Arezzoの骨董市

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「豪雨ですけど。ほんとに行くんですか?」
「行きます」とモニさんは眼差しを決しておる。
「だって店はほとんど露天ですよ?」
「晴れるから大丈夫」
「でも天気予報はこのまま一日雨ですけど」
「空を晴れさせるのはわたしに任せてガメは運転してアレッツオまで行けば良いのです」

はあああーい、というわけで、モニとわしはクルマでアレッツオに行った。
アレッツオは有名な町なので説明の必要はないと思うが、エトルリア12都市のひとつで、ナポレオンに占領されたりしたことはあるが、ずっとイタリア・トスカナの中心都市のひとつだった。
人口はたしか十万人弱です。

もうイタリアに到着してから何度も書いているのでイタリア人主婦portulacaに怒られそうな気がしてきたが、やっぱり穴ぼこだらけの道路を通って、おまけに大雨のなかをアレッツオに着いたら豪雨がウソのように晴れた(^^;)

「モニには加持祈祷の能力があったのか」と言うと
「ガメのライブリから盗んできた本で勉強した」といってモニさんはすました顔をしている。
ともかく現に降っていた大雨が天気予報の「一日中大雨」にも反して、からっと晴れてしまったので、駅の脇にある駐車場(1時間€1)にクルマを駐めて駅から骨董市がある町の中心部へ歩いて行った。

アレッツオの骨董市はイタリア一の規模で、月一回開かれる。
骨董の質は玉:石=1:999くらいで、こういうタイプの骨董市でこのくらいの質が高い製品が混ざっていれば上の上というか、ロンドンの骨董商(といっても良い骨董品店はみな郊外に移ってしまったが)は目利きをして、良いものを膨大な利益をのせて売るが、イタリアのこういう骨董市は、売っている人が自分の趣味にしたがって集めたものを並べてあるので、自然、あんまり市場価値が高くないものもあるが、えっ?これをこの値段で売ってしまうのか、という骨董品もあります。
アレッツオの骨董市を見立てると、マイセンや他の磁器のよいものでずいぶん安く出ているのがあった。
絵付けも表情もしっかりした4人の貴族の子弟をかたどったものが€3000で出ていて、表に出してある価格が€3000なら€2500くらいで売ってくれるはずで、同じくらいのものはロンドンではユーロに換算して€6000くらいなので、びっくりしたりした。

路上に出ている屋台店よりも道の両脇にある骨董店には、更に良い品物があって、こちらは「目利きフィルター通過後」のものが多いが、鞄や靴と同じで、イタリアから「目利きフィルター」を通してロンドンに運ぶだけでいきなり倍以上の価格をつける「イギリス商法」が思い出されて笑ってしまうが、それにしても、イタリアは骨董品の数がかなわないくらい多いのだなあー、と改めて実感させられる。

骨董品を眺めて店のひとが由来を述べる口上を聞いて質問したり、冗談を述べたり、屋台をひとつずつ覘いて遊んでいるうちに4時間くらいはあっというまに経ってしまう。

前にも書いたがイタリアやスペインで知らない店をおいしいかどうか判断しようと思ったら、料理の写真がある店と英語のメニューがある店には行かなければ良い。
ほんとうのことを言うと、スペインとは異なって、イタリアの田舎にある店には、客の便宜のためだけを考えて英語メニューを用意してある店にもおいしい店はあるが、(そういう店は、よく見るとイタリア語の分厚いメニューには写真はなくて。うすっぺたい英語のほうにだけ写真をつけてある。間違っても店頭には出ていない)、ま、無難を願えば、メニューがイタリア語だけで、店員も英語で話す気配もない、というところがおいしいのだと思われる。

4時間半歩き回ってくたびれたので、駅に向かって左側の地元人が行き来している通りの、そのまた裏通りで、スパゲティ・ボンゴレとビノ・ロッソ・デ・ラ・カサとフリザンテの軽い昼御飯を食べた。
ボンゴレはイタリアのうまい店が出すのは「乾いたボンゴレ」です。
日本のように食べ終わった皿にスープみたいなものが残る、ということはなくて、盛大に載ったアサリとスパゲッティを食べたあとの皿はからりとしている。
フラットリーフパセリ(イタリアンパセリ)が散らばって残っているだけの状態になっている。

