Il Palio

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Luganoへ行った。
スイスのイタリア語圏にあるおおきな町です。
ECに加盟していないスイスはシェンゲン協定には加盟しているが国境検査はちゃんとあります。
ちゃんとあるが、どうもいつみてもスイスナンバーのクルマを検査しているだけのような気がする。
どういう理由によるのかはわかりません。

今日はMenaggioから行った。
日本で言えば箱根に似た曲がりくねった道を通ってしばらく行くと平野に出る。
平野を抜けると子供のときに通ったおぼえがあるトンネルがあって、その先に、(多分)去年くらいにできたのではないかと思われる新しい長いトンネルができている。
トンネルを抜けてLale Luganoが見えると、もうLuganoの町で、なんだ、こっちから来たほうが早いではないか、と拍子抜けしてしまった。
Menaggioから30分もかからなかった。

Luganoはスイス国境の向こうにあるイタリアの町であるよりもイタリア語を話すスイス人の町で、簡単に言うと「古いバールだけがイタリア空間」であるような不思議な感じがする町である。
インターネットのどこにもそんなことは書いてないがコモの生糸商人その他裕福な商人たちの税金逃れの町として繁栄をつづけたLuganoはユダヤ系イタリア人たちの町で、地図を見ればわかるとおりスイスの経済中心のどこからも遠く離れているのに、やたらと銀行が多いことからも、そのことは簡単に想像がつきます。

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モニとわしがLuganoの駐車場にクルマを止めてCBDに歩いてはいって初めにやったことはあちこちの銀行のショーウインドーに並んでいる知らない名前の現代画家たちの名前を書き留めることだった。
ギャラリーよりもよほど目が利いた素晴らしい絵画が並んでいる。

わしの山の家からあまり遠くないところにベニト・ムッソリーニが処刑された場所があることはこのブログ記事に何回か出てくるが、ムッソリーニには良いところがあって、ヒットラーと取り巻きからしつこく迫られたユダヤ人虐殺を、言を左右にしたり、ときどきは抗議してみせたり、「アーリア人なんて人種がほんとにいるのか」というチョー危ないことを口走ったりもして、なかなか実行しなかった。
最後にはユダヤ人虐殺を約束させられてしまうが、面白いことに、一向に実行しないまま、いわば「のらくらして」やりすごしてしまった。

ヒットラーの同盟者である「総統」を頭に抱き、公式に社会の敵と宣告されながら、ユダヤ人たちは殺されもせず普通に生活を営んでVEデーを迎えた。
もちろん不自由や不利益はあったはずで、それを学習しにフェラーラのユダヤ人博物館を訪ねたが地震のせいで閉館になっていたので、どの程度ユダヤ人たちが迫害されていたかの学習はお預けになってしまったが、強制収容所のようなものは最後までつくらずに終わったようで、なぜそうなったかというと、イタリアでは地方行政や経済活動に深くユダヤ人が関与していたからだ、という説明を知っていても、ドイツでも実は同じくらい重要な役割を社会のなかでユダヤ人は担っていてドイツ人はユダヤ人たちが営々として築いた社会的地位と機能をいわば濡れ手で粟の状態で乗っ取ってしまっただけであることを考えると、そういうあざといというか、卑劣にすぎるというか、というようなやりかたが出来なかったところに、どうしてもイタリア人が下品な新興国ドイツにすぐれた文明の高さというものを感じる。

第二次世界大戦に敗れたとき、ドイツ人は誇りが高いので口に出しては言わなかったが、「粗悪な安物の輸出国」「働くだけが能で文明がつくれない国民」というイメージを覆すためにナチがとった方法である無茶苦茶品質が高い戦車、戦闘機、爆撃機、(実はこの「品質」のためにナチは生産数をおおきく犠牲にせざるをえなかった)、何回もデザインやり直しを命じてヒトラー自らも選定に加わった軍服のデザイン、新しい超文明っぽい演出にあふれた夜の闇と照明を効果的に使った党大会といううまくいきそうだった「高級なドイツ」というプロモーションが、実質的な文明の裏付けを欠いたために狂気に陥って、元の黙阿弥、田舎ものの英雄悲劇への自己陶酔に堕してしまったのを悟っていた。

