ノーマッド日記14

わしはエミリア・ロマーニャ(Emilia-Romagna)にいる。
Emilia-Romagnaの梨畑に囲まれた農家の一軒家で、真夏の日差しに変わった外の陽光のきらめきを見ている。
この農家にはロバが一頭と、囲いも無い庭を歩き回る雄鶏や雌鶏たちがいて、むかしは麻の脱色に使ったという深い池のまわりにカモの一家が住んでいる。
牛の鳴き声そっくりの声をたてて鳴くカエルたちがいて、エミリア語でなんというか農家の持ち主が教えてくれたが、忘れてしまった。
フェラーラとボローニャの中間にあるこの村の辺りでも二度あった地震で壁が崩壊した旧家がそこここにある。
クライストチャーチの苦闘を手伝いに行っておぼえているモニとわしは思い出して、「たいへんだびな」と話し合った。

午前はボローニャに住む友達と一緒に午ご飯を食べにあの世界一古い大学のある町へでかけた。
友達が教えてくれた広大なプラザの地下の駐車場は肝腎のプラザの名前を忘れてしまったので、どこにあるか判らなかった。長距離バス乗り場の前の駐車場に駐めて、メインストリートを大学町まで歩いていった。
ボローニャはおおきいというだけの普通の町で、特に面白いことがあるわけではない。本屋でイタリア園芸の本とエミリア料理の本を買って、文房具屋でいかにもイタリア風のシンプルでシブイデザインのノートブックと日本の「トンボ」製のボールペンを買った。

ボローニャ大学の構内では、ベンチに腰掛けてワインを飲んだ。
後の二階から洩れ聞こえてくる会話を聴くともなしに聴いていたら、ふたりの若い男が「神の実在」に話しているのだった。
しばらく神の実在について議論していたが、「では悪魔の姿がどこにも見えないのは何故か」というところで突然会話が途切れた。
ここにも「悪魔の姿がみえない」ことの真の意味を悟って沈黙に襲いかかられたひとびとがいるのだと考えて感動してしまった。

神があちこちに顕在して悪魔がどこにも存在しないのは、もちろん悪魔が神にとってかわってしまったからであるだろう。

友達とガールフレンドとモニとわしの4人で愉快な昼御飯のテーブルを囲んだ。
通りに出したテーブルのそばをおだやかな表情の女装した男の人と背の高い女のひとが笑いながら、テーブルの脇を歩いて行く。
「エクソシスト」の話をしているところを見るとイタリアでは新しいエクソシストが公開になっているのだろーか。
ずいぶんイタリア語が上手な、それでも紛うことない日本人の女の人がすれちがいかけたイタリア人の女びとを呼び止めて、抱き合って両頬にキスするイタリア式で久闊を叙している。日本の人は外国語が上手な人が少ないと思っていたのでびっくりした。
それとも「すべりひゆ」もイタリア人みたいなイタリア語を話すので、もしかしたら日本語人とイタリア語は相性がいいのだろうか。

さっきジェラート屋へ一緒に行ったら、ガメは初めは「ピコロ」と言ったくせに、すぐにもう一個シシリアンも欲しいな、あれはグリグリガムドロップだもんな。うまいのさ。えっ?きみイタリア人の癖にグリグリガムドロップを知らないのか?
ニュージーランドの有名なアイスクリームなんだぜ。
元の言葉はイギリス語で「やったぜベイビー」という意味なのさ。
どーしてイタリア人が知らなきゃいけないのかって?
イタリア人は人間の文明の母親だからアイスクリームのような文明の良い面を代表しているものについて博識ではなくてはならん、と思わないかね。
(女の子、ふたりとも商売ほうっぽらかしになってヘンテコなガイジンの出現に手放しで笑い転げている。客も同じ)

あとピスタチオ外したらバカだべし、ココナツも欲しいなと言い出して結局5つ盛りにしてもらってジェラート屋の女の子が呆れかえっていた。
ガメみたいに単純な人間がこの世界にいるだろうか。
まるで1+1のように単純である。
2+2のように明らかで、
3+3のように判りやすい。

ボローニャは汚くて取り柄がない町だが、ちょっと町の外にでるとエミリオロマーニャの道はあくまで「風光明媚」という日本語の表現そのままで、遙か彼方まで続く小麦の畑に、ところどころ梨や林檎の果樹園が見えている。桃もある。
小麦の他はオリブとブドウばかりだったウンブリアやトスカナとはまるで風景が異なります。

洗濯物がたまったからランドリに行こう、とモニがいいだした。
(乾燥洗濯機が置いてある)コモの山の家にたどり着くぶんまでに十分な清潔な服と下着があるでしょう、とわし。
ダメだなああ、ガメ、むかし日本で金沢に行ったとき洗濯をしなければいけなくなってあちこち探してコインランドリにいったときの楽しさを忘れたのか。

