豊かさ、はどこへ行ったか?(その3)

オーストラリア人はaggressiveなのが欠点というが、そのシドニーのタクシー運転手は訛から考えて一代目のギリシャ人移民であるのに、たいそうaggressiveで、その点ではもうすっかりオーストラリア人なのだった。
目にみえるものすべてが気に入らないとでもいうように悪態をつきまくっていたが、オーストラリアの生活、ということになると、神経が昂進してしまって正常にもどらなくなったといえばいいか異常な興奮状態になって、こんなクソみたいな国が世の中にあっていいのか、この国の奴はどいつもこいつも頭がわるいクソだ。
知ってるか?おれはオーストラリア政府に騙されてこの国に移民してきたんだ。
なあああーにが「ランド・オブ・プレンティ」だふざけやがって。
犬のおしっこでももう少しマシな、ぬるい薄気味悪いコーヒーに500円とってヘーキなくらいこの国のバカどもはクソである。
知ってるか? オーストラリアの政府は中国人に買収されてんだ。
ほんとの政府は北京にある。
あっ?中国野郎達の首都は上海だっけ?
まあ、どっちでもいいや。
あいつら中国人は、それで北京や東京からやってきて、オーストラリアをそっくり買い占めて、中国野郎のうすぎたない顔を通りにならべようっていうんだぜ。

知ってるか?
おれの家は買ってから値段が3倍になっちまった。
「よいことでないの」とわし。
「よーいことのわけがねんだろがっ!」と興奮して英語が崩壊しつつある運転手。

お客さん、おっまええ、ばっかだなあー。
だって、おれの家だよ?
売ったらおれはどこに住むんだよ?
不動産の、税金があがるだけで、おれは損しかしねーんだよ。

「なるへそ」

ギリシャ人運転手おっちゃんは、そのまま、ずううううっと興奮していて、オペラハウスからボンダイビーチに着く頃には、哀れな運転手おっちゃんは、かなり凶悪な人相に変わっていた。

オーストラリア人が呪詛する不動産価格の高騰の背景には、たしかに「チャイナ・マネーの流入」が含まれている。
地図でみるとおおきな国だが、オーストラリアはなにしろ(主に水の不足のせいで)南側のへりっこ沿いくらいしか住めるところがなく、経済的にはまったくの小国なので、ちょっと中国からオカネが流れ込んでくると、ちいさなちいさな居住不動産市場は、どんっと跳ね上がってしまう。

中国はインターバンクレートの急騰が話題になったばかりだが、オーストラリア人やニュージーランド人の視点から見ていると、他にももっと不審な点がいろいろある。
「オーストラリア人やニュージーランド人って、あんたねえ、いまの経済は世界的なものなんだよ。そんな視点あるわけないだろ」と怒る人が出てくると困るので説明すると、
不動産の騰がり方がヘンで不動産人と話してみると中国人たちの土地の買い方が「ヘン」だからだという意味です。
もうひとつはニュージーランドやオーストラリアで中国人の「富豪」たちと話してみて初めて判る事実、ということもある。

オーストラリア人たちは大量のカネをもってやってくる中国人たちについて、ほとんど値踏みというものがなくて、まるで国ごと沈没するのがわかっていて救難艇に乗って逃れてくるひとびとのようだ、と異口同音に述べる。
なんだか息せき切って高級住宅を買い漁っている。

4年前には、シンガポール人たちが同じことを述べていた。
自分達の会社の投資団にくわわった中国人たちを案内すると、なにを見ても価格を聞いて「安い!安い!」と連発する。
なにがなし、バカにされたような気になって、セントーサに近い新しいコンドミニアムを見せた。
「いくらか?」と聞くので、待ってましたとばかりに「一戸、二十億円ですね」というと、びっくりしてしまっている。

なはは、驚いたか、田舎者め、と思って溜飲を下げていたら、
「そんなに安いのか!じゃあ、おれと娘用にふたつ買うから、購入を手伝ってくれ!」
と言われたそーでした。

その頃は「中国人は富が偏在しているので、金持ちはバカガネモチであるな」と述べていたが、最近は、どうも様子がヘンである。
こういうことをブログ記事で詳しいことを書くバカはいないし、いままでもうっかり書いて、知ったかぶりのヘンなひとが説教をしにあらわれるだけでよいことはなかったので書かないが、市場の底が抜けるのではないか、と思われる徴候がたくさんある、というよりも中国人たち自身は、はっきりとそう思っているように見える。