アレッツオのようなおおきな町では不味いレストランが多いので、地元人向けちても、どーせダメだびな、と考えたが、おいしくてびっくりした。
マジメじゃん、と考えました。
テーブルワインもうまかったし、モッツアレーラとポモドロが載ったブルスケッタもうまかった。

レストランを出て歩いて行くと、なんだか見知った顔が屋台の後ろでつまらなさそうに座っている。
本人の作品に囲まれているのですぐに判ったが、日本でも割と名の知られた画家であるはずのPさんが自分の作品を屋台で売っている。
相変わらずの「チョーいい考え」に溢れた作品で、値段も€120とかに過ぎないのに、あんまり売れていないよーで、屋台では画廊にあるときの半額なのに、売れない。
ゲージツの道は厳しいのだな、と考えました。

結局、ジノリのフィギュアリンいくつかとボローニャの画廊が出していた店の店頭で目をひいた若手の画家の絵をふたつ買った。
イコンを制作してもらおうと思っていたイコンスタジオは昼御飯に出かけたらしくドアが閉まっていて、この次でいいや、ということにした。

前に小説家のひとがやってきて「ガメ・オベールは卑怯だから過去のツイートを削除する。自分の発言に責任をもてないのだったら発言するな」と言っていて、笑ってしまったことがあったが、その頃はツイッタはジャバスクリプトを書いても3000以上はツイートをさかのぼれないので3000ツイートに近づくごとにアカウントを変えていた(^^)

この頃はいろいろなツールがあって便利だが、各種愛用しているツールのひとつを使って3ヶ月を越えたツイートは自然消滅するようにしてある。

内藤朝雄などは最もひどい被害に遭っているが、日本人の世紀の大発明トゥゲッターを使って、恣意的に編集して「釣り」というのか、もともと出元になった人間の発言を確かめもしないしする気も能力もないお調子者の群れをだまして「内藤朝雄はいかに酷い人間か」という意見を盛り上げて、傍らで眺めて「世の中にはどうしてこんなに簡単に『釣り』にひっかかるバカが多いんだろう」と愉快犯の快楽に耽溺するひとがいる。

「ツイッタの言論」などと言っている。

ひとつには日本語では140文字は深刻な意見を述べられるに十分な長さだから「トゥゲッタ」のような奇妙な編集装置ができて、tweeterごと2chの後継に変えてしまうということが起きたのだろうが、日本人の集団サディズムはSNSの気楽さまで自分たちの言葉の世界に許さないのか、と考えてややうんざりしてしまう。

「No outdoor sports can be more elegant than throwing stones at autocracy; no melees can be more exciting than those in cyberspace」
というわしの大好きなアイ・ウエイウエイのツイートは英語でなされたものだった。

前にも述べたが中国語は濃縮された言語で「狂泉」

昔有一國,國中一水,號曰「狂泉」。國人飲此水,無不狂。唯國君穿井而汲,獨得無恙。國人既并狂,反謂國主之不狂為狂。于是聚謀,共執國主,療其狂疾,火艾、針、藥,莫不畢具。國主不任其苦,于是到泉所酌水飲之。飲畢便狂。君臣大小,其狂若一,眾乃歡然
の物語全体が140文字に入ってしまう。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/02/日本のくらし/