ドイツの戦後の歴史は、本道に戻る、といえばいいのか、ナチのようなショートカットを求めずにちゃんと文明の本街道で競争してもドイツはやれるんだという歴史でもあって、65年間の努力が実って、ドイツ人は欧州全体でいまではかなりの「文明人」としての尊敬を勝ち得ている。

ドイツ人に抜きがたくある考えは「人には天分があって、専門のプロとして技術をまっとうして生きるのがかっこええのだ」という考えであるように見えて、イギリスのような遊び人の国から眺めていると「やっぱり職人親方衆の国だなあー」と思えます。

わしはいまのドイツ人たちを見ていると、シーザーのむかし、森林のあちこちから三々五々現れて部族会議を開き、いかにしてローマという巨大な文明に対抗するか知恵をつくしていたゲルマン人たちの伝統に帰ったような気がする。

ドイツ人は頑固で夜郎自大で自慢たらたらのどうしようもないイナカッペだという欧州でのイメージは、だんだん、「変な奴らだが頼りになるのではなかろーか」というものに変わってきたと思う。
もしかすると21世紀という世紀は「ドイツ的理性」が大陸欧州で広く受け入れられていく初めの世紀として記憶されるようになるのかもしれません。

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Luganoではホットドッグがおいしかったという遠い記憶にしたがって、ホットドッグばかり食べている。
モニに笑われながら、Brezel http://de.wikipedia.org/wiki/Brezel 屋で、パンに穴を開けてソーセージとケチャップとマスタードを充填する式のホットドッグを買って食べると、やはり無茶苦茶においしくて、うめー、やっぱりスイスではこれがうめー、と「ガメ、。この町で他にもの食べながら歩いている人いないぞ」と笑いながら夫いじめにかかっているモニと肩を並べて、イタリアの街路に較べると格段に道幅が広い、Luganoの町を歩き回って、乳児用オモチャ屋やテーブルウエア店をのぞいてまわった。
イタリアの目がさめるようなverdeのスカーフをモニは買って、わしを幸せにした。

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とーちゃんやかーちゃんのコモ世界の住人たちが週末にはよく出現する湖畔のカシノまで歩いて、クルマに乗って帰ってきた。

どこからどうみてもスイスで、町が北の欧州の国のように静かで、(街頭の「音」がイタリアやスペインとは、まるで異なるのは見事なほどである)、歩いている人がイタリアよりもだいぶん背丈が高くて、みながイタリア語で話しかけてきて、どうみてもドイツ人にしか見えないモニと同じほども背丈のある金髪の女びとが友人たちとイタリア式の「頬ちゅっ」をしてチャオチャオチャオと去ってゆく町は不思議な雰囲気で、モニとわしはLuganoは結構いいなあ、スイスの高速道路使用料€50払ってもいいべな、ということになった。

ついでに書いておくとホットドッグとBrezel を買ったプリッツエル屋は屋台風の店に過ぎなかったがユーロ紙幣で払ったらユーロのお釣りが返ってきて、ちょっと驚いた。
ちょっと前なら、スイスフランに両替しなくてもユーロで払えるのは当たり前でも、小さな店ではお釣りはスイスフランで、まさかユーロで戻ってくるとは思わなかったのです。
そーか時代は常に進化するのだと考えて、ほんならオカネくずさなくても駐車場もユーロで払ってユーロのお釣り返ってくるじゃんね、と考えて€10紙幣をいれて払ったらスイス硬貨で戻ってきてこけたが、人間の文明の進歩がいきなり完璧であったことはない。
この次Luganoにくるとき、忘れずにもってくるび、と考えたのでありました。

