チェルノビオ

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人間を30年もやっていると、口が重くなる。
相手に伝わりそうなことだけを述べて、「このひとにこんなことを言っても伝わりはしないな」と考えれば、黙っていれば相手が誤解すると判っているときでも何も言わないですませるようになってしまう。

友達はなるべく少数に限ろうと思う。
5人の友達がいるよりも5つの雰囲気のよいおいしい料理屋の気が利くウエイターを知っているほうが人間の生活を明るくする。
まして結婚してしまうと、モニがいて小さなひとがいる。
他に何が必要だろうかと考える。

山の稜線よりも低く飛ぶ水上機はコモ湖の名物である。
だいたいコモからベラージョへ飛んでまた帰ってゆくが、ときどき、おもいがけずオスッチオやレンノに着水する。
テラスから、それを眺めてモニとふたりで定期コースから外れたことの理由を憶測する。

「お腹がすいたから午ご飯を食べにおりたのでしょう。きっと、あの湖畔のレストランでプチトマトのポモドーロスパゲッティを食べるのだと思う」
「恋人に捨てられた傷心旅行の女のひとが空にあがった弾みで産気づいたので、病院につれていくのではないでしょうか」

ラファエロ、という名前の不動産業者と一緒にチェルノビオのヴィッラを見に行く。
「旦那さんや奥さんのようなかたがメナージョのようなところに夏の家を構えるのはどうかと思う」
30歳になって腐りきっているところに、到頭、「旦那さん」にされてしまった。

湖畔の道を歩いてジェラテリアへ行く。
「ガメは木陰ばかり選んで歩いていて、深窓のお嬢さんのよーだ」とモニが明るい陽光のなかで笑っている。
「今度の誕生日には日傘をあげよう」

だって、もうぼくの腕は真っ赤です。
鼻の頭の皮膚がとれてきた。
髪の毛も色があせてきたよーな気がする。
皮膚ガンになったら、どーしますか。

「ガメは、いつもおおげさで、田舎のおばーさんみたいだ」

突然、水上機が上昇して、山の稜線よりも遙かに高いところに舞い上がる。
見上げると、まるで、もう低空飛行にはうんざりしたのだとでも言うように、見たこともない高い空へあがってゆく。
息をきらせるようにして10メートル上昇するたびに「日常」をずたずたにする決意を表明しているように見える。

その光景はなにがなし、(もう十分夏の太陽のせいで暑苦しい)ぼくの目頭を熱くさせる。

ふと、「イタリアは人間的にすぎる」という言葉が頭をよぎる。
そう「思った」わけではない。
そういう言葉が頭のなかのどこかで生成されて意識に浮かんできただけである。
ダヌンツィオは美のなかに生きようとして人間性を遠ざけた。
人間性の「あたたかさ」のみすぼらしさがこの詩人には耐えられなかったのでしょう。
それは彼の無機質のはずであった「美」を有機物質に変換して、あっというまに腐臭を放つものに変えてしまうという点で彼を恐怖させた。
彼はやっきになって「人間的なもの」を否定し、人間性の堕落の象徴である「民主主義」を憎悪した。

ダヌンツィオの伝記を今日開くひとは詩人のあまりの「人間くささ」に驚いてしまう。
彼が「人間性」を遠ざける、その仕草の、あまりの人間くささに、どう反応すればよいか判らなくなってしまう。

ぼくは子供のときには機械になりたかった。
嘆きも悲しみもせず、世界のどんな悲惨が目の前に繰り広げられても。ただ一滴の涙も流れない感情をもたない知性でいられることを理想とした。
妹と一緒に並んで勉強しているときに、「サードギア飽きた。トップギア」と述べて、妹の十倍速度で数式処理をしてみせて、「人間の子は、気の毒である」と嘯いて、妹を怒らせた。

13歳のときに読んだ「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を大好きだったのも同じ理由だろうと思われる。
人間のバウンティハンターに追い詰められて、人間の自分達への差別に苦しむレプリカントのひとり、若い女のレプリカントが、ミーティングのテーブルを横切る蜘蛛を手にとって「どうして蜘蛛は足が8本あるのかしら?」と呟いて、脚を二本むしって様子をみるところに痺れたのだと思う。
ぼくは、それこそが「ヒューマニティ」であると考えたもののようだった。

新聞にもテレビにも報道されないアフリカの平原のどこかで、難民たちに向けられた一千のAK47が火を噴き、一千の有機体とはおもえない輝きの瞳をもつ子供が虐殺されてゆく。
その程度のことを知るのに日本の人たちが大好きな「出典」などいらない。
アフリカ人とヨーロッパ人が共有する数少ない「常識」のひとつであるにすぎない。

そうして着の身着のままで必死にたどりついた欧州大陸の、マルセイユで、ケルンで、目の前で音を立てて閉ざされた一千のドアのまえで、哀願し、うなだれる一千のアフリカ人たちがいる。

そういうすべての「常識」を見つめながら、まだ明日を生きようとする魂というものがあるとすれば、それはいっそ「修辞上の矛盾」なのだと言ってもよい。
シンタクス上の単純な誤り。
あるいは神様そのものに欠陥があるのでなければならないだろう。

だから、きみとぼくは「機械」であることをめざす。
少しでも人間でないものになっておかなければ、どうして人間性についての考察を述べうるだろう。

チェルノビオのカフェで、マキアートを飲んだ。
ふたり連れのオーストリア人のジゴロが立ち去ったあとのテーブルに、赤ん坊をストローラーに載せたフランス人たちの家族がつこうとしている。
モニがなんの脈絡もなく「ガメ、いつかふたりでチベット人たちのために、みなと石を投げて暴れた午後は楽しかったな」という。
でも、あのとき、ぼくは怒りに駆られて警官のクビを抱えてもう少しで骨を折って殺してしまうところだったのを、あなたは知らないのです。

ぼくは、なんと返事をすればよいのか?
テーブルに飛び乗って、驚いてみあげているカネモチのクソババアやクソジジイたちを見下ろしながら、「お前たちの大量生産された『人間性』に呪いを! かけがえのないぼくの機械の感情に祝杯を!」とでも叫べばよいのだろうか。
それとも過剰な富にたるんだ彼らの頬をひとつづつ張り飛ばすのがよいか。

でも、(当たり前だが)もちろん、ぼくはそんな軽躁なことはしない。
黙ってカウンタに歩いていって、(世界が自分に期待している礼儀に従って)
「ボンジョルノ。ありがとう。おいしいマキアートでした」と言います。
5ユーロ札を渡して、先を歩くモニを呼び止めて頬にキスをするだろう。
誰かを愛さなければ溺れてしまうひとであるかのように。

(ラリオセンターにアイス食べにいこう)
(ピスタチオとフラゴラが良いと思われる)

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One Response to チェルノビオ

  1. DIO says:

    行間から悲しみが漂ってきますが心を打ちました。それ以上おことは不遜な気がして書けません。

コメントをここに書いてね書いてね

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