イタリア

本格的な夏になったのでイタリアは太陽がつくった宝石箱のようです。
陽光がトウモロコシの緑の葉をぐんぐんのばし、どんな赤よりも真っ赤なフラゴラ(イチゴのことだす)を実らせ、ポモドロ(トマトね)が初めは緑にそれから赤く輝き出す。
すべてが陽光から生まれて陽光の色を思い思いにぬきだして風に揺れている。
イタリアは太陽の国だなあー、と思う。
ご先祖さまのTが祖国ではマジメだったのにイタリアでフラゴラと同じに太陽の光が結実した女びとに狂って一生を棒に振ったりしていたわけである。

田舎道の傍らにトラックがいっぱい駐まっている定食屋があったので、わしは(なにしろ狭い道を120キロくらいで走っているので)いったん行き過ぎてしまったクルマをUターンさせて、ガメ料理屋理論第三法則「大陸欧州ではトラックがたくさん駐まっている定食屋は必ずうまい」にかなったその定食屋で午ご飯を食べることにした。

店にはいると、「中にする?それとも外にすんの?」とでっぷり肥った巨大なおじちゃんが聞く。
外にテーブルがあるなら外がいいに決まっているので、「外ですのい」と応えると、いっぺん店の外に出てぐるりと後にまわれ、と言います。
「外」にまわると店とどういう関係なのかよくわからないアフリカの子供がたくさんいて、きゃあきゃあ言っている。
ボンジョルノ、というと、11歳くらいの女の子はおおきな声でボンジョルノ!と言って、なんだか嬉しそうに笑う。
8歳くらいに見える男の子ははにかんで下を向いてしまう。

子供はみなアフリカ人だが、ウエイトレスもシェフも店のひとは「白いひと」です。
客もなんだかむさくるしいが、白いおっちゃんやにーちゃんばかりである。
わしはペンネのアラビアータ、モニはフジッリの白ラグーソースを頼んで、セコンディはローストビーフを頼んだ。

いつものことで飽きたでしょうけど、すごおおおおおおく美味しかったのね。
途中でモニと皿を交換して食べたがフジッリもふつーの官能では対抗できないくらい美味かった。
このペンネのアラビアータソースもニューヨークのチョー不味いアラビアータソースがかかったぶよぶよのペンネも「同じもの」として物価を較べるところに「生活物価調査」やもっと言えば「インフレ調査」の根底から信用できない点があることに翻然と目覚めるが、イタリアのド田舎でそんなくだらないことに目覚めてもそこここで放し飼いになっている雄鶏くらいしか聞いてくれるひとはいないので、忘れて別篭にオリブオイルで揚げたチップスがこんもり載ってついてきたローストビーフにかかります。

日本人とイタリア人は「牛肉を薄く切ったうまい料理をたくさんもっている」ところに共通点があるが、このローストビーフも、ルッコラとパルミジャーノが載っていて、牛肉のたたきがイタリアに再臨したというか、おいしくて、ローストビーフでまで負けるなんて、いったい英国人はなにを考えて生きていたのだろうとしみじみ考える。

そうやってモニとわしがトラックドライバ昼ご飯にうっとりしているあいだ、地元の発泡性白ワイン(ふつうのスプマンテとは味がだいぶんちゃいまんねん)を飲んで、ほんとうにおいしい食べ物特有の、体中に力が漲ってきて、魂の活力メータがびびびびびんと上がる、肉・魂いったいの充実を感じているあいだじゅう、アフリカ人ガキたちは客の恍惚などおかまいなしにテーブルのあいだを走り回り、どつきあったり、椅子を跳躍しそこねてずっこけて泣き狂ったりしている(^^)

世の中の騒音には「ハッピー・ノイズ」というものがあって、チビガキどもが遊びまくる声を「うるさい」と感じるひとはいない。
それが社会そのものの平和と繁栄の象徴の「幸福の音」だからであると思う。

うるさいと感じる人がいるとしたら、そのひとは魂が疲弊して、心が病んだひとであると思われる。
(と、ここまで書いて、いまふと、あの店の脈絡とまったく合致しないアフリカガキたちはひょっとして店のなかの「ハッピーノイズ発生装置」としてバイトで雇われているのではあるまいな、と思ったが、まさかね)