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(前半は、つまらんのと、いまさら日本語でそんなこと書いても手遅れなので意味がないわい、と考えて削除した「フクシマのあと2」の「1」と同じ文でごんす。リサイクル。*まで)

ベニト・ムッソリーニの殺された場所に歩いておりていってみると、見慣れた黒い十字架と汚れた花束が置かれている。
Palio(祭礼)は今年もたくさんの人を集めていて、鷹匠や梟匠たち、宮廷音楽師や、貴婦人、あるいは洗濯女、道化のかっこうをした村のひとびとが道行く人々と談笑している。
今年は悪魔の扮装をしたひともいて、子供たちを怖がらせている。
剣士たちが、子供たちに人気を集めていて、「強い剣士になる秘訣」を子供たちに講釈したりしているのは世界共通でしょう。
これも毎年のことで祭礼を観に来たハリウッド人たちの写真を撮るためにパパラッチたちが集まっている。
そのパパラッチたちをイタリア警察の警察官たちがにらみつけている。
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まるで、わしガキの頃のボンドストリートにたたずんで、シルバークラウドやゴーストの屋根に肘をついて、退屈に、ものうげにタバコをふかしていた運転手たちのようである。
手におおきなカメラを持っているのが違うが。
ポリツェの手引きで裏道から抜け出したハリウッド人たちが姿を消し、こういうことにはなれっこのパパラッチたちが悪態をつきながらめいめいに宿へ帰る頃になると、いま調べてみても日本語ではなんというか判らない「ランターン」がいつ見ても儚い感じのする炎をゆらめかせながら一個また一個と空に昇ってゆく。
コモ湖の夏は本格的になって、たくさんの人が世界中から押し寄せてくる。
この辺りでは、いつまで経ってもアジアの人の姿があんまり見えないのは、アジア人であると至る所で意地悪をされるからだ、と言っていたひとがいたが、あれはほんとうだろうか?(なんだか日本語になじんだら何事に寄らず「人種差別」について考えるのが癖になってしまったよーだ^^; ) (*ここまで)

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日本の西洋化は「親族の絆」や「隣近所との付き合い」を鬱陶しいものとして切り捨てることと並行してすすんだ。
軽井沢の山の家でも、わしは多分「ガイジン」なせいで相手にされなかったのだと思うが、義理叔父などは、馴染みのコーヒー屋にしばらくいかないで夏をすごしていると電話がかかってきて「どうして来てくれないんですか? なんか、わたしら、失礼をしたでしょうか?」と電話がかかってきて、びっくりしたりしていた(^^)

別荘の管理のようなことでも、下草刈り、木の切りたおし、家の掃除、水道の水抜きというようなことまでひとりのひとに頼むと「親分子分」に似た関係があって、ちょっと高いなあーと思って他の会社に頼むと、「そんなことをされると困ります」と言われて「別荘村八分」みたいになってしまったとこぼす人にあったこともあった。