アイ・ウエイ・ウエイは中国語が母国語で本人が折に触れて述べているように英語は苦手であるほうに属する。
それでも、いまちょっと見てみるとアイ・ウエイウエイのツイートで引用されているものは英語のツイートの方が多い。SNSはもともと思想を凝縮して述べるよりも(日本語の「機知」の意味とは異なる)witのきらめきを夜空に向かって打ち上げるほうに向いているからでしょう。
わしは2chやはてなブックマークやトゥゲッターを見ていて、インターネットの「日本化」はこうやって起きるのか、と思って感心したことがある。
それが良いことか悪いことか訊いてきたひとがいたが、わしには「日本だから、それでいいのではないだろーか」としか応える言葉がなかった。
自分達の嫌いなものには巧妙な中傷を繰り返して、なかったこともあったことに変えてしまい、あったこともなかったことに変える手品で、どれほど傷ついたか内藤朝雄やバジルさんが私信で書いてきたことがある。
だがそうやって自分達が気に入らないものにあらゆる手段をつくして「勝って」、その結果、言葉の牢獄に相手をいれて鍵をかけたつもりで実際に檻のなかにはいってしまったのは自分達の方なのである。
むかし日本にいたときに日本の「選良」のひとびとは「ガメさん、そういうバカは何千人いるといっても、インターネットに巣くっている特殊なゴミみたいな人間たちだから、それが日本の社会の部分だと思われると困りますよ」と言って笑っていたが、集団言語としての日本語の畸形性はもうとっくのむかしに現実の世界に影響してぬきさしならないものになっているのではなかろうか。
日本語の世界は「慰安婦問題は韓国人のでっちあげ」「南京虐殺はなかった」という妄想(と日本語で述べることそのものが頭がいかれているが)が「常識」になっていて、実験室的やりかたで計量観察しても意味などあるわけはない「環境化した放射性物質」も「人体に有害なのではないか」と言っただけで「放射脳」という言葉の発明者の薄気味の悪い精神の形がそのまま造語に反映されたような言葉で冷笑されるところまで来てしまっている。
それは決して日本の若いほうからおっちゃんまで分布する「選良人」たちが言う「インターネットに巣くっている特殊なゴミみたいな人間たち」の特殊な思い込みでないことは最近では橋下徹が実証してみせている。
オバマが再選された前回の大統領選は「日本との同盟の解消」が主要候補の主張に並んだ初めての大統領選になった。
いまでも日本との軍事同盟に関心そのものがないアメリカ人が多いことにオバマは助けられたが、関心をもつアメリカ人たちに共通した「日本人との同盟に何の利得があるのか。もううんざりだ。われわれは敵とみなされているようではないか」という気分に訴えたので、おおきな政治イッシューになりかけて、中国との関係上日本との同盟がまだ暫くは必要だと考えるアメリカ人たちの肝を冷やした。

1990年代頃には日本人世界に向かって公式に抗議されることが多かった(西洋世界からみれば)幼児ポルノを示唆しているとしか思えないアニメは、日本に何か言うのをやめてインターネットを通じてダウンロードする(
日本人でない自国の)ユーザを容赦なく逮捕・起訴する方向に向かっているのは、簡単に言ってしまえば「日本人とは何を話し合おうとしても無駄」だという空気が醸成されつつあるからだと思う。
わし自身日本語世界では日本の幼児性愛ポルノを連想させるアニメやマンガについてはもう何年も前から「日本人が挙げて信じている『表現の自由』なんだから自分達の信じる道を行けばいいのでわ」ということになっている。
オダキン(@odakin)など一部の友人に対してだけは「日本人」であることより「友達」だという気持ちが先に立つので「いいとしこいて何ゆってんだ」と話すことがあるだけです。
他の人は、勝手にやればいいのではないか。
ただし、わしはもともと日本の(たとえば吉田戦車が好例であるように)おおかれすくなかれ創作力ゼロの「優等生」の多い編集者の影響力が発揮されない「エロ本」で好き勝手をこいて、しまいには英語訳本を出せば少なくとも欧州のアンダーグラウンド世界では大好評を博すに決まっている福原豪のような偉人を生むに至った日本の「他人に言えないアンダーグラウンドマンガ世界」が好きで「研究」したが、いまのように「日本の幼児ポルノアニメは『表現の自由』にもとづいた『あなたがたには判らない表現形式』なのだ」と肩肘を張って言い出した「表現」になど未来があるとは思わない。せいぜい村上隆のような「マジメな和製デミアン・ハースト」に自分達が到達しえたかもしれない目標地点へのポイントを切り替えられて商業主義とゲージツの奇妙な合体を見せられて「こんなはずではなかった」と地団駄を踏むくらいが関の山であると思われる。