あんまりうまかったのでメッツオリトロ(500ml)だったはずのワインをメッツオリトロx3も飲んでしまった。
酔い醒ましに、店のひとに言って、裏の梨畑を散歩させてもらうことにした。
梨の木と梨の木のあいだをふらふら歩いてゆくと、急に視界が開けて遠くまで広がっている野原の向こう側に発電用の太陽電池が一面に並んでいる。
イタリアは風力発電生命になりつつあるスペインや言わずとしれた原発にこの身を捧げたわたしなののフランスともまた異なって、もう手作りみたいにしてやれることは全部試してごしゃごしゃとして複合的なエネルギーを全部足してなんとかしのごう、という、イタリア人ぽい、「手作りエネルギー」の国民的努力があちこちでひしひしと感じられる。
しかしなかでも太陽光発電がイタリア人の好尚に訴えているもののよーである。

イタリア人は、あんなに採算があうわけがないエネルギーに血道をあげるなんて国民ごとバカなのではないか、あんなものをいくら作っても原発の効率と桁が違うのに非科学的過ぎるとわざわざ書いてきた「頭の良い日本人」の典型のような人がいたが、ガリレオ・ガリレイやエンリコ・フェルミは日本の出身だったのかも知れないし、イタリア人は国ごと原発の発展に人身御供に捧げると決まった日本人ほど科学に対して献身的ではないが、一応エネルギー問題には日本人よりもずっと早くから国民的な関心を持っている国(「イタリア人が運営する原発なんてそんな怖いもの稼働させるわけにはいかない」というイタリア人たちの声を聞いたことがある日本の人たちもいると思う)なので、そんなことはとうの昔に知っている。
ダメでもやってみているうちにはなんとかなる、ダメと決めてやらなければそこでその技術の枝はそこで枯れて終わり、という技術世界の王道を歩いているのに過ぎない。

イタリアにはだからチョー田舎でもクルマのメタンガスステーションが普通にある。
町を歩けばずっと前のフクシマ以前の昔から電動車用の充電スタンドがそこここのピアッツアに立っている。

ボローニャの町を歩いていると、ドカッティ製のチョーかっこいい電動郵便車が音もなく走ってきて止まって、しょわしょわの髪(←ソバージュの大庭亀夫的表現)を束ねた、モニと結婚する前だったら5秒で夕ご飯の約束を取り交わしているチョー綺麗なねーちんが郵便の束を抱えて颯爽x2で降りてきます。

日本の人は他人のうまくいきそうもない新しい試みへの努力を冷笑するのが好きだが、そうしてあまりにそればかりやっているので世界一、新しいことを試す人を嘲笑うのが巧みだが、たとえば「非科学的だ」というあざ笑い方をよく読むと単なる(自分が大学の科学教員であるという漠としたイメージを悪用した)修辞上の技法にしか過ぎず、落ち着いて聞いていると中世の異端審問官と同じで「教会に神がいないと証明できないことはおまえが悪魔であることの証明である」と権威付けされた迷信を教条の鞭としてふりあげているに過ぎない。
フクシマにしても科学者として科学という手続きを踏んで議論しえたのはマキノという人と初期の早川由紀夫のふたり(1.5人か)しか、いなかった。
他の「科学者」たちは名刺に科学が刷り込んであるだけの「消防署の方から来ました」と述べて消防人のふりをする消火器詐欺
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222135897
と何の変わりもない「科学の方から来ました」のひとびとであった。

わしはこのブログのなかで繰り返し繰り返し「人間は愚かであることによってのみ偉大なのだ」と述べてきた。
イタリア人たちの「太陽電池」狂いは、太陽電池がブレークスルーを間近に控えていること、何よりいまのアモルファス電池は効率が悪い上に、酷ければすぐに効率が当初の50%程度に逓減するという重大な欠点を持っている。
第一、コンバインドサイクル発電とは異なってIT技術が供与できる部分が少ないので核分裂型原子力発電ほど酷くはないがローテクである。
メタンガスなんかで何割のクルマの燃料がまかなえるのか。
ジャガイモ由来のメチルアルコールに至っては食物が足りなくなるかも知れないのにバカなのではないか。

日本のひとたちの「他人の努力を笑いものにする努力」を観察しているとまだまだ際限もなく「ちゃんと権威もある科学者が「証明した」ダメに決まっているという証拠」が延々と続く。