中国の経済が実は歴史的には日本経済の模倣とみなせることは前にも書いた。
チョー大雑把に言うと日本の経済をまねてつくりだした自由社会風の統制経済がシンガポールであり、そのシンガポール
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/
をまねて典型的な中間貿易場だった経済を改造して香港の経済をつくり、深圳特区を実験場にして、中国に移植したのがいまの中国の経済繁栄の核になっている。
中国経済というと「安い労働力を武器にした製造業」ということになっているが、「安い労働力の製造業」は実際には中国経済に直截貢献するよりも消費市場を底上げすることによって間接的に貢献している割合のほうがおおきい。
中国の経済繁栄の秘訣はいったん政府がすいあげたカネを傾斜させて「国策産業」に集中大量投資をしていることのほうにあるが、これは雛形としては戦後日本の国家社会主義型経済のまったくの模倣です。

経済は生き物に似た意味でよく出来ている、というべきか、中国の、淵源をたどれば日本型の経済は、ちょうど日本やシンガポールがそうであったようにおおきな「面」に育つことができなかった。
点と、その周辺だけに富が偏在して、そこから先に富が広がっていってくれない。

ニュージーランド南島のデニーデンには富裕な中国人たちのコミュニティがあるが、このひとびとは戦前からニュージーランドに住んでいる。
金鉱主たちで、彼らは金の採掘で巨万の富を手にした。
大半はオーストラリアや他の国に去って行ったが、一部はニュージーランドに残った。
デニーデンの高級住宅地に住む「イー」さんや「リー」さんは、このひとびとの子孫です。

戦前の中国人のイメージは鉱物資源の開発を中心とした「うまい投資家」のイメージだったが、共産化を経て、特に文化大革命を経て、中国人は「下手な投資家」になった。
イギリス人たちがたかだか20年先しか考えないところでゆうに100年先を見て行動する、という点では中国政府系の投資家たちは、いまでも尊敬すべき点があるが、その他の点では「アラブ人と日本人の姿を見たら、もうその投資対象の寿命は終わりだから逃げろ」といわれるくらい投資ベタで知られる日本人とアラブ人に「中国人」ももうすぐつけくわえられそうなくらい投資が下手であると思う。

80年代の「バブル時代」に富が還元されなかった日本の経済の仕組みを実は中国人たちは中国ふうにいまの経済世界で繰り返している。

投資や公共事業だけがあって、それに見合うリターンがまったくかえってこなくなったのがいまの中国で、昨日も「そんなものは俗論で中国は大丈夫だ」と専門家としての自信をこめて述べている人がいたが、わしとしては、日本人の「専門家」のお墨付きよりも当の中国人たちで逃げ出して来た事業家たちの言う事のほうが、なあああんとなく、もっともで確からしそうであるような気がする。

冒頭のタクシー運転手が怒っているのは、本人は気が付いていないが、彼の持ち家の資産税を押し上げ、食費を暴騰させ、「なにもかも」が暴騰する社会で、彼自身の収入は「暴騰」していないからであるに違いない。

日本では終身雇用契約に基づく「定昇」という考えがあり、「儲かればボーナス」という奇習があった。

カリフォルニアの某店で安いコンピュータを買ったら、「オプションの5年保証はどうします?」と聞かれたことがある。
不思議におもったので、「このコンピュータの価格から想像されるパーツのクオリティで5年もどうやって保証できるのか」と訊いたら、その背のちっこいラティノの女の子は「へへっ」という調子で、この会社、5年ももたないから保証出来るのよ、わたしももうやめるの、というので笑ってしまったことがあった。

終身雇用契約というのもそれに似ていて、1990年に新入社員として入ってきた社員に2030年までの「揺るぎない雇用」を約束する、というのは、もうそれ自体意味がない、というか、おとぎ話じみている。
アメリカでもヒューレットパッカードは90年代まで同じような企業文化をもっていたが、90年代の終わりになると笑い話の対象にしかならなくなってしまった経緯をもつ。

