イタリア・ノート_1

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イタリア人は野菜に凝りまくる。
レストランでもサラダは重要なメニューで、カプレーゼはもちろん、普通のグリーンサラダがおいしくないのはレストランにとっては命とりなので、コモ湖のレギュラーカスタマーををつくる必要があるような料理屋、つまり別荘客を相手にする料理屋は、自分の菜園をもって、そこで様々な種類…長いのや、小さいの、大きくてまるいのや、カボチャみたいな形になったの..があるポモドーロやレタス、ズッキーニ、というような野菜を作って、食べ頃になったのを摘んでサラダにする。
食事を準備をする頃になると若いシェフたちが菜園のなかから窓からクビを出しているシェフに「これは、どうしますか? どのくらいいりますか?」と訊いていたりするのは、コモ湖の散歩の途中でみかける夏の風物詩のようなものでもある。

Lee & Perrinsがでっちあげたまことしやかな動機を英語wikipediaなどもそのまま記事にしてしまっているが、ウースターソースがなぜ出来たかは、ある種類のイギリス人ならみんな知っているというか、漠然と了解しているというか、要するに年期のいったバルサミコビネガーと同じ味のソースをぶどうの育たないイギリスでつくってみたかっただけで、8年物くらいのバルサミコビネガーはびっくりするほど「高級ウースターソース」、あるいは「イデア・ウースターソース」というべき味わいである。

オリーブオイルもイタリアの外で売っているものは混ぜ物があったり本来の賞味期限を過ぎているものが大半で、ニュージーランドの「ターゲット」や「フェアゴー」のような企業不正追求番組(会社から担当者まで実名でバリバリ追求して不正を暴いてみせるなかなかオモロイ番組です)で問題になったりするが、出来の良いオリブオイルは軽くて特有の上品な風味があって「オイル」という感じがしない。
ついでに余計なことを書くと、英語のサイトでも日本語のサイトでも「なぜスペイン人やイタリア人はオリーブオイルで料理した肉やなんかに、食べるときにまたオリーブオイルをかけて食べるのか。へんなのではないか」というようなことを書いてあるのをよく見かけるが、理由は簡単で「料理に使うオリブオイルと出来上がった料理にかけるオリブオイルは違うオリブオイル」だからです。

当然、あとでかけるオリブオイルが「本命オリブオイル」で料理に使うオリブオイルに較べるとずっと良質のものを使う。

もっともっと余計なことを書くと、ではオカネモチならば初めから完成料理にかけるオリブオイルを使って料理すればおいしい料理ができるかというと意外や、そういうことは起こらなくて、オイルにも分際があると言えばわかりやすい、あとがけするオリブオイルで天ぷらをつくってもなんだか苦くて頼りない天ぷらが出来てしまう。

バルサミコのほうも同じで50年ものをそのまま味わってみたりアイスクリームにかけたり、果物にかけて食べてみると天にものぼる味だが、たとえばグリーンサラダにかけても野菜がうまければうまいほど味が力負けしてしまってあんまりおいしくない。
12年ものも、runnyなものはリゾットやなんかにかけるとバルサミコ酢の味とリゾットの味が分離してしまっておいしくない。
2年ものから50年ものまで並べて準備しておいて、この料理にはこれがいいかなあー、と選定してかけてみて食べるのが最もよい、ということがわかる。

インサラータ(サラダのことでごんす)の野菜の組み合わせをにらんで、よーし、このインサラータなら、このバルサミコ酢だびな、と決意してかけて食べたときに見事に目論見が当たったときの嬉しさよ。
イタリアの味が濃い、力強い野菜を食べると、サラダって、こんなにうめーのか、明日からベジタリアンでもいいな、とケーハクなことを考える。

もう20年がとこイタリアに住んでいるすべりひゆは「いまごろ何言ってるのよ」、けけけけ、と大庭亀夫笑いを笑うに決まっているが、イタリアは究明すれば究明するほど謎が増大する国である。
いま「イタリアは….国である」と述べたが、そこがそもそも怪しくて、むかしはイタリアは国だんべと安んじて思っていたが、判ってくれば判ってくるほど、そこが怪しいのであって、エミリオ=ロマーニャ人が自分達を「イタリア人」と思っているかというと、そんなことはないと思う。
エミリオ=ロマーニャ人と思っているかどうかも怪しくて、もしかすると、「わし、パロマ人だもんね」と思っているのではないか。

