。 近所の農家から町へ梨やりんごにいちごを配送するおっちゃんたちや近在の主婦、ひと組だけだが大学生ふうの若い男のふたり連れもいる。 テーブルにあるものはどのひともだいたい決まっていて、この辺りの特産品である発泡性の赤ワインにスパークリングウォーター、篭に入ったパン。 あとは€13のコースを食べているひともいるし、€6から€8のピザをぱくついている人、タリアテッレ、フジッリ、トルテリッニ思い思いのものを思い思いのソースで食べている人。 モニとわしはトルタフリッタ(画像のプロシュートの上に篭にはいってる揚げパンのことね) http://ricette.pianetadonna.it/guide/come-preparare-la-torta-fritta とプロシュートから始まって、マスタードソースのポークソテーやでっかい胡椒の実がごろごろはいったクリームソースがかかった分厚いステーキを食べた。 ちょうど広いテントの下の全部のテーブルが垣を背にして見渡せる席だったので、イタリア人たちが楽しそうに話したり、笑い転げたり、子供に食べ物を食べさせたり、「チャオ、チャオ、チャオ!」と述べて去って行ったりするのが一望に臨まれる。 道路の補修のオカネもままならないのはエミリオ・ロマーニャに来ても同じことで、ウンブリアの田舎のように、どかああああーんと、道路のまんなかに「気が付かなかったら死んでしまいますがな」という大きさの穴は開いていないものの、クルマが120キロくらいでびゅんびゅん往来する田舎道は凸凹で、すぐにハンドルをとられそうになる狭い車幅の道にイタリア名物オバチャリで往来するひとびとがいて、カオスというか、ひょっとしたらイタリアのサラリーマンは毎日出勤して家に帰ってくるたびに無事生還の親族を挙げたパーティやってるんちゃうか、とおもうような危険さである。 南アフリカでのサッカーワールドカップがあった2010年には、そのむかし政府が主唱してつくったフィアットのパレルモ郊外テルミニ・イメレーゼ工場で1400人いるはずの工員全員がワールドカップが始まった途端に「病気」になって休んでしまい、いなくなってしまった。 フィアットのCEO、セルジオ・マルキンネが「あんな工場はもうこれ以上面倒みられない。イプシロンの生産が終わり次第閉めてやる」と息巻いたと英語世界ではおもしろおかしく報道されたが、実態は実は遙かに深刻で、この「マフィアとの関連をもたないシチリアでの初めての産業拠点」として作られた工場にはマフィアの力が浸透しており組合の形をとって、さまざまな生産妨害を行っている。 イタリアでは政界と社会の絶対的腐敗は底が途方もなく深くて、ほとんど戦後史を通じた問題だった。わしの「山の家」の近くでぶち殺されたベニトムッソリーニがいまでも社会的な人気を保っている理由は、あの役者気取りの威勢のいいおっちゃんがこの根強い社会の腐敗を一掃しそうに思えたからである。 マフィアを一掃しようと考えた裁判官は容赦なく爆弾で吹き飛ばされ、「マフィアの息がかかっていない」警察幹部は不思議な死に方で死に、バチカンのなかでも、決して証明されはしないがイタリア人ならたいていみなが知っている「不思議な事件」がたくさん起きた。 社会の腐敗は停滞を生んで、イタリアから国外へでてゆく移民は、社会のなんともいえない差別に満ちた住みにくさと天気の悪さで愛想をつかしてむかしからどんどん人がいなくなってしまう連合王国同様、途絶える、ということがなかった。 ニューヨークの下町に行くとイタリア人特有の顔立ちの人間がたくさんいて、まるでイタリアの都市にまぎれこんだようだが、あの人たちは3代前から延々とつづく移民の末裔で、ラツィオで会った移民3世の女びとは先祖が出てきた村を訪ねにラツィオの田舎の村に来て村を挙げて歓迎された感動を語っていたがイタリア語はひとことも話せなくて、胡乱なイギリス人(わしのことですね)に通訳を頼まなければ部屋のシャワーを直してもらうことも出来ないようでした。 それほどの時間が経っても、社会は改善されず、イタリアから出て行く移民は、いなくならずに、この頃ではブラジルなどの多国籍企業に職を求めて海を渡るのが流行っているよーである。 富の分配、ということはローマの歴史を貫くおおきな主題だった。 力があって、能力があるものが富んで、それでいいのか、とローマ人は紀元前ですら反乱してきた。 植民市群から安価な穀物が流入し、海外から「奴隷」という形で大量に流入した「低賃金で働く移民」のせいで中小農民が没落しパトリキの寡頭経済支配が拡大したローマで、民主主義社会を取り戻そうと上級貴族として約束された人生も生命も投げ出して社会改革を行おうとしたグラックス兄弟がティベリウスは暗殺されガイウスは自殺に追い込まれるのは紀元前133年ー123年のことである。 軍人としても政治家としてもすぐれた人であった「エロ禿げおやじ」カエサルは、歴史の文脈から言えばグラックス兄弟の改革を現実になし遂げたひとであるとも言えるが、この強大な権力と絶対の人気を誇った人物であってすら、改革に反対する勢力に暗殺されてしまう。 平日の午後の田舎の定食屋を見渡しながら、しかし、とわしは考えないわけにはいかない。 この圧倒的な「豊かさ」の感じの正体はなんであるか。 人間の顔が活き活きしていて、まるで神様が「ほーれ、みてみいガメ、人間というものはもともとはこーゆーものだったんだよねえー。いまのお前が知っている人間などは、あれはな、ゾンビであると思うぞ」と、例の皮肉な、態度の悪い口調で述べにきそうである。 ニッキさんという人がいて、このひとが1990年代の初めに北海道に視察旅行に行ったときのことは、たしか、この日本語ブログでも書いたことがある。 連合王国の実家の、ラウンジの薪が燃えている暖炉のまえで、ニュージーランドでは農業の「ボード」の役員であるこの人は、「日本の農家の貧しさといったら!