居直って「Shut up!」(©上田人権人道大使)と述べてみてもよいw
人間はダメとわかりきっていることを「ともかく試してみる」愚かさによって、7万年前と5万年前の「滅亡確定」の危機を「奇跡の技術ブレークスルー」によって乗り越えてきた。
誰かが海を渡って見つけてきた最もつかいでがありそうな教科書を皆でいっせいにベンキョーすることによって「近代化」という名前の単なる効率化をなしとげてきた日本の歴史を、わしは本来の日本人が誇るべき歴史だとは思わない。
日本語がもっている豊かな世界から考えて日本人はもともと遙かにマシな人間の集団だと思っています。

フクシマのあとに雨後の青カビのように一面に広がった「科学の方から来ました」の大学教員たちなどは舶来輸入以来百五十年も経っているのに科学が結局は根付かなかった未開性を残した社会の一挿話というほかない。
見ていてあれほど恥ずかしい光景はなかった。

梨の木の列のあいだを歩いて戻りながら、「イタリア人たちは、愚かであることの偉大さを知り抜いたひとびとなのだ」と考えた。
「イタリア人の努力はすごいと思う」とモニに述べると「イタリア人はきみたちのような北海の野蛮人とは異なるのさ」とわしの口調をまねて軽く笑われてしまった(^^;)

イタリアは太陽の光でできた宝石箱のようである。
この国では燦爛と降り注ぐ太陽の光がポモドロにフラゴラに梨の木に桃の木に美しい容貌の人間たちに形をなして光の実体としての肉体を獲得する。

スペイン人が赤い荒涼を吹き渡る彼らそのものの由来である「風」のなかにエネルギーを求めるいっぽうで、イタリア人が太陽の光のなかに明日のエネルギーを求めるのは、イタリア人たちが、彼らが登場するまではこの世界に存在しなかった「文明」を陽光のなかから創造したことを思えば当然のことなのであると思う。

すごいx3、イタリア人、と考えながらわしはもうすぐ北をめざして旅だつところなのです。

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2 Responses to イタリア

  1. Kojiro says:

    ガメさん、こんばんは。
    バックナンバー含めて楽しく読ませてもらってます。
    僕の印象ではカタカナのガメ・オベールはBlade RunnerのRutger Hauerで、
    大庭亀夫は水木しげるのメガネ出っ歯です。
    この二人がモーフィングしながらいろいろな事を語りかけてくる感じが、
    頭グラグラになってなんとも言えない感じで楽しいです。
    これからもブログ更新楽しみにしてます。ではでは。

  2. mint says:

    イタリアで国民投票によって原発再開が否決されたというニュースをテレビで見ていたら、街頭インタビューされたイタリア人女性が、「慎重な日本人でも原発をコントロールできないのに、ゴミ問題を解決できないイタリア人に原発を運転できるわけがない」というようなことを話していて、日本人である私は顔から火が出るほど恥ずかしかった。ガメさんが、イタリア人は文明的だと言うのを読むたびに、この時の街頭インタビューを思い出す。

    イタリア人には自分の姿が見えているのに、日本人には自分の姿が見えていないらしい。日本には自分の姿を映す鏡が無いのか?

    白雪姫の継母(グリム童話初版では実母)は不思議な鏡を持っていて、その鏡に「鏡よ、壁の鏡よ、国中で一番美しいのはだれ?」と聞いて、鏡が「お妃様、国中であなたが一番美しい」と答えると満足していました。しかし白雪姫が7歳(とグリム童話には書いてある。白雪姫恐るべし)になった時、継母が鏡に問いかけると、鏡は「お妃様、あなたはここでは一番美しい。しかし白雪姫はあなたの千倍も美しい」と答えたので、お妃様は嫉妬のあまり、黄色くなったり青くなったりしました(とグリム童話には書いてある。これは感情を表す慣用句だけれど、私はここでいつも文字通りに想像してしまう)。なぜなら、お妃様は、鏡が真実を述べることを知っていたからです。

    日本人が不思議な鏡に、「鏡よ鏡、世界で一番安全な原発を作る国はどこ?」と問いかけたら、鏡は何と答えるだろう?鏡が「それは日本ではない」と答えたら、「世界で一番安全な原発技術を提供できる」と言って、海外に原発を売り込んでいる日本の首相は、黄色くなったり青くなったりするだろうか?

    鏡を見よ。そしてそこに写っている己の姿を良く見よ。そこに、「世界で最も安全な原子力技術を持っている国」が映っているだろうか?

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