おおお。そうであった。
やり方が判らなくて、たまたまやってきた近所の人に訊いて、ふたりでオカネをいれすぎたり、4個つかって怒られたりしながらコインランドリを使ったのは無茶苦茶楽しい出来事だった。

農家の主人に聞いてみると10キロ行った先くらいのベネット(北イタリアのスーパーマーケットチェーンです)があるショッピングセンターにコインランドリがあるというので、でっかい布の袋を用意してもらってでかけた。
でっかい洗濯物を肩にしょった姿が中世の罪人みたいだ、といってモニが笑いころげておる。

行ってみると、EURONICS(イタリアのヤマダ電機でごんす)、ベネット、シネマコンプレックスまであって、チョー巨大なショッピングセンターです。

イタリア語とよくわかんねー言葉(多分エミリア・ロマーニャ語)で書かれた説明を読んでも(と言っても要するにイタリア語の説明を読めるだけだが)、乾燥機がいまいちシステムが判然としなかったが、ようやっと、オカネは1回€2しか受け付けないのに何回か入金を繰り返すことによって目標の€6(30分乾燥時間)を達成できるということを発見した。(なんてヘンなやりかただろう)
オカネの集め方はへんだが集中制御の、日本よりも数段すすんだシステムで、ほんとうにこれでヨーロッパなんだろうか、とふたりでカンドーしてしまった。
こういうカッコイイ自動機械みたいなものはわしがガキんちょの頃は日本にしか存在しないものだった。

洗濯と乾燥で€26かかったことにもカンドーしました。
二人分の昼食代と同じやんね。

洗濯の待ち時間のあいだにEURONICSに行った。
ヤマダ電機だとは言ってもイタリア版のヤマダ電機なのでパスタ料理に使うへんなものがいろいろおいてあって面白い。
店員さんも面白い人で、いちいち包装を開けて使い方を教えてくれるので、あまりの親切にびっくりしてしまったが、あの包装を開けてしまった商品の数々はどうするのでしょう(^^;)
思いついて日本のメーカーの家電があるかなあああと見てみたが、皆無で、サムソンやLGはあっても日本のメーカーはゼロだった。
最近は日本の会社の名前はNISSANか、これだけは日本の独擅場であるデザイン文具を文房具屋くらいで見るくらいしかなくて、トヨタでもほとんど見ない、といいたくなるくらいイタリアでは少ない。
日本の経済はたいへんだよねー、と思う。

乾燥の待ち時間にはベネットに行って、パスタを買い足したり、プロシュート、サーモンの缶詰や、バスソルトを買った。
農家の二階にはでっかいバスタブがあって、モニとわしを喜ばせたからです。

ベネットは価格は安いが良い品物は少ない。
売り場がチョー広大で、探しているものを店員さんに聞いて見つけにいくのが疲れる。
可笑しかったのはここのベネットは売り場だけでなく通路も広いので、おばちゃんたちが何人か群れをなして、そこここで世間話にうつつをぬかしていることで、公園と同一視しているように見えました。
たくさんいる。
亭主のぐーたらぶりを嘆いている。
息子が色気づいて困る、と述べ合っている。

イタリアには経済について実地調査に来たのだが、イタリアの人の「幸福度の高さ」に打たれてしまった。
ユーロ圏には経済について面白い調査があってドイツ人にいちばん信用できない国民はと聞くとフランスで、フランス人はドイツ人を信用していないと応えている。
イタリア人はどこの国民をいちばん不審の目でみているのだろうと、イタリアの項を探すと、そこには「イタリア」と書いてあって、イタリア人だなあああああ、と思う。
可笑しなひとたちだのい、とも思うが、なんだか涙がにじんできてしまうようなところがある。
イタリアの人は欧州のなかでも格段に幸福なのであると思う。

日本にいたときの日本のひとの印象は、残念なことだが「他人を貶めるためならなんでもする、他人を攻撃することに熱狂するひとたち」だった。
日本語インターネット上では、それが参加者全員の依存症じみた「病気」になっていると思います。
他人を集団で攻撃することが好き好きでたまらないのだと思う。
その目標に韓国人を選んだり、反原発派を選んだり、あることもないことも巧妙にでっちあげて、また騒動にのりたいひとびとは相手がほんとうはどんな人間なのかも何の興味もないので、ただ集団サディズムの脳天を貫くようなアドレナリンの作用に恍惚となっている。
ヨーロッパ人なら、そのただ「他人」と自分との関係によってのみ自分を認識することについても、その表現が「集団攻撃」であることについても、そのひとびとの人生の惨めさに息をのむだろうが、日本のひとにとっては集団で個々の他人を襲撃するのは「小気味のいいスポーツ」で、これ以上の文明的な行動はないと思っているようにみえる。

イタリア人たちは、自分が幸福になることしか考えていない。
他のことには関心がない。
どうやったら自分は幸福になれるか、という、そればかり考えている。
あんまりそれに没頭しているので、クルマを運転していても、ときどき意味もなく車線からはみだしてきたりする。