あまりの酷さに吐き気がするほどのものだったわ!ボロボロの服に、こんな家でどうやって冬を過ごすのだろうと思う家!あんな貧しい国は、わたしは見たことがない!」 ガキわしは、そのときの暖炉の前の話題が日本の話だったのでドラゴンボールが好きなんです、と言おうと思って待ち構えていたが、ニッキさんのあまりの語調の強さと嫌悪の表情の厳しさに黙っているほうがよさそーだ、と考えた。 かーちゃんが、「日本の人は見かけよりは、ずっと豊かで、貯蓄したりして倹約しているという人もいますね」と穏やかに述べていたのを覚えているが、このニッキさんのあと、いままで、「日本が豊かだなんてとんでもない。スラムの暮らしですよ」という連合王国人やニュージーランド人、アメリカ人、ドイツ人…. 数限りなく会ったと言ってもよい。 日本に60年代の終わりから住んでいるUさんというドイツ人の女の人は、わしが何の気なしに「60年代の日本の文明的な面が失われて残念ですね」と述べたら、びっくりするように厳しい口調で、「日本が文明的な社会だったことはいちどもありませんよ。そんなものは日本人が得意のごまかしで、日本人たちの頭のなかにあるだけの過去です。どこで聞いてきたか知らないが、いい加減なことを言ってはなりません。日本はわたしが見てきた限り、ずっと野蛮で粗暴な社会でした」と厳しく言われたこともある。 このひとは日本に縁が深い、日本の友達のあいだではそれこそ「親日派」で通っていたひとだったので一層おどろいてしまった。 わし自身は子供のとき(1990年頃)の奈良と青森への旅行のときに、日本のひとたちの見た目の貧しさに驚いたことがある。 それまでは自分の国にいても、日本のテレビでも日本と言えば都会しか見たことがなく、いま考えてみれば自分が住んでいる広尾山の界隈と義理叔父の実家があった鎌倉しか見たことがなかったのでギャップに驚いただけと思うが、まず来ている「服」がどうしようもなく貧しげに見えた。 数字で見ると日本はその頃繁栄を極めていたわけで、視覚的な記憶と統計が表しているものが異なりすぎて、頭が混乱するようなところがある。 こういうことを言うと、またヘンな人がいっぱい人がよってきて「おらおらおら」されてしまうが(^^)、最後に日本にいた2010年でも、寒い午後、数寄屋橋のレストランから下の交差点を眺めながら「結構、ビンボっぽいなあー」と思ったことは(白状すると)あるが、田舎に行っても、うひゃああああああ、と思うようなビンボっぽい格好がなくなったのは、もしかするとユニクロが地方に進出したときと時期が一致しているのではなかろーか。 日本のことをよく知らない外国人を脅かそうとおもったら日本の地下鉄路線図を見せるのが最もよい、というのは日本にいたことがある「在日」外国人のあいだでは比較的よく知られた「オドカシかた」であると思う。 あの架空な未来都市の路線図のような駅が密集した図を見て現実だと思えるひとは、ごく少数の、日本の「アニメ」とかに馴染んでいるオタク青少年だけだろう。 ついでに、ひっひっひ、驚いたか、と呟いて、あのね、ほんでね、東京駅で山手線の時刻表みるとね、電車が来る時刻が書いてないのだよね。 「1〜2分の間隔で来ます」って書いてあるのね、と宣告すると相手はたいてい、ぐひゃああ、というようなどひゃあああ、というような不思議な音を発して、絶句してしまう。 だがしかしだがや。 日本の、たとえば東京では男は通勤電車のなかでは全員痴漢である。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 4 Comments

Mantova、あるいは長く続いた単純な間違いの連続

モニさんはどんどんイタリア語が上手になる。 わしは毎日洪水のように押し寄せるイタリアのひとびとの超絶おしゃべりぶりに辟易しつつある。 わしはやっぱりイタリア人は鼻孔や口のほかに特殊な鰓をもっていて、喋っているときはそっちを使って呼吸しているのではないかと考える。 そうでなければ、あの息継ぎのないお喋りは説明ができない。 Sorbaraに行く途中の田舎道で立ち寄った朝市でラビオリの型抜きをひとつ買うのに、どこから来たか、どこへ行くのか、イタリアはどこがいいとおもったか、一生懸命に聞きたがるイタリアのひとは子供のようである。 小さな町ならフェラーラがいいと思う。 いや、あんなにおおきな町じゃなくて、もっと小さいほうがいいのです。 おお。 でもボローニャはいいぞ。 ミラノもいい。 ローマはもっといい! (^^;) イタリア人には「文明の実力」を感じさせるところがいっぱいある。 わしがいまいるところはパルミジャーノを世界中に送り込んでいる地域で、バルサミコビネガーもここで作られる。 フェラーリやランボルギーニの本社がある。 地元の人と話すと「あっ、フェラーリやランボルギーニは、ほら、輸出用だから、地元のクルマの通は買わないのよ」とゆって、その自分で発明した単純な自虐に自分で笑い転げている。 パルミジャーノやバルサミコビネガーは最もマス商業主義的なスーパーマーケットといえど厳として地元のものを売っている。 薄切りにした牛肉を石板で焼いて、パルミジャーノとルーコラを載せてバルサミコビネガーをぶっかけて食べるとうまいが、この料理にぴったり合う発泡性の赤ワインも、この地方独自のものである。 わしはGPSの「高速道路は含めない」にチェックをいれて、ときどき路傍に新鮮な事故車が転がっている田舎道(この3週間で6つの事故を目撃したので偶然でない高率と思われる)を疾風怒濤の速度で往来するが、ときどきクルマがすれちがうのにやっとの道幅しかない道で巨大トラックが、ぐわあああああ、と車線をはみだしてこっちに迫ってくる。 たいてい自転車を避けるためです。 その自転車には、モデナが近づくと、パキスタニぽいおじちゃんが浮かない顔でペダルをこいでいる。 