終身雇用という「会社が運良く将来も好調なら守れる約束」は「約束が守れるほど好調ならばもっと遙かに高かったはずの賃金を安く抑える」という機能のみを初めからもっていたわけで、これほどチャチなからくりを御恩と奉公じみて、あるいは義侠の世界に似て、情緒的な労働のエネルギーに変え得た社会の「浪花節性」を思うと、ちょっと理解の限界を超えている感じがする。

終身雇用制に阻害された会社員たちへの富の再分配は、企業の枠をでて日本全般の傾向になっていった。
企業体や政府が、おおもとをただせば冷戦構造そのものに行き着くに違いない、カムフラージュされた国家社会主義経済がもたらした空前の経済繁栄ですさまじい金額の利益を吸い上げている一方で、賃金生活者たちは、「定昇+ボーナス」の域から出ない還元を得ただけだった。

「消費拡大による経済効果」ということを述べようと思っているわけではない。
日本の50代や60代の人と話をするとほとんど世界中のものを「見て知って」いるのに驚いてしまう。
「自由の女神、すごいですよね、ちいさな島に立ってて、スミソニアン博物館もよかった。零戦があるんですよね、あそこ。ラスベガスもでかいパチンコ屋みたいでおもしろかったし、ゴールデンブリッジはなんといっても風情があっていいですよね」に始まって、アイフルタワーも見たことがあればローマのコロセウムもピサの斜塔も、エジプトのピラミッドから、キリマンジェロの雪まで、全部みたことがあるひとがざらにいる。
へえええー、すげえええー、と思って聞いているが、だんだん聞いていると、写真集を忙しくめくっているひとのようです。

うまくいえないがニューヨークならニューヨークにでかけたことが魂との交渉になっていないというか、魂との交渉がオーバーなら、テレビでみても同じというか、なんだか「つるりん」として、「旅行した」という事実だけが証明されればいいような旅行であると感じる。
もっと若い40代の元バックパッカーが書いたものを読んでも、本質的な印象は同じであることが多い。

この「うまくいえない不思議な感じ」は、むかしからこのブログ記事を読んできてくれたひとは知っているとおり、日本に遠征したりしているうちにだんだんわかってきて、「自分の生活がないひとの感じ」だったと、自分の頭のなかでは一応の結論ができている。

そうして、自分のブログ記事なので、もういちいちリンクを引かないが「時間を取り戻す_経済篇」で述べたように、「空前の繁栄」と言われた時代に日本人は増えた賃金とは逆に時間を徹底的に収奪されていたのであり、その異なる側面から見た詳細はまた今度に譲るとしても、あんなに時間をはぎ取られてしまっては、「ボーナスとあわせて給料が二倍になった」くらいでは到底埋め合わせができなかっただろうという感じがする。

企業がアメリカの象徴であるロックフェラーセンターを買ってしまったり、サーファーズパラダイスを端から端まで買い占めたり、労働組合もなぜか企業なみに儲かって日産自動車の労働組合委員長は巨大なヨットに「銀座のホステスさん」たちを搭載して、「がはは」笑いで鼻毛を潮風にたなびかせながら日本と日産の将来を国士風に憂えたりしていたころ、大多数の日本人たちは時間を極限まで政府と企業に吸い取られていった。

日本の経済の繁栄と凋落を学ぶことは一面、「個人の幸福をもたなかった人間の社会が繁栄するとどういう経過をたどっていくか」という大規模な社会実験でもある。

そこでわれわれが目撃するものは社会の富が増大すればするほど絶望してゆく奇妙なひとびとの群れであり、思考を停止して、刹那の快楽(実を言えばこの世界にそんなものはありはしないが)をむさぼると決めて、「どんな女も結局はカネで身体だけではなく心も買えるさ」なタイプの大言壮語のわりには実質は哀れなほど貧弱な生活に溺れてゆく「社会の成功者」たちの姿です。

