Ferrara

Ferrara(←この地名を正確に発音してみよ)のユダヤ人博物館に行ったら「地震の被害のため休館」だった。
いきなりやることがなくなってしまったので、Ferrara旧市街の中世x2な通りを歩き回って、チョーかっこいい(現代)デザインのコークスクルーやまるで、あらかじめモニの美しい胸元のためにこさえられたような素晴らしい首飾りを買った。

近くなのでランボルギーニ本社に勤めている友達を訪ねようかとも考えたが、仕事日の仕事時間中に、いかにもマジメに一生を暮らす気がなさそうなカップル(わしはポークパイハットに道路脇に咲いていたポピーを挿している)が職場に訪ねてくると、不況の折、いきなりクビになるかもしれないのでおもいとどまった。

「Il Castello」
http://www.centroilcastello.it/?page_id=33
という名前のモールへでかけてモニさんは「Bottega Verde Erboristeria」、わしは「Euronics」でちょっと遊んだが、モールというものはどうしても退屈な場所で、ほんの十分くらいで田舎へ行こうということになった。
クルマのなかに戻ってみると摂氏34度で、夏日です。

イタリアらしいろくでもない路肩の細い田舎道に沿った、Ferraraから15キロくらい離れたところにある村に見るからにおいしそうな、小さな料理店があって、なかに入ってみると、新聞を広げてひとりでしんねりむっつり、満足のタメイキをつきながらパスタを食べているデブいおっちゃんや、やっぱりひとりで真剣な顔でひとくち食べては天井をにらんで(本人の主観では)人知れずうめいているビジネスマン風のおっちゃん、そうかと思うと、マジメにアンティパスティから初めてプリミ、セコンディと注文している若いカップルが二組いて、第一、店内が「美味い食べ物だしちゃるけんねえええ」という空気がかっちりと出来ている雰囲気だったので、モニとふたりで、テーブルに案内してもらった。

注文する段になると、「メニューはないので、わたしが口頭で全部説明します」というので、わしは、「むひひひ。勝たでもええのに、また勝った」と勝利を確信したのでした。

無茶苦茶うまかった。
なんだか食事をするということが、シーツのあいだで夢中になる、あんなことやこんなことと同じいけないことのように思われるほどうまかった。
言語表現上はBrillat-Savarin以来、陳腐な表現と化しているが、他に思いつかないので仕方がない、食事の時間は質がどんどんあがってゆくと質のよいセックスにどんどん近づいてしまうもので、こんなにおいしければ羞恥心くらいもたなければいけないのではないかと考える。

冒頭の画像がアンティパスティとして出てきた魚介類で、日本のひとは世界でいちばんシーフードが理解できる国民なので、皿の上のプレゼンテーションを見ただけで、この料理がどれほどおいしかったか完全に理解できると思います。
わしは(食べ物で涙ぐんでいたらマジバカだが)涙ぐんでしもうた。
イタリア料理がこんなにうまいものだとは知らなかった。

大好きなひととのセックスを別格にして、音楽と美術と料理とは、人間の五感を演奏して絢爛たる朦朧に導く4つのものであると思う。
聖霊などは哀れにも肉体をもたないので、この4つのもののどれも肉体で受容することができない。
「魂」と言う。
「精神」も似たようなものだが、肉体の受容器が引き起こす恍惚に較べれば寂しい興奮であると思う。

イタリアの自然は魂よりも官能に訴える。
イタリアの田園の上に浮かぶ豊満な積雲や愛撫という言葉を連想させる麦畑をみて「精神性」などというダッサイ言葉を思いつくのは教養に欠けるドイツ人だけであると思われる。(バジルさん、ごめんなさい)

ニュージーランド南島の「宇宙的な景観」が魂によりおおきく訴えるのと良い対照を成している。
向こう側の梨畑でまだ若くて固い性的な感じのする梨の実を写生しているモニと会いに麦畑の畝の中を歩いて行くと、イタリアの自然がどれほど肉体の五感に照応したものであるかわかる。