フェラーラではアフリカ人たちがやはり浮かない顔でオバチャリをこいでいる。 イタリアもこのくらい北に来ると中国の人がいっぱいいて、夕方になると町の道端をびっくりするほどたくさん歩いているが、歩いている人はいても自転車には乗っていなくて、乗り物はクルマである。 オーストラリアやニュージーランドでもそうだが、中国人は頭が良いのでみんなクルマに乗っている。 ときどき機嫌が悪いときには、いまにもクルマに巻き込まれそうになりながら「STAFF」と背中に書いたTシャツを着て自転車をこいでいるパキスタニのおじちゃんを眺めながら、もういい加減に「頭の良さ」という定義を見直したらどうなのかと思う。 「頭の回転がはやくて間違いが少ないこと」のどこがそれほど知的であるのか。 (冷菜凍死商売の一部なので)Mantovaの「Fashion District」 http://www.fashiondistrict.it/it/mantova というアウトレットへでかけてみたが、午後3時というたずねた時間のせいもあるが、なんだかディズニーランドの廃墟を歩いているような客の数で、店員さんたちと話してみても、途方もない不景気で、ここに具体名を書いてよい話ではないので具体名は書かないが2、3撤退を決めている会社もあるよーでした。 ユーロがアメリカドルに代わる、あるいは並ぶ、基軸通貨になる可能性がゼロになってから、ここまで無理に無理を重ねたユーロ圏の経済の運命は決まっていた。 ここまでもっているのは奇跡に近いことで、よく言われる「欧州の多様性」と言われるものの淵源である「他人のことなんて知らね」という伝統が、こういうときになると、意外な利点を発揮する。 モニはコモに本社があるブティック・チェーンの品物に興味をもったのを皮切りに、イタリア特産の品物を買いだしたら止まらなくなってしまったようでした。 結局シトロンの後には入りきれないくらいアクセサリや服を買い込んでしまったが、コモの家に置いてゆくのならいいが、こんなにたくさんの買い物をどうやって持っていくのだろう(^^) 目下、欧州はドイツ人に「万が一、この苦境が乗り切れたら、もっと威張らせてあげるから、しっかり頑張ってね」とみんなが観客席でお弁当を食べながら声援を送っているところだが、イタリアでも自分ではあんまり頑張る気はない(そりゃ、そーです)ので、「運を天に任す」というか、どーでもいいや、というか、今日の夕ご飯よりも先の遠い未来のことを心配しても仕方がない、というか、欧州伝統の「おれの知ったこっちゃないわ」モードにはいっているところなのが見てとれる。 ダービー伯爵内閣時代に連合王国財務大臣として「日本はチョービンボで搾取できる富がスカな国の割にサムライという凶暴な人間たちがいて、やたらと刃物を振り回してイギリス人に多大な被害を与えたりしている利が少なくて野蛮な国なので中国のような植民地化を考えるのは財政的に見てオタンコナスである」と答弁して結果としては日本の近代化の道を開いたベンジャミン・ディズレーリ首相は、Centoに生まれたイタリア人の孫だったが、そのCentoで夕飯を食べた。 Centoのようなイタリアの小さな町にでかけると町並みが「文明は、もともとこういう形をしているのさ」と語りかけてくるような気がしてくる。 まだ町でくらしているひとびとの呼吸がひとつづつ聞き分けられるような町の大きさだからです。 フランスもそうだが、大陸欧州の町は個人が「自分の人生はこういうものにしたい」と考えて自転車フレームぼスタジオを開いたり、作りたてパスタの店を開いたり、料理屋を開いたり、という人間と社会の関わりの始原的な姿がみてとれて人間と文明の関わりを判り安く説明してくれる。 違う言い方をすると初めに「産業革命」が次にはT型フォードの「マスプロダクション」がいかに個人と社会の関わりを見えにくくしてしまったか簡単に理解できます。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

Ferrara

Ferrara(←この地名を正確に発音してみよ)のユダヤ人博物館に行ったら「地震の被害のため休館」だった。 いきなりやることがなくなってしまったので、Ferrara旧市街の中世x2な通りを歩き回って、チョーかっこいい(現代)デザインのコークスクルーやまるで、あらかじめモニの美しい胸元のためにこさえられたような素晴らしい首飾りを買った。 近くなのでランボルギーニ本社に勤めている友達を訪ねようかとも考えたが、仕事日の仕事時間中に、いかにもマジメに一生を暮らす気がなさそうなカップル(わしはポークパイハットに道路脇に咲いていたポピーを挿している)が職場に訪ねてくると、不況の折、いきなりクビになるかもしれないのでおもいとどまった。 「Il Castello」 http://www.centroilcastello.it/?page_id=33 という名前のモールへでかけてモニさんは「Bottega Verde Erboristeria」、わしは「Euronics」でちょっと遊んだが、モールというものはどうしても退屈な場所で、ほんの十分くらいで田舎へ行こうということになった。 クルマのなかに戻ってみると摂氏34度で、夏日です。 イタリアらしいろくでもない路肩の細い田舎道に沿った、Ferraraから15キロくらい離れたところにある村に見るからにおいしそうな、小さな料理店があって、なかに入ってみると、新聞を広げてひとりでしんねりむっつり、満足のタメイキをつきながらパスタを食べているデブいおっちゃんや、やっぱりひとりで真剣な顔でひとくち食べては天井をにらんで(本人の主観では)人知れずうめいているビジネスマン風のおっちゃん、そうかと思うと、マジメにアンティパスティから初めてプリミ、セコンディと注文している若いカップルが二組いて、第一、店内が「美味い食べ物だしちゃるけんねえええ」という空気がかっちりと出来ている雰囲気だったので、モニとふたりで、テーブルに案内してもらった。 