日米軍事同盟についても経済についても社会についても同じで、日本の「法制度の後進性」を指摘されて「Shut up!」と述べた上田「人権人道」大使がいまの日本をよく表現している。
http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-99bb.html
無論、ニューズを聞いて英語社会に長く住んでいる日本人たちが訝ったように「Shut up!」は、伝えられるように、(苦笑しながら小さな声で述べたのではなくて)大声で述べたのならば語義に忠実に翻訳しようと試みれば「静かにしろ」ではなくて「うるさい、バカ野郎」だが、大使なのだから、そのくらいの英語の知識がないわけではないだろう。
片頬を歪めて小さく呟いたのではないか(それならば言葉のやりとりとしてありうる)と考えて、いろいろ日本語で話されたことを見てみたが、どうも高所に立って「Shut up!」と叫んだようで、そうだとすると、なんだか、最近とくに多くささやかれるというか、はっきり言ってしまえば「日本人の傲慢さを見よ」とニューヨークやロンドンのあちこちのパーティで洗練された物腰とともに中国ロビーに連なるひとびとが話している日本人像そのままである。
たとえば「友達になろうと思った日本人たちに刺し殺された」胡耀邦に続いて「もうひとりの胡」胡錦濤も日本側の裏切りにあっておおきく勢力を失った。日本の人が大好きなレッテルである「親日」「反日」で言えば最後の「親日」大統領になるだろうパク・クネは、さっそく日本側の世論(英語世界でもおおきく伝えられた新大久保のおおぴらな「韓国人を殺せ」マーチを見よ!)によって手錠をはめられて金輪際日本に対して肯定的なことは言えなくなってしまった。
パク・クネの政治家としてのアキレス腱は韓国人たちの「パク・クネは本当は日本人を信じているのではないか」という根強い疑いだからです。
日本のひとたちは日本人の味方は、日本人の足下に這いつくばって靴先をなめる卑屈な人間以外は常にまっさきに葬ってきた。
排外的な日本人でさえ、いまの世界では「日本人を信じるものは必ず日本人の手によって破滅させられる」という常識があるのを知っているはずと思う。
日本には「それで、どこが悪いの?」という人がいっぱいいるのは知っているが、かつては日本の社会に関心をもっていた外国人(別にニセガイジンでもかまわないがw)にとっては、友達が去ってしまったサッカーグラウンドで、ひとりぼっちで相手のゴールに何度もボールを蹴り込んで、「ほら、またぼくの得点じゃないか」と自分自身の頭のなかにだけ存在する相手チームと観衆に向かって語りかけている日本人たちの孤独な姿を傷ましいとおもわずにはいられないのです。

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2 Responses to Arezzoの骨董市

  1. 田鶴 says:

    アレッツォの骨董市、懐かしいなー。日曜日は帰りのバス乗り場が変更するとかで
    場所も分からず、流しのタクシーに乗るのも怖く、暗いしで、泣きそうになりながら近
    くのホテルに駆け込み、タクシーを呼んでもらいました。
    ーーー自己完結してしまった、出口なしのニホンなんて、どうでもよい。

    モニさんの天気予報を聞いて私は少し歩きやすくなった思いです。    田鶴より

  2. みりん says:

    ガメさん

    お久しぶりです、ミリンです。

    すごい。あれ、何ですかね。天気を味方にするというか雨が降ると予報では言っているのに降らない。絶対降らない。屋内にいる時は降っていて、外に出る時はやんでいる。むしろ水たまりが太陽の日差しを浴び輝いている。眩しすぎる。

    誰かが喜んでいる姿を見るとこっちもうれしくなるし、誰かが悲しんでる姿を見るとこちらも悲しい気持ちになる。喜んでいる姿と悲しんでいる姿を同時に見ることなんともいえない感じがする時、水たまりに映る自分の顔は見たくないような気がするけど、じっと見てしまうような気もしなくはない。

    この所、完全に無口になってしまいました。スクリプトを書くのが楽しいから。正解。いやいや、人を避けている。正解。いやいや、蟹を食べている。季節外れ。お茶を飲んでいる、お茶に酔ったふりをしている、狂泉の水で。いやいや、ボルビック。軟水。

    先月、起業してしまいました。自分の足で歩きましょう。そんな心境です。
    向かう先は風に聞いてくれ。その時こそ、天気を味方にできたらいいなぁ。
    向かい風でも進んでいくつもりですけどね。ミラー越しに見えるのは、こえー顔した車ばかりですし、最近。

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