人間の言語が伝達のための道具だという思想は近代の人間がつくりあげた迷妄のなかでもチャンピオン級のものだろう。
言語が持っているさまざまな能力のうちで「伝達」は言語にとって最も苦手な機能であるにすぎない。
人間と人間が向かい合ってテーブルをはさんで座っているとして、というのが抽象的な表現に過ぎるなら、わが友オダキン(@odakin)(職業的な物理学者です)とわしがテーブルを挟んで座っているとして、「月がなぜ地球に向かって落ちてこないか」を話し合うことはたやすいことだろう。
ふたりで古典物理学を同時におもいだしてみればよいからです。

「デカ目アニメが美でありうるかどうか」についてはもっと複雑である。
「共有されて止揚された『観念の高み』」がないからで、お互いに自分の考えと感想を述べ合うだけで、すべてが相対になって、泥沼のような感想合戦になってしまう。

地を這ってきたものには「絶対」が存在しないからだともいえる。
しかし地を這ってきたものがほんとうに「絶対」に無縁かというと、そんなことがないのはロココ芸術を考えればそれだけで足りる。
美術批評家たちが、あれほど口を極めて罵っているのに、たとえば実家のわしの部屋にはブランコに乗る、えーかげんな表情の、素晴らしい美貌と肉体の持ち主ではある貴婦人のでっかい絵が恥ずかしげもなく壁に飾ってあるのは、わしの「地を這う精神」が、肩肘はって「正しさ」ばかりを求めている美術批評家たちの道学じみた美術哲学を笑っているからだと思う。(ゆってもうた)

あるいはトスカナの初夏の午後の風が、どんなふうにわしの気持ちを昂揚させるか、とか、自分がどれほどモニを愛しているか、というようなことをテーブルの向こうにいるオダキンに伝達するのは無理で、なぜならそういう「観念の高み」を必要とする事柄を伝達するためには言語が単独ならば「言語が連結されたときにクリック音を立てる定型性」か、あるいは音楽の旋律の定型性を借りなければ実現することができなくて、われらがオダキンには、どちらも言語のなかに用意されなくて、詩すら読めないオダキンが持っている魂の定型(絶対)は物理学と(道具としての)数学に限定されているからである。

言語には「伝達」の機能などないに等しい。
しかし、それならばわしにはオダキンと相互に伝達する方法がないのかと言えばそんなことはない。

それは何かって?
「妄信」ですよ。
愚かさ、と言い直してもよい。
何の根拠もなく、この人間は自分の友達だと感じ、それがゆるぎない感覚になってゆくことがある。
こんな幼児性愛もどきのアニメとか好きな中年男なんて嫌だなああああ、と思うが、
どこかに「聞き取りにくい声」で聞こえているらしいオダキンの(自分さえ知らない)「ほんとうの声」がある。

人間の「伝達」の正体など、ほんとうの相互理解などではあるわけはなくて、乱暴なことを言えば、えいやっ、と決めるといってもよい。
この人間が自分の「友人」であるという投企にしか過ぎないのであると思う。

神様が人間についてはお手上げになって、「愚かさ」という人間が持ち合わせた最大の叡知に舌をまいた、最大の所以であると思います。

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One Response to Ferrara

  1. DIO says:

     今回のエントリーで、ようやっとガメさんが繰り返し触れている言語による伝達の難しさ、というか不可能だという意味、が腑に落ちました。
     また、それでも信じることによって、たとえ妄信であっても、跳躍を試みる人間の勇気というか愚かさというものを自分なりに愛おしく感じられるようになったのには感謝です。
     以前に書かれていた英語による会話は神の方向を向かってなされるというのも同様に感覚的に理解できる日が来れば良いなと思いつつ楽しみにしています。 
     私は日々英語を話さなければいけない環境にあるわけですが、一度もそのような感覚を持ったことはないので。(単に英語がへっぽこなだけというせいもあるでしょうが。)こうした言語に対するセンスみたいなものはどうやって磨かれるんでしょうね。

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