注文する段になると、「メニューはないので、わたしが口頭で全部説明します」というので、わしは、「むひひひ。勝たでもええのに、また勝った」と勝利を確信したのでした。 無茶苦茶うまかった。 なんだか食事をするということが、シーツのあいだで夢中になる、あんなことやこんなことと同じいけないことのように思われるほどうまかった。 言語表現上はBrillat-Savarin以来、陳腐な表現と化しているが、他に思いつかないので仕方がない、食事の時間は質がどんどんあがってゆくと質のよいセックスにどんどん近づいてしまうもので、こんなにおいしければ羞恥心くらいもたなければいけないのではないかと考える。 冒頭の画像がアンティパスティとして出てきた魚介類で、日本のひとは世界でいちばんシーフードが理解できる国民なので、皿の上のプレゼンテーションを見ただけで、この料理がどれほどおいしかったか完全に理解できると思います。 わしは(食べ物で涙ぐんでいたらマジバカだが)涙ぐんでしもうた。 イタリア料理がこんなにうまいものだとは知らなかった。 大好きなひととのセックスを別格にして、音楽と美術と料理とは、人間の五感を演奏して絢爛たる朦朧に導く4つのものであると思う。 聖霊などは哀れにも肉体をもたないので、この4つのもののどれも肉体で受容することができない。 「魂」と言う。 「精神」も似たようなものだが、肉体の受容器が引き起こす恍惚に較べれば寂しい興奮であると思う。 イタリアの自然は魂よりも官能に訴える。 イタリアの田園の上に浮かぶ豊満な積雲や愛撫という言葉を連想させる麦畑をみて「精神性」などというダッサイ言葉を思いつくのは教養に欠けるドイツ人だけであると思われる。(バジルさん、ごめんなさい) ニュージーランド南島の「宇宙的な景観」が魂によりおおきく訴えるのと良い対照を成している。 向こう側の梨畑でまだ若くて固い性的な感じのする梨の実を写生しているモニと会いに麦畑の畝の中を歩いて行くと、イタリアの自然がどれほど肉体の五感に照応したものであるかわかる。 人間の言語が伝達のための道具だという思想は近代の人間がつくりあげた迷妄のなかでもチャンピオン級のものだろう。 言語が持っているさまざまな能力のうちで「伝達」は言語にとって最も苦手な機能であるにすぎない。 人間と人間が向かい合ってテーブルをはさんで座っているとして、というのが抽象的な表現に過ぎるなら、わが友オダキン(@odakin)(職業的な物理学者です)とわしがテーブルを挟んで座っているとして、「月がなぜ地球に向かって落ちてこないか」を話し合うことはたやすいことだろう。 ふたりで古典物理学を同時におもいだしてみればよいからです。 「デカ目アニメが美でありうるかどうか」についてはもっと複雑である。 「共有されて止揚された『観念の高み』」がないからで、お互いに自分の考えと感想を述べ合うだけで、すべてが相対になって、泥沼のような感想合戦になってしまう。 地を這ってきたものには「絶対」が存在しないからだともいえる。 しかし地を這ってきたものがほんとうに「絶対」に無縁かというと、そんなことがないのはロココ芸術を考えればそれだけで足りる。 美術批評家たちが、あれほど口を極めて罵っているのに、たとえば実家のわしの部屋にはブランコに乗る、えーかげんな表情の、素晴らしい美貌と肉体の持ち主ではある貴婦人のでっかい絵が恥ずかしげもなく壁に飾ってあるのは、わしの「地を這う精神」が、肩肘はって「正しさ」ばかりを求めている美術批評家たちの道学じみた美術哲学を笑っているからだと思う。(ゆってもうた) あるいはトスカナの初夏の午後の風が、どんなふうにわしの気持ちを昂揚させるか、とか、自分がどれほどモニを愛しているか、というようなことをテーブルの向こうにいるオダキンに伝達するのは無理で、なぜならそういう「観念の高み」を必要とする事柄を伝達するためには言語が単独ならば「言語が連結されたときにクリック音を立てる定型性」か、あるいは音楽の旋律の定型性を借りなければ実現することができなくて、われらがオダキンには、どちらも言語のなかに用意されなくて、詩すら読めないオダキンが持っている魂の定型(絶対)は物理学と(道具としての)数学に限定されているからである。 言語には「伝達」の機能などないに等しい。 しかし、それならばわしにはオダキンと相互に伝達する方法がないのかと言えばそんなことはない。 それは何かって? 「妄信」ですよ。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

ノーマッド日記14

わしはエミリア・ロマーニャ(Emilia-Romagna)にいる。 Emilia-Romagnaの梨畑に囲まれた農家の一軒家で、真夏の日差しに変わった外の陽光のきらめきを見ている。 この農家にはロバが一頭と、囲いも無い庭を歩き回る雄鶏や雌鶏たちがいて、むかしは麻の脱色に使ったという深い池のまわりにカモの一家が住んでいる。 牛の鳴き声そっくりの声をたてて鳴くカエルたちがいて、エミリア語でなんというか農家の持ち主が教えてくれたが、忘れてしまった。 フェラーラとボローニャの中間にあるこの村の辺りでも二度あった地震で壁が崩壊した旧家がそこここにある。 クライストチャーチの苦闘を手伝いに行っておぼえているモニとわしは思い出して、「たいへんだびな」と話し合った。 午前はボローニャに住む友達と一緒に午ご飯を食べにあの世界一古い大学のある町へでかけた。 友達が教えてくれた広大なプラザの地下の駐車場は肝腎のプラザの名前を忘れてしまったので、どこにあるか判らなかった。長距離バス乗り場の前の駐車場に駐めて、メインストリートを大学町まで歩いていった。 ボローニャはおおきいというだけの普通の町で、特に面白いことがあるわけではない。