振り返って考えてみると、日本の「西洋化」は結局、そうした「田舎の鬱陶しさからの自らの解放」というイメージがあったようにみえる。
その「人間は、鬱陶しい」という感覚は次第に家庭のなかにも浸潤して、親と子の「べたべたしない関係」は通常のものになっていった。
わしはいつか連合王国の日本特集で、日本人の家庭がいかに少ない会話で成り立っているかをみて、さっそく義理叔父に電話をかけて聞いて嫌な顔をされたことがある。
「めし、ふろ、かね、ってほんとうですか?」と聞いたら、
「ぼくは、ちゃんと、『おかーさま、明日は試合で遅くなります。夕ご飯を、そのあとでお願いしてもいいですか?』くらいは言った、と述べていたが、多分、小津映画からなにかからの剽窃捏造ではないかと思われる。
日本の共同体の関係が鬱陶しいものにすぎなかったのは、それが「利害関係」にすぎなかったからではないだろうか?
「メリット」を考えて成立した人間関係などが人間の関係として成り立っていくのは無理なのは自明なので、共同体からの圧力が個人を苦しめる結果になったのは、共同体の関係が相互利益をめざしていれば崩壊するのは当然である。
共同体は本来「集団でなにかを成し遂げる」ときに、もっとも個々の成員に幸福感を与えるが、日本のひとは、わしが見聞したなかでは最も「集団作業」ということが下手なひとびとであって、若い衆がみなの思いつきにコーフンして、「盛り上がって」、素晴らしいゲームを構想したり、クルマの前衛的なデザイン(この場合の「デザイン」には仕様を含んでいる)を思いついたり、圧倒的に斬新なビジネスモデルを作り上げたのに、旧来のものの見方から離れられない権威あるマネージャークラスのひとことで熱狂も斬新さも、もちろん成功の可能性も瓦解する、という光景を何度か見たことがある。
もう時効なので言っても怒られないとおもうが、 わしの大好きな友達でゲームデザイナーのjosicoはんも、日本の大手の安定した職を捨てて、わざわざ英語を学ぶために一年費やしてまでアメリカに渡ったのは、それが理由だった。
逆に日本の社会では「集団の力」が求められるというときには、そこに「個人」は消えて「全体の部分」として機能する「部分としての成員」があらわれる。
みなが集団として同化して、同じ意見をもち、同じ情緒をもち、同じ感動をともに味わおうというところまで人間性を捨てることを求められるので、いまちょっと考えてみるとたとえばアメリカでは海兵隊のトレーニングキャンプでたたき込まれることと日本のたとえば企業が個人あるいは個人の破棄について求めることは同じ性質のことであるように思える。
福島第一事故のあとで官邸前に日本のひとがひとりひとり要求されることもなしに腰を上げて集まりだしたとき
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/07/04/官邸前の愚者の群/
に「政治的な力」をめざして統制しだしたひとびとは「集団で行動する」ということを理解できないひとたちだった。
集団は統制されればすでに集団でなくなるということは「ベ平連」のようなひとびとのほうが、案外もっと深く考えてわかっていたのではないだろうか。
鶴見俊輔はともかく小田実というひとは書いたものを読んでみると「ヘンなひと」という印象しかないが、行動からみると、「個人として全体を成している人間の集まりとしての集団」と「全体の部分として存在している人間の機能集合体としての集団」の区別がついていたようにおもえる。

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MezzegraのPalioは、以前は丘の上のおおきなキエサ(教会)を中心に行われていたが、去年から湖畔の公園に場所を移すことになった。
中世式の剣士トーナメントや中世の種目でそのまま行われた運動競技会はとりやめになって、中世の町並みがそのまま残る家を改装して中世の生活を細密に再現するのもやめることになって、みなでヴィーノを飲み、中世の扮装をして、通りを練り歩いたりして、むかしの生活を忍ぶのが中心に変わった。
祭礼がそのまま中世の技術を伝承して身につけたひとびとがみなに腕を披露する場にもなって、くつろいだ雰囲気でも結構楽しい。
ここまで読んできて、さて人間の「集団」には何ができるか、と考えたひとは、イタリアに一ヶ月というような短期間でもいいから旅行して、鉄道と徒歩では「観光客にみせたいイタリア」というショーウインドーみたいなものしか見られないのでできればクルマを手に入れて移動して、あちこちの田舎の畑道の交差点に雑草に囲まれて立つマリア様の祠や、田舎家にも町屋にも壁に描かれているイエスキリストを賛美する壁画、そうした宗教画を要に国中に敷き詰められた細部に満ちたdecencyを発見しにいくのがよいと思う。
「ひとりひとりがそのまま全体として完結した個人」が集団をなすとき生まれるものは美しいだけではなくdecencyに満ちて、下卑た形象がぬぐわれていて、人間はもしかしたら案外とまともな存在なのではなないか、と考えるてがかりになると思います。

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