かーちゃんシスターの夫である「義理叔父」はバブル時代に青年期を過ごしたひとだが、まさにその「バブル時代の日本の繁栄」が嘔きたくなるほど嫌で日本を捨てるに至ったひとだった。
トーダイを出て、就職求人の時期になると段ボールふた箱ぶんの求人が来たそうだが、このひとは、世界中が羨ましがる空前の繁栄のまっただなかにあった日本に背を向けて、就職することすら拒絶してしまう。
そこまでかたくなに日本経済社会に参加することを拒むに至った理由を折に触れて聞かせてくれたが、たとえば、それまで秋葉原のコンピュータオタク友達だった私大生が父親の縁故で日本興業銀行に入る。
一年して渋谷で偶然出会って、「なかなかガールフレンドは出来ないなー。ぼくは男子校だから、女の子たちから見るとハシにも棒にもかからないダメな奴なんだろう」と述べたら、興業銀行行員の「役得」で「証券会社の女はやり放題ですから。あいつら絶対『いや』とか言える立場じゃないんですよ。今度ひとりみつくろって、やりにいかせますよ」と言われて、オタク仲間と油断していた相手に虚をつかれて、怒るタイミングすらもてずに暗澹とした気持ちで帰ってきたという。

なんのことはない「バブル時代」という日本史に空前の繁栄は日本の社会を根こそぎに破壊したのである。
また長くなってしまったので、今回ももうこの辺で止すが、次の回は「個人が自分にやさしくせず、個人が一個の全体であることを許されずに『全体の部分』であることを要求される社会」においては結局は「繁栄」というものそのものが存在しえないのだ、ということを自分で納得できる程度に述べたいと思う(^^)
多分、それこそが全体主義社会が常に一挙に成長し、みなの前で息をのむ成功を収めてみせ、千年王国を築くかと思われた途端に、今度は一転、あっけにとられるほど他愛なく瓦解することの理由だと思っているからです。

イタリアにいて、破産寸前を通り越しているというか、ドイツ人が顔を真っ赤にして崩落しないように支えているくずれかけた橋の上で、支配層が支えられるもんなら支えてみいとばかりにラインダンスを踊っているというか、とんでもない経済なのに、のんびりとヴィノを飲み、パスタやビステカを食べて、毎日毎日貪欲なほど、その日一日から得られる楽しみの限界まで吸い取ろうとするようなイタリア人たちの「わしは絶対幸福になるもんね」ぶりを見ていると、そもそも文明をつくったのはどういう種類の人間たちであったかが思い出されて、やっぱりなあー、と「社会と個人」というものの作用反作用の不思議を思い知らされてしまう気持ちになるのです。

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One Response to 豊かさ、はどこへ行ったか?(その3)

  1. kochasaeng says:

    また古い話で恐縮なんだけど、初老のおっさんだけあって、無駄に生きつつ世の中の変わり目というものを幾つか見てきたわけです。
    白黒テレビも知ってるし、洗濯機の脱水装置が二本のローラーで、濡れた衣類をその間に通してハンドルをぐりぐり回すと平べったくなった布の水分が絞れてるのに、「うおおお!」って感動したこともある。電気をつかわない冷蔵庫(一番上の扉を開いて、そこに氷の塊を入れて、氷の温度で冷やす式なのね)も、かすかに憶えてる。
    大人になったばかりの頃、ヴィデオ装置が巨大で重くて、VHSテープの開閉ボタンを、がし、と押すと、側面ではなく上面の切れ込みが地球防衛軍の秘密基地みたいに、ぱか、と持ち上がったことや、誇らしげなリモコン装置はヒモが本体まで繋がってて、赤外線か何かの無線リモコンなんて思いもよらなかったけど、映画を録画して自宅で何度も繰り返し見られるなんて凄いことだった。当時のお金で二十数万円もしたんだよね。今みたいに、ちゃんとした新品の中国製DVD再生機が三千円くらいで買える世の中になるなんて、誰が想像したろう。
    お金が欲しくて働くようになって、仕事で使っていたテレックスがファクシミリに駆逐された。テレックス用の鑽孔テープのパンチ穴でデータを目読できたアナログの最先端ネパール人のSさんは、もう初老じゃなくて老人になっているだろう。ファクシミリに取って代わった電子メールを使いこなせているだろうか。