他人にも社会にも対した興味はなく、一生つれそって、もしかしたら子供もつくって、友達とテーブルを囲み、談笑してすごす夏の午後を自分のために用意したいと思っている。

そうすると「他人を攻撃する」という不思議な考えはなくなるもののようで、
自分がもっと幸福になることに没頭して、明日の夫婦の「絶対に決めてやるねん」と考えたセックスの前にでかけるレストランの調査や、いつもは奥さんにまかせきりの料理を研究して、内緒で盛大な料理をつくってしまい、奥さんが帰ってくるなり買ってきた花で溢れかえった居間でヴァイオリンを弾いている(←実話)という宝塚みたいな演出を考えて実行して悦にいっている。

「イタリア人は幸せそうでいいなあ」とモニが言う。
ボローニャの大学町の本屋の前で、美しい顔をした女の学生が、でもその細面に整った顔を涙でぐじゃぐじゃにして、目の周りの化粧がおおきくにじんでしまったことにも構いもしないで、通路の列柱の礎石に座り込んで「どうしてわたしじゃダメなの? そんなの、ひどい。愛してるのに。愛してるのに。愛しているのに!」と述べて泣きじゃくっていたが、あんなにたくさんの人が通るところで身も世もない電話をできるひとは、きっと、素晴らしい幸福にたどりつくのだと思う。

イタリア人は日本人よりも真剣なのだ。
いつか日本で有名な人が「日本がイタリア化したら大変だ」と言っていたが、そして、その意味はイタリア人はなまけもので何にも真剣にならない、というようなことに見えたが、イタリア人は自分が幸福になることにかけては世界中でいちばん真剣だと思う。
ひたむきで、全身全霊を投企して幸福になろうとする。

自分の人生には自分以外に心から自分を労って自分を幸福にしてくれる人はいないのだ、とよく知っているからだと思います。

梨畑のなかを細く白く続く道を帰ってきて、イタリアではとても普及しているオートマティックゲートをくぐって、クルマを駐めて、モニとわしは、玄関の前の庭に出してある分厚い松の木のテーブルで赤ワインを飲んでいた。
ちょっと変わった赤ワインで発泡性です。
ここからモデナに向かって30分くらい行ったところにある小さな町で、このワインは作られている。
その発泡性の、口当たりがやわらかい赤ワインを飲みながら、イタリア人をみならって、モニとわしも、もっと自分を幸せにしなければ、と話し合った。
小さな人もひとりぼっちでは寂しいかもしれないから、もうひとり、もっと小さい人がいるかなあー。
初めの小さな人は、現れてくるのが怖くて、たいへんだったけど、二人目は、きっともっと楽だとおもうぞ、と言う。

そうかなあー。
ま、モニはチョー若いのだから、急がないで考えるべ。
こういうと「そんなことではダメではないか」「そんないいかげんな気持ちで子供をつくるのなら作らないほうがいい」と小さい人のときもうっかり日本語で白状したらいっぱい「叱咤と非難の声」が来て驚いたが、いまでも全然気持ちは変わらなくて、小さい人よりもわしにとってはモニが大事である。
それがどんなに親としてヘンで「社会が許せないこと」でも、そんなことはわしにはどうでもいい、と思う。

ワインが空になって、玄関の閂を閉めて、二階にあがる途中でモニが振り返って「ガメ、大好き」という。

わしも。
モニと会えてよかった、と言おうとおもったが、のどが閉じて、目が熱くなって、
下を向いて、閂の鍵をかけて、ただ黙って、でも途方もなくやさしい気持ちになりながら、なんだか身体まで軽くなったような気持ちで、この部屋まで、あがってきたのでした。

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4 Responses to ノーマッド日記14

  1. mint says:

    日本語人にとってイタリア語は相性がいいと思います。他のヨーロッパの言語に比べて、日本人にとってそれほど難しい発音がないし、文字も、「ローマ字」式でなんとか読めるので、「文字を見て視覚的に理解する」傾向がある日本人には習得しやすい言語だと思っています。

  2. lathe22biosis says:

    この回すごく好きだわー。もうなんか、手放しにわー!!ってパチパチしながら一気に読んだ。
    イタリア人の幸福さを見ると、日本人のちっぽさとかサディスティック性にかなしくなるな。
    2度行ったけど、自分たちにも幸せな空気が入って来て、なんか、せつなくなった。あの時のような、雨の中笑って翔るような感覚が最近抜け落ちてて見つからないから、またそろそろあの国にも遊びに行った方がいいのかもな。ガメさんいつもいいブログありがとう。yoko

  3. 田鶴 says:

    かつてボローニャ大学で地獄について一心不乱に
    考えたに違いないウンベルト・エーコを思う。
    『薔薇の名前』のそれはすさまじい。

  4. かつお says:

    日本人への印象については、日本人の自分もその通りだと思う。
    悲しいことだけど、日本人は魚の群れみたいなもので、自分の行動や発言を自分の意思で決めるのではなく、群れの行く先へついていくのが正しいことだと思ってるんだなあ。

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