本屋でイタリア園芸の本とエミリア料理の本を買って、文房具屋でいかにもイタリア風のシンプルでシブイデザインのノートブックと日本の「トンボ」製のボールペンを買った。 ボローニャ大学の構内では、ベンチに腰掛けてワインを飲んだ。 後の二階から洩れ聞こえてくる会話を聴くともなしに聴いていたら、ふたりの若い男が「神の実在」に話しているのだった。 しばらく神の実在について議論していたが、「では悪魔の姿がどこにも見えないのは何故か」というところで突然会話が途切れた。 ここにも「悪魔の姿がみえない」ことの真の意味を悟って沈黙に襲いかかられたひとびとがいるのだと考えて感動してしまった。 神があちこちに顕在して悪魔がどこにも存在しないのは、もちろん悪魔が神にとってかわってしまったからであるだろう。 友達とガールフレンドとモニとわしの4人で愉快な昼御飯のテーブルを囲んだ。 通りに出したテーブルのそばをおだやかな表情の女装した男の人と背の高い女のひとが笑いながら、テーブルの脇を歩いて行く。 「エクソシスト」の話をしているところを見るとイタリアでは新しいエクソシストが公開になっているのだろーか。 ずいぶんイタリア語が上手な、それでも紛うことない日本人の女の人がすれちがいかけたイタリア人の女びとを呼び止めて、抱き合って両頬にキスするイタリア式で久闊を叙している。日本の人は外国語が上手な人が少ないと思っていたのでびっくりした。 それとも「すべりひゆ」もイタリア人みたいなイタリア語を話すので、もしかしたら日本語人とイタリア語は相性がいいのだろうか。 さっきジェラート屋へ一緒に行ったら、ガメは初めは「ピコロ」と言ったくせに、すぐにもう一個シシリアンも欲しいな、あれはグリグリガムドロップだもんな。うまいのさ。えっ?きみイタリア人の癖にグリグリガムドロップを知らないのか? ニュージーランドの有名なアイスクリームなんだぜ。 元の言葉はイギリス語で「やったぜベイビー」という意味なのさ。 どーしてイタリア人が知らなきゃいけないのかって? イタリア人は人間の文明の母親だからアイスクリームのような文明の良い面を代表しているものについて博識ではなくてはならん、と思わないかね。 (女の子、ふたりとも商売ほうっぽらかしになってヘンテコなガイジンの出現に手放しで笑い転げている。客も同じ) あとピスタチオ外したらバカだべし、ココナツも欲しいなと言い出して結局5つ盛りにしてもらってジェラート屋の女の子が呆れかえっていた。 ガメみたいに単純な人間がこの世界にいるだろうか。 まるで1+1のように単純である。 2+2のように明らかで、 3+3のように判りやすい。 ボローニャは汚くて取り柄がない町だが、ちょっと町の外にでるとエミリオロマーニャの道はあくまで「風光明媚」という日本語の表現そのままで、遙か彼方まで続く小麦の畑に、ところどころ梨や林檎の果樹園が見えている。桃もある。 小麦の他はオリブとブドウばかりだったウンブリアやトスカナとはまるで風景が異なります。 洗濯物がたまったからランドリに行こう、とモニがいいだした。 (乾燥洗濯機が置いてある)コモの山の家にたどり着くぶんまでに十分な清潔な服と下着があるでしょう、とわし。 ダメだなああ、ガメ、むかし日本で金沢に行ったとき洗濯をしなければいけなくなってあちこち探してコインランドリにいったときの楽しさを忘れたのか。 おおお。そうであった。 やり方が判らなくて、たまたまやってきた近所の人に訊いて、ふたりでオカネをいれすぎたり、4個つかって怒られたりしながらコインランドリを使ったのは無茶苦茶楽しい出来事だった。 農家の主人に聞いてみると10キロ行った先くらいのベネット(北イタリアのスーパーマーケットチェーンです)があるショッピングセンターにコインランドリがあるというので、でっかい布の袋を用意してもらってでかけた。 でっかい洗濯物を肩にしょった姿が中世の罪人みたいだ、といってモニが笑いころげておる。 行ってみると、EURONICS(イタリアのヤマダ電機でごんす)、ベネット、シネマコンプレックスまであって、チョー巨大なショッピングセンターです。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 4 Comments

移動性高気圧2

1 国木田ドッピョという名前がいいのではないかと思う。 ドッピョはイタリア語でダブル、という意味です。 大庭亀夫というようないかにもニセガイジンぽい名前をやめて、明治の文豪国木田独歩の名をかりて、しかもイタリア文明への憧れがにじみでた「国木田ドッピョ」は良い名前であるよーな気がする。 改名をまじめに検討したい。 イタリアにやってきてからまだ二週間だが、イタリア人はマジメで勤勉なので、マジメかつ勤勉な人間のみを愛する渡邊和民なわしの心の琴線に触れる。 金銭に触れるのではない。 琴線です。 金泉という酒もあるが、立山のほうがうまいと思う。 今回イタリアにいるのは斥候行動である。 十全計画は通常「調査→斥候→侵攻」の順で行われるが、王国はもっか人員が不足気味なので十全外人たるわしが出張ることになった。 ラツィオからウンブリアを経てトスカナへやってきた。 不動産価格を調査したり、町々のひとびとと話したり、唐突に「あんたはムッソリーニを知っているかね?」と広場のまんなかでわしを呼び止めて長口舌をふるわれるばーちゃんの気迫に負けたりしながら、ゆっくりと北上中のもののようである。 二週間目には話している人が、ふと、話すのをやめて「あんたイタリア人だよね?でも、どこの訛か判らないが、どこかの訛がかすかにあるなあ」と言われるのを期待していたが、そんなことは全然起こりませんでした。 英語人なのがバレバレである。スペイン語でOKOKとゆっているのではありません。ばれっぱなしにばれている。 くやしい。 すごく、くやしい。 