    四人ぶんのサンドイッチが入る籠くらいの大きさの発信・受信装置が必要だった携帯電話が、どんどん小型化して片手で持てるようになって、個人で持つ人は少なかったものの、会社が外出する社員に持たせるようになった頃、東南アジアで、この装置に飛びついたのは裕福な中国系の人たちで、特に大事な用件でなくても階段のある場所で数段、片足を高くあげたポーズで微風に吹かれながら声高にカッコつけて喋るのが、彼らのオシャレだった。西暦でいうと1994~95年の頃です。
    この頃、香港とシンガポールの華人に大きな変化が、あった。
    買い物をして、お釣りが生じたとき、その紙幣や硬貨を投げてよこすことがなくなった。
    なんと店員が微笑むばかりか、お礼の言葉まで述べるようになった。
    往来で唾を吐く若い女性が極端に減った。
    これは、おれだけの印象ではなく、知人たちとの話題になったことなんで、よく憶えている。誰もが「いったいどうしたんだ」と言ったけれど、理由はわからなかった。
    今考えてもわからない。
    その6年ほどまえに起こった天安門事件と関係あったのか。それとも、もうじき香港や澳門(マカオ)が中国に返還されることと関係あったのか。ぜんぜんわかんない。
    そんなキャンペーンでもあったのか。たぶん、なかったと思う。
    「なんか、どうしちゃったの?」ってかんじ。
    香港とシンガポール限定で、きゅうに華人が洗練を目指しちゃった。
    そういえば、花柄のレギンスパンツ一色だった若い中華女性の服装が多様化したのも、この頃だったか。
    日本では、エスカレーターの利用で、急がない人が関東では左に、関西では右に列を作って並ぶようになった頃だ。これもとくに申し合わせがあったわけでもなく、自発的にルールができたようで、バンコクにいた日本人たちには、そんなことも不思議なこととして話題にした。共通してるのは、「自分のことだけじゃなく、他者のことも忖度するようになった」ってことなんだろうか。だとしても、なぜ。
    今考えても、思い当たる原因がない。ぜんぜん、わがんね。
    好ましい変化ではあったけれど、少しさみしくもあった。「え~。釣り銭、放り投げないのかよ……」って。それまで、放られると「なんだよ、もう」って思いながら、「よし。それでこそ中国人!」て思ってたからね。今でも中国の本土だと、商品とお釣りを投げてよこすのは健在みたいなんで、良いんだか悪いんだかわかんないけど、おれは個人的に釣り銭投げられると、「よっしゃ~!」って思うんだ。
    「中華」の字義通り、自分が世界の中心だと思っててほしい。
    まあ何ていうか中華な人々におかれましては、息災に生きてください、としか言葉がない。