モニとわしは欧州のおおきな町がめんどくさくて嫌いなので、たとえば今回もローマのすぐ近くに一週間くらいいたのに、ローマと名の付く場所ででかけたのはボダフォンに用事があってでかけた巨大モールだけであった(^^)

イタリア人、たとえばバールのカウンタのなかのにーちゃんに、「あっ、もうちょっとエスプレッソにグラッパいれてね」と注文をつけながら話していると、「ボローニャは行った? フェラーラは?」と言うが、どうも(うまく言えないが)、「えっ、日本に行ったのに大阪行かなかったの?もったいない」という口調で、なんだか外国の話をしているよーである。
本人に訊くと、案の定行ってみたことすらなくて、「一回は行ってみたい」と言う。

コモでも同じで、だんだん話していると夫婦でも不気味なくらい幼なじみ同士が多い。

どうもイタリアというのは「イタリア語を話す長靴の総称」というべきもので、地方分権、地方色豊か、どころか、「このくらいのおおきさでまとまった名前をもっていないと外国の支配にはいってしまう」という、ただそれだけの理由で「イタリア」と名乗っているように見えます。

フランスでももちろんブリタニアへ行けば「自分はゲール人である」あるいはもっと酷ければ「ウエールズ人のほうがフランス人よりは親近感がもてる」というとんでもない人がいっぱいいる、というよりも大半で、あるいは地中海側国境にいけば当然のように自分をカタロニア人と思っていて、ピレネー国境に行けば「私はバスク人ですがなにか?」という。
しかし、しかしx2、それともまた異なってイタリア人は、もっと狭い、食べ物や地勢や人のちょっとした仕草や、訛の抑揚に心やすさというよりもアイデンティティそのものを見いだしているのであって、フランス人と話せば異なるアイデンティティの積み重なりに歴史の重層性を感じるが、イタリアでは重層性はなくて古代ローマから現代まで一層の分厚い歴史を感じる。

なんだか見た目よりも、ずっとすさまじい国なのだと思います。


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「もう、このままいちゃおうか、ガメ」とモニが述べている。
「コモは冬は全地域お休みだからダメですよ」
「じゃ、明日ミラノに行ってアパート見に行こう」

モニもわしもイタリアが気に入ってしまったので、理由はなにかというと「居心地がいいから」あるいは「気楽にすごせるから」です。

イタリアと日本には似たところがある、とこのブログ記事には何回か出てくる。
人の背丈の低さもそうだが日本語では何というかよく判らないthinな体格というものがとてもよく似ている。
筋肉の付き具合のせいかと思うが、ちょっとしたときの「仕草」「物腰」も、はっとするほど日本人と似ている人が多い。
むかしの記事をひっくり返してみるのがめんどくさいのでリンクが張れないが、前にフィレンツェで会った、道の脇にしゃがんでスーパーマーケットの袋を詰め直していた女のひとなどは、わしは2分くらい話していて、やっと、「あっ、このひと日本人なんだ」と気が付いたくらいだったことをブログ記事にも書いた。
他の西洋の国では(多分)ありえないことで、イタリア人と長い間イタリアに住んでいる日本人、特に女のひとは、ちょっと見たくらいでは区別がつかなくなることがあるよーだ。

しかしイタリア人と日本人が国民として似ているかというと、こっちは正反対といいたくなるくらい「国民性」は異なっていて、イタリア人は日本のひとに較べるとたいへんに「おとな」であると思う。

そう言われて「日本人の悪口」と感じるオモロイ人が多いのは承知している上に、下手をするとあの件の作家のように「人種差別だ!」と「ファン」の皆さんを糾合してまた田舎百姓衆じみて押しかけてこられると困るので、慌てて付け加えると「日本人アメリカ人ニュージーランド人オーストラリア人と比較して」と言い直してもよい。

イタリア人が「陽気でアモーレで、浮かれた遊び人である」というのは18世紀から19世紀にかけてイタリアにやってきてイタリア人たちの豊穣な生活が羨ましくてしかたがなかったイギリス人たちの妄想であるのは広く知られている。
マジメな話、イタリア人たちは、欧州のなかでも最も成熟したひとびとであって、何によってそれが最も判るかというと「他人に対する敬意」(ここでは英語のrespectそのものの意味です)をもっている。