イタリアにはでっかい鼻ヒゲを生やして青いつなぎを着てちゃんとあの帽子を被っているスーパーマリオからそのまま逃げてきたようなおっちゃんが要所要所で待ち伏せているが、そういうおっちゃんに「きみ、ね、それ男性名詞」とかゆわれると、ぐわあああああと思います。 モニさんのイタリア語上達は早いようだ。 ニューヨーク暮らしが長かったせいでアメリカ人の語学下手が伝染して外国語が得意でないのだと思っていたら、イタリア語は思いの外はやくおぼえてしまう。 なんとなく世界から自分だけが取り残されてゆくような寂しい気持ちがする。 2 毎日クルマでイタリアの田舎をうろうろしている。 イタリアの道路は変化があって楽しいので飽きないのね。 「田舎道」といっても判りにくいので写真を添付すると、こーゆー感じの道です。 ラツィオの田舎は、こーゆー感じの曲がりくねった山道が多いが、そーゆー、ほんとうは「イノシシが短距離競走に使ってるだけなんじゃね?」というような道をずんずん、カーブをヒール&トウで(冗談です)せめながら走ってゆくと、山道の途中に忽然とレストランの入り口があって、やってるんだかやってないんだかわからない、チョーやる気のないたたずまいに構わずにどんどんと建物にはいってゆくと奥には人がたくさんいて、一口食べるとテーブルの上に立って振り付きでカンツオーネを歌いたくなるような料理が出てくる 山道を抜けて幹線道路に出ると、こーゆー感じ 横を見ていると、こーゆー町がひっきりなしに見える わしがいままでの一生で見た最もオモロイドライバはフランス国境に近い高速道路で見た「スパゲッティを食べながら運転している若い女びと」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/22/イタリア・フランス・スペイン/ だったが、なにしろスパゲティを食べながら130キロでぶっとばす偉人を生む国なので、ふつーの道路でもオモロイ人はいっぱいいます。 前にも書いたがオンカミングのクルマが200メートルくらいのところに来てるのに、「車線が広いんだから避けられるべ」というので追い越しをかけて突っ込んでくる人、あるいは、左折して出てくるクルマが見えているのに追い越しをして見事に激突してしまう人、理由は不明だが追い越しをかけるインディケーションを出したまま左に出て、そのまま斜めにダッシュで麦畑に突っ込んでしまう人、ゲージツ的、というか、どうして同じ欧州で、というか同じ人間で、なんでこんなに「運転」というものへの思想が異なるのだと考えて感心してしまう。 こちらはあぶねーとアマチュアカーレースで習ったディフェンシブドライビングのすべてのテクニックをフルに発揮して避けまくるが、イタリアの人はどーやって道路上で生き延びているのだろうと考えると不思議な気がしてきます(^^;) ついでに述べておくとモニさんが運転することもあるが、モニの運転はイタリアのドライバの運転よりもずっと怖い(追い越しをさせないとか)なので、気合い勝ちで、極めて安全です。怖がって誰も近づかん。 たとえばDerutaのような陶器・磁器の町に行けば当然スタジオを訪問して、製法や歴史、業界の裏事情、いろいろな話を聴いて遊ぶ、 次の食事の料理屋も、こういうときに忘れないで聞いておく。宿屋も聞いて決める。 そうやって運転していくうちに疲れればまた次の宿、一泊だけならイタリア式のモーテル に泊まって、また次の町をめざす。 大陸欧州の旅の最も良い点は、中世の旅人の道をとおって、あたかも中世の旅人、ただし馬の代わりにクルマで、遠くまで楽しい食事や会話、ワインを楽しみながら移動してゆけるところで、アメリカや豪州、ニュージーランドでは、残念なことに文化にそこまでのバラエティがないので、この「ひとつの世界から次の世界へ」旅をしてゆく感覚が味わえない。 鉄道の旅も同じで、鉄道は移動能力が高すぎるので、異文化が次々に自分の皮膚をなでながら通過してゆく感覚がない。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

Arezzoの骨董市

1 「豪雨ですけど。ほんとに行くんですか?」 「行きます」とモニさんは眼差しを決しておる。 「だって店はほとんど露天ですよ?」 「晴れるから大丈夫」 「でも天気予報はこのまま一日雨ですけど」 「空を晴れさせるのはわたしに任せてガメは運転してアレッツオまで行けば良いのです」 はあああーい、というわけで、モニとわしはクルマでアレッツオに行った。 アレッツオは有名な町なので説明の必要はないと思うが、エトルリア12都市のひとつで、ナポレオンに占領されたりしたことはあるが、ずっとイタリア・トスカナの中心都市のひとつだった。 人口はたしか十万人弱です。 もうイタリアに到着してから何度も書いているのでイタリア人主婦portulacaに怒られそうな気がしてきたが、やっぱり穴ぼこだらけの道路を通って、おまけに大雨のなかをアレッツオに着いたら豪雨がウソのように晴れた(^^;) 「モニには加持祈祷の能力があったのか」と言うと 「ガメのライブリから盗んできた本で勉強した」といってモニさんはすました顔をしている。 ともかく現に降っていた大雨が天気予報の「一日中大雨」にも反して、からっと晴れてしまったので、駅の脇にある駐車場(1時間€1)にクルマを駐めて駅から骨董市がある町の中心部へ歩いて行った。 アレッツオの骨董市はイタリア一の規模で、月一回開かれる。 骨董の質は玉:石=1:999くらいで、こういうタイプの骨董市でこのくらいの質が高い製品が混ざっていれば上の上というか、ロンドンの骨董商(といっても良い骨董品店はみな郊外に移ってしまったが)は目利きをして、良いものを膨大な利益をのせて売るが、イタリアのこういう骨董市は、売っている人が自分の趣味にしたがって集めたものを並べてあるので、自然、あんまり市場価値が高くないものもあるが、えっ?