    当時、香港の華人とシンガポールの華人は、なんか雰囲気が違ってて、香港のほうが、ぎらぎらした野性味みたいな向上心があった。シンガポールの華人は、がつがつしてなくてクールだけど、シンガポールの華人だけがもつ、ウソくささがあった。香港の華人にもウソくささはあったけど、そういう打算的なわかりやすいウソっぽさじゃなくて、シンガポール華人のウソくささは倦怠の混じった、その場限りではない身に付いたウソくささとでも言えばいいのか、柔らかな木綿の繊維の奥から滲み出てくるような、うそつきにしかわからないウソっぽさで、わからないひとには一生わからないけど、そんなことわかっても何のトクにもならないんで、この説明で、いいや。だいいち、今の若いシンガポール華人は、そういう匂いが稀薄になってるんで、多くの人にはわかってもらえそうにない。
    香港の華人にしたって、今はそんなにワイルドじゃないもんね。
    ともかく、その違いは、その都市の成り立ちの違いが反映してたんだろうか。
    香港は基本的に、文化大革命のときに命からがら逃げてきた人とその子孫が最も多い所で、おれの友達も「親と一緒に川でバレーボールみたいな球で遊んでるフリしてて、今だ! って時にその球を浮きにして泳ぎ着いた」って言ってた。
    「あれ越境すんの見つかると撃たれたり、酷い目にあうんだよ」って言いながら、冷えたビールを注いでくれる。「小さい子供まで泳がせちゃうんだ。信じられるかい? 見張りの兵隊だって子供連れで泳ぐなんて思わないよね。だから球が必要だったんだ。浮き輪じゃダメだ。バレバレだもん。そんな訳で僕は球を手に泳ぐ練習を、ずいぶんしたんだよ。じつは、あんまり憶えてないんだけど」おれたちはビールの泡でも見ていたんだと思う。「両親はね、福建省の人だ。僕は広東省で産まれたんだ」
    長い旅だったそうだ。途中の街で働いて食いつなぎながら、子供も産まれて、その子を背負い、やがて手を引いて獅子洋沿いを延々と歩いてきたって言ってたけど、その道のりは獅子洋と、その先の幾つかの山と、象の鼻と、満人の弁髪の長さを足したよりも遠かった。追われるように逃げてきた人の常で、それまでは裕福な生活だったらしい。ふつう逃げる人が身につけられるのは、ほんの少しの財産だけだ。「あと、教養なんかは幾らあっても邪魔にならない。手に職も。だけど、うちの父は、そんなもの持ってなかったから、香港に来て苦労したよ。それでも、幸福だって、よく言ってた。いろんな人が助けてくれたし、父も人助けをした」
    香港は、逃げたとは言っても自ら望んで来た人たちの希望の国だった。
    いっぽうシンガポールの華人は、植民地時代にあまりにもマレー人が働かなくて(これは怠けてたというより、労働というものへの考えの違いだと推測するんだけど)、奴隷でも連れてくるしかないな、って話になったとき、数少なかった華僑が「あ。それ、任せてちょうだい」って、中国の東南沿岸地域から巧いこと言って騙して連れてきたり、さらってきた南方系華人たちの子孫です。漢人ではない。とくにシンガポールは港湾労働者が大量に必要で、潮州や福建からの海を知っている人が多かった。
    戦争になれば、攻めるほうも逃げるほうも妾と中華鍋だけは忘れずに持って行く中国人なのに、奴隷だと同国人に売られて身体一つで赴くわけで、これは切なかっただろう。
    アジアの奴隷って、そういうのが多くて、戦国時代の日本でも大勢の日本人が奴隷として国外に売られていったんだけど、これはキリスト教の宣教師が、嫌がる日本人をムリヤリ連れて行ったのではなく、各地の大名が日本人を売っていたわけです。理由は「火薬が欲しかったから」。
    日本人が集団で希望を胸に自分の意志で海外へ行くのは、もう少しあとで、戦国時代が終わって世の中が平和になったとき、失業した浪人たちが傭兵や商人として海を渡ったことでしょうか。山田長政なんかがそうで、アジアには幾つか日本人町ができたそうで、華人ほどには数が多くなかったんで、滅ぼされたり、現地に同化して消滅してしまいました。
    まあ、そんな経緯で奴隷として連れて来られたシンガポールの華人が無頼になってしまうのは仕方のないことで、ペナンに居た別の中華な友人は「中国が衰退するのは当然で、武道にしても学問にしても商売にしても、中華の師弟関係において、師は弟子に絶対に全てを授けない。肝心なこと一つを抜いて教える。そうしないと自分が弟子に越えられてしまうからで、その弟子がまたその弟子に不完全な教えを更に不完全に伝えるので、どんどん劣化していって、そこを別な勢力に乗っ取られて、教えが死に絶えるということを繰り返す」と、面白いことを言っていた。マレーやシンガポールの華人には、そんな「拗ね者」みたいなのが多かったように思うが、若い世代が増えて、そういう要素が抜けてきた、ってのは、たぶん良いことなんだろう。

    中国人は滅多に同化することなく、中華街を作って、それを拡大していく。カナダのバンクーバーやトロントは近い将来、中国系が過半数になってしまう勢いで、もしかして、あと数千年もしたら世界中の国は中国になってるかもしれない。
    マレー半島と同様に華人が増えたタイでは1938年から同化政策をとり、「タイ人として生きろ。イヤなら出てけ」をやって、ほとんどの中国系タイ人が中国語(出身地の潮州語など)を喋ることも読み書きもできなくなってしまったけれども、生活スタイルは中国式を守り続け、未だにタイ人と同化していない。
    言語を失ってもなお、あの、かたくなさっていうのは、いったいどういうことだろうね。
    というより、中国人は他の国の人を見て、「なんでそんなに簡単に同化してしまうんだ?」と思っているのかもしれない。
    二~三千年まえまで中国の地に住み、道教の礎の老子を輩出した楚人などがルーツのタイ人にもわからないっていうんだもの。日本人にわかるわけ、ないか。

    まあ、そんな中国人でも、よその国ではお釣りも放らず、微笑んだりして、少しずつ変化していってるって話です。ほんとは、ちゃんとした結論みたいなものがあって書き出したような気がするけど、どうでもいい結論だったらしく、忘れちゃった。頭の悪い初老なんて、そんなもんなんで、気にしないでほしい。おれも、ぜんぜん気にしてないから。幻の結論を思い出して、それが書くほどのことだったら、また書きます。

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