あてこすりだが、混んでいるイタリアで電車のなかにstrollerを押してはいってきたおかーさんを見た人が舌打ちをする、などということはありえない。
ニュージーランドでも、さすがにそこまで酷いガキンチョおとなはいないが、しかし、ニュージーランドでは隣人がパーティを土曜日に夜中の12時まで開いて大騒ぎしていても怒る人はいないが、翌日の日曜日にもまたパーティをやればみながカウンシルに電話して苦情を言うだろう。(オークランドでは10件苦情があればほぼ自動的にその家に住めなくなる)
イタリアなら毎週大騒ぎしないと誰も文句を言わなさそうである。
人間はみな異なっていて、赤ちゃんがいたりストレスがたまっていたり、病気だったり、みな他人にはいちいち説明する必要がない異なる事情があるのだ、ということを本人の能力よりもイタリアという文明が熟知している。

イタリア独特の「住みやすくて気楽な感じ」は、そこから出てくるので、そういうことをいちいち考えるのはくだらないと思っても、やはり、どうしても「文明の力」というものを感じてしまう。

スペインとイタリアは似た者同士の国だが、普段の生活に即していうとおおきく異なることがいくつかある。

その最大のものはスーパーマーケットの食べ物の品質で、スペインはおおきく分けて17のまったく性格が異なる地域に分けられると思うが、共通していることもあって、メルカトで買った食べ物はうまいがスーパーマーケットで買うもの(肉、野菜、魚)は唖然とするくらい品質が落ちる。

ところがイタリアでは「スーパーマーケットでおいしい食べ物が買える」ので、考えてみると、そういうことは滅多に起きることではない。
もちろん、スーパーによって得手不得手も良し悪しはあって、コモのあたりならドイツ系は全部ダメで、最も盛んな「bennet」は他の地方に較べれば遙かにマシだがまあまあ、(フランス系の)カルフールは得意分野と不得意分野が激しく分かれていて、シグマが最もよい、というような違いはある。
しかし、しかあああし。
ジェラートでも「シグマブランド」のものが、チョーおいしかったりして、ヘンな国だなあーと思う。
ヘンと思うが、考えてみればスーパーマーケットのような普通には「不味いもの博覧会」のような便利で安い意外に取り柄がない店でおいしいものが買えるというのはイタリアならではのたいへんな偉業であると思います。

もうひとつ日本と異なっているものに(と、ここで「人種差別だ!」と叫びたくなった人は、「日本」のあとに自動的に「やオーストラリアやアメリカやニュージーランド」とか補って読むように)、イタリアの「観念性の少なさ」で、頭で考えたことがそのまま世界に存在する、という「粗筋を全部知っているので夏目漱石の小説は読まなくてもわかっている」とほぼ同等、というか、もうちょっとちゃんと言うと「人間の人生は『生老病死』でしょ、はいはい、知ってます」という態度からはほど遠い世界への認識の姿勢というものがある。

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教会にはいると、その正面の祭壇に「ふつーの十字架」がかかっていることは、イタリアの田舎の教会では滅多にない。わしは初めみたときちょっとぶっくらこいてしまったが、全部デザインが激しく異なっているのです。

同様に住所の番地をしるしたタイルのデザインも異なり、窓の意匠も、ゲートのデザインも、すべてがあらゆる個々の事物ごとに異なっている。
それでいて、(イタリアに滞在したことがあるひとは判ると思うが)特に屋根の色彩というようなことにおいて全体の統一を保っている。

こういうすべてのことは問答無用な「現実の知恵」で、言挙げすることは出来なくても、まともな感受性があればイタリア人が積み上げてきた圧倒的な「文明」をほぼ強制的に理解することを強いられる。
ベンチの座り心地さえ、言葉で表現できないほど工夫されていて、おおげさにいうと、その「文明的細部の知恵の堆積の厚さ」に長くいるとだんだん怖くなってくるほどです。

わしは日本の次の「十全計画征服対象」にイタリアを選定したわけだが、初めは「2年もあれば楽勝だんび」と思っていたのが、手強さにたじたじたじとなっているところである。

計画の改変の必要を感じる。

イタリア征服だとおもっていたものが「文明全体の征服」にほかならないと判ったからでしょう。

やばい。
がんばらねば。

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