これをこの値段で売ってしまうのか、という骨董品もあります。 アレッツオの骨董市を見立てると、マイセンや他の磁器のよいものでずいぶん安く出ているのがあった。 絵付けも表情もしっかりした4人の貴族の子弟をかたどったものが€3000で出ていて、表に出してある価格が€3000なら€2500くらいで売ってくれるはずで、同じくらいのものはロンドンではユーロに換算して€6000くらいなので、びっくりしたりした。 路上に出ている屋台店よりも道の両脇にある骨董店には、更に良い品物があって、こちらは「目利きフィルター通過後」のものが多いが、鞄や靴と同じで、イタリアから「目利きフィルター」を通してロンドンに運ぶだけでいきなり倍以上の価格をつける「イギリス商法」が思い出されて笑ってしまうが、それにしても、イタリアは骨董品の数がかなわないくらい多いのだなあー、と改めて実感させられる。 骨董品を眺めて店のひとが由来を述べる口上を聞いて質問したり、冗談を述べたり、屋台をひとつずつ覘いて遊んでいるうちに4時間くらいはあっというまに経ってしまう。 前にも書いたがイタリアやスペインで知らない店をおいしいかどうか判断しようと思ったら、料理の写真がある店と英語のメニューがある店には行かなければ良い。 ほんとうのことを言うと、スペインとは異なって、イタリアの田舎にある店には、客の便宜のためだけを考えて英語メニューを用意してある店にもおいしい店はあるが、(そういう店は、よく見るとイタリア語の分厚いメニューには写真はなくて。うすっぺたい英語のほうにだけ写真をつけてある。間違っても店頭には出ていない)、ま、無難を願えば、メニューがイタリア語だけで、店員も英語で話す気配もない、というところがおいしいのだと思われる。 4時間半歩き回ってくたびれたので、駅に向かって左側の地元人が行き来している通りの、そのまた裏通りで、スパゲティ・ボンゴレとビノ・ロッソ・デ・ラ・カサとフリザンテの軽い昼御飯を食べた。 ボンゴレはイタリアのうまい店が出すのは「乾いたボンゴレ」です。 日本のように食べ終わった皿にスープみたいなものが残る、ということはなくて、盛大に載ったアサリとスパゲッティを食べたあとの皿はからりとしている。 フラットリーフパセリ(イタリアンパセリ)が散らばって残っているだけの状態になっている。 アレッツオのようなおおきな町では不味いレストランが多いので、地元人向けちても、どーせダメだびな、と考えたが、おいしくてびっくりした。 マジメじゃん、と考えました。 テーブルワインもうまかったし、モッツアレーラとポモドロが載ったブルスケッタもうまかった。 レストランを出て歩いて行くと、なんだか見知った顔が屋台の後ろでつまらなさそうに座っている。 本人の作品に囲まれているのですぐに判ったが、日本でも割と名の知られた画家であるはずのPさんが自分の作品を屋台で売っている。 相変わらずの「チョーいい考え」に溢れた作品で、値段も€120とかに過ぎないのに、あんまり売れていないよーで、屋台では画廊にあるときの半額なのに、売れない。 ゲージツの道は厳しいのだな、と考えました。 結局、ジノリのフィギュアリンいくつかとボローニャの画廊が出していた店の店頭で目をひいた若手の画家の絵をふたつ買った。 イコンを制作してもらおうと思っていたイコンスタジオは昼御飯に出かけたらしくドアが閉まっていて、この次でいいや、ということにした。 2 前に小説家のひとがやってきて「ガメ・オベールは卑怯だから過去のツイートを削除する。自分の発言に責任をもてないのだったら発言するな」と言っていて、笑ってしまったことがあったが、その頃はツイッタはジャバスクリプトを書いても3000以上はツイートをさかのぼれないので3000ツイートに近づくごとにアカウントを変えていた(^^) この頃はいろいろなツールがあって便利だが、各種愛用しているツールのひとつを使って3ヶ月を越えたツイートは自然消滅するようにしてある。 内藤朝雄などは最もひどい被害に遭っているが、日本人の世紀の大発明トゥゲッターを使って、恣意的に編集して「釣り」というのか、もともと出元になった人間の発言を確かめもしないしする気も能力もないお調子者の群れをだまして「内藤朝雄はいかに酷い人間か」という意見を盛り上げて、傍らで眺めて「世の中にはどうしてこんなに簡単に『釣り』にひっかかるバカが多いんだろう」と愉快犯の快楽に耽溺するひとがいる。 「ツイッタの言論」などと言っている。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

ノーマッド日記13

なんだか、むかし日本にいたことがあるなんて夢のなかの出来事のような気がする。 モニや妹やむかしからの友達はみな知っているが、ぼくは「日本語」という言葉がとてもとても好きだった。 イタリアでは相変わらずスペイン語とイタリア語が混濁して嫌な顔をされるし、フランスでは文法を間違って爆笑される。 日本語だけは「ニセガイジン」といわれるほど上達したのは、子供のとき住んでいた云々よりも、やっぱり「日本語」という言葉が好きだからだろう。 日本の社会は、あんまり好きでなかった。 マンガ(特にめぞん一刻)やアニメ(特にトトロ)から想像したのとは違って、毎日顔をあわせるひとは愛想がよいが、インターネットを通じてみる「ホンネ」の世界では軍隊の兵営内部さながらというか、「他人を傷つける」ことに自分の才能を特化しようとしている人ばかりで、しかもそれさえかなわず幼稚な悪罵に終わってしまう人が多くて、その上、頭のなかで辻褄が合うと、それが真実だと闇雲に信じ込んで、しかも辻褄の手妻に長じた「教祖さま」みたいなひとにもっと頭がうまく動かないひとたちがおおぜい従いて歩くという「ほんとうに先進国なのか」(ごみん)というていたらくの社会だったと思う。 言語が大好きなのに社会が嫌いなんてヘンなことがあるだろーか、と考えたことがあったが、考えてみればあたりまえなのかも知れなくて、唇をかみしめて、「個人」のことなど一顧だにしない社会のなかで生まれ育って死んだひとびと、「自由でありたかった」ひとびと「自分自身でいたかった」ひとびとの思いの丈は「日本語」という言語以外には行き場所がなくて、日本語がびっしょり濡れている「意味」や「情緒」にはそういう魂がいっぱい詰まっている。 英語なら「I don’t deserve this」という。 自分の人生はもっとマシなものだったはずだ。 おれは、もっとマシな人間なんだ。 「日本語」の奥底から、そういう「声」が低く、でも明瞭に聞こえ始めて、ぼくは 自分が日本語で書くもののなかで「聞き取りにくい声を聞きにいく」と繰り返し述べ始めた。 透谷は日本人にとってのほうが、もしかしたら、読むのが難しい作家で、なぜなら 「処女の純潔を論ず」という、その「処女」も「純潔」も、いまの手垢がついて意味が変容した「処女」や「純潔」とはまったく語彙としての意味が異なるからです。 北村透谷というひとは日本人にとっては、まったく巨大な罠のような作家で、語彙のおおくを透谷が「造語」していたのだということに気付いてひとつずつ意味を修正しながら読んでいかなければならない。 そうやって修正した北村透谷は、日本で初めて男も女も社会の部分ではなくて、商店の軒先の棚から一段昇華され止揚された「観念の高み」にある「一個の全体」でなければならない、と述べていたので、それに気が付いて読めば、力をつくして戦ったあげく自然を自然と認識できなくなったことを告白する「哀詞序」で(finnalventさん風の用語を用いれば)「離人症」の暗黒に落ちるまで、ひとつの高貴な魂の軌跡を描いた人で、世界文学のなかでもすぐれたもののなかに数えられるべき作家であると思う。 透谷を皮切りに日本には数々の「敗者」がうまれた。 日本人の自由への希求と渇望は、からみついてくるような集団の悪意と誹謗のなかで足をとられた魂たちの敗北の歴史だった。 たった一回の輝かしい勝利もなく、およそ日本語で「個人」の絶対の偉大さを述べて、それに較べれば社会などはクソだ(言葉が悪くてごみん)と述べたひとは、あるいは収監され、あるいは経済的社会的に葬られて、ほんのささやかな勝利も手にしたことはなかった。 日本には「われわれは、そうしなければ悪魔のような西洋に食われてしまうのだ。そうしなければ国が滅ぼされて皆奴隷にされるのだ」という日本人の心に訴えやすい危機を述べていつでも人心を収攬できるむきだしの姿の国家が生きていて、また(最近では下地真樹の逮捕劇をみれば判るように)必要とあればむきだしの国家のむきだしの牙で、自分の国の国民をくわえて連れ去ることに躊躇の気持ちを持たないからです。 日本の歴史のそこここに累々と無惨な骸をさらしている「個人の自由」と無力だった敗者の姿は、しかし、それこそが日本人と日本人を支えてきた日本語の偉大さを示している。 (なんかネトウヨみてえ) その連続した敗北の歴史は、どんなに蹂躙されても、決して諦めずに手を変え品を変え自分達の「役にも立たない自由」を主張してきた歴史そのものでもあるからです。 日本語の闇に向かって耳をすましていると必ず聞こえてくる「聞き取りにくい声」、「ぼくは人間なんだ。社会の部品なんかじゃない」というか細い声の伝承は、日本の人にとって、最大の勲章であると思う。 モニとぼくは、相変わらずイタリアの人口が1000にも満たない村から村へ、ふらふらと移動して遊んでいる。 通りを挟んでアパートの窓から窓へでかい声でなかなかすっきり晴れてくれない天気に向かって悪態をつきあっているばーちゃんたちを通りから見上げて「ボンジョルノ」(もともとは英語の「グッデイ」と同じ意味)というと、ばーちゃんは、イタリア人固有の「まあな、どうしても、そう言いたければ、それでもいいが」の有名な身振りをしながら、しぶしぶ「ボンジョルノ」と述べている(^^;) チョーうまそうな料理屋があったので、まだ朝の11時半だったが、「開いてますか?」と訊いてみたら、「客が来たのに、開いてない料理屋なんかないのさ」と述べてウエイターのおっちゃんがテーブルを大急ぎでセットしてくれる。 500mlたった€3のテーブルワイン、メッツオリトロのビノロッソデラカサから始まって、おおげさでなく天にものぼる味のtartufo(イタリアトリュフ)をいっぱいかけたカルボナーラとバルサミコをシュッシュッと噴きかけて食べる「これでランプステーキなのかあ」なステーキ でお腹がいっぱいになったぼくは、 同じようにtartufoをかけたクリーム入りのカルボナーラとローズマリーで味付けしたステーキで、うーくるしー、になったモニとふたりで、その知らない村を散歩した。 頭がくりくりのでっかいおっちゃんが全部手作りしているお菓子屋さんによって、あとで無茶苦茶法外においしいことが判明したやわらかいカントチーニを1キロ買った。 指先に心を凝らすようにして丁寧に紙で包装してセロテープで丹念に止めるこまやかな仕方が日本の人のよーである。 帰りには、「産直野菜販売所」に寄って枝についたままのポモドーロ(トマト)を山のように買った。 トマトを使う予定はないが、モニもぼくも、なんとなくトマトをたくさん買う気分だったから。 それから花屋に行って呆れかえっているおばちゃんを横目に店にある花という花を買い漁った。 野菜や花をたくさん買って、両腕に抱えきれないほどになって、降り出した雨のなかを帰ってきました。 こんなに唐突では、だいいちなんのことだかちっとも判らないし、面食らうだけだろうけど、モニもぼくも、日本のひとが幸福になるのを心